ひとでなしという名の門番
青白い灯りは夜ごと、近づいた。
北の空の奥にひとつ、ともった、あの灯り。それがひとつ、ふたつ、と、増えていった。やがてそれは地を這うように屋敷のほうへ移ろい始めた。
声なき、群れだった。
物見に立った、悌の末席の目が最初に報せてきた。北の街道を人影が歩いてくる。何十、と。だが足音がしない。話し声もしない。ただ、青白い灯りを目のあたりに灯して、掘り返した土の匂いを引きずって。——人の形をした、何か、だった。
かつて、人だった、何か。
北の村々で夜ごと、北へ歩き出していた者たち。焦点の合わない目をした者たち。——彼らはもう戻らなかった。北の、その奥の、何かに呼ばれて。一人、また一人と、人であることをやめて。そして今、群れになって、戻ってきた。声をなくして。
◇
その夜、トマが応えた。
離れの寝床でずっと北を見つめていたトマが——ゆっくりと、起き上がった。
ニコが真っ先に気づいた。第九夜から、ずっとトマの傍を離れなかった少年が。
「トマさん……?」
トマは答えなかった。寝床を出て、戸口へ歩く。その足取りはもう抜け殻のよろめきではなかった。迷いなく、まっすぐ、北へ。呼ばれた者の足取りで。
「トマさん!」ニコが追いすがった。「だめだ、行っちゃ、だめだ……!」
その手がトマの腕を掴もうとした。
第九夜、ニコはトマの手を握れた。冷たくても握れた。「衣だけを引いている」と、感じながらもそれでも引き戻せた。
——今度は。
ニコの手はトマの腕をすり抜けた。
掴んだ、はずだった。なのに指が空を握っていた。トマの体はそこにあるのに。ニコの手はもうそこに届かなかった。引き戻すべき「トマ」がもうその体の中にいなかったから。衣を引く手応えすら、なかった。ただ、冷たい、空気を掴んだ、だけ。
「……っ、トマ、さん」
ニコはその場に膝をついた。何度も手を伸ばした。届かなかった。一番、繋ぎ止めようとした手から、最後の最後にすり抜けて——トマは戸口を抜けていった。
◇
庭でシリルが待っていた。
トマがその前を通り過ぎる。シリルは止めなかった。ただ、その湖のような目で通り過ぎるトマを静かに見送った。そして、追ってきたアリシアに低く、言った。
「……もう人ではございません」
責める声ではなかった。診る声だった。庭師が枯れた枝を見分けるように。
「脈はあります。歩いてもおります。ですがトマさんはもうここにはいない。呼ばれて、いったのです。北の、いちばん奥へ。——あれはもうトマさんの、形をした、別のものです」
アリシアは立ち尽くした。
門がひとりでに開いていた。トマの手が最後にその閂を外したのだ。——いつか、無意識に外しかけた、あの門を。今度は迷いなく。
開いた門の外に声なき群れが青白い灯りを灯して、待っていた。トマがその中へ歩いていく。群れは彼を迎え入れた。何十もの青白い目がいっせいに屋敷のほうを向いた。
トマの目もその中にあった。同じ、青白さで。もうこちらを見ていない。十何年、この門を守ってきた、その目が。
◇
「……お嬢様」配下が震える声で剣の柄に手をかけた。「ご命令を。あれを——トマを討ちますか」
討つ。
それが采配だ。人でなくなった者はもう敵だ。門を開ける、内通者だ。屋敷を守るには斬るしか、ない。冷酷な令嬢なら、迷わない。
アリシアは開いた門のトマを見た。
青白い目。声のない口。掘り返した土の匂い。——だがその体はまだトマの体だった。十何年、雨の日も雪の日もこの門に立っていた。不器用で実直で誰よりも目立たなかった。ニコが誰より、気にかけた、あの。
(……あれは敵じゃ、ない)
道筋は灼けなかった。今度ばかりは冴えた采配など、出てこなかった。ただ、深い、悲しみだけが胸を満たした。
トマは敵ではなかった。トマは最初の犠牲者だった。北にいちばん先に呼ばれ、いちばん先に連れていかれた、救えなかった、身内。彼を討つことはできる。だがそれは敵を斬るのではない。負けを認めることだ。一人、守れなかった、という。
「……討ちません」アリシアは低く、言った。声が掠れた。「門を閉ざしなさい。トマを中に入れず——外にも追わない。あの人は討つのではありません。私たちが守れ、なかった。ただ、それだけ、です」
誰も剣を抜かなかった。
門が固く、閉ざされた。その外でトマは声なき群れの一部となって、青白く、佇んでいた。屋敷を囲む、何十もの灯りのひとつとして。
ニコがまだ門の内側で膝をついたまま、泣いていた。誰も声をかけられなかった。
◇
その夜、屋敷は囲まれた。
声なき群れが壁の外をぐるりと、取り巻いた。攻めてはこなかった。ただ、青白い目でじっと屋敷を見つめていた。何かを待つように。あるいは屋敷の中の誰かが——次に呼ばれるのを待つように。
アリシアは物見から、その群れを見下ろした。
明日、戦いになる。それはもう避けられない。だがこれは撃退すべき、敵の軍勢ではなかった。あの灯りの一つ一つがかつて、人だった。誰かの家族で隣人で身内だった。北に呼ばれ、連れていかれ、もう戻れない者たち。
明日、守るのだ。この屋敷を。屋敷の中のまだ人である者たちを。——奪い返せ、なかった、あの者たちのことを思いながら。
胸が軋んだ。十何年、握り潰してきた慈悲が今、行き場をなくして、胸の塊の隣で疼いた。
「……シリル」アリシアは傍らの庭師に訊いた。「あの人たちを。元に戻す手は」
シリルは長いあいだ、答えなかった。湖のような目で青白い群れを見つめていた。
そして、ひどく静かに言った。
「——ございません。一度、呼ばれた者は戻りません」その声にいつもの慈愛はなかった。代わりにあの、湖の底の、冷たいものが滲んでいた。「私にできるのは……苦しませず、終わらせること、だけです。摘み取るように。それがせめてもの慈悲なら」
聖なる、毒。
アリシアはその横顔を見た。命をこれほど慈しむ手がなぜ、殺し手なのか。——その答えの輪郭が明日、見える気がした。見たくない、と、思った。
北の風が掘り返した土の匂いを運んできた。
戦いの前夜だった。




