第21話 一億円
アークライン本部は、高校生が一人で訪ねてくるような場所には見えなかった。
湾岸再開発地区に建つ高層ビルの二十二階。受付の壁には、所属するS級・A級探索者の写真と、攻略済みダンジョンの名前が並んでいる。テレビで見た顔もいくつもあった。透は学校帰りの制服のままだった。榊には同行を断られている。
『契約の話なら保護者か先生を連れてけ。俺は動画編集係で、法律担当じゃない』
いかにも榊らしい返事だった。
実際、今日は進路指導の教員と透の母親が、別室で契約の説明を受けている。透が通された会議室で待っていたのは、攻略部門の責任者、久世玲司だった。
三十代半ばで、濃紺のスーツを着ている。探索者というより企業の役員のようだったが、机に置かれた右手の甲には、古い火傷の痕があった。
「真壁透君。会うのは初めてだね」
「はい」
「COMMON ROUTEは、初期から見ている」
「ありがとうございます」
「礼を言われると少し困る。当初、私は批判的に見ていた側だからな」
久世は笑いもせずにそう言った。
テーブルに資料が置かれた。年間業務委託契約。検証施設の無償提供。専門の研究者、医療担当、安全管理員の利用。そして報酬欄。透は数字を二度見した。桁を数え直しても変わらない。一億円とあった。
「……一億。年間で、ですか」
「そうだ。君の年齢に払う金ではない。君が公開した情報のおかげで、うちだけでも事故率が下がり、新人教育の手間も減った。その価値と、これから先への契約だ」
久世の口ぶりは、金額を特別なものとして扱っていなかった。何度もその欄へ目を戻していたのは、透の方だった。
「それで、この『新規攻略情報の優先提供』というのは」
「見つかってから九十日間、まずアークラインの中で検証する。問題がなければ、そのあとは公開して構わない」
「その情報で助かる人もいます。九十日は長い」
「検証されていない情報を信じて、事故に遭う人間もいる。九十日は、それを確かめるための時間だ」
「有用だと、ほぼ分かっている場合でもですか」
「その『ほぼ』を誰が保証する。君自身、公開してから見つかった抜けを、何度も直してきただろう」
筋は通っている。それでも透は、その条項から目を離せなかった。
「それでも、検証中の情報で助かる人はいます」
「同じ情報で死ぬ人もいる。前提を全部書き出せるなら、佐伯千夏さんが最初の実地試験で失敗することはなかったはずだ」
透は顔を上げた。
「責めているのではない。むしろ、失敗を公開して直したことは評価している。ただ、善意と注意書きだけでは安全は保証できない。それも、君の活動が示してきたことだ」
透には、返す言葉がなかった。
「それに、一億円が君個人の報酬である必要はない。検証の基金に回してもいいし、人を雇っても、サイトの運営に使ってもいい。君のやっていることは、とっくに一人の趣味で回せる規模を超えている」
それも事実だった。COMMON ROUTEのサーバー代、撮影費、機材費は、今のところ広告収入で賄えている。だが、いつまで持つかは分からない。問い合わせへの返事と検証は、透と榊の放課後を毎日削っていた。高校生二人で回せる量は、とうに超えている。
「もちろん、今すぐ決めなくていい」
久世は資料を閉じた。
「一週間考えてほしい。ただ、一つだけ言っておく」
「何ですか」
「無料で公開していても、責任は生まれる。だから、どこまで背負うのかを決めておく必要がある」
帰りの電車の中でも、久世の最後の言葉が頭から離れなかった。家に着くと、母親は「好きにしなさい」と言った。ただし、学校を辞めるほど仕事を抱えるなら反対だ、とも付け加えた。
その夜、透に呼ばれてやって来た榊は、契約書を読み進めて報酬の欄で手を止めた。
「一億あったら、編集担当にも給料出る?」
「そこか」
「大事だろ」
「契約したら当然出す」
「そりゃいい。で、お前はしたいの?」
透はすぐには答えられなかった。九十日の独占は重い。だが検証の設備も、専門家も、金も、全部COMMON ROUTEに足りていないものだ。
それでも、と透は思う。最初のゴブリンの動画が、九十日間どこかの会社の中にしまわれていたら。〈山歩き再開〉の男性は、あの日、迷宮に入っていただろうか。
必要としている人にすぐ届かない攻略法を作って、自分は納得できるのか。
「独占は嫌だ」
口に出してから、透は一拍置いた。
「……嫌だが、後ろ盾は欲しい」
「欲張りめ」
「両方取れる形を考える」
契約について考える一週間で、透と榊は初めて、必要な金額を具体的に計算した。サーバー代、撮影機材、保険、検証のときの施設使用料。そこまで並べたところで、かかった時間も時給で換算しろと榊に言われ、透の手が止まった。
「俺たちの時間は、いくらになるんだ」
「知らん。最低賃金でいいんじゃない?」
「編集一本に十時間かかる回もあるが」
「……なんか急に悲しくなってきた」
母親には、金を受け取ること自体を気にする必要はないと言われた。
「責任が増えるなら、むしろ無料の方が変でしょう」
「金をもらったら、企業のためにやっていると思われないか」
「思われるでしょうね。でも、払われるべき対価はあるでしょ」
探索部の顧問にも相談した。顧問は独占期間の条項を見て「九十日は長いな」と言った。
「お前が一番嫌がるところだろ」
「はい」
「なら、まずそこを交渉すればいい」
単純な助言だった。けれど透は、それで何から手をつけるべきかが見えた。
◇ ◇ ◇
一週間後、透は久世のもとへ逆提案を持っていった。攻略情報を公開する権利は透の側が持つ。アークラインは公開前の検証に協力し、重大な危険が確認された場合に限って、一定期間の公開延期を求めることができる。検証データは原則として後日公開し、その権利は双方が持つ。報酬は提示額から減らして構わない。
久世は資料を最後まで読み、そこで初めて表情を緩めた。
「交渉までCOMMON ROUTE式だね」
「どういう意味ですか」
「一つの正解にこだわらず、状況に合わせて手段を組み替える」
最終的な契約額は一億円ではなくなった。それでも、高校生には充分すぎる額だった。
署名欄にペンを置いたとき、透の頭にあったのは金額ではなかった。
この先、事故が起きても、自分一人の机で原因を探さなくていい。そういう場所が、ようやく手に入る。




