丘という名の灯
金の蝶は夜の野を越えていった。
アリシアはその淡い光を追った。拒みながら。怯えながら。鎧にしがみついたまま。——それでも足は止まらなかった。八人が静かにその後に続いていた。
なだらかな丘の裾に着くころ。蝶はふっと光を強めた。そして、丘の上へと舞い上がっていった。
彼女は丘を登った。最後のひと足を。
そして、その頂に立って、丘の向こうを——見下ろした。
◇
息が止まった。
丘の向こうの斜面に。八人がいた。
セオが、ジュリアンが、ブルーノが、マルコが、エドガーが、ニコが、シリルが、ガレスが。——だが屋敷で見たあの姿ではなかった。
それぞれが光を纏っていた。セオは澄んだ青の光を。ジュリアンは深い緑を。ブルーノは燃える赤を。マルコは土の金を。エドガーは白銀を。ニコは若葉の色を。シリルは慈悲の淡い紫を。そしてガレスは揺るがぬ、岩の灰金の光を。
八つの色の光が夜の斜面に整然と並んでいた。
そして、その八人が——彼女のほうへ向き直り、いっせいに片膝をついた。
頭を垂れて。騎士が主君にする以上の深さで。聖なるものに額ずくように。
——何、これ。
俗な言葉が出かかって、消えた。庭師。守衛。会計係。商人。作法指南役。厩番。護衛。——彼女が知っていたあの八人の軽薄な雇い人たちは。どこにもいなかった。
そこにいたのは。光を纏い、跪く、八人の——聖なる、戦士だった。
世界が裏返った。
彼女がずっと立っていた物語が——絢爛な令嬢の退屈な日常が軽薄な男たちとの戯れが——その薄皮が一枚、丘の風に剥がれて。その下から、ずっと前から、そこにあった、本当の物語が現れた。
宿命の物語が。
◇
ガレスが顔を上げた。
岩のような目がまっすぐ彼女を見た。灰金の光の中で。
「——見つけて、もらいに来た」
低い声だった。いつものガレスの、声で。
その言葉が彼女の中のいちばん固い戸を叩いた。
見つけて、もらいに。——私に。ずっと見る側だった、私に。誰にも見つけてもらえず、誰のことも、ただ、見ているだけだった、私に。この八人は。私に見つけてもらうために。私に見られるために。ずっと待っていた、というの。
十何年、彼女は見られることを拒んできた。見られることは暴かれること。鎧が嘘だとばれること。鎧の下の空っぽが知られること。だから、誰にも見せなかった。決して。
でも今。
跪く八人のその光の中で。彼女は生まれて初めて——見られることを怖い、とは思わなかった。
見て、いい。と思った。
この空っぽの鎧の下を。何者でもない、ただ震えている、私を。——見て、いい。見つけて、くれて、いい。もう隠さなくて、いい。
彼女が鎧を脱ぐことを自分に許した。その瞬間。
右手の薬指が——灯った。
◇
白いままだった、最後の一本に。
すっと文字が刻まれ、灯った。熱くも痛くもなかった。ただ、温かい金の光がその指にともった。あの蝶と、同じ色の。
そして、その灯りを合図に。
七つの指の文字がいっせいに応えた。八本の指、すべてが温かな光を放った。両手が八つの徳の光で満ちた。最初に疼き、最後に灯ったその一本を要にして。
——ああ。
意味が遡って、雪崩れた。
あの夜の夢。八つの影。右の薬指に唇を寄せたあの一人。——ガレスだった。最初から。あの偶然の救済も。爪の文字も。屋敷に集った、八人も。ぜんぶ、この瞬間へ続いていた。そして、昨日。あの、血まみれの決戦。生身で傷つき、血を流して、誇りで持ちこたえた、八人は——本当は。本当はこれだったのだ。この光を纏う者たちが。その力を、ただの一度も使わず。ただの人間として、彼女のために血を流していた。
跪く八人のその意味が。今、丘の上で彼女の胸に雪崩れ込んできた。
◇
涙が零れた。
十何年。一度も流れなかったもの。胸の奥で固い塊になっていたもの。泣くべきときに泣かず、呑み込んで鎧の下に押し込めてきたそのすべてが——今、ほどけた。
派手な嗚咽ではなかった。泣き崩れもしなかった。ただ、氷が春にほどけるように。一筋、また、一筋。声もなく頬を伝った。
光を纏い、跪く、八人の、神々しい絵の、その真ん中で。一人の令嬢が、ただ、静かに涙していた。
悟ったのではなかった。自分が世界を救う者だとか、女神だとか——そんなことはまだ何も分からなかった。ただ、一つだけ、分かった。
見つけて、もらえた。
ずっと見る側だった。ずっと一人だった。誰にも本当の自分を見せられず、見せたら終わりだと信じて。その孤独が——今、終わった。たったそれだけ。それだけが十何年の氷を溶かした。
「……ずっと」彼女は震える声で言った。涙の向こうで。「ずっと私が見つける側だと思っていた。誰も私を……見つけになんて、来ないと」
「いいえ」ガレスが静かに言った。「俺たちはずっとあなたを探していた。あなたが自分を隠している間も。拒んでいる間も。——やっと見つけた」
◇
どれくらい、そうしていたか。
やがて涙が収まったとき。アリシアは自分の両手を見た。
八本の指。八つの温かな徳の光。最後に灯った、要の薬指。——揃った。ぜんぶ、揃った。あれほど、彼女を怯えさせた、爪の文字が。今は、ただ、温かかった。
——だが。
その八つの光の両脇で。
両手の小指が。二本だけ、白いまま、だった。
光らない、二本。文字のない二本。八つが灯ってもなお——その二本だけは夜の色のまま、静かに彼女の手の端で白く沈黙していた。
(……あと、二つ。足りない)
ふとそう思った。なぜ、そう思ったのか、自分でも分からない。八つで揃ったはずなのに。なのにその二本の白が——まだ何かが終わっていないことを告げていた。これは終わりではない。始まりの一つ目に過ぎないと。
跪く八人はその小指のことを何も言わなかった。ガレスも語らなかった。八人が何者でこれから何が始まり、なぜ彼女が見つけられたのか——その、いちばん大きな問いにはまだ誰も答えなかった。
ただ、丘の上で。八つの灯りと二つの白が。夜空の下にともに在った。
金の蝶が彼女の灯った薬指にふわりと止まった。まるで帰る場所に帰り着いたように。
東の空がほんの少し白み始めていた。
長い、長い、夜が——明けようとしていた。




