沈黙という名の閾
八人が揃った。
智、義、忠、孝、礼、悌、仁、信。雇った覚えのない男たちがいつのまにか屋敷の隅々に収まっていた。会計に書斎に、門に、商いに、社交に、厩に、庭に、そして、彼女のすぐ後ろに。
七つの指には文字が刻まれた。屋敷は恐怖でなく、誇りで回るようになった。末席の者が目を持ち、怯えていた者が役目を持った。固く閉ざされていた門は今は誇りで締まっている。
——表向きはすべてが整っていた。
整いすぎて、いた。
◇
満ちると、欠けが見える。
闇の中では一つの空白も闇に紛れる。だがまわりがすべて灯ると——灯らない、ただ一点だけがくっきりと、浮かび上がる。
アリシアの、右手の、薬指。
七つの指が夜ごと、熱を持って疼くなか、その一本だけが白く、冷たく、沈黙していた。八人が揃ったことがかえって、その白さを際立たせた。何かが決定的に欠けている。八人、揃ったのに。いや——八人、揃ったからこそ、その「欠け」がもう誤魔化せなく、なっていた。
そして、もう一つ。
満ちた屋敷の、その壁の、すぐ外で。北の灯りが夜ごと、近づいていた。
トマのような者が領内に増えていた。掘り返した土の匂いが風に乗る夜が増えていた。智の数字も孝の鼻も悌の末席の目も——みな、同じことを報せていた。北の何かが。もうすぐ、そこまで来ている、と。
満ちたからこそ、迫るものが見える。欠けた一つと、迫る一つ。八人が揃った夜にアリシアの目に映ったのは、充足ではなく——その、二つの、空白だった。
◇
その夜、彼女は燭台ひとつの灯りで自分の手を見つめていた。
八本の指。七つの、古い文字。一つの、白い沈黙。
(……これは何)
ずっと考えないようにしてきた。灯りのせい。疲れのせい。幻覚よ。——あの呪文で布の下に押し込めてきた。だがもう押し込めても布の縁から、覗いてくる。
八人の男。雇った覚えのない。なのに誰もが当たり前のように受け入れた。爪に刻まれていく、文字。そして——あの、偶然の、救済たち。握り潰した慈悲がいつも横合いの、誰かの手で叶えられていった、あの日々。
問屋の小麦。北寄りの村。彼女の印で出ていた、書状。
(……あれは誰の手だったの)
ずっと横合いの「誰か」だと、思ってきた。思おうと、してきた。
でも。八人を呼んだのは。爪に文字を灯したのは。あの偶然の救済を起こしたのは。——もし、その、ぜんぶの、源が。
ひとつの考えが布の縁から、首をもたげた。
もし、その源が——私、だとしたら。
(——っ)
アリシアはその考えを慌てて押し込めた。いつものように。布を被せて。考えない。見ない。
だが布は。もう完全には閉まらなかった。被せても縁から、その考えが白い指のように覗いていた。
彼女は震える手で引き出しから、手袋を取り出した。絹の長い手袋。それを両手にはめた。八本の指を七つの文字を一つの白を——ぜんぶ、布の下に隠すように。
隠せば、見えない。見えなければ、ない。——そう、信じようと、した。
手袋の下で白い薬指が静かに疼いていた。隠してもその疼きだけは消えなかった。
◇
「お嬢様」
声に振り向いた。侍女のノエラが燭台のそばに立っていた。いつから、そこにいたのか。
ここしばらくのあいだ。この侍女はずっと見ていた。アリシアが自分の指を擦り、隠し、見なかったことにする——その、一部始終を。咎めず、驚かず。まるでいつか、こうなることを初めから、知っていたかのように。
そのノエラが今、手袋をはめた、アリシアの右手を見ていた。
そして、問われてもいないのに。一度だけ、口を開いた。
「その指だけ」ノエラは静かに言った。「……まだですね」
アリシアの息が止まった。
「……何ですって」
だがノエラはもういつもの侍女の顔に戻っていた。深く頭を垂れて。
「いいえ。何も。——お休みなさいませ、お嬢様」
そう言って、燭台を整え、静かに下がっていった。何もなかったかのように。知っているのに知らぬふりをする者のその背中だけが——一瞬、何か、ひどく古いものを背負って、見えた。
アリシアは手袋の右手を胸に押し当てた。
まだと。——ではこの指はいつか、変わるとでもいうのか。白いままのこの一本が。私がそれを隠しても。布を被せても。手袋で覆っても。いつか。
ノエラには見えているのだ。普通の侍女になど、見えるはずのない、この爪の文字が。——だがあの侍女がそれをどこまで分かっているのかは、分からなかった。見えているだけなのか、何かを知っているのか。なぜ、見えるのか。何一つ、確かめようがなかった。——ただ一度、燭台の灯がふいに揺れたとき。その侍女の輪郭が、朝靄のように、ほんの一瞬だけ薄く見えた。見間違いだ、とアリシアは思った。思うことにした。
ただ、一つだけ、分かった。
閾の手前に立っている。
八人が揃い、七つが灯り、北が迫り、白い指が最後の何かを待っている。——もう後戻りはできない。これまでのすべての「まだ」がもう「まだ」ではいられなくなる、その手前に。
窓の外。北の空のいちばん奥で。
ひときわ大きな、青白い灯りがひとつ。——ともった。




