灯という名の余韻
夜会の広間はきらびやかな嘘で満ちていた。
半年前と同じ広間だった。同じ火。同じ磨かれた大理石。同じ扇の翻り。オルブライト侯爵令嬢アリシアはその中央で扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音が一つ。それだけで近くの貴族たちが口をつぐむ。
社交界が彼女に貼った札は、何ひとつ剥がれていなかった。氷の令嬢。情を知らぬ算盤。必要悪の体現者。その面を、彼女は今夜も自分から被っていた。
何も、変わってなど、いなかった。
——ただ、その背後にだけ。
かつてそこには冷たい隙間があった。誰も立たぬ、空白が。氷の令嬢の後ろをいつも風だけが通っていた。
今は。
そこに八人が在った。
◇
絢爛は嘘ではなかった。
広間の端、楽士の傍らでジュリアンが酒の銘を検めている。客の血筋と席次を、エドガーが淀みなく差配していく。セオが彼女の耳元へ、相手の負債と縁組の数字を、ひとことずつ落としていく。——昨夜まで屋敷の庭にいた者、書庫にいた者、帳場にいた者が。今宵は磨かれた礼装で、令嬢の周りを過不足なく回していた。
貴婦人たちは扇の陰でそれを羨み、若い令嬢たちは八人の誰かに頬を染めた。見目麗しい八人の従者を侍らせ、その中央で氷のように微笑む令嬢。絵に描いたような、絢爛だった。
そして、その絢爛のどこにも、嘘はなかった。
レナード・ハーグレイヴ侯爵子息が杯を手に近づいてきた。
「相変わらず、あなたは完璧だ、アリシア嬢」彼は彼女を上から下まで値踏みするように眺めた。「侯爵家の格。財。その美貌。——非の打ち所がない。私の隣に立つにふさわしい、ただ一人の女性だ」
彼は正確に読んでいた。一分の狂いもなく。家格を。財を。容色を。——そして、完全に間違えていた。彼が数え上げたものの、その中に。アリシアという人間は、一人も、いなかった。
「光栄ですわ」アリシアは凍った微笑で返した。レナードは満足げに頷き、自分が今何を見落としたかにまるで気づかぬまま、人混みへ戻っていった。
——その背を、彼女はもう見ていなかった。
広間の隅。柱の影に一人の侍女が静かに立っていた。何を見るでもなく何を待つでもなく。ただ、そこに在った。古い壁の染みのように。夜気の一部のように。誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らず。——ただ、在った。
◇
夜半。広間の喧騒を離れた控えの間で、一人の男爵が彼女の前に膝をついた。
「——アリシア様。どうか、今一度の、ご温情を。期日まで、あと半月。それさえあれば、家の者が路頭に迷わずに済むのです」
縋る声だった。半年前にも、同じように縋ってきた別の男爵がいた。彼女はその時同じ言葉で切り捨てた。今夜も、変わらなかった。
「ご温情?」声は凍っていた。「期日に納めぬ者へ施す温情を、私は持ち合わせておりません。一度緩めれば、次が、その次が、列をなす」
——本当は、彼を救う手がすぐに浮かんでいた。半月の猶予。利の付け替え。再建のためのささやかな融資。どれも家の損にはならない。浮かんだ端から、彼女はそれを握り潰した。一つずつ、指の中で。
情けは弱さ。弱さは死。傾いた家を守る道は、一つしかない。——その鉄則は、丘の夜を越えても、一目盛りも、緩んでいなかった。
「下がりなさい。見苦しい」
男爵が屈辱に顔を歪めて退く。控えの間に、冷たい静けさが落ちた。
——いつもなら、ここで、胃の腑が灼けた。完璧に演じきったその後で。誰にも言えぬ、その灼けを一人で呑み込むのが彼女のやり方だった。
だが、今夜は。
背後で、ガレスが岩のように立っていた。何も言わず。ただ、そこに。
ふ、と。肩の力が抜けた。
なぜ抜けたのか、彼女には分からなかった。采配は何ひとつ違えていない。冷たさも、非情さも、一目盛りも、緩めていない。なのに——その重さを。今夜は、独りでは、抱えていなかった。
その、奇妙な軽さを。彼女は訝った。訝って——意味を、追わなかった。追えば、何か、面の下のものに触れてしまう気がして。彼女はいつものやり方で、それを布の下へ押しやった。
ただ、押しやる手が。半年前より、ほんの少しだけゆるかった。
◇
夜会が果てた。
客が引き、灯が落とされ、広間に静けさが戻る。アリシアは一人、バルコニーに出た。夜気が火照った頬に、冷たかった。
丘の夜から、半月が経っていた。
何が変わったわけでもなかった。彼女は今も氷の令嬢で、今夜も人を切り捨て、明日もそうするだろう。面は、被ったままだ。——けれど。
かつて毎夜、この同じ夜気の中で、彼女は確かめていた。誰も待っていない。何も灯っていない。誰も自分を見つけになど来ない、と。そう確かめて、安堵していた。一人で、あることに。
今夜は。
広間を振り返れば、後片付けをする八人がいた。ブルーノが崩れた花を片付け、マルコが燭台を検め、ガレスがいつもの定位置に在った。——待っていない者は、もういなかった。灯っていない夜では、もうなかった。
それが何を意味するのか、彼女は問わなかった。
自分が何者かとか。八人が何者かとか。なぜ見つけられたのか、とか。そんな大きな問いは、まだ胸の戸の向こうに眠っていた。彼女が受け取ったのは、たった一つ。
見つけて、もらえた。
それだけ。それだけが十何年の氷のその一点を、溶かしていた。
——孤独の氷は、溶けた。
けれど、彼女自身の氷は。冷たく人を裁き、慈悲を握り潰す、その氷は。一目盛りも、溶けてなど、いなかった。溶ける必要も、彼女は感じていなかった。これは面だ。家を守るための必要な一枚の面だ。
二つの氷。溶けたものと溶けないもの。その対が今、一人の令嬢の中に、静かに並んでいた。
ふと。
夜風が北のほうから、ひとすじ流れてきた。輝く広間の灯をほんの一瞬、揺らすほどの。それが何かは、分からなかった。名づけるほどのものでもなかった。きらめく夜の、その底の。ごく微かな——気のせいのような翳り。
彼女は、それに気づきもしなかった。
夜は、まだ輝いていた。
バルコニーの向こうで、広間の灯が温かく。その後ろに八人の気配が静かに。
アリシアは夜気を一つ、吸った。
そして、いつもの氷の令嬢の顔で、踵を返した。
「——おかえりなさいませ」
八つの声が彼女を迎えた。今夜は。夢の中では、なく。




