描けなくなった先輩
「元エース?」
翌日の昼休み。
ひよりは昨日見かけた三年生のことが頭から離れなかった。
美術室を見上げる、あの寂しそうな横顔。
どこか美術部を懐かしむような、切ない目。
あの人はいったい誰だったのだろう。
放課後。
美術室へ向かうと、今日もいつものように部員たちの笑い声が聞こえてきた。
「こんにちは。」
「ひより、おつかれ!」
蒼が笑顔で迎える。
「今日も早いね。」
「教室にいても落ち着かなくて。」
「もう立派な美術部員じゃん。」
そう言われると、少しくすぐったい。
ひよりは自分の席へ向かい、キャンバスを立てる。
すると、美月が何やら古い棚を整理していた。
「部長、何してるんですか?」
「あー、倉庫の片づけ。」
段ボールを持ち上げると、中から何枚もの古いキャンバスが出てきた。
「文化祭の作品かな?」
「懐かしい!」
部員たちも集まってくる。
一枚目。
満開の桜並木。
二枚目。
夕焼けの港町。
三枚目。
雨上がりの商店街。
「全部すごい……。」
ひよりは思わず見入ってしまう。
色使いが繊細で、どの作品も今にも動き出しそうだった。
「これ、誰が描いたんですか?」
その瞬間だった。
部室の空気が少しだけ変わる。
誰も答えない。
蒼の笑顔も消えた。
美月は少しだけ困ったように笑う。
「……黒田先輩。」
「昨日の……。」
思わず口に出る。
「知ってるの?」
蒼が驚いた。
「昨日、校門で見かけました。」
美月と蒼が顔を見合わせる。
「やっぱり来てたんだ……。」
「どういうことですか?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて美月が静かに話し始める。
「黒田悠真先輩はね。」
「去年まで、この美術部で一番上手だった人。」
「一年生で市の最優秀賞。」
「二年生では県大会優勝。」
「三年生では全国を目指せるって言われてた。」
ひよりは目を見開く。
「そんなに……。」
「うん。」
蒼が続ける。
「でも、去年の夏。」
「突然、絵を描くのをやめた。」
「え?」
「理由は誰も知らない。」
「先生も話してくれない。」
美月は古いキャンバスを優しく撫でた。
「ある日突然、美術室に来なくなって。」
「退部届だけ置いていったの。」
ひよりは胸が締めつけられる。
(あんなに絵が上手な人が……。)
(どうして。)
その時だった。
「部長。」
凛が一枚のキャンバスを手に取った。
「これ。」
誰もが息をのむ。
それは夕焼けの美術室を描いた作品だった。
窓から差し込む光。
笑い合う部員たち。
机の上の筆。
そして、描いている人の姿は一人もない。
なのに、不思議と「誰か」がそこにいるように感じる。
「……。」
ひよりは言葉を失った。
昨日、自分が描いた絵とどこか似ていた。
構図ではない。
色でもない。
そこに流れる空気が、似ていたのだ。
「この絵……。」
「黒田先輩が最後に描いた作品。」
美月が小さくつぶやく。
「未完成のまま。」
「未完成?」
「うん。」
よく見ると、キャンバスの右下だけ真っ白だった。
描きかけのまま、時間が止まっている。
「完成させなかったんですか?」
蒼は静かに首を振る。
「違う。」
「完成できなかった。」
部室に重たい空気が流れる。
その時、ガラッと扉が開いた。
「失礼します。」
美術教師だった。
「先生。」
「ちょうどいいところだった。」
先生は部員たちを見回す。
「みんなに伝えておく。」
いつもより少し真剣な表情だった。
「来月の市展。」
「今年は審査員が変わる。」
「かなりレベルが高い。」
部員たちがざわつく。
「だからこそ。」
先生は笑った。
「楽しんで描け。」
「勝とうとするな。」
「自分の一番好きな一枚を描け。」
それだけ言うと職員室へ戻っていった。
帰り際。
ひよりは倉庫の前で、もう一度あの未完成の絵を見つめた。
真っ白な右下。
まるで何かを待ち続けているようだった。
(完成できなかった……。)
(本当に、それだけなのかな。)
胸の中に、小さな疑問が生まれる。
その夜。
ひよりは家の机でスケッチブックを開いていた。
何枚描いても、納得できない。
消しては描き、描いては消す。
頭の中には、黒田先輩の未完成の絵が浮かんでいた。
「どうして、描くのをやめたんだろう……。」
その頃――。
学校近くの河川敷。
一人の青年がスケッチブックを開いていた。
黒田悠真。
鉛筆を握る。
真っ白な紙に線を引こうとする。
だが、その手は小さく震えた。
「……また、描けない。」
苦しそうに目を閉じる。
スケッチブックを静かに閉じると、夕暮れの空を見上げた。
その瞳には、誰にも言えない後悔が宿っていた。




