桜色のスケッチブック(前編)
四月。
春の風はまだ少し冷たくて、それでも校庭の桜は満開だった。
ひらひらと舞う花びらが、中庭をゆっくりと染めていく。
昼休み。
グラウンドではサッカーボールを追いかける男子たちの声が響き、体育館からはバスケットボールの弾む音が聞こえる。
だけど、その賑やかさから少し離れた中庭のベンチには、一人の少女が座っていた。
白石ひより。
中学二年生。
肩まで伸びた黒髪を耳にかけ、制服のスカートにスケッチブックを乗せて鉛筆を走らせている。
描いているのは、校庭の隅に咲く一本の桜だった。
誰も気にも留めない木。
だけど、ひよりには分かる。
風が吹くたび、花びらの向きが少し変わること。
光が差し込む角度で、白にも桃色にも見えること。
その一瞬を残したくて、今日も夢中で鉛筆を動かしていた。
「……よし。」
最後に影を入れる。
スケッチブックの中の桜が、少しだけ息をしたように見えた。
その瞬間だった。
「やっぱりここにいた!」
元気な声に肩が跳ねる。
「ひよりー!」
駆け寄ってきたのは、幼なじみの佐伯まどか。
ショートカットがよく似合う、明るくておしゃべりな女の子だ。
「また描いてたの?」
「……うん。」
「休み時間くらい遊ぼうよー!」
まどかは苦笑しながらスケッチブックをのぞき込む。
「わぁ……。」
目を丸くした。
「これ、写真じゃないの?」
「そんな大げさだよ。」
「いやいや! 桜が本当に揺れてるみたい!」
そう言われると、ひよりは少し照れてしまう。
「ありがとう。」
小さく笑う。
絵を褒められるのは嬉しい。
でも、それ以上に話しかけられることの方が苦手だった。
昔からそうだった。
みんなと騒ぐより、一人で絵を描く方が落ち着く。
だから友達も多くない。
まどかだけは昔から変わらず隣にいてくれた。
「そういえばさ!」
まどかが思い出したように言う。
「部活、決めた?」
「まだ。」
「えぇ!? 二年生なのに?」
「一年のとき帰宅部だったし……。」
「今年は絶対どこか入ろうよ!」
ひよりは曖昧に笑った。
去年は慣れない中学校生活だけで精一杯だった。
誰かと何かをすることより、一人でいる方が楽だった。
「美術部とかどう?」
「……。」
その言葉に少しだけ反応する。
「ひより、絵好きじゃん。」
「好きだけど……。」
「大会とか出られるかもよ?」
大会。
その言葉だけは少し胸がざわついた。
小学生の頃、一度だけ市の絵画コンクールで入賞したことがある。
賞状をもらって嬉しかった。
でも、それ以上に。
『すごいね。』
先生にそう言われたことが忘れられない。
認めてもらえた気がしたから。
「……考えてみる。」
「よっしゃ!」
チャイムが鳴る。
「じゃ、五時間目!」
まどかは手を振って教室へ走っていった。
一人になった中庭。
ひよりはスケッチブックを閉じる。
「美術部……か。」
ぽつりと呟いた。
興味はある。
だけど知らない人ばかりの部室へ入る勇気はない。
そんなことを考えながら教室へ戻った。
放課後。
教室には部活へ向かう生徒たちの楽しそうな声が響いていた。
「今日試合だ!」
「新入部員来るかな?」
「先輩怖いかなー!」
教室がどんどん静かになる。
ひよりは一人、窓の外を見ていた。
夕日が校舎をオレンジ色に染めている。
(帰ろうかな。)
鞄を持ち、廊下へ出る。
その時だった。
廊下の奥から、何とも言えない匂いが漂ってきた。
絵の具。
油。
木のキャンバス。
小学生の図工室で嗅いだ、懐かしい匂い。
自然と足が止まる。
「……。」
気づけば、その匂いを追いかけていた。
二階の一番奥。
プレートには『美術室』と書かれている。
ドアは少しだけ開いていた。
中から笑い声が聞こえる。
「部長、それ赤じゃなくて朱色です!」
「細かい!」
「全然違います!」
「あははは!」
楽しそう。
ひよりはドアの隙間からそっとのぞいた。
部屋いっぱいに並ぶイーゼル。
壁には歴代の作品。
窓際には石膏像。
棚には色とりどりの絵の具。
夕日が差し込み、部屋全体が金色に染まっている。
(きれい……。)
まるで絵本の世界みたいだった。
その時。
「……入らないの?」
「ひゃっ!」
真後ろから声がした。
驚いて振り向く。
そこには、長い黒髪を一つに結んだ女子生徒が立っていた。
三年生だろうか。
背は高く、落ち着いた雰囲気をまとっている。
制服の胸には、美術部のバッジ。
「ご、ごめんなさい!」
「謝ることじゃないよ。」
優しく笑う。
「見学?」
「えっと……。」
言葉が出ない。
「私は神崎美月。美術部の部長。」
ひよりは慌てて頭を下げた。
「二年の、白石ひよりです。」
「ひよりちゃん。」
名前を呼ばれただけなのに、不思議と緊張が少し和らぐ。
「せっかくだし、入ってみる?」
美月がドアを開ける。
部室から夕日の光と、絵の具の香りが一気にあふれ出した。
その光景は、まるで「おいで」と呼んでいるようだった。
ひよりは小さく息を吸う。
そして――。
一歩だけ、美術室へ足を踏み入れた。
この一歩が、彼女の中学校生活を大きく変えることになるなんて、このときのひよりはまだ知らなかった。




