第8話 失敗
倒れた佐伯の脇を、ホーンラビットが駆け抜けた。角の先が、制服の上に着けた防護ジャケットを掠める。硬い素材の擦れる音。考えるより先に、透は走り出していた。
「佐伯! そのまま!」
今立たせる方が危ない。ホーンラビットは通路の先で速度を落とし、向きを変えようとしている。透は腰の発煙球を抜き、佐伯と魔物のあいだへ投げた。白い煙が広がり、視界を奪われたホーンラビットが甲高く鳴く。
「後ろへ這え」
「はい……!」
自分も下がりながら、透は救難ビーコンに指を掛けた。付き添いの安全管理員が駆けつけるまで、一分もかからなかった。佐伯に大きな怪我はなかった。
地面についた右手を捻って手首が腫れたものの、検査で骨に異常は見つからなかった。防護ジャケットには浅い傷が一本残っただけだ。管理棟の救護室で、佐伯は冷却材を巻いた手を膝の上に載せていた。
「ごめん」
佐伯が顔を上げた。
「なんで先輩が謝るんですか」
「俺が作った方法だからだ」
「転んだのは私ですよ」
「転ぶ可能性を入れていなかった」
「普通に歩いてたって、転ぶときは転びます」
「廊下で転ぶのと、突っ込んでくる魔物の前で転ぶのとでは、まるで違う」
透は手元の端末に目を落とした。実地試験の全行程を撮ってある。転ぶ直前の映像は、もう十回以上見返した。それでも原因が掴めない。佐伯は指示通り、二度目の足音で右へ退いた。開始位置も合っている。ホーンラビットとの距離も想定の範囲に収まっていた。
なのに、転んだ。
「先輩」
「何?」
「もう一回、やらせてください」
「今日は無理だ」
「今日じゃなくていいです」
透は佐伯の顔を見た。
「怖くないのか?」
「怖いです」
間を置かない答えだった。
「でも、一回失敗したら終わりなら、私、ずっと何もできないので」
透は言葉を返せなかった。佐伯は手順通りに動いた。それで転んだのなら、直さなければならないのは手順の方だ。
帰宅してから、透は撮影データを一コマずつ送った。歩幅、足の角度、床の状態、靴底、視線。十二回目の再生で、指が止まる。退避に入る直前、佐伯は一度、左足を引いていた。
訓練室では一度も見なかった動きだった。
翌日の学校で、透は本人に尋ねた。
「これは何だ?」
映像を見せると、佐伯は首を傾げた。
「分かりません」
「毎回やっているのか?」
「たぶん……あ、怖かったからかも」
「怖いと、足を引く?」
「小さいころから、びっくりすると一歩下がっちゃう癖があるんです」
透は動画を止めた。その一歩は、予定していた退避動作の前に割り込んでいる。距離にすれば二十数センチにすぎない。けれど左足を引いたせいで重心が後ろへ移り、右へ踏み出す次の一歩が遅れた。そのうえ足が交差して、転んだ。訓練のとき、佐伯は怖がっていなかった。本物の魔物を前にしたときだけ出る動きだった。
「これか」
呟いた透の顔と画面を、佐伯が交互に見比べる。
「直せますか」
「癖を?」
「はい」
透はすぐには答えなかった。
これまで細かく分解してきたのは、魔物の行動の方だった。どの足から踏み込むか、何秒止まるか、どの音に反応するか。人間の側については身長と歩幅、装備の重さを測り、それで足りると思っていた。
実戦では、恐怖や焦りが動きを変える。足が止まる。早く動きすぎる。覚えたはずの手順が抜け落ちる。耳に入っている指示の意味が取れなくなることもある。分かりきった話なのに、透はそこを計算に入れていなかった。
「私がちゃんと動けなかっただけですよ」
黙り込んだ透を見かねたのか、佐伯が言った。透は画面を止めたまま首を横に振る。
「本番で動けなくなるところまで、想定していなかった」
「それは先輩のせいじゃないですって」
「本番で出る動きを、練習に入れていなかった」
「そこまで先輩のせいにしたら、何でもかんでも先輩の責任になっちゃいますよ」
「原因が分かったのに、放っておく理由はない」
佐伯は何か言いかけて、そのまま映像へ目を戻した。
「直す」
透は佐伯の方へ向き直った。
「ただし、前の形は全部捨てる」
「全部?」
「佐伯が怖がらない前提で作っていたからだ」
「怖がらないように練習する、とかじゃなくて?」
「それだと何か月かかるか分からない。今怖いなら、怖いまま動ける手順を作る」
佐伯と別れたあと、透は同じ訓練を自分でも試した。榊に頼んで不意に音を鳴らしてもらい、その直後に指定の方向へ避ける。三回目で、透自身の足がもつれた。
「お前も転ぶじゃん」
「ああ」
「もしかして、自分ならできる前提だった?」
「おそらく」
認めるのは面白くなかった。映像を分析していると、動作を理解したような気になる。頭で分かっていても、その速さで身体は動かなかった。
透は自分のゴブリン動画も見直した。音に反応したのを確かめてから走る、とある。その「確かめる」が、怖さの中でどこまでできるのか。初回の動画ではほとんど触れていなかった。透は概要欄に追記し、次の動画で説明する項目にも加えた。
その日から、訓練の中身が変わった。予告なしに大きな音を鳴らす。足元へ柔らかいボールを転がす。途中で指示を一つ差し替える。わざと槍の使えない位置に立たせる。成功率はいったん落ちた。
透が記録したのは、成功した回数だけではなかった。しくじったときにどう動くかも書き留めていく。佐伯は驚くと左足を引く。焦ると右手に力が入りすぎる。指示を一度忘れると、その場で思い出そうとして固まる。
「なんか、失敗癖の採集みたいですね」
佐伯が笑った。
「有用なデータだ」
「……やっぱり変な人ですね、先輩って」
◇ ◇ ◇
一週間後、透は新しい手順を書き上げた。一行目は、こうだった。
『怖くなって左足を引いた場合、そのまま下がる。予定した右回避へ移らない』
失敗したあとからでも続けられる手順だった。
透は攻略ノートに、初めて「正常系」と「失敗系」の二つの欄を引いた。




