第37話 溺れるという事
セレーネ基地の最深部に位置する、液体呼吸専用の訓練施設。そこには、鈍いシルバーに鈍く光る10基のシミュレーター・カプセルが、まるで棺桶のように不気味に並んでいた。
そのうち最初に使用するのは7基だけだった。
「……本当に全員集まったな、若造ども」
カプセルの前に整列させられた伊沢隊と伏見隊の6名を、鋭い眼光で見下ろす影があった。ジャック・スミスだ。彼はすでに最新の耐Gスーツに身を包み、不敵な笑みを浮かべている。今日からジャックは、この新編成部隊の『隊長』であり『鬼教官』だった。
大輔が緊張で唾を飲み込む。いつもはお気楽なジャックから放たれる圧倒的な威圧感に、全員が背筋を伸ばしていた。
ジャックの言葉を合図に、7基のカプセルのハッチが一斉に跳ね上がった。
中から漂ってくるのは、薬品の匂いと、どこか冷たい空気。
「さあ、棺桶に入りな。これからお前たちには、たっぷり『溺れて』もらう」
ジャックに促され、メンバーはそれぞれのカプセルへと滑り込んだ。 伊沢隊の智則、大輔、愛香。伏見隊の和彦、恵美、利花。そしてジャックの計7名がコクピットシートに固定される。
ガチン、と重々しい密閉音が響き、視界が遮断された。
『訓練開始。アルテミス・フルード、注入を始めます』
無機質なシステム音声と共に、コクピットの下部から、淡く美しい、けれど恐怖をそそるエメラルド色の液体が、ゴボゴボと音を立ててせり上がってきた。
伊沢視点
(……く、は、ぁっ……!)
智則は、胸が焼き切れるような錯覚に歯を食いしばっていた。
顎を越え、鼻を覆い、完全に視界をエメラルドグリーンに染め上げた液体。
人間の本能が『吸うな、死ぬぞ』と脳髄に直接悲鳴を上げてくる。
かつての適性訓練で味わった、あのプールで溺れかけた時の恐怖が濁流のように蘇る。
だが、智則は現在は伊沢隊の隊長だった。
(ここで俺がへたばって、部下に示しがつくか……!)
智則は無理やり両目をカッと見開いた。エメラルド色の視界の向こう、コンソールに浮かび上がる『凛の数式』を凝視する。これは毒じゃない、俺たちを生かすための新しい肺だ。
「――ご、ふぅうううっ……!」
意を決して、液体を喉の奥へと迎え入れる。
一瞬、肺が引きつるような劇痛が走った。
しかし、次の瞬間――冷たかった液体が、まるで体温と溶け合うようにフッと軽くなり、肺胞の隅々にまで『酸素』が行き渡る感覚が広がった。
(……吸える。これが、新型のシステムか……!)
智則は喉を鳴らしながら、完全にパニックを乗り越えた。
杉里視点
「ひっ……!」
愛香が小さく悲鳴を上げる。 液体は瞬く間にシートを濡らし、太もも、腹、そして胸元へと迫ってくる。
(あっ、くっ)
愛香は目を瞑る。
(これを乗り越えなきゃ――)
父の顔が浮かぶ。
母の疲れた背中が浮かぶ。
逃げたい。
怖い。
苦しい。
それでも。
(行くんだ――!)
意を決した愛香が目を見開き、一気に液体を吸い込んだ。
一瞬、肺が引きつるような劇痛が走った。
しかし、次の瞬間――冷たかった液体が、まるで体温と溶け合うようにフッと軽くなり、肺胞の隅々にまで『酸素』が行き渡る感覚が広がった。
(生きてる。これで、父に会いに行くことが出来る!)
愛香は、父に会うための新たな力を、手に入れた。
佐々木視点
大輔の脳裏に、かつての適性訓練で味わった『肺が焼け付くような溺死の錯覚』が蘇り、心拍数が異常な数値を叩き出し始めた。
冷たいエメラルド色の液体が、ついに顎を濡らし、鼻を覆い、視界のすべてを緑色に染め上げていく――。
冷たいエメラルド色の液体が、ついに大輔(佐々木)の視界を完全に染め上げた。 ゴボゴボと鼓膜を揺らす不気味な液音。
喉の奥まで這い寄ってくる液体の感覚に、大輔の防衛本能が全力で警報を鳴らす。
(吸ったら死ぬ。絶対に吸っちゃダメだ……!)
かつて訓練プールで味わった『溺死の記憶』がフラッシュバックし、大輔は激しくコクピット内で暴れる。だが、ホールドされた身体はビクともしない。
訓練室のガラス越し、あるいはホログラムモニターを見つめる凛と慶子の顔が緊張に強張る。
大輔のシートのバイタルサインが、緑から黄色、そして赤へと変わりかけていた。
「佐々木さんの心拍数がイエローに突入、なおも上昇中。……完全にパニックを起こしてるわ」
慶子がカルテを握りしめる。
「まだ、液体呼吸に移行できてない(肺にフルードが入っていない)のに、この心拍数は危険よ。凛ちゃん、強制的に止められる?」
凛はコンソールに手を置いたまま、奥歯を噛み締めた。
「一応、手を離せば緊急中止(フルード強制排水)になるボタンは、押し続けています。もちろん、こちらからいつでも止められますけど……!」
「――ダメだ、まだ止めるんじゃねぇ」
2人の背後から、毅然とした声が響いた。
振り返ると、腕を組んだチーフメカニックの岩蔵が立っている。
「ここで甘やかしたら、あいつは実戦で高Gに潰されて死ぬ。佐々木を信じな。あいつは結城の背中を追うって決めた男だ」
慶子はゴクリと息を呑み、モニターを睨みつける。
「……要チェックね。バイタルの方も、脳波の過負荷に注意しておくわ」
「そうですね。……他の人はどうかしら?」
「伏見隊長は……信じられない。心拍数が危険域の手前で完全に固定されているわ。パニックじゃない、これは……猛烈な怒り?」
伏見視点
カプセルの中、伏見和彦の視界は、押し寄せるエメラルド色のフルードによって、あの日見た『最悪の光景』へと変貌していた。
地球でEasdpJに所属していた頃、民間の避難船団を護衛していた作戦。その中に、和彦の妻と娘が乗ったシャトルがあった。だが、無慈悲なAlogの強襲を受け――和彦の目の前で、家族の乗ったシャトルは光の塵となって爆散した。
あの日から一度も消えたことのない光景だった。
(……一匹残らず、ぶっ殺す)
絶望と、狂おしいほどの復讐心が胸の奥から噴き上がる。和彦にとって、液体呼吸の恐怖など、あの日の地獄に比べれば蚊に刺されたようなものだった。
一体でも多く、あのバケモノどもを屠る力を手に入れる。その妄執に等しい強い意志が、人間の防衛本能を強引にねじ伏せた。 和彦は噛み締めた奥歯から血を滲ませながら、エメラルド色の液体を一気に肺へと吸い込んだ。
(これしきの水で、俺の足を止められると思うな……!)
肺を焼く劇痛を怒りの炎で燃やし尽くし、和彦のバイタルは、凄まじい緊迫感を孕んだまま『適応』を示すグリーンへと変わった。
「波多野(恵美)さんも、心拍数が跳ね上がってる。……泣いているわ」
慶子がモニターを見つめ、痛ましげに声を漏らす。
波多野視点
恵美もまた、中川隊でエースとして戦っていた頃の記憶と戦っていた。
民間シャトルの護衛任務。
必死に戦い、何とか敵を撃退したものの、引き換えに中川隊の隊長、副隊長、そして多くの民間人の命が失われた。 普段はおっとりして見える恵美の心に、その時の無力感が牙を剥く。
(もう、誰も死なせたくない。私の力が足りなかったから……!)
カプセルの中で大粒の涙を流しながら、恵美は泣きじゃくり、それでも逃げずに喉を開いた。ゴボゴボと音を立ててフルードが肺を満たす。 涙をエメラルド色の液体に溶かしながら、恵美はエースとしての意地で、新たな呼吸を掴み取った。
慶子が、別のモニターを指さして声を潜めた。
「松島(利花)さん。……何これ? 脳波がどんどん沈んでいく。まるで、眠っているみたい」
「おいおい、この極限状態で寝る奴があるかよ」
岩蔵が呆れたように頭を掻く。
だが、利花のカプセル内では、確かに奇妙な現象が起きていた。
液体が顔を覆った瞬間、利花は
(あ、これ、お母さんのお腹の中にいた時と同じだ)
と、突飛な安心感に包まれていたのだ。
羊水に満たされていたような全能の錯覚。元来のマイペースさも手伝い、利花は恐怖を感じるどころか、心地よい脱力感の中でごふっ、と液体を吸い込んだ。
(ん……ちょっと喉がチクッとするけど、なんか、あったかい……おやすみなさい……)
「完全に適合したわ。……睡眠状態で」
慶子が信じられないといった風にカルテにペンを走らせる。
再び佐々木視点
(も、もう駄目だ。俺は・・・。俺は・・・)
大輔が諦めかけたその時、カプセル内の通信スピーカーから、割れんばかりの怒号が響いた。
『――おい! ガキども!! そこで溺れて死ぬか、外へ出て俺にしごき倒されて死ぬか、どっちがいいか今すぐ選びなァ!!』
ジャック・スミスの容赦のない一喝だった。すでに液体呼吸に完全適合していたジャックが、無線を繋いだのだ。
『佐々木! てめぇの意気込みはそんなもんか! 結城隊長って男は、水の中で泡吹いて気絶するような情けねえ奴だったかよ!?』
「――っ!?」
その言葉に、パニックの極限にいた大輔の脳裏に、あこがれの先輩である哲夫の、あの不敵な笑顔がフラッシュバックした。
(隊長なら……隊長なら、こんな格好悪い姿は見せない……!)
大輔の目に、確かな闘志の光が戻る。
「今やれることを、全力で――!」
大輔の目から、迷いが消えた。
意を決した大輔が、口を大きく開いた。
「――っ、ごほぉっ……! げほっ、く、は……!」
大輔の肺に同時にエメラルド色の液体が流れ込む。
引き裂かれるような痛みが走り、大輔はコクピットの中で激しく悶絶した。
しかし、それも数秒のことだった。 肺胞の隅々まで酸素が行き渡ると同時に、世界が、劇的にクリアに広がっていく。
「バイタル、全員安定……! 液体呼吸への移行、ファーストロット全員完了しました!」
凛がホッと胸をなでおろした。
数時間の同調訓練を終え、訓練用のカプセルのハッチが、プシューッという重々しい排気音とともに開いた。
エメラルド色の液体が足元から排出されていく。
「ごふっ、げほっ! ……はぁ、はぁ、死ぬかと思った……」
全身から緑色の雫を滴らせながら、大輔がシートから床へ崩れ落ち、激しく咽び返る。
隣のカプセルからは、今起きたばかりの利花が『ふわぁ……』と緊張感のないあくびを噛み殺しながら出てきて、そのさらに隣では、目を真っ赤に腫らした恵美が、まだ少し鼻をすすっていた。
智則と和彦も、ベテランの意地で平静を装ってはいるが、その顔は一様に疲弊している。
ただ一人、ジャック大佐だけが『かっかっか!』と豪快に笑いながら、濡れた髪をかき上げた。
「情けねえツラすんな若造ども! ほら、次の生きのいい連中が順番待ちしてやがるぞ」
ジャックの視線の先――訓練室のガラスドアの向こうに、数人のパイロットたちが腕を組んで待機していた。
地球防衛の要であったEasdpJ(東アジア宇宙防衛軍日本支部)の元パイロットたち4名であった。かつてEasdpJの実験事故で誕生した超巨大Alog。その怪物を命がけで誘導し、人類を救った伝説の男たちだった。流星へと配属され、流星と一緒に月基地へと上がってきていたのだ。
さらには、彼らと同じく数々の死線を潜り抜けてきた、明星型4番艦『暁月』の精鋭4名だ。
ドアが開き、流星のリーダーである乾 征一郎が、鋭い、だがどこか親しげな目を細めて入ってきた。
「お疲れさんです、ジャック大佐。それに伊沢隊長、伏見隊長も。……新型の『フルード』、吸い心地はいかがでした?」
智則は苦笑しながら、手渡されたタオルで顔を拭った。
「最悪さ、乾。人間の本能が全力で拒絶してくる。……だが、ルナ・オリハルコンの加速に生身で耐えるには、これしかないと守屋の天才お嬢さんが太鼓判を押している」
「へぇ、あの『雷電』の加速に追いつくためですか」
乾の後ろから、体格のいい陣内 剛がニヤリと不敵な笑みを浮かべて一歩前に出る。
「面白そうじゃねえか。おい宇佐美、水野。地球の泥水をすするような地獄に比べりゃ、月の最新プールなんて極楽だろ?」
スナイパー気質の宇佐美 忍は、凛たちが管理するモニターの数式を静かに見つめながら、
「データの安定性は本物のようですね」
と呟き、紅一点の水野 遥は、さっきまで爆睡していたとは露知らず、髪を濡らした利花の肩をポンと叩いた。
「眠りながらでも吐き出さずにコンプリートしたんだ。根性あるじゃん、お嬢ちゃん」
「なんか、気持ちよかったー」
利花はいつも通りの反応を見せていた。
「おい、暁月の連中も待たせるな。俺たちが地球の意地ってやつを、この月のハイテク機械に見せてやろうぜ」
陣内の言葉に、暁月のパイロットたちも無言で深く頷き、闘志の宿った目でエメラルド色に光るカプセルを見据える。
他の明星型から集められた優秀な新兵たちが、まだ通常プールでの泥臭い適性審査(ふるい落とし)に苦戦している裏で、地球の修羅場を生き抜いた本物の『プロフェッショナル』たちが、次々と新しい肺を手に入れていく――。




