土という名の兆し
夜ごと、北の風が少しずつ匂いを変えていた。
◇
その夜、北からの荷が屋敷に着いた。
小麦の袋も香料の箱も、いつもの北の産だった。マルコが検分に出て、一つずつ匂いを確かめていく。天然の鼻だった。誰も気づかぬものを、その鼻だけが嗅ぎ当てる。
袋の一つに鼻を寄せて、マルコの手がふと止まった。
土の匂いがした。北の土のいつもの匂い。だがその奥に、もう一つ。掘り返した、底のほうの、生きていない土の匂い。日の当たらない、冷たい、ずっと昔に一度だけ嗅いだ、あの匂いだった。
丘の夜から半月、あれきり絶えていたはずの匂いだった。
「……お嬢に報せようか」一瞬そう思って、マルコは首をかしげた。「いや。気のせいかな」
深くは嗅がなかった。嗅げば何か厭なものが顔を出しそうで、マルコは荷を納屋の隅へ寄せ、それきり忘れることにした。
同じ頃、北の村のほうで奇妙な噂が立ち始めていた。
夜になると家を出る者がいる、という。焦点の合わない目で、誰に命じられるでもなく何かに引かれるように、ただ北へ歩いていく。何人かがそうやって家を出た。戻った者もいれば、戻らぬ者もいる。遠いたわいもない噂だった。誰も本気にはしなかった。
◇
屋敷の中は、何も変わらなかった。
磨かれた廊下、整えられた庭、過不足なく回る八人。氷の令嬢の家は相変わらず完璧だった。その朝もアリシアは家令に的確な指示を出し、商人を冷徹に値踏みし、隙の一つも見せなかった。絢爛の上辺はどこにも綻びを見せていなかった。
ただ、その底で。
使用人たちがどこか落ち着かなかった。理由は誰にも言えなかった。夜、北向きの窓のあたりで、ふと寒気がする。理由のない胸騒ぎ。灯がいつもより揺れる気がする。みな「気のせいだ」と言い合った。実際、何も起きてはいなかった。
その日の夕、アリシアは窓辺に立った。北の空がいつもより早く昏んでいた。
風がひとすじ、冷たい匂いを運んできた。
その匂いに喉の奥の小骨がひとつ疼いた。どこかで、いつか、ずっと昔に嗅いだ。思い出せないまま、厭な感じだけが残る。
アリシアは窓を閉めた。
それ以上は考えなかった。見たくないものを見ないことにするのは、昔から得意だった。帳簿の誤差も、胸の奥の疼きも、そうやって布の下へ押しやってきた。今度も同じだった。
ただ、冷たい匂いは布の下ですぐには消えなかった。
◇
兆しは、閉じなかった。
夜が更けるほど、北の空の奥が昏かった。ずっと遠く北のいちばん奥で、何かがゆっくりとこちらへ顔を向けかけていた。誰を狙うのでもない。ただ、寄る辺をなくした者を北へ北へと引く、名もない力だけが。丘の夜のあいだ息を潜めていたものがまたひとつ目を覚ましかけていた。
それでも屋敷の灯は輝いていた。夜会の招きは届き、絢爛は回り、氷の令嬢は冷たく美しかった。上辺はまだ無傷だった。
ただ、その夜から、屋敷の者たちは前より少しだけ身を寄せ合うようになった。理由もわからぬまま、何かを怖がって。何か縋れる確かなものを求めるように。
北の空のいちばん奥で、何かがひとつ身じろぎした。
まだ遠かった。まだ誰もその名を知らなかった。ただ、丘の夜より、もう一刻みだけ近かった。




