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朝という名の始まり

丘から、帰った。

その翌朝。

屋敷はいつもどおり、だった。朝の光が廊下を滑り、厨房から、焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。鳥が鳴いている。どこにでもある、平凡な朝。

アリシアは寝台で目を覚ました。

——ずっと昔、こんな朝があった。

八人の夢を見て、目を覚まし、屋敷を見回し、誰もいなくて。庭師も守衛も料理人も夢の中に、しか、いなくて。「変な夢」と呟いて、いつもの孤独な一日へ戻っていったあの朝。

今朝も同じだった。同じ、いつもどおりの朝。

だが——一つだけ、決定的に違っていた。

庭でシリルが薔薇の世話をしていた。

いつもの庭師の顔で。昨夜、丘で慈悲の紫の光を纏っていた男が。今は土に膝をつき、枯れ葉を丁寧に摘んでいた。トマの墓に蒔いた種から、小さな芽が出ていた。

厨房ではブルーノがパイを焼いていた。

割れた拳に包帯を巻いたまま。「よお、お嬢。腹、減ってんだろ。今日のは特に上手く焼けた」——昨夜、燃える赤の光で群れを押し返した男が。今は粉まみれの顔で笑っていた。

セオは帳簿を。ジュリアンは書庫で本を。マルコは荷の検分を。エドガーは朝の差配を。ニコは厩で馬を。ガレスはいつもの定位置に岩のように。

みな、いた。

夢ではなかった。あの朝、夢の中にしか、いなかった八人が——今朝は現実にただの庭師や、料理人や、守衛の顔をして、屋敷じゅうにいた。

同じいつもどおりの朝。なのにあの朝は孤独で満ちていて。この朝は——人で満ちていた。

使用人たちは昨夜のことを半ば、夢のように語っていた。

「ゆうべ、変な夢を見た気がするんだ」洗濯女が言った。「お屋敷が囲まれて……でも朝には何ともなくて。怖い夢、だったねえ」

誰もはっきりとは覚えていなかった。青白い群れも血の決戦も丘の光も。霧のように薄れて。「気のせい」「疲れていたんだ」と笑い合って、いつもの仕事へ戻っていく。

八人は肯定も否定もしなかった。ただ、いつもの顔でいつもの仕事をしていた。

アリシアだけが知っていた。

手袋の下。八本の指に灯る、温かな文字。——あれは夢ではなかった。決戦も丘も跪いた八人も彼女が流した、初めての涙も。ぜんぶ、本当にあった。

かつて彼女は、「変な夢」と押しやった。見たくないものを見ないことにして、生きてきた。

今は逆だった。世界じゅうが「夢だった」と忘れていくなかで。彼女だけが、「夢ではなかった」と知っている。そして、もうそれを布の下に押し込めようとはしなかった。

その日、アリシアはいつものように執務に戻った。

氷の令嬢の顔で。家令に的確な指示を出し、商人を冷徹に値踏みし、隙の一つも見せず。傍目には何も変わらない。あの、冷たい、必要悪の令嬢のままだった。

だがもう同じ氷ではなかった。

かつての氷は、「これが自分だ」という、氷だった。鎧こそが自分でその下には何もないと信じていた。脱げば、消えてしまう、氷だった。

今の氷は——違った。

これは面だ。冷たい面。家を守るために舐められないために選んで被る、一枚の面。必要だから、被る。けれど、もう嘘ではない。なぜなら、彼女は知っているから。その面の下に。ちゃんと見られてもいい自分がいることを。空っぽではなかったことを。

そして、八人の前でだけ。その面は時々、落ちた。

ブルーノの焼いたパイにふと笑ってしまうとき。シリルが何も言わずに温かい茶を置いていくとき。ガレスが後ろにいるというだけで肩の力が抜けるとき。——面がするりと落ちて、その下のただのアリシアが覗いた。

冷酷な令嬢のまま、だった。何も変わって、いない。——ただ、もう。

孤独ではなかった。

夕暮れ。執務を終え、アリシアは一人、窓辺に立った。

手袋を脱いだ。

八本の指に温かな文字が灯っていた。智、義、忠、孝、礼、悌、仁、信。——八つの徳の灯り。もう隠さなくて、いい灯り。

だがその両脇で。

両手の小指が二本。白いまま、だった。

灯らない、二本。文字のない二本。八つが満ちてもなお——その二本だけが夜の色のまま、静かに彼女の手の端に在った。

(……あと、二つ)

何が足りないのか。なぜ二本だけ、白いのか。十の徳とは。——分からなかった。八人は答えなかった。ガレスさえも。そして、もう一つ。

窓の外、北の空を彼女は見た。

退いた群れは滅びてはいなかった。今も北の闇のその奥で。青白い灯りが息を潜めて、次の夜を待っている。あれが何なのか。どこから、来るのか。なぜ人を呼ぶのか。——それもまだ分からなかった。

自分が何者なのか。北が何なのか。二本の白が何なのか。——いちばん大きな問いにはまだ誰も答えて、いなかった。

彼女はまだ何も知らない。知らないまま、一つの夜が明け、一つの物語が閉じようとしていた。

かつて彼女は毎夜、「まだ」と呟いた。

誰も待っていない。何も灯っていない。誰も見つけに来ない。——まだ。それは拒絶の「まだ」だった。何も始まらないでくれ、という。一人でいさせてくれ、という。

今宵も彼女は、「まだ」と呟いた。

けれど、その「まだ」はもう同じ「まだ」ではなかった。

八つは灯った。一人ではなくなった。氷の下に自分がいた。——けれど、まだ。まだ二つ、足りない。まだ北は終わっていない。まだ自分が何者か、分からない。まだこの物語は——続く。

拒絶の「まだ」が。予告の「まだ」に変わっていた。

窓の外で北の空が暮れていく。その手の中で八つの灯りが温かく二つの白が静かに。

アリシアは灯った指でそっと白い小指に触れた。

「——まだね」

そう呟いて。彼女は明日を迎えるために窓を閉じた。

長い夜が明けて。次の物語が始まるまで。——あと、二つ。


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