保全記録"リン=シャオリン"
私達が歩いているこの通り沿いに続く家屋の明かりも消え、物乞いの姿さえ見えない真夜中の街を二人で歩いていた。石畳と靴の当たる音が辺りに響く。
今回の正暦分岐点は1888年のロンドン、タワーハムレッツ特別区域内の一角にあるホワイトチャペルという場所。
「淋。気抜くなよ。」
「……分かったヨ、"クララ"さん。」
あー、また言っちゃった……。いや、言えなかったの方が正しい?どっち?その語尾は何なの私?そう自分に語りかける。
私の名前は淋小鈴。もちろんこの世界での、だけど…。素体は日本人なのに訳も分からずバートンテイルに来たらこの中国の人っぽい名前付けられてて、そういうキャラじゃないとダメなのかと思って咄嗟に片言キャラを演じたら思いの外浸透しちゃって、それを訂正できないままここまで来てしまった…。
しかもリリーさんに『正暦保全者にはそれぞれコードネームみたいなのがあってね…』みたいな話をされたからすっかり信じて、皆をその名前で呼んでたのにそれがリリーさんだけの呼び方だったなんて…。
本当のことを言いたいのは山々だけど、今更直したところで"ほらあの子…キャラ付けしようとして変な語尾にしてた…"とか噂されたら嫌だしなぁ…。…詰みじゃん!
隣を歩く伊伏先輩を見るといつも以上に厳しい表情を浮かべている。さっきの事と関係あるのかな…。その記憶を呼び戻す。
場所は正暦保全協会センターホール。私と伊伏さんの共通の正暦修復者である秋瓜さんから今回の保全戦闘内容を共有され游咏魚の水槽へ向かうところだった。
先に行くように促され移動卵殻へ向かう。
私は素体の頃から耳が良かった。それがこのトレイス体に反映されたのかどうかは分からないけどその時よりも更に聴力が向上し、遠くで話してる人の会話も聞き取れるまでになった。二人が何を話してるのか気になった私は聞き耳を立ててみることにした。伊伏先輩が話を切り出す。
「最近俺だけじゃなくて淋の保全戦闘にも代理の人間を寄越してるって話じゃないですか。あんたの担当する正暦保全者は俺達を入れたとしてもそこまで多くないはずだ。他に何か急ぎの用事でもあるんですか?それともいつもの"迷子"ってやつですか?」
「ふ……、いや。伊伏君急にどうしたのさ?僕の用事は…まぁそんな所…かな。最近色々とあってね。」
「まぁいいですよ。動くところはもう動いてるようですし近い内に分かることです。…何処で迷子になってるのかもね。」
「ん?何の事か分からないんだけど…?」
「淋が待ってるんでもう行きます。さっきのは甚さんには関係のない事ですよ。…少なくとも今は、の話ですけど。」
二人を背にしたまま話を聞いていたのでどんな表情で話しているのかは分からなかったけどその間に嫌な緊張感が揺蕩んでいるのは声色からでも読み取ることが出来た。思考を現在へ呼び戻す。
「気を付けろ…嫌な匂いがする。」
「匂ウ?んー…確かに湿っぽいカビ臭い匂いはするけどサ…。」
そっか。この人も私と同じ特性を持ってるんだった。聴覚の発達した私と同じように先輩も嗅覚が優れている。本当かどうかは分からないけど噂によれば壊変者の匂いが分かるとか分からないとか…。流石に噂…かな?
そう呟いた伊伏さんを見ていると秋瓜さんから連絡が入った。
『二人共。その近くに微弱だけど游咏魚内既存のもの以外のトレイス反応があるよ。配置型の能力かもしれないから気を付けてね。』
その言葉を聞いて小さく笑う伊伏さん。
「ハッ…道理で趣味が悪い鉢植えだと思ったぜ。淋、上は頼んだぞ。喰らい尽くせ"借火尽鬼"」
「分かったヨ。行くよ"渦巻く寵愛"、"お喋り渡り鳥"」
私達が能力を発動するのとほぼ同時に、二階の窓から下げられていた植木鉢から無数の蔓が伸びて私達を襲った。鉢の数は左右合わせて恐らく二十以上。しかし攻撃はそれで終わりではなく、足元からは石畳の隙間を割るように蔓が迫っていた。
しかしその蔓は私の能力によって作り出された球体の防壁に行く手を阻まれ私に触れることさえ叶わないでいた。渦巻く寵愛は範囲攻撃と一点集中の強攻撃の二種類の攻撃に対して個別の防御を行う能力。龍にも蛇にも似た黄金色の生物を具現化し、宙を泳いでいるときは敵の攻撃を察知して自動防御を、今のように私を囲って動かないでいるときは範囲攻撃を防御する。
防御すると言っても全ての攻撃を防げるわけではないし、壊されることも多々あるけど、トレイスを与えなくても10秒ほどで自動的に復活するからかなり優秀な能力だ。防御形態を変更するときには都度トレイスを消費するけど…。
植木鉢から伸びて襲い掛かろうと空を覆う蔓を目指して私の体から五本の"進路予測線"が伸びる。具現化された鳩に似た鳥がその線をなぞる様にして羽ばたき、その旅を邪魔する蔓を衝撃波で吹き飛ばしていく。その内の二羽が途中で蔓に圧し負けて消えてしまったが、残った三羽は線の終わりまで辿り着くと一際大きく衝撃波を放って消えた。羽ばたく際に発せられる叫び声の様な音がまだ耳に残って響くような感じがする。
お喋り渡り鳥は今みたいに進路予測線とそれを端から端まで飛ぶ鳥型の衝撃波発生装置を具現化させる能力。進路予測線は一度設定したら変更不可能な上にどこを攻撃するのか相手にも分かっちゃうからそこはデメリットなんだけど、その代わりに線を進めば進むほどその威力は上がる。その起点は自分じゃなくてもいいけど、その時は威力が三分の一程に落ちる。この子達強いんだけど五月蝿いから苦手なんだよなぁ…。
地中からは絶えず蔓が伸びているけどそっちの心配は…必要なさそう。石畳の路面は緑の絨毯でも敷かれたかのように青々としていた。しかしそれらは次の瞬間には全て燃え尽き灰だけが宙を舞っていた。伊伏さんの手に握られた刀の刃は今にも溶け出しそうなほどに赤く滾っている。
保全履歴でしか見たことないけど確か借火尽鬼で作り出される刀は刃先の一線を除いて全て黒く染まった見た目の刃だったはず。今私の目の前にあるそれは見ていた記録とは全く異なるものだった。
そんな事を考えている最中、前方の暗がりから二つの影が姿を現す。男の方は不快な笑みを浮かべているのに対し、氷の冠を被った女の方は顔色一つ変えずにこちらを見据えている。伊伏さんが借火尽鬼で炎の刃を放ったが氷の障壁に阻まれる。それを見て再び秋瓜先輩からの報告を思い起こす。
■時の瓦礫の保管箱
【曲名】
渦巻く寵愛
【創造地点】現位置換算済
正暦分岐点 前0430.08.18
ギリシャ共和国 西ギリシャ地方 イリア県 "アルヘア・オリンピア"
エピソード名 "空飛ぶ円盤と空飛ぶ円環"
【所有者】
淋小鈴
【効果】
能力使用者を自動防御する蛇に似た生物を具現化させる。長さは1~10mほどで変化する。相手へ噛み付かせる事は可能だがダメージは皆無。破壊されても10秒で再生する。技を切り替える際には追加でトレイスを送る必要がある。
"ディア=ボロス"
宙を泳いでいる状態となり威力の高い攻撃から順に受け止める。実体の無い攻撃でも受け止めることが可能。
"グラ=ボロス"
能力使用者を囲うように球体を作っている状態となり範囲攻撃を無効化する。ウロボロスの体がかかっていない穴抜けになっている部分にも見えない障壁が展開されている。
【曲名】
お喋り渡り鳥
【創造地点】現位置換算済
正暦分岐点 1371.02.27
ブラジル アマゾネス ボルバ "マデイラ川沿い"
エピソード名 "夜半を切り裂く声"
【所有者】
淋小鈴
【効果】
衝撃波を放ちながら羽ばたく水鳥のような生物とその航路となる進路予測線を具現化する。進路予測線は始点と終点を定めればどこへでも発現可能だが、始点が自身である場合のみ威力が増大し線が長いほど威力も上昇していく。




