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涙という名の塊

トマを離れに預けてから、幾日かが過ぎた。

アリシアは夜ごと、眠れなかった。北の管。トマの空ろな目。八本の指のうち、七つに刻まれた文字と、白いまま疼く、最後の一本。——押し込めても押し込めても布の下から、覗いてくる。

昼は氷の面を被り続けた。家令の前で社交の場で使用人の前で。誰にも揺らぎを見せずに。それが十何年、染みついた、生き方だった。揺らげば、舐められる。舐められれば、食い潰される。だから、完璧に。胃の腑が灼けるほど。

ただ、その面の下で何かが限界まで張り詰めていることに——彼女自身はもう気づかないふりをするのに慣れすぎていた。

その日、離れへトマの様子を見に行った帰りだった。

庭でシリルが薬草を摘んでいた。アリシアが通りかかると、彼はふと顔を上げ、その湖のような目で彼女をしばらく見た。

「お嬢様」穏やかに言った。「少しこちらへ」

何の気なしに近づいた。シリルがすっと手を伸ばし——彼女の手首を取った。

無礼な、と振り払おうとした。だがその指は咎める間もなく、彼女の脈の上にそっと置かれていた。庭師の手は薬を診る手でもある。脈を読む手。

シリルはしばらく黙って脈を聴いていた。

そして、静かに言った。

「……あなたは泣いていませんね」

「……何を」

「今、です。トマさんを見て、北の匂いを嗅いで八つのうち七つが刻まれて——あなたの脈はたった今一度だけ、跳ねました。ほんの一度。すぐに抑え込まれましたが」シリルは彼女の手首を放さなかった。「泣きたかったのでしょう。なのにあなたは泣かなかった。——いいえ。泣けなかった」

アリシアは凍りついた。

「ずっとそうやって、こられたのですね」シリルの声は責めなかった。ただ、限りなく、優しかった。「十何年。泣くべきときに泣かず。塊にして、呑み込んで。あなたの、ここに」彼はもう片方の手でそっと彼女の胸の、あたりを示した。「行き場のない涙が固まって、塊になっている。——触れずとも分かります。あなたの脈はその塊の輪郭をなぞっている」

その瞬間だった。

十何年、布の下に押し込めてきたものが——その、たった一言で輪郭を与えられて、しまった。

誰も知らなかった。氷の令嬢の面の下で彼女がいつも少しだけ泣きそうになっていることを。知られてはならなかった。知られた瞬間にこの鎧は一枚の紙に変わるから。

なのにこの男は。脈のたった一度の跳ねから、その塊を名指した。

見られた、と思った。

生まれて、初めて。誰にも見せず、自分でも見ないようにしてきた、いちばん奥のその塊を——たった一人に見られた。

ずっと采配する側で生きてきた。人を見て、配し、動かす側で。見られる側に回ったことなど、一度もなかった。なのに今、彼女は何もできずに、ただ、見られていた。脈、一つ、隠せずに。采配を取り上げられた者の、丸裸の、無力。——その据わりの悪さが涙よりも先に怖かった。

喉の奥が熱くなった。目の縁が焼けた。十何年、一度も零れなかったものがせり上がってくる。塊が溶けて、溢れ——

(——だめ)

ここで崩れては。この男の前でたった一度でも面を落としては。

アリシアは必死でそれを堰き止めた。せり上がるものを喉の奥へ押し戻す。歯を食いしばって。あと、ほんの少しで十何年ぶんが決壊する、その寸前で——

「——ああ、いけません」シリルがふいに言った。

その声があまりにのんびりと、場違いに明るかったのでアリシアの涙が驚いて、引っ込んだ。

「そういう塊は」シリルは彼女の手首を放し、薬草の籠を覗き込んだ。「放っておくと、根を張ります。厄介な雑草と、同じで。——なにご心配なく。私の得意分野です。こういうものは聖なる毒で根ごと、摘み取って、差し上げますから」

「……聖なる、毒」

「ええ。慈悲深い毒、とでも申しましょうか」シリルはにっこりと、笑った。「優しく効いて、苦しませず、けれど、残さず、根こそぎ。——私の、いちばんの、得意技です」

涙は完全に引っ込んでいた。

代わりに背筋を別のものが撫でた。

シリルのその笑顔は慈愛そのものだった。湖のように穏やかで優しい。——なのに、「聖なる毒」「根こそぎ」「得意技」と、語るとき。その湖の底のほうに何か、ひどく冷たいものが一瞬、見えた気がした。

これは冗談だ。涙を引っ込ませるための優しい、戯れ言。——そう、思おうとした。思おうとして、思いきれ、なかった。

この男はもしかしたら、本気で言っているのかもしれない。雑草を摘むのと、同じ気軽さで何か——あるいは誰か——をその慈愛の手で根こそぎにしたことがあるのかもしれない。

命をこれほど慈しむ手は。いったい、どれほど、命をその手にかけてきたのか。——前編でよぎった問いが今、薄ら寒い答えの輪郭を見せかけて、また、湖の底へ沈んでいった。

「……変な、男」アリシアは辛うじていつもの声を取り戻した。「人の胸の内を勝手に診て。挙げ句、毒を盛ると」

「摘む、と申しました」シリルはまた、穏やかな庭師の顔に戻っていた。「お嬢様。私の手はずっと摘み取るための手でした」

すり潰し、毒を煎じ、根を断つ。——その手が何のために使われてきたのか。シリルは語らなかった。ただ、自分の両手を静かに見下ろした。

「摘んで断って、終わらせる。それだけの手だと、思っておりました。ですが」彼は顔を上げた。湖のような目がまっすぐ、彼女を見た。「あなたの傍にいるときだけ、この手は……生かすために触れる。脈を診て、塊を見つけ——それを断つためでなく、あなたがいつか、自分で流せるように。摘むのではなく、ほどくために。そんな使い方を教わるとは思いませんでした」

智の数字。義の問い。忠の拳。孝の鼻。礼の作法。悌の末席。——そして、仁の手。

七つ目の枝が、同じ幹から伸びていた。彼女の傍でだけ、摘む手が生かす手に変わる。断つ手がほどく手に変わる。

アリシアは自分の胸にまだ固く、塊が残っているのを感じた。溶けはしなかった。流れもしなかった。ただ——その塊に生まれて初めて、他人の指が触れた。その感触だけが奇妙に温かく、そして、ひどく心細かった。

(……まだよ)

まだ流さない。まだ崩れない。——けれど、「まだ」と思うとき、その後ろにいつか、という言葉が初めて、ほんの少しだけ滲んでいた。

七つの指が夜の冷気の中で静かに疼いた。白いままの右の薬指だけが——その夜はなぜか、いちばん、強く、疼いた。

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