第32話 誰も見ていないダンジョン
調査先に選ばれたのは、長野県北部の〈戸倉第二迷宮〉だった。観光地からも幹線道路からも外れた山あいにあり、採れる資源の価値が低いせいで、利用者は年間数千人ほどしかいない。東京の公開迷宮なら、一日で入る人数だ。
透は学校から三日間の公欠許可を取り、アークラインの調査班に同行した。戦力として九条も加わっている。
駅からは車で山道を登った。九月の終わりでも、山の緑はまだ濃い。窓を開けると、朝の空気が頬にひやりと当たった。途中で追い越したのは、軽トラックが一台きりだった。
戸倉第二迷宮の管理棟は、湾岸の施設と比べれば町の公民館ほどの大きさしかなかった。受付に一人、医療担当が一人。探索者用のラウンジに人影はなく、壁のコルクボードには、三年前の日付が入った講習会の告知が画鋲で留められたまま色褪せていた。受付の男性は調査班の人数を数えて、「こんなに来たのは開業のとき以来ですよ」と笑った。
「ここに来るのは、ほとんどが地元の年寄りの採取者でね。オーガが出たら、みんな勝手に自分のやり方で避けてますよ。鍋の蓋を叩く人もいるし、ただじっと待つ人もいる。動画なんか見やしません」
透は「勝手に」という言葉を端末に書き留めた。誰も同じ手順に揃えていない場所。今回の比較で探していたのは、まさにそういう迷宮だった。
「静かね」
そう言う九条の声も、いつの間にか小さくなっていた。
「配信向きではない」
「配信はしない。撮るだけ」
「そうか」
「出すのも調査が終わってから。途中経過だけ広まっても面倒でしょ」
目当てはグレイオーガの比較だった。この迷宮にも同じ系統の個体が出るが、COMMON ROUTEの専用手順はほとんど使われていない。報告の記録をさかのぼっても、右後方ルートの利用はこの一年で四件きりだった。
一体目は第三区画で見つかった。透は安全距離をとってカメラを固定し、計測用の端末を膝に載せた。
「試す?」
九条の目は、右後方の通路に向いていた。
「右後方ルートを一回だけ。倒さない」
「分かった」
九条は〈雷帝〉を使わずに間合いを詰めた。オーガが腕を振る。九条が右後方へ回り込む。
オーガの反応は遅かった。東京で事故を起こした個体なら、とうに肘が飛んできている距離だ。オーガはついさっきまで九条がいた場所へ遅れて首を巡らせ、それからようやく身体ごと向きを変えた。その頃には、九条は通路の角まで離れていた。
「昔の映像と同じくらいね」
「ああ」
二体目は岩棚の下にいた。一体目より一回り大きく、右の脛に古い傷がある。九条が同じように回り込むと、オーガは傷のある右脚をかばって左へ体重を移し、九条へ向き直るまでに二秒近くかかった。三体目、四体目にも差はあったが、右後方への警戒はどれも鈍い。透は一体ごとに、九条が回り込み始めてからオーガが肘を引くまでの時間を書き込んでいった。
「かなり濃いな」
四体分の数字を並べて、透は言った。
「仮説が?」
「ああ」
「嬉しくなさそう」
「正しかったら、俺のせいだからな」
九条は何も返さなかったが、眉のあたりに不満がにじんでいた。
昼の休憩は、迷宮内の安全室で取った。簡素なベンチと自販機が一台あるだけの部屋だ。九条はコンビニのおにぎりの包装を、印刷された番号どおりに一、二、三と引いて開けた。
「さっきの『俺のせい』だけど」
「事実だ」
「一部はね」
「一部でも」
「じゃあ、最初のゴブリン動画を出さなければよかった?」
透は答えなかった。浮かんできたのは、六十代の男がカメラに向かって頭を下げた場面だった。それから佐伯の短槍、救助配信、協会試験の六人。助かった人は大勢いる。同じ情報が、魔物の変化を速めた。
「……分からない。今は、どちらかに決める材料が足りない」
「珍しい。あなたが自分から『分からない』で止まるの」
「無理に決めても意味がない」
「そっちの方が安心する。前のあなただったら、答えが出るまで一人で抱えてたでしょう」
「そこまでではない」
「そこまでだったわよ」
九条は笑って、二つ目のおにぎりの包装に指をかけた。透は言い返す言葉を探したが、見つからなかった。
午後はフロストウルフ系統の個体を調べた。熱源を投げ、左へ抜ける。東京では事故になった手順が、ここではまだ普通に通った。ウルフは熱源へ鼻先を向け、九条が左へ抜けきったあとで、ようやく振り返った。
帰り道で雨が降り出した。管理棟へ戻る保守通路を、二人で歩く。九条の足取りは、いつもより遅かった。
「歩くのが遅くなっている。疲れたか」
「あなたに合わせてるの。最近COMMON ROUTEにかかりきりで、前より体力が落ちてるでしょ」
「A級迷宮を回っている九条との差なら、適性の差だと思っていた」
「訓練と経験。私は潜ってて、あなたは机に向かってる時間が増えた。それだけ」
「……そうだったな」
九条が横目で透を見る。
「そういう切り分け、最初から言葉にできてたら、私たち揉めなかったのに」
「思ってはいた。伝え方が悪かった」
九条が目を丸くして、足を止めた。
「あなたって、ちゃんと謝れるのね」
「必要なら」
「もう一回言って」
「……嫌だ」
九条は声を立てて笑い、また歩き出した。透は傘の縁から落ちる雨粒を見ながら、その後ろをついていった。
二日目の夜は、研究班から離れて、宿の食堂で夕食をとった。山菜の天ぷらと、名前の分からない川魚の塩焼きが出た。
「こういうの久しぶり。配信も会議もなくて、食べて終わるだけのご飯」
九条は箸を置き、古い柱時計のかかった食堂を見回した。
「調査中ではあるが、今は休憩時間か」
「そう。だから端末も置く」
透の手は、無意識に通知欄へ伸びかけていた。COMMON ROUTEを始めてから、食事中にも報告を確かめる癖がついている。
「置きなさい」
「母親みたいだな」
「あなたのお母さん、大変そうね」
透は端末を伏せた。そこからは、天ぷらの衣の話になり、来月の試験範囲の話になった。九条が数学を苦手にしていることを、透はそのとき初めて知った。
「S級でも数学は苦手なんだな。適性と成績は関係ないか」
「その言い方、喧嘩売ってるわよ」
「半分はわざとだ」
「半分って、どっちの半分」
透は答えずに味噌汁をすすった。九条はそれ以上追及せず、透の皿に残っていた最後の天ぷらを箸でさらっていった。伏せた端末は、食事が終わるまで伏せたままだった。
東京へ戻る前日、調査の結果がまとまった。人間との接触が少ない迷宮では、行動の変化も小さい。四体のオーガと三体のウルフの数字は、そろって同じ方向を指していた。再生偏向と攻略情報の大量普及が結びついている可能性は、かなり高い。
透の仮説には、もうほとんど逃げ道が残っていなかった。




