45.立場と我儘
「なんだ皇子、仕事はもう終いか」
そのラウレンツ様が飛び退いた。あら……、と私が空っぽの手を見つめるまでもない。まるで幻覚でも見せられていたかのように、ラウレンツ様は私から一歩離れていた。腰のあたりに触れられていた感覚も消えている。ラウレンツ様の顔をもう一度見ると、口元を隠して咳払いを何度かしていた。……はて。
「……ヴァレンも。無事にロザリアと合流し、帰還できて、何よりだ」
「うむ、しっかり労わるがいい。手土産はないのか」
足の横から出てきたヴァレンは、そのままラウレンツ様の周りをくるくると回り、匂いをかぐ。ラウレンツ様は、まるで降参するように両手を挙げた。
「……すまない、夕食時には何か振る舞えるよう、手配している」
「良い心がけだ。自らのために働くのを当然とし始めては独裁の始まりだからな」
ふんふん、とヴァレンはわざとらしく鼻を鳴らしながら歩き回り続ける。そうは言ってもなにか持っているのではないか、と言いたげな仕草で、尋問しているように見えてきた。ラウレンツ様も少し顔が赤いし……。
「……ヴァレン、そろそろやめてあげなさい? ラウレンツ様も、何かご用事があっていらしたのでしょう? 部屋に入っていただいて構いませんよ」
「……紅茶でも持ってこさせよう」
そうして私と向かい合って座ったラウレンツ様は、開口一番「すまなかった」と頭を下げた。私は仰天して小さく飛び上がってしまう。
「な、なにがですか?」
「ニコラウスの件だ」
「べ、別にラウレンツ様のせいでは……ニコラウスも、私だからどうでもいいやと思った点もあるようですし……」
「そうじゃない。ニコラウスが君を連れ出した後、俺が君を探しに行くことができなかった点だ」
ああ、なんだ、ラウレンツ様も、気にしていてくれたんだ。言葉にされると、胸の内にあった心配が少しずつ霧散していった。お陰で苦笑いくらいはする余裕ができる。
「いえ……アラリック王子との会談を控えていることは分かっていましたし。ニコラウスが何かするはずないと思えば、ラウレンツ様が動けないのは仕方がないと分かってます」
「……受け入れないでくれ」
「え?」
頭を挙げたラウレンツ様は、当時の“動かない”という決断を後悔するような、険しい表情をしていた。
「どれも結果論だ。ニコラウスが俺の指示に従わず、君を連れてエーデンタル国へ戻る可能性だってなくはなかった。それに……不安だったろう。急に一人で連れ出されて」
その通りです、なんて馬鹿正直に口にすることはできなかった。だってラウレンツ様が心配してくれたことは分かった。それなのに「はい不安でした!」「本当なら駆け付けてほしかったです!」なんて我儘は言えない。
ラウレンツ様は、我儘でいていいと言ってくれたけれど。でも、ラウレンツ様の立場のことだって、私は分かっているつもりだ。
私がどれだけこの人に近くにいてほしいと思っても、この人は帝国皇子だ。その体は一つしかないのに、その責任は数えきれない。私一人のために帝国の利益を犠牲にすることはできない。
それは、私が役に立たなければ契約妃を辞めさせられてしまうのと同じで。
また、目に涙が滲むのを感じた。こんなにたくさん泣くのはいつぶりだろう。ラウレンツ様がぎょっと目を見開いたのが見えて、できることなら涙を抑えたかった。でもできなかった。
「ロザリア? どうした?」
「……私、まだラウレンツ様の役に立ってますか?」
「なんだって?」
素っ頓狂な声が、ただのオウム返しなのか反語なのかが分からなかった。
「私……思っていたんです。ラウレンツ様が来ることができないのは立場の問題だって、分かってるのに、もしかして私って、皇子妃として役に立ってないのかもって」
「いや、君がどれだけ頑張って働いて成果を出してくれてるかはいつも話しているとおりで」
「でもそれって、一人の臣下としてです」
やったことを褒めてもらえるのは嬉しい。今までの経験が無駄でなかったと思えて、充実した日々を過ごしていた。でもそれは、ただの優秀な部下だ。
「私、ラウレンツ様の契約妃なんです。本物の妃の代わりなんです。ただ仕事ができて優秀なだけの妃なんて、そんなのただの臣下と変わりません。妃としてするべきことは、ラウレンツ様と一緒に帝国の発展に尽くすことです。それなのに私はラウレンツ様に到底及ばず……それに、私、実は庶子なんです」
ラウレンツ様は目を瞬かせた。庶子であることに驚いたというより、なぜこんな時にそんなことを言われたのか分からないようだった。でもきっと大事なことだ。
「アルブレヒト家は養子なんです。私は、本当はどこかの農民で……帝国皇子の妃になんてさせてもらえるような身分じゃありません。能力然り、私はラウレンツ様の隣に立つのにふさわしくないのではないかと」
「まあ、待て。待ってくれ、ロザリア。少し落ち着いて」
悩んでいることを一気に吐露し過ぎたかもしれない。ラウレンツ様は額を押さえて、止まれとでもいうようにもう一方の手を前に出していた。額を押さえる手は、そのまま髪の中を梳く。
こちらに向かない顔は、何と声をかけようか悩んでいるように見えた。でも、庶子なら今すぐ契約妃をやめろと、そう言い出す雰囲気がないのがせめてもの救いだった。
唇を開く音がする。そのくらい、部屋の中は静かだった。
「……君が庶子であることは、俺達の関係を変えるものではないよ」
「でも、いつか誰かに知られたら、ラウレンツ様の御立場が」
「そんなことはいくらでもどうとでもできるんだ。誤魔化す、という表現は適切でないかもしれないが、本当に、君が気にすることじゃない。俺にとってもどうでもいいことだ。いや……」
どうでもいいわけじゃない、と訂正した後で、ラウレンツ様はもう一度、でもどうでもいいんだ、と言った。
「君がどこの生まれでも、今の君があることには変わりない。ただ……知らなくてすまない」
「……謝ることではないです。私もお話ししませんでした」
「いや、それでも……俺が何か無意識に話したことが、君を傷つけていなかったか。傷つけていたら、すまない」
心当たりは全くなかった。でもいま大事なのはそんなことではない。本当に“どうでもいい”のだと言われるのは心強かった。ああ、なんだ、ニコラウスの話したことは本当にただの一般論で、ラウレンツ様に限っては心配なんて要らないのだと。
もちろん、ラウレンツ様だって完璧じゃない。でも今のラウレンツ様にとってどうでもいいだけで、一つ、肩の荷が下りたような気になる。
「……でも、それでも……私は帝国皇子妃として不足かもしれず」
「……ニコラウスに言われたのか?」
「いえ……。……いえ、実は、移送されるヴィオラ様にお会いして」
ラウレンツ様の一方の眉が跳ね上がり、目だけが細まった。聞いていないが、ニコラウスは何をしている、今にもそう叱責しそうな苛立ちに、慌てて付け加える。
「あ、あの……会って話してみたいと思ったのは私でした。私からお会いしたいと思って……」
なぜ私は、ヴィオラ様に会ってみたいと思ったのか。あの時ははっきりと理解できていなかったけれど、今なら分かる。私は、ヴィオラ様を通じてラウレンツ様のことを知りたかったのだ。
ヴィオラ様の――公爵家の玉座への執着の強さを、私は理解できずにいた。エーデンタール国にいる間はそれだけだった。でも帝国へ来て、ラウレンツ様の病的なまでの仕事ぶりを見て、執着と責任が似ていると思った。
何が何でも公爵家が王家にとって代わるのだと政変を試みたヴィオラ様。一方で、元皇妃による荒廃を建て直すべく、皇族として必死に働くラウレンツ様。二人には「この国は自分のものだ」という自負が、それぞれある。
ラウレンツ様のことを知りたかった。訊いて、君には関係がないよ――理解できないよと言われるのが怖くて、訊くことができなかった。だから、ヴィオラ様を通じて、間接的にでも知ろうとした。そうしたら「王子妃として不出来だった」と鼻で笑われた。
そうかもしれない。だって私の王子妃教育は付け焼刃で、生まれ持った貴族としての品格などない。一国を背負う人を支えようと頑張る気概はあっても、未来を切り開く力がない。
「それで……それで、ヴィオラ様に、王子妃として不出来だったと言われて、考えていたんです。私は、ラウレンツ様にはふさわしくないのではないかと――」
「君が俺にふさわしいか、決めるのは俺だ」
大きくはっきりと断じる声に遮られ、言葉を切った。異論を認めないその声に頼もしさはあった。でも、そんな一言じゃ納得できなかった。
「……でも私、多分、ラウレンツ様みたいに、帝国を盛り立てていくことはできません」
「君にそんなことは求めていないよ」
「じゃあ私は何をすればずっと役に立ちますか?」
言下に訊ねてしまいながら、心の中ではどこか期待があった。ラウレンツ様はきっと“何”を即答してくれると。




