血という名の誇り
戦いは夜明け前に始まった。
声なき群れがいっせいに動いた。青白い灯りが地を這い、屋敷の壁に押し寄せる。何十もの人だったもの。声もなく、痛みもなく、ただ、屋敷の中の人の温もりに引き寄せられて。
アリシアは物見の上に立っていた。
前線ではなかった。十何年、すべてを自分の采配の下に置いてきた彼女が——今日は剣を執らなかった。代わりに八人と、屋敷じゅうの者にそれぞれの持ち場を託していた。
「忠は正門。一歩も抜かせるな」その声は震えていなかった。「孝は糧と、東の崩れ。悌は年寄りと子供から、奥の蔵へ。智、敵の流れを読み続けなさい。礼、隊列を乱させるな。義、誰の心も折らせるな。仁は——」
最後の一人の名で彼女はほんの一瞬、言葉を切った。
「——シリルはあなたの判断で」
そして、自分は動かなかった。動かずに信じた。一人で全部を抱えるのではない。託して、待つ。——それが今日の、彼女の、戦い方だった。
すぐ後ろにガレスが岩のように立っていた。前線へは出ない。ただ、彼女が倒れぬように。背骨として。
◇
門が軋んだ。
ブルーノがそこに立っていた。たった一人で。青白い群れの最初の波をその巨体で受け止めて。
殴らなかった。あの夜、流民にそうしたように。忠の拳は潰すためでなく、止めるために構えられていた。群れを門の内へ一歩も通さぬために。盾として。
だが相手は人ではなかった。痛みを知らぬ群れは退かなかった。何十という手がブルーノに殺到する。掴み、引き、押し潰そうと。
忠の拳が群れを押し返す。押し返し、また、押し返す。一人で何十を。岩のような腕が軋み、震えた。
——やがてその拳が割れた。
骨の軋む音がした。皮が裂け、血が門の敷石に滴った。それでもブルーノは退かなかった。割れた拳でなお群れを押し返した。
「……まだだ」血を吐くようにブルーノが唸った。「俺の後ろに屋敷がある。ガキも年寄りもいる。——俺は地面より先には倒れねぇ」
血まみれの、生身の、盾だった。超常の力など、どこにもなかった。ただ、人間一人の、限界の、その先で——彼は立ち続けた。
◇
東の崩れではマルコが戦っていた。
樽を軽々と担いだ、あの膂力で。今は崩れた石壁の穴を自分の体で塞いでいた。群れの爪がその背を裂いた。血が滲んだ。マルコは笑わなかった。ただ、歯を食いしばって、穴を守った。
ニコは戦わなかった。代わりに走った。年寄りの手を引き、子供を背負い、屋敷の奥の蔵へ何往復も。末席の目で見つけた、いちばん弱い者から、順に。
そして——運ばれるばかりではなかった。
蔵の奥ではあの、老いた洗濯女が震える子供らを束ねていた。足の悪い庭掃きの爺が座ったまま、衰えぬ目で群れの動きを見張り、ニコに報せを送った。言葉の遅い、あの子が誰よりも素早く、手当ての要る者の場所を指さした。——第九夜、アリシアが「屋敷の目」にした、末席の者たち。かつて、誰にも見られなかった者たちが今日は見る側に守る側に立っていた。
ニコは運びすぎて、やがて立てなくなった。膝をつき、それでも這うようになお人を運ぼうとした。そのニコを——今度は運ばれたはずの子供らが小さな手で支えた。守られた者が守る者を支えていた。
セオは物見で敵の流れを読んでいた。「西が薄い。エドガーさん、第三隊を西へ」。エドガーが寸分の乱れもなく、隊を回した。ジュリアンが崩れかけた若い兵の肩を掴んだ。「まだ立てる。お前はまだ立てる」。
誰も超常の力など、使わなかった。
ただ、生身で。傷つき、血を流し、膝をつき——それでも退かずに。八人が屋敷じゅうの者がそれぞれの持ち場で人間一人ぶんの限界を少しずつ、超えていった。
アリシアは物見から、それを見ていた。
動かなかった。だがその内側では——生涯で最も激しい、戦いが起きていた。
采配の解が次々と、浮かんだ。今すぐ、セオに右翼を厚くさせれば。ブルーノを一度下げて、マルコを前へ。西の崩れは第二隊で塞げる。ニコの動線を変えれば、もっと早く——浮かぶ。冴える。十何年、磨いてきた采配の頭が戦場を瞬時に読み、最適の一手をいくつも差し出してくる。一手、指示すれば。私が動けば。きっともっと、上手く、守れる。
その、采配したい衝動を。彼女は握り潰した。
ひとつずつ。指の中で。——あの夜と、同じだった。第1話の夜、握り潰した、慈悲の嘆願。あのとき潰したのは情だった。今、潰しているのは采配だ。浮かんでは潰し、浮かんでは潰し。指が白く、なるほど。託すために。信じるために。
剣を執るより。一手を指示するより。この、何もしないことのほうがずっと難しかった。手放すこと。委ねること。生涯、一度もできなかったことが。
物見の上で彼女は微動だにしなかった。なのにこめかみに汗が滲んでいた。誰の目にも、ただ静かに佇む令嬢にしか、見えないだろう。——その内側で彼女は生涯最大の戦を戦っていた。采配を殺し続ける、戦を。
そして、屋敷は。彼女が采配を手放したぶんだけ——八人の誇りで満たされていった。
恐怖で固めた屋敷は脆い。誇りで束ねた屋敷は——血を流しても折れなかった。
◇
そのとき、群れの中から、一人が進み出た。
まっすぐ、正門へ。迷いなく。——かつての、門番の、足取りで。
トマだった。
青白い目をして、声もなく。だがその手は覚えていた。十何年、開け閉めしてきた、その門の閂の場所を。トマが外から、門に手をかけた。中から守るブルーノの、その背後の、閂に。内側から、開けるために。
「ブルーノ、退け」
声がした。シリルだった。
いつのまにかシリルが門の内に立っていた。湖のような目で外のトマを見つめて。その手には薬草でなく——細い、銀の針が握られていた。
「……これは私の役目です」
ブルーノが血まみれの体を引いた。シリルが開きかけた門のその隙間へ進み出る。トマと、向かい合って。
「トマさん」シリルは静かに言った。いつもの慈愛の声で。「よく、戻って、こられました。——もういいんですよ。もう北に引かれなくて」
トマは答えなかった。青白い目はシリルをすり抜けて、屋敷の温もりだけを見ていた。
シリルの、湖のような目の、底に。あの、冷たいものが滲んだ。
「一度、呼ばれた者は戻りません。私には戻す手はない」シリルの声は震えなかった。「ですがこれ以上、北に引きずられて、形だけの何かに成り果てる前に。——せめてここで。あなたを知っている者の手で」
銀の針が光った。
シリルはトマを抱きとめるようにその身に寄り添った。針がひとつき。苦しませず、一息で。掘り返した土の匂いのその奥にまだ残っていた、最後の、トマの、温もりへ。
トマの体から、ふっと、青白い灯りが消えた。
崩れ落ちる、その身をシリルが両手で受け止めた。まるで眠った子を抱くように。トマの顔から、あの空ろが消えていた。ただの疲れ果てた、一人の老人の安らかな顔がそこにあった。十何年、門を守った、不器用な、男の。
「……お疲れ、さまでした」シリルが囁いた。
命をこれほど慈しむ手がなぜ、殺し手なのか。——その答えが今、アリシアの目の前にあった。慈愛と、殺しはシリルの中で同じ一つの、手だった。救えない者をそれでも慈しむために。摘み取ることの、できる手だった。
◇
アリシアは物見の上でそれを見ていた。動かずに。
握り潰した、慈悲。却下した、嘆願。氷の面の下で何度も何度も押し殺してきた、情。——その積み重なりのいちばん古い場所にトマがいた。十何年、門に立っていた男。彼女が名前は知っていても一度もちゃんと、見たことのなかった、一人。
救えなかった。
八人を配し、屋敷を誇りで束ね、それでも——たった一人、いちばん近くにいた者を救えなかった。シリルの手で鎮められるのを、ただ、見ているしか、なかった。
胸の塊が軋んだ。十何年、流せなかった涙がその塊の中で熱く、膨らんだ。
なぜ。なぜ、こんなことに。北はどこから。トマはなぜ、選ばれた。——そして。
(……なぜ、私の周りなの)
偶然の救済も。八人の男も。北の、侵食も。トマの、喪失も。——なぜ、ぜんぶ、私の周りで起きるの。
その問いが胸の奥のいちばん触れたくない場所を掠めた。掠めて——彼女は慌てて戦場へ目を戻した。今は考えない。今は守ることだけ。
考えるのはまだだ。
◇
夜明けが来た。
光が差すと、声なき群れは潮が引くように北へ退いていった。倒したのではなかった。滅ぼしたのでもない。ただ——屋敷が持ちこたえた。それだけ。群れはまた、北の闇へ青白い灯りを連れて、帰っていった。次の夜を待つように。
未決着の勝利だった。
門の前でブルーノが割れた拳を抱えて、座り込んでいた。マルコの背は裂けていた。ニコは運びすぎて、立てなく、なっていた。ジュリアンもエドガーもセオも満身創痍だった。誰も無傷ではなかった。誰も超常の力では勝たなかった。
ただ、生身で。血を流して。誇りで。——持ちこたえた。
シリルはトマの亡骸を庭のいちばん日当たりのいい場所へ運んでいった。埋めて、その上に花を植えるのだ、と。庭師の手で。
アリシアは物見を降りた。八人の、傷ついた姿の、間を歩いた。
誰も彼女を責めなかった。救えなかったことを。ただ、血まみれの顔で彼女を見て——そして、少しだけ笑った。あんたが信じて、託してくれたから。俺たちは誇りを持って、立てたんだ、と。
その、傷だらけの、笑顔の中を歩きながら。
アリシアは十何年で初めて。胸の塊がほんの少しだけ溶けて、目の縁が熱くなるのを感じた。——けれど、まだ零さなかった。
まだ。
北の空が白んでいく。その奥で青白い灯りはまだ消えてはいなかった。




