第36話 アルテミス・リンク
補給整備艦『八咫烏』がその心臓に火を灯し、牙を研ぎ澄ませていく一方で、セレーネ基地のドックでは、これからアップグレードした機体に乗り込むパイロットたちの間で、ひとつの大きな『変革』が波紋を広げていた。
伊沢隊のメンバーは、ドック中央でリニューアル作業が進む『雷電』の、ルナ・オリハルコンがもたらす鈍い黄金の輝きを羨望の眼差しで見つめながら、守屋凛から転送されてきた最新の機体改修データを共有していた。
「液体呼吸への換装か……」
智則が画面を見つめたまま、喉を鳴らした。その隣で、大輔が露骨に肩を震わせる。
「隊長、これ、本当にやるんですか? 俺はまだ、昔の訓練で味わった『あのプールに沈められて溺れる感覚』に慣れそうにないですよ。思い出しただけで肺が拒絶反応を起こしそうだ」
かつての過酷な適性訓練を思い出し、大輔は自分の胸を押さえて身震いした。
智則はそんな部下の様子に苦笑いしながら、視線をデータへと戻す。
「私だって苦手だ。できることならあんなもの吸い込みたくはない。だが、ルナ・オリハルコンで強化された機体の規格外な加速力にパイロットの肉体が耐えるには、これしかないと凛が言っているんだ。それに、雷電の物とは違い、パイロットへの負担は少なくなっているらしい」
「らしいって。本当ですか?」
「データの上では、少なくなっているようだ」
「俺らは生身なんですが」
二人の会話を、少し離れた席で静かに聞いていた愛香が、おずおずと口を開いた。
「……あの、佐々木さんでも、液体呼吸は苦手なんですか?」
「苦手さ、大の苦手だ」
大輔は苦い記憶を噛み締めるように答えた。
「結城隊長に少しでも追い付きたくて、当時は必死だったからな。……あの人は、訓練生の頃からそれこそ涼しい顔で、肺いっぱいにリキッドを吸い込んでいたけどよ」
「涼しい顔……。やっぱり、あの域に達するには、それだけの覚悟がいるってことなんですね」
愛香は自分を鼓舞するように小さな拳を握りしめたが、その声はまだ少し怯えに震えていた。
「……私も、覚悟を決めて訓練するべきなんでしょうね」
重くなりかけた空気を変えるべく、智則が大輔に話題を振った。
「そうだな、杉里。お前も一度、体験がてらシミュレーターに入っておくといい。……それにしても、伊沢隊の布陣はどうなるんだ? 石田はどうした?」
「万里子は、このまま『不死鳥』のブリッジに残るようですよ。あいつの驚異的な通信・演算能力は、今やあっちの艦の要ですからね。実質的な配置転換です」
その言葉に、愛香がふと思い出したように尋ねる。
「……そういえば、カイルさんは?」
「カイルか。……彼はまだ、医務室だ。先の戦いでの魁星の爆発による衝撃は、俺たちが思っていたより深刻らしい」
「そうですか……」
愛香は寂しげに目を伏せた。カイルとエレーナが、自分たちの隊から一歩先へ進もうとしていることを、肌で感じていた。
同じ頃、通路を挟んだ伏見隊のミーティングルームでは、和彦たち3人が集まり、新しく更新された組織表を囲んでいた。
「若林(若林奈津子)が、新たな艦――『八咫烏』のブリッジ要員として転属するそうだ」
和彦が端末を置きながら呟く。
「奈津子先輩が……。なんだか、急に寂しくなりますね」
恵美がぽつりと言った。これまで共に戦ってきた仲間が、それぞれの役割のために離れていく。その寂しさに同調するように、利花が言葉を繋いだ。
「エレーナはどうなの? 彼女も転属になるって聞いたけど」
「彼女は今、医務室でカイルにつきっきりだな。2人で新しい機体に乗るという噂だ」
「今後、戦闘が激化していくと、小隊の人数が減ったままではかなり厳しいですわね」
恵美が眉をひそめると、利花が手元の端末をタップした。
「大丈夫よ。今、守屋(守屋凛)さんが、私たちのために各機の具体的な強化案を作成してくれているわ。……あ、噂をすれば、今そのデータが届いたわよ」
和彦がデータを自席のモニターに展開する。その詳細に、隊員たちの息が止まった。
「これは……液体呼吸ですか!?」
「隊長、隊長はこの訓練をやったことがあるのですか?」
恵美の問いに、和彦は硬い表情で首を振った。
「いや、無いな。……未知の呼吸法だ。だが、これを受け入れなければ、私たちは次の戦場についていくことすらできないという意味だろう」
伏見隊の面々は、画面に浮かび上がるエメラルド色の数式を、引き締まった表情で見つめ返すしかなかった。
その頃、ジャックの元にも、液体呼吸への換装の情報が舞い込んだ。
「かっかっか。この年になって、新たな事への挑戦か。それもまた、一興だ」
そう言って不敵に笑うジャックだったが、その手は静かに、かつて失った部下たちのドッグタグ(認識票)に触れていた。
若者たちが命をかけて新しい領域に踏み込もうとしているのだ。
老兵が『昔の操縦法』に胡坐をかいて、彼らの足を引っ張るわけにはいかない。
「結城(哲夫)の小僧や、カイルたちだけをヒーローにさせてたまるかってんだ。……よし、若造どもを集めろ。まとめて俺がしごいてやる」
ジャックはそう呟くと、かつてないほど鋭い眼光で、エメラルド色のデータ画面を睨みつけた。
同じ時刻、セレーネ基地の一角にある医療センターの最高機密ラボ。
凛はチーフドクターの慶子と向かい合い、ホログラムで大きく表示された、既存の『雷電』専用パーフルオロカーボン(液体呼吸液)のナノ分子組成図を眺めていた。
部屋の明かりを落としたラボの中で、その液体は不気味なほど深い、漆黒に近い深藍色に妖しく光っている。
「慶子さん。はっきり言うわ……雷電のこの液体は、ただの『毒』よ」
凛の冷徹な指摘に、慶子は手元のカルテを抱きしめたまま、悲しげに頷いた。
「これ、パイロットの循環系や内臓への負荷を完全に無視してる。脳の処理速度を極限まで引き上げるため『だけ』に、神経伝達物質を狂わせる最適化が施されているわ。哲夫さんがこれを吸って平気なのは、彼自身の脳と肉体が特別だからよ」
「ええ、凛ちゃん。あなたの言う通りよ……。雷電のシステムは、パイロットの寿命を前借りして、その命を削りながら力を引き出す狂気のシステム……。普通の隊員がこれを使えば、戦う前に神経系が焼き切れて廃人になってしまうわ」
「だから、作り直したわ。私たちが、人間として生きながら戦うための新しい液体を」
凛がコンソールを叩くと、黒いデータの隣に、新たな組成図が浮かび上がった。 それは、透き通るような淡い、美しいエメラルド色の輝きを放っていた。
「神経への直接的な強制干渉を極限まで抑え、代わりにルナ・オリハルコンの微粒子を分子レベルで分散させた。これによって、衝撃吸収と肺胞への酸素供給能力に特化させたわ。これなら、肉体への負担は劇的に減る。……慶子さん、医療的なシミュレーションの最終確認をお願い」
慶子はエメラルド色の光に照らされながら、データを食い入るように見つめ、やがて安堵の息を漏らした。
「……素晴らしいわ、凛ちゃん。これなら愛香ちゃんや恵美ちゃんたちのような普通のパイロットでも、肉体を壊さずに新型機の『加速』に耐えられるはずよ。私たちが彼らの命を守るための、新しい肺になってくれる」
納得のいく成果を出した凛だったが、ふと、ホログラムの漆黒のデータを指で弾き、表情を曇らせた。
「ただ……結城隊長は、あのまま雷電の漆黒のシステムを使い続けそうですね」
凛は漆黒の液体データを指先でなぞった。
せっかく完成させた新型フルード。
それでも哲夫が受け入れない可能性は高い。
理屈ではなく、感情の問題だと分かっていた。
「そうなのよね……。」
慶子は困ったように微笑んだ。
「今は亜理紗や由美さんも同じ雷電(背面の複座・同調システム)に乗っているのだから、彼らのためにも、この安全な『アルテミス・フルード』に変更してくれればいいのだけれど」
「どうでしょうか? 結城隊長にとって、あの雷電は、亡くなった『さやかさん』の形見ですから。他人の手を加えたくない意地があるのかも」
「でもね、凛ちゃん。私の知っている『さやか』なら、あんなに優しい子が、自分の作ったシステムで仲間や愛する人を危険にさらそうなんて、絶対に思わなかったはずなんだけど……」
慶子の言葉に、凛の天才的な脳が不穏な違和感を察知し、ピクリと反応した。
「……つまり、どういうことです? 慶子さん」
慶子はしばらく黙り込んだ。
エメラルド色の新型フルード。
そして隣で妖しく輝く漆黒の液体。
二つを見比べる彼女の瞳に、医師としてではなく、一人の友人としての迷いが浮かんでいた。
「この、雷電の悪魔のような液体呼吸システムは……本当に、さやかが作ったものなのかしら?」
「ですが、基地の公式記録では、仕様書の第一考案者は『結城さやか』となっています」
「そこよ。……これも、上の人間によって『改ざん』されているのかしら?」
重苦しい沈黙がラボを支配する。 雷電という機体そのものが、美しき遺品などではなく、何か巨大な陰謀の塊であるかのような錯覚さえ覚える。凛は腕を組み、冷たい声で呟いた。
「ただ、あの命を削る漆黒の液体を吸い続けながら、雷電での結城隊長の実戦生存率は、確率論を無視して異常なほど高い数値(100%)を維持しているんですよね……」
「確かにそう。あの人だけが、あの毒に適合している……。不思議ね」
凛は自分の考えを纏めるように話し出した。
「仮説ですが、聴いて貰えますか?」
「良いわよ」
「さやかさんって、この雷電に乗って戦闘に出たのは、火星基地制圧戦だけなんですよね?」
「そうね」
「その制圧戦時に、脳へのダメージが深刻な事に気が付き、その場でプログラムを変更していたのではないでしょうか?」
凛の問いかけに、慶子はハッとする。
「それは・・・・」
凛の瞳が鋭く細められる。
慶子の反応は、偶然の思いつきではないことを物語っていた。
「思い当たる節がありますか?」
「火星制圧戦のおり、雷電の動きがおかしくなった時があったと聞いているわ」
凛は、コンソールを叩きながら、
「その時にコクピット内で作成出来たのが、コクピット内部の人間を保護するってプログラムだったのではないでしょうか?」
「なるほど。それは、解析できるのかしら?」
「すでに、スパーダーにやらせています。ただ、時間がかかりそうなんですよね」
「ふふっ。さすがの凛でも、さやかにはまだ勝てないのね」
慶子は思わず吹き出した。
重苦しい空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
「くっ。ですが、いずれは」
凛は不満そうに眉をひそめた。
エメラルド色のデータを見つめながら、慶子が尋ねる。
「この新しい液体の名前は?」
凛はエメラルド色のデータを見つめながら答えた。
「アルテミス・フルード」
「アルテミス?」
「ええ。人と人を繋ぐための基盤技術。その先にあるのが――『アルテミス・リンク』よ」
エメラルド色と漆黒――二つの液体が妖しく明滅するホログラムの前で、若き天才と老練な医師の二人は、結城哲夫という男と、その愛機『雷電』の奥底に潜む、底知れない闇を感じずにはいられなかった。




