物差しという名の隔たり
ヴェルニエ侯爵家の夜会から三日が過ぎていた。
オルブライト侯爵家の屋敷は、いつもの絢爛を何ひとつ綻ばせていなかった。磨かれた廊下、手入れの行き届いた庭、過不足なく回る八人の従者。氷の令嬢の家は相変わらず完璧だった。
そこへレナード・ハーグレイヴ侯爵子息から、正式な縁談の口上が届いた。
◇
レナードの読みは正確だった。
オルブライト侯爵家は傾きかけてはいるが、侯爵の格、アリシアの財才、そしてあの美貌。ハーグレイヴの家格と財を合わせれば、釣り合いは寸分の狂いもなく取れる。彼はそろばんを弾くようにこの縁談を組み上げていた。一分の隙もなく。
数日のうちに縁を確かなものにするために彼は自ら屋敷を訪れた。
応接の間で彼は寛いだ様子で茶を含み、それからごく当然のことのように切り出した。
「一つ、差し出がましいことを申し上げても。——ご婚礼の前に、お屋敷の人手を少し整えられるとよろしい。あの者たち。庭師に料理人に、護衛に。器量は良いが、いささか数が過ぎます。若い令嬢の周りにあれだけの男手というのは……侯爵家の体面として、いらぬ噂を招きましょう。なに、私の家から然るべき者を見繕います。すべて滞りなく」
彼は何ひとつ間違ったことを言っていなかった。
社交界の物差しで測るなら、それは完璧に正しい助言だった。格も体面も、噂の管理も差し替えの算段も、彼は寸分の狂いもなく読み、寸分の狂いもなく口にしていた。
◇
アリシアは扇の陰から彼を見た。
整える、見繕う、差し替える——彼の言葉は八人を社交界の棚のどこかへ収めようとしていた。多すぎる男手、噂の種、取り替えの利く雇い人。彼の物差しにはその目盛りしかなかった。
そしてその目盛りは、八人の上でただの一つも針を振らなかった。
求婚者か。違う。護衛か。それも違う。政敵か、財産か、差し替えの利く使用人か。どの単位を当てても、八人の上に目盛りはなかった。物差しを押し当てているのに何も返ってこない。測ろうとした手がそのまま空を切る。
レナードはそれに気づかなかった。気づけなかった。測れないものは彼の世界でははじめから無いのと同じだったから。
アリシアは何も説明しなかった。
弁解も訂正もしなかった。彼の物差しが空を切っていることを教えてやる気は微塵もなかった。教えることは情けだ。情けは弱さ。彼女は彼を正さなかった。ただ凍った声で最小の言葉だけを返した。
「使用人のことは私が決めます。ハーグレイヴ卿のお気遣いには及びません」
「……これは、出過ぎたことを」レナードは品よく退いた。彼女のその拒みを令嬢の気位と受け取って。誇り高い妻になるとひとり頷いて。
——また正確に読んで。また完全に外して。
◇
縁談は進んだ。
紙の上では何ひとつ滞らなかった。家格は釣り合い、財は噛み合い、両家の体面は過不足なく満たされた。レナードは満足して帰っていった。すべてを正しく測り終えた男の顔で。
彼が辞したあと、応接の間にガレスがいつものように岩のごとく立っていた。
レナードはこの男を三日のあいだ何度も見ていた。整えるべき男手の一人として、器量の良い護衛の一人として。そう見て、そうとしか見られなかった。
その同じ男が半月前の丘の夜、燻し金の光を纏って彼女の前に跪いた者であることを——彼の物差しはついぞ測らなかった。いちばん重いものの上で、彼の針はいつまでもゼロを指したままだった。
有能な男だった。正確な男だった。だからこそ、測れないものを彼はいつまでも無いものとして生きていくのだろう。
◇
アリシアはそれを言葉にしなかった。
ただ、ふと思った。自分の氷が一目盛りも溶けないように彼の物差しもまた一目盛りも届かない。溶けない氷と測れない物差し。同じ広間に立っていながら、二人はもう違う夜の住人だった。
その隔たりが開いていた。
窓の外、北の空をひとすじの雲が流れた。先の夜会の夜より、ほんの僅か暗かった。輝く屋敷の灯を誰も気づかぬほど淡く翳らせて。それが何かはまだ分からなかった。名づけるほどのものでもなかった。ただ、前より少しだけ近かった。
絢爛はまだ損なわれていなかった。応接の間に八人の気配が静かに在った。測られることも収まることもなく、ただ彼女の傍にあった。
アリシアは扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音が一つ。
そして、いつもの氷の令嬢の顔で次の執務へと向かった。
——その背後で、隔たりだけが音もなく開いたまま夜に沈んでいた。




