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放課後、キャンバスの向こう側。  作者: 櫻木サヱ
はじまりのキャンバス

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夕焼けに染まる約束

 「テーマは『学校で一番好きな場所』。」


 その課題が出されてから、一週間が過ぎた。


 放課後の美術室は、いつにも増して静かだった。


 カリカリと鉛筆が紙を滑る音。


 筆を洗う水の音。


 パレットの上で絵の具を混ぜる音。


 誰も大きな声では話さない。


 それでも、居心地の悪い静けさではなかった。


 みんなが同じ空間で、それぞれの「好き」を描いている。


 ひよりは、この時間が少しずつ好きになっていた。


 窓際の席でキャンバスを見つめる。


 描いているのは、やはり美術室だった。


 でも、ただの風景ではない。


 夕日を浴びて笑う蒼。


 真剣な表情で筆を動かす凛。


 後輩に優しく教える美月。


 その一瞬の空気を残したかった。


「……。」


 ふと、手が止まる。


(なんか違う。)


 昨日までは良かったはずなのに、今日は何度見ても納得できない。


 消しゴムをかける。


 描き直す。


 また消す。


「うーん……。」


「悩んでるね。」


 声を掛けてきたのは蒼だった。


 ジュースを二本持っている。


「はい。」


 紙パックのオレンジジュースを差し出した。


「ありがとう。」


「休憩も大事。」


 二人は窓際に並んで座る。


 校庭では野球部がノックを受けていた。


 遠くから吹奏楽部のトランペットが聞こえる。


「こうしてるとさ。」


 蒼が空を見上げる。


「放課後って終わらなければいいのにって思う。」


「うん。」


「家に帰ったら宿題だし。」


「それが本音?」


「八割くらい。」


 ひよりは思わず笑った。


「あと二割は?」


「ここにいる時間が好きだから。」


 その一言に、ひよりは少し驚く。


 蒼は照れくさそうに頭をかいた。


「みんなで絵を描いてる時間ってさ。」


「試合もないし。」


「順位もないし。」


「ただ好きなことしてるだけ。」


「だから好き。」


 ひよりはジュースを握りしめる。


「……私も。」


「え?」


「ここに来ると落ち着く。」


「でしょ!」


 蒼は嬉しそうに笑った。


「入部して正解だった?」


「うん。」


「よかった。」


 その笑顔を見ていると、不思議と心まで明るくなる。


 その時だった。


「朝倉先輩。」


 凛が近づいてきた。


「先生が呼んでます。」


「あっ!」


 蒼は立ち上がる。


「また?」


「またです。」


 凛は真顔で答える。


「先生、先輩を雑用係にしてます。」


「否定できない……。」


 蒼は苦笑しながら職員室へ向かった。


 ひよりと凛、二人だけが残る。


 少しだけ気まずい沈黙。


 しかし今日は違った。


 凛はひよりの絵を見つめると、小さく口を開く。


「……昨日より良くなりました。」


「本当?」


「はい。」


「でも。」


 凛はキャンバスの端を指差した。


「ここ。」


 ひよりが見る。


「光が止まってます。」


「止まってる?」


「夕日は動きます。」


 凛は窓の外を見る。


「五分後には色が変わる。」


「十分後には影も変わる。」


「だから夕日は難しい。」


 ひよりは窓の外を見た。


 本当だ。


 さっきまでオレンジだった空が、少し赤みを帯び始めている。


「私。」


 凛がぽつりと話し始めた。


「夕日は嫌いでした。」


「え?」


「終わる色だから。」


 その言葉に、ひよりは凛の横顔を見る。


「でも部長が言ったんです。」


 凛は少しだけ微笑んだ。


「終わるから、きれいなんだよって。」


 その笑顔は、一瞬だった。


 だけど確かに、凛は笑っていた。


 その時。


「みんなー!」


 美月がパンパンと手を叩く。


「ちょっと集合!」


 部員全員が集まる。


「来月、市の中学生美術展の募集が始まります。」


 一気に空気が変わる。


「これは自由参加。」


「でも。」


 美月はみんなを見渡した。


「今年は美術部全員で出品したいと思っています。」


 部室がざわつく。


「もちろん一年生も。」


 凛は静かにうなずいた。


 蒼は「よっしゃ」と拳を握る。


 ひよりだけが固まっていた。


(コンクール……。)


 入賞なんて考えたこともない。


 まして、入部したばかりの自分が。


「白石。」


 先生が優しく声を掛ける。


「不安?」


「……はい。」


「大丈夫。」


 先生は笑った。


「賞を取りに行く前に、自分の一番好きな一枚を描けばいい。」


「……。」


「それができたら、結果なんてあとからついてくる。」


 その言葉に、ひよりは少しだけ肩の力が抜けた。


 帰り道。


 校門を出ようとした時だった。


「あの。」


 後ろから声がした。


 振り向く。


 そこには制服姿の男子生徒が立っていた。


 三年生。


 腕には丸めたキャンバス。


 どこか寂しそうな目をしている。


 その男子は、美術室の窓をじっと見上げていた。


「……まだ、あの部は変わってないんだ。」


 誰にも聞こえないくらい小さな声。


 そうつぶやくと、静かに学校を後にした。


 その背中を見送りながら、ひよりは胸の奥が少しだけざわつく。


 まだ知らない。


 彼こそが、美術部のみんなが決して口にしようとしない「元エース」。


 黒田悠真。


 美術部から姿を消した、本当の理由を。

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