真夜中の自主練
夜中、息苦しさで目が覚めた。どこからか冷たい空気が流れ込んできている。隣のベッドで寝ているはずのリリアの寝息を感じないことに気づき、嫌な胸騒ぎがした。
部屋の隅をそっと見やると、彼女が乱雑に脱ぎ捨てたパジャマが放置されている。その隣には、さっきまでベッド脇に立てかけていたはずのバッグも杖も見当たらない。
まさかとは思ったが、どうやらリリアは意図的に出て行ったらしい。
「夜間外出は禁止だろうが……」
そう呟きながら、俺は慌てて靴を履き替え、人気のない廊下へ足を踏み出した。
立ち止まって、まずはどこへ向かうべきか考える。夜中に彼女が“わざわざ杖を持ち出して”行く場所なんて、限られているはずだ。校内で大っぴらに魔法の練習をできる場所といえば、中庭か実習棟周辺。もっとも、実習棟は夜間は施錠されるから、中庭である可能性が高い。
***
真夜中の学園は、しんと静まり返っていた。月明かりに照らされた中庭の花壇やベンチの輪郭が、ぼんやりと浮かび上がっている。
その中央に、杖をかまえた一人の少女の姿があった。リリアだ。少し離れた位置からでもわかるくらい、彼女の肩が震えている。
「リリア……」
声をかけようとしたが、思わず言葉を飲み込む。どうやら水魔法の詠唱を行っているらしい。杖先に淡い光が集まり、空中の水分を凝縮しようとしているのが見て取れた。しかし、その光は不安定に明滅を繰り返している。
「……くっ、また失敗……」
リリアが小さく呟いた声が闇の中で反響した。額には汗がにじみ、呼吸が荒い。俺が見る限り、彼女は相当な時間、魔法を試し続けているのだろう。こんな夜遅く、しかも誰にも見られないようにこっそりと──。
「今度こそ上手くやらなきゃ……今度こそ……!」
そう呟くリリアの瞳は必死だ。退学がちらつく状況に追い詰められているのは、十二分にわかっている。俺としては、すぐにでも“やめろ”と声をかけたい。
だが、さっきまでの彼女の様子を見れば見るほど、それをやるのが正解なのかわからなくなる。あの頑固な性格だ。きっと、俺が水を差そうものなら、彼女は意地でも言うことを聞かないだろう。
「……ふう……!」
リリアは大きく息を吸い込んで、再び杖を振り上げる。闇夜の下で、淡く揺らめく魔力の筋が一瞬だけくっきりと見えた。むりやり魔力を掻き集めているのが、肌で感じられるほどだ。
これ以上は危険じゃないかと、のど元まで声が出かかったが、彼女の悲壮な決意を折るのも怖くて、俺はその場に立ちすくむ。
(もし何かあったら、すぐ止めよう。それだけは絶対に──)
それを心に決めて、ぎりぎりまで見守ることにする。彼女の魔力は暴走の気配こそないものの、かなり不安定だ。小刻みに震える彼女の膝が、もう持たないと悲鳴を上げているように見えた。
「……どうして、また失敗……! こんなんじゃダメなのに……!」
杖先に作り出そうとした水塊が、またしても小さく泡立つだけで消えていく。リリアは苛立ちに耐えかねたのか、杖をぎゅっと握りしめる。乱れた呼吸が凍えた夜気に混じり、白く染まっていた。
「リリア……そこまでにしろ……」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いたが、リリアは耳を貸さない。むしろその言葉を振り払うように、杖を高く掲げた。
「もう一度……! 今度こそ……!」
淡い光が杖先に再び集まる。月光に照らされた中庭に、ぴりぴりとした魔力の波動が広がっていく気がした。彼女の渾身の力が注ぎ込まれているのだろう。杖の先端がうなるような音を立て、周囲の水気を一気に集めはじめる。
(まずい……このままだと、限界を超える!)
思わず駆け寄ろうと足を踏み出した瞬間、リリアの身体ががくりと崩れ落ちた。
「リリアッ!」
杖は手から抜け落ち、彼女はそのまま地面に膝をつく。魔力の暴走は起こらずにすんだようだが、代わりにリリアの息は荒く、瞳は焦点を失っている。慌てて駆け寄り、その身体を抱きかかえると、熱っぽいようで冷たいような妙な感触が伝わってきた。
「……また、失敗………」
リリアの唇がかすかに動き、言葉が漏れる。彼女の頬を伝う涙が、月明かりの下で滲んでいた。
「おい、大丈夫か……?」
呼びかけても、リリアは弱々しく首を振るだけだ。抵抗する力すら残っていないのか、俺の腕にすがるように身体をもたれかける。
「こんなんじゃ……全然だめ……。頑張っても頑張っても、ひとつも上手く行かない。同級生はみんな簡単にできてるのに、私ばっかり何もできない。どうして、どうしてなの! たくさん本を読んだし、皆が寝たあとだって練習してる、それなのに、それなのに……!」
その声には、焦りや苛立ち、そして深い悲しみが入り混じっていた。震える指先を見ていると、彼女がどれだけ追い詰められているかが痛いほど伝わる。
思わず、昔の自分を思い出した。深夜まで残業して、バグ対応を任され、何度も倒れそうになりながらも結果を求められたあの頃。
休みたいなんて言えない、逃げ道なんかない、ただ頑張るしかない──リリアの姿は、かつての俺と重なっていた。
「リリア……お前、ほんとに誰よりも努力してるよ。学園で一番だって、少なくとも俺にはそう見える。お前が無駄にあがいてるなんて、思ったことは一度もない」
半ば自分に言い聞かせるように、そう語りかける。彼女の目は半分閉じかけていて、意識も朦朧としているようだった。まるで、こちらの言葉が届いているのかもわからない。それでも、俺は声を絞り出すように続ける。
「失敗しても、また立ち上がる。誰よりも頑張り続けられる。そこがお前の才能なんだ。だから──今はもう、休め。追い込みすぎるなよ」
こんなとき、どんな言葉をかければいいのかわからない。ただ、彼女の涙に触れて、俺まで胸がいっぱいになる。もしここで俺が支えなかったら、リリアは本当に壊れてしまうかもしれない。そんな恐怖がこみ上げてきた。
リリアは俺の言葉に答えず、わずかに身をよじる。おそらく痛みが走ったのか、かすれ声で呻くように小さく息を吐いた。もう限界だ。これ以上は危険だと判断し、俺は彼女をそのまま抱き上げる。
「……で、でも……やめ、たら……」
リリアは抗議の声を上げようとしたが、それすら力が入らないらしく、かすれて消えた。彼女は謝ることもお礼を言うこともなく、ただ肩を震わせて泣き始める。最初は嗚咽混じりで、やがて声を荒げるように泣き叫んだ。
「もっと頑張らなきゃ、退学になっちゃうのよ! 授業にはついていけないし、試験だってある。それに……」
周囲に誰がいようが気にせず、リリアの心の奥底に溜まっていた涙が一気にあふれ出す。俺はそれを否定しようとは思わない。その涙は、これまで彼女がどれだけ必死に踏ん張ってきたかの証なんだから。
「……大丈夫だ。お前は絶対に大丈夫だから。今は休むんだ」
それがありきたりな励まし文句なのは、わかっている。けれど、今のリリアにはどんな正論も届かないだろう。ただ温かな言葉で包み込み、彼女が少しでも安心してくれれば、それでいい。
リリアは全身の力が抜けたように、俺の腕に頭を預ける。呼吸は相変わらず荒いが、もう抵抗する素振りは見せない。身体を起こすのも難しそうだ。
「おんぶするぞ。いいな?」
そう言って背を向けると、リリアは嫌がるどころか、すっと身体をあずけてきた。俺は彼女の両腕を背中に回すようにしてから、慎重に立ち上がる。さっきまでの手足の震えが嘘みたいに、彼女は力なく項垂れていた。
***
真夜中の中庭を抜けるとき、寮の窓から漏れ出る明かりがちらちらと見える。誰かに見つかったら面倒だが、今はそんなことを言っていられない。
俺の背中に負担をかけまいとするのか、リリアはじっと息を殺すようにしている。体温は高いのか低いのか、よくわからない。冷たい風が首筋をかすめるたびに、彼女の乱れた髪が頬をかすめた。
「俺もさ……現実世界……いや、前の国では、ずっと夜通し仕事してたんだ。結果が出るまで家にも帰れなくて、何度も倒れかけた。だから……お前の気持ち、少しはわかる気がする」
誰に言うでもなく、呟くように口を開く。リリアが小さく反応するように喉を動かしたのがわかった。
「でも、人はずっと限界を超え続けられるわけじゃない。頑張るだけが取り柄でも、いつか本当に壊れちまう。それじゃ、お前の大事な才能が無駄になるんだ」
返事はない。だけど、ほんの少しだけリリアが背中に力を込めるのを感じた。もしかすると、俺の言葉を聞いてくれているのかもしれない。
寮の入口へ着くころには、リリアの呼吸はだいぶ落ち着いていた。身体は相変わらず重いが、さっきよりは意識がはっきりしてきたように思える。
部屋に戻ってリリアをベッドに横たえると、リリアは限界だったのか、すぐに目を閉じて浅い呼吸を繰り返す。涙の痕がまだ頬に残っていて、その表情は疲労困憊の一言に尽きるが、どこか安心しているようにも見えた。
「……ごめん……」
か細い声が聞こえて、俺は思わずその手を握ろうとするが、もう少しのところで手を止める。彼女は目を開けず、ただ小さく呟くだけだ。お礼でもない、ましてや謝罪を求めてもいない。だけど、それでもいい。彼女が少しでも気を許してくれたのなら、それで十分だった。
「いいんだよ。今は休め」
リリアはそれきり何も言わず、規則正しい寝息を立て始める。追い詰められてもなお意地を張り、限界まで頑張ってしまう彼女の姿は、どこか危うくて、けれど美しくもある。
俺はそっと彼女から離れて、深いため息をついた。
部屋のランプを落とし、薄暗い光に包まれたリリアをもう一度確認する。彼女の肩は小刻みに上下しているが、苦しそうではない。
俺はようやく安堵を覚え、ベッドに腰を下ろした。
リリアの退学処分の可能性は依然として消えないし、俺が保護者としてどこまで支えられるかも未知数だ。でも、そばで見守ることはできる。あいつが挫けそうになったら励ますし、危ないところでは力になれる。
──そんなことを考えているうちに、俺のまぶたもいつの間にか重くなっていた。疲れのせいか、あっという間に意識が遠のいていく。最後にちらりとリリアの背中を見やったとき、彼女の呼吸がさっきよりも穏やかになっているように感じられた。
夢うつつの中で、俺はそっと微笑む。ほんの少しだけど、俺たちは確実に前へ進んだのだと思えたから。夜明けが来たら、また新しい一日が始まる。そのときは、今日よりももう少しだけ、リリアを支えられるようになっていたい。
──そう願いながら、俺は静かに瞼を閉じた。




