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挑戦!火魔法の実習

 朝の教室で、リリアはいつになく真剣な顔つきで呪文の復習をしていた。今日は火魔法の実習があるので、俺と二人、昨夜は夜遅くまで念入りに練習を繰り返してきたからだ。


 リリアのノートをちらりと見ると、火魔法の基本呪文を分解したメモがびっしりと詰め込まれていた。イメージの組み立て方から詠唱時の呼吸法、魔力の流れをどこで整えるかなど、細かい注釈と補足が手書きの文字で敷き詰められている。彼女はペン先を強く握りしめながら、そのひとつひとつを確かめるように目で追っていた。


「リリア、体調はどうだ? 夜遅くまでやってたから、さすがに眠いんじゃないか?」


 小声で訊ねると、リリアはわずかに頬を膨らませてそっぽを向く。


「別に平気よ。……今日こそは成功させなきゃ、またみんなから笑われるもの」


「まあ、無理だけはするなよ」


「わかってる。けど、昨夜の感覚を忘れないうちに、ちゃんと形にしたいの」


 そう呟くリリアの瞳は、焦りと決意が入り混じったような複雑な光を宿していた。周囲の生徒はまだ冷ややかな視線を投げてくるが、彼女は意地でも負けたくないのだろう。今朝だって朝食もそこそこにノートを開きっぱなしだったし、ベルが心配そうに「お昼、食べようね?」と声をかけても、「あとで食べる」と言ってずっと席を立たない。そこまで詰め込んで疲れが出ないか心配になるが、彼女の性格を考えると止めても聞かないだろう。


 午前の座学が終わり、昼休みを挟んでいよいよ火魔法の実技が始まる。担当はグレゴリー先生。彼の授業を受けるのはこれが初めてじゃないが、その厳つい風貌とあまり多くを語らない指導スタイルは、ある意味で独特の緊張感を生徒たちに与えていた。


「さて、予告通り、今日は順番に火魔法の基礎呪文を実演してもらう。ロウソクに火をつけるだけの単純な内容だが、安全管理を徹底すること」


 先生の低く安定した声に促され、名簿の順で生徒たちが前に立つ。貴族の家庭で英才教育を受けた連中は、当たり前のように呪文を唱え、小さな炎を手のひらに灯してみせる。多少手間取る者もいるが、おおむねスムーズに火を扱っていて、グレゴリー先生がぶっきらぼうに指導している。そんな流れを固唾を呑んで見つめるリリアの背中には、明らかな緊張感が漂っていた。


 やがて、彼女の番が近づいてくる。リリアが腰掛けた椅子から立ち上がるとき、いつもよりぎこちないのがわかった。先ほどまでしきりにノートをめくっていた指先は、軽く震えている。唇を一文字に結び、視線だけは死にものぐるいで前を睨んでいるが、その頬にはわずかに血の気がなく、不安を隠しきれていない。


「……リリア、肩の力を抜け。深呼吸を忘れるなよ」


 俺はごく小さな声でそう言う。するとリリアは短く「わかってる」と返したものの、呼吸が整わないのか、胸の上下がはっきりわかるほど大きく動いている。周囲から注がれる視線も、ジュリエンヌの取り巻きからの冷ややかな嘲笑も、すべて意識しないわけにはいかない。教室の空気がそこだけぴりついているように感じた。


 ついにグレゴリー先生の声が、彼女の名を呼ぶ。


「リリア・エヴァーハート、前へ」


 いま教室にいる誰もが、リリアの動向を注視しているのがわかる。『落ちこぼれ』の烙印を押された生徒がどこまでやれるか――そんな好奇の視線が重い。リリアは机の角をぎゅっと掴んでから手を離し、首を一度回して吐息を零した。そして、わずかに顎を引き、ロウソクを受け取って静かに立つ。


 歩幅は小さい。足元を見れば、彼女の靴先がかすかに震えているのもわかった。けれど、もう後戻りはできない。最後に俺と目が合うと、リリアは大きく息を吸い込む。そして次の瞬間、まるで腹の底から奮い立たせるように詠唱を始めた。


「……アヴァル……リラ……フ、フレイ……」


 一度口の中で絡まった言葉を、どうにか立て直すように唱えていく。夜遅くまで練習したはずなのに、本番となると声が裏返りそうになるのだろう。それでも、リリアは踏ん張った。震えそうな息を押し殺すようにして、詠唱を言い切る。


 詠唱が終わると同時に、教室の空気がひやりと張り詰めた。

(頼む……うまくいってくれ)


 そんな俺の祈るような思いとは裏腹に、嫌な予感が脳裏をかすめる。だが――


 リリアの杖先から、ほんのわずかな火の粉が舞った。消えそうになりながらも、小さな炎へと育っていく。彼女は息を止める。肝心なのは、この炎を維持しつつロウソクの芯に正確に火を移すことだ。少しでも集中を乱せば、火はすぐに掠れて消えてしまう。


 周囲の生徒たちの視線が一斉に集中するなか、リリアは必死で火をコントロールする。額にはうっすら汗がにじみ、指先の震えが残っているのがわかる。俺も思わず胸が締めつけられるような気がした。リリアもきっと、心臓が爆発しそうなほど高鳴っているに違いない。


「……っ」


 小さな炎はロウソクの芯をかすめ、そして無事に点火した。蝋の芯に穏やかな火が灯り、ぱちりとやわらかい燃焼音を立てる。成功だ。ほんの一瞬、教室内から安堵のため息がこぼれ、続いて微かな感嘆の声が混じる。


「ふむ……不安定だったが、まあ、いいだろう」


 グレゴリー先生が低く頷く。たったそれだけの言葉でも、リリアには大きな救いだ。炎を消したあと、ほっとしたのか、その場で力が抜けそうになっている。周囲の目はまだ冷ややかだが、中には「あの落ちこぼれが魔法を成功させたのか……」と驚いているようにも見えた。


 しかし、その直後に続くのがジュリエンヌだ。鮮やかな赤髪を揺らし、まるで余裕があると言わんばかりの表情でロウソクを受け取ると、さっと詠唱を始める。リリアのように緊張の気配は微塵も感じられない。


「……アヴァル……リラ……フレイ……エクス……ラグナリア!」


 基礎呪文に応用の制御呪文まで組み合わせたのだろう。杖先に集まった火はあっという間に勢いを増し、炎の柱となって教室内を一瞬照らす。ジュリエンヌはわざとらしくそこから火力を絞り、小鳥のような形状の火の塊へ変形させてみせた。そして最後にスッとロウソクに点火して終わる。周囲からは明らかな感嘆の声が漏れた。


「大げさな火柱にする必要はなかったが……まあ、上達はしているな」


 グレゴリー先生が言葉少なに評価すると、ジュリエンヌは慇懃に一礼して席へ戻っていく。その背後で取り巻きたちがクスクスと笑い合い、リリアにちらりと視線を寄越す。明らかに比較されているのがわかった。リリアは唇を噛み、わずかにうなだれる。


 結局、他の生徒たちも一通り実演を終え、授業は締めくくられた。グレゴリー先生は教卓に戻り、低い声でまとめを言う。


「よし、今日はこれで終わりだ。どんなに小さな火でも、安全が最優先だと肝に銘じろ」


 そう言い残すと先生は教室を出て行き、生徒たちはそれぞれの席に戻る。リリアも椅子に腰を下ろすと、つかの間の休息を求めるように深く息を吐いた。横から覗き込むと、彼女の頬にはわずかに赤みが戻っている。


「リリア、お疲れ。ちゃんと成功したじゃないか。昨夜の練習の成果が出たんだろ?」


「……うん。すっごく緊張した。途中で火がかすれそうになったとき、喉がからからで声が出なくなりそうだったわ。ま、何とか乗り切れてよかった」


 彼女は内心ホッとしているようだが、ジュリエンヌと比べれば、あまりにも差が大きいことは明白だ。とはいえ、今の彼女には十分に大きな一歩だったのだろう。


「ところで……あのジュリエンヌ、何なのよあの火柱……悔しいけど、見せつけられると凹むわ」


 リリアは自嘲気味に笑い、机に顔を伏せるようにする。さっきまでの緊張感を考えれば、その達成感はきっと大きい。ほんの少しだけど、“次も頑張ってみよう”という気持ちが湧いているように見えた。


***


 授業が完全に終わり、放課後になると教室を出る生徒たちが慌ただしく廊下へ散っていく。ジュリエンヌや取り巻きたちは、こちらをちらっと見て意味深な微笑を浮かべるものの、特に言いがかりをつける様子はない。リリアは一瞬、その気配に肩を強張らせたが、やがて吐息をついて荷物をまとめる。


「……よし。帰って次の魔法の練習するわよ、ゴトー」


「昨日ほとんど寝てないだろ? あんまり無理すんなよ」


「うるさい。私はやるって決めたんだから」


 その瞳には、ほんのりと熱を帯びた決意が感じられた。昨夜の必死の努力と、今日の些細な成功が、きっと彼女を少しだけ前進させたのだろう。俺は鞄を肩にかけながら、隣を歩くリリアに静かにうなずく。


「わかったよ。じゃあ今夜もつき合う。ちゃんと無理のない範囲でな」


「ふふ、それは期待してるわ。ちゃんとサポートしてよね」


 いつもより少しだけ早足で廊下を進むリリアの背中を見ながら、俺はどこか安心した気持ちを覚えていた。失敗を恐れて縮こまるより、成功の喜びを素直に受けとめて前を向く。その小さな積み重ねが、いつかジュリエンヌに追いつく力になるかもしれないと信じながら。

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