最初の一枚
翌日の放課後。
授業終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、生徒たちは一斉に教室を飛び出していく。
「ひよりー!」
幼なじみのまどかが机に駆け寄ってきた。
「昨日どうだった!? 美術部!」
ひよりは少し照れながら笑う。
「……入部した。」
「えぇぇぇぇ!?」
教室中に響くほど大きな声だった。
「しーっ!」
「あ、ごめんごめん!」
まどかは口を押さえながらも、嬉しそうに目を輝かせる。
「やったじゃん! ひよりが部活に入るなんて!」
「私もびっくりしてる。」
「今度、美術室見に行っていい?」
「うん。」
「楽しみー!」
他愛ない会話を交わし、ひよりは新しいスケッチブックを抱えて教室を出た。
昨日まで少し遠く感じていた廊下。
今日は足取りが軽い。
向かう先があるだけで、学校はこんなにも違って見えるのだと初めて知った。
美術室の前に立つ。
昨日と同じようにドアの隙間から絵の具の香りが流れてきた。
深呼吸を一つ。
ガラガラ──。
「こんにちは。」
扉を開ける。
「おっ!」
一番最初に反応したのは蒼だった。
「ひより!」
その一言だけで、胸が少し温かくなる。
「ちゃんと来てくれた!」
「入部したから……。」
「そうだけど!」
蒼は満面の笑みで手を振る。
「いらっしゃい!」
その声に部員たちも次々と顔を上げた。
「ひよりちゃん!」
「今日からよろしく!」
「席こっち空いてるよ!」
昨日より自然に迎えられる。
昨日は見学者。
今日は仲間。
たった一日で立場が変わった。
「ほら。」
美月が新しい名札を渡す。
『白石ひより』
手書きの文字だった。
「今日からここがひよりちゃんの席。」
窓際のイーゼル。
昨日、夕日を描いた場所だった。
「ありがとうございます。」
席に着くと、机の上には新品の筆やパレットが置かれていた。
「先輩たちのお下がりだけど。」
「十分きれいですよ。」
「大事に使ってね。」
ひよりはそっと筆を手に取る。
木の持ち手には、長年使われてきた小さな傷がいくつも残っていた。
(この筆で、どんな絵が描かれてきたんだろう。)
そんなことを考えていると、美月が部員全員を集めた。
「今日は新年度最初の課題を発表します。」
一枚の写真を掲げる。
そこには校庭の古い大きなケヤキの木が写っていた。
「テーマは『学校で一番好きな場所』。」
「好きな場所?」
部員たちがざわつく。
「写真みたいに描いてもいい。」
「想像で描いてもいい。」
「でも。」
美月は微笑んだ。
「その場所が好きな理由を、絵で伝えてください。」
ひよりは写真を見つめる。
(好きな場所……。)
すぐに浮かんだのは、中庭の桜だった。
去年、一人で何度も絵を描いた場所。
誰にも邪魔されず、静かな風だけが流れる場所。
でも──。
昨日、美術室に来てから少しだけ気持ちが変わっていた。
(今、一番好きな場所は……。)
視線が自然と部室を見渡す。
夕日に照らされた窓。
絵の具の匂い。
笑い声。
まだ入部二日目なのに、不思議と落ち着く場所。
その時。
「ひより。」
蒼が小さなキャンバスを持ってきた。
「一緒に外で描かない?」
「外?」
「今日は天気いいし。」
ひよりは少し迷った。
誰かと並んで絵を描くなんて経験がない。
「嫌なら無理しなくていいよ。」
「……行く。」
「よし!」
二人は画材を持って校庭へ向かった。
春風が心地よく吹いている。
運動部の掛け声。
吹奏楽部の音合わせ。
グラウンドでは野球部が白球を追いかけていた。
「ここ。」
蒼が立ち止まる。
そこは校庭の端にある一本のケヤキだった。
「俺、この木が好きなんだ。」
「どうして?」
「一年の時、部活で落ち込んでここに座ってたらさ。」
蒼は幹を軽く叩いた。
「風が葉っぱを揺らしてて。」
「うん。」
「なんか『大丈夫』って言われた気がした。」
照れくさそうに笑う。
「変だよね。」
「ううん。」
ひよりは首を横に振る。
「分かる。」
「本当に?」
「景色って、気持ちまで覚えてるから。」
その言葉に蒼は目を丸くした。
「……その考え方、好きだ。」
少し照れたように笑う。
ひよりも思わず笑顔になる。
その瞬間だった。
「朝倉先輩。」
二人の後ろから静かな声が聞こえた。
振り返ると、一ノ瀬凛がスケッチブックを抱えて立っていた。
「先生が探してます。」
「あっ、しまった!」
蒼は頭を抱える。
「画材運ぶ約束だった!」
慌てて美術室へ走っていく。
「ごめん! すぐ戻る!」
その場に残されたのは、ひよりと凛の二人。
少しだけ気まずい沈黙。
風が葉を揺らす音だけが響く。
凛はひよりのスケッチブックをちらりと見た。
「……昨日より、線が柔らかいですね。」
「え?」
「少し楽しそう。」
それだけ言うと、凛は自分の席を決めるように少し離れた場所へ腰を下ろした。
無口だけれど、昨日よりもほんの少しだけ距離が近づいた気がする。
ひよりは鉛筆を握り、真っ白な画用紙に最初の一本目の線を引いた。
その一本は、昨日までとは違う意味を持っていた。
一人で描くための線ではない。
仲間と同じ時間を過ごし、同じ景色を見て、自分だけの色を探すための線だった。
そのとき、校舎の二階から誰かが二人の様子をじっと見つめていることに、ひよりはまだ気づいていなかった――。




