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放課後、キャンバスの向こう側。  作者: 櫻木サヱ
はじまりのキャンバス

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桜色のスケッチブック(後編)

 美術室が静まり返っていた。


 さっきまで聞こえていた筆の音も、絵の具を混ぜる音も止まっている。


 視線はすべて、ひよりのスケッチブックへ集まっていた。


「……。」


 ひよりは居心地が悪くなり、そっとスケッチブックを閉じようとする。


「あっ、待って!」


 蒼が慌てて声を上げた。


「もう少し見せて。」


「で、でも……。」


「お願い。」


 その真剣な表情に、ひよりは小さくうなずいた。


 美月もゆっくりと絵を見つめる。


 そこに描かれていたのは、夕日に染まる美術室だった。


 窓から差し込む柔らかな光。


 並んだイーゼル。


 机に置かれた筆。


 そして、夢中で絵を描く部員たちの後ろ姿。


 人物の顔は細かく描かれていない。


 それなのに、一人ひとりが楽しそうに笑っていることが伝わってくる。


「……不思議。」


 美月がぽつりとつぶやいた。


「え?」


「誰の顔も描いてないのに、みんなの表情が見える。」


 蒼もうなずく。


「空気ごと描いてるんだ。」


 ひよりは困ったように笑った。


「そんなつもりじゃ……。」


「でも、そう見える。」


 部員たちも口々に感想を言い始める。


「なんか温かい。」


「この部屋が好きなんだなって伝わる。」


「初めて来た人が描いたとは思えない。」


 そんな言葉を聞くたびに、胸がくすぐったくなる。


 人に絵を見てもらうのは恥ずかしい。


 でも――。


 こんなに嬉しいものなんだ。


 初めて知った。


 その時だった。


「まだ足りません。」


 静かな声が響いた。


 全員が振り向く。


 一ノ瀬凛だった。


 いつもの無表情のまま、ひよりの絵を見つめている。


「光はきれいです。」


「……。」


「でも、この部屋にはもっと色があります。」


 凛は窓際へ歩いていく。


 カーテンを少し開けると、夕日がさらに差し込んだ。


 古い木の床が黄金色に輝く。


 ガラス瓶の水がきらりと反射する。


 筆立ての影が長く伸びる。


「見えてますか?」


 ひよりは目を見開いた。


 さっきまで見えていなかった景色が、突然色づいたように感じた。


「床の色……。」


「はい。」


「こんなに光ってる……。」


「夕日は毎日違います。」


 凛はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。


 誰も何も言わない。


 けれど、その一言はひよりの心に深く残った。


(もっと見なきゃ。)


(もっと感じなきゃ。)


(まだ私は、本当の景色を描けていない。)


 その瞬間だった。


「ふふ。」


 美月が楽しそうに笑った。


「凛が初めて見学の子に話しかけた。」


「え?」


「普段は興味ない人には何も言わないんだよ。」


「そうなんですか?」


 蒼が笑う。


「つまり認められたってこと。」


「えぇ!?」


 ひよりは慌てて凛を見る。


 しかし凛は何事もなかったようにキャンバスへ向かっていた。


「かわいいなぁ。」


「照れてる。」


「絶対そう。」


 部員たちが小声で笑う。


「聞こえてます。」


 凛がぼそっと返す。


 その一言で部室中が笑いに包まれた。


 ひよりも思わず吹き出す。


 自然に笑った。


 こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。


 笑い声が落ち着いた頃、美月が机の引き出しから一枚の紙を取り出した。


「ひよりちゃん。」


「はい。」


「これ。」


 渡されたのは、美術部の入部届だった。


「もちろん無理にとは言わない。」


「……。」


「でもね。」


 美月は部室を見渡す。


「美術部は、絵が上手い人が集まる場所じゃない。」


 ゆっくりと言葉を続ける。


「絵を好きでいたい人が集まる場所。」


 その言葉に、部員たちが静かにうなずく。


「上手く描ける日もある。」


「描けない日もある。」


「賞を取る人もいれば、落選する人もいる。」


「それでも、放課後になると自然とここへ来てしまう。」


「それが美術部。」


 ひよりは入部届を見つめた。


 胸の中が少し熱い。


 今まで「一人で描くもの」だと思っていた絵。


 だけど今日、この部屋で知った。


 誰かと絵の話をする楽しさ。


 同じ景色を見ても、感じ方が違う面白さ。


 そして、自分の絵を見て笑ってくれる人がいること。


 その全部が、新鮮だった。


「……私。」


 言葉が震える。


 少しだけ深呼吸をして、顔を上げた。


「入部したいです。」


 一瞬の静寂。


 そして――。


「やったーーー!!」


 蒼が両手を上げて飛び跳ねた。


「新入部員だー!」


「歓迎会しよう!」


「お菓子買ってこよう!」


「部長、予算!」


「ありません!」


「えぇぇぇ!?」


 また笑いが起こる。


 その輪の中に、ひよりもいた。


 まだ少し照れくさい。


 それでも、不思議だった。


 初めて来た場所なのに、ずっと前からここにいたような安心感がある。


 帰り道。


 夕焼けに染まる校舎を歩きながら、ひよりは新品の入部届を大事そうに抱えていた。


 ふと足を止める。


 美術室の窓を見上げると、オレンジ色の光の中で部員たちがまだ絵を描いていた。


 その光景は、まるで一枚の絵画のように美しかった。


「明日も、行こう。」


 その小さなひと言は、春風に乗って空へ溶けていく。


 ひよりは知らない。


 この美術部で過ごす日々が、笑顔だけでは終わらないことを。


 初めて挑むコンクール。


 ぶつかり合う仲間たち。


 絵が描けなくなるほどの挫折。


 そして、一生忘れられない出会いと別れ。


 この日、美術室の扉を開けた少女は、まだ真っ白なキャンバスだった。


 これからどんな色を重ね、どんな景色を描いていくのか。


 その物語は、まだ始まったばかりだった。

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