38.王都と領主邸
馬車が大きく揺れる。ずっとこの調子ということは、既に都市内は抜けたのだろう。雨の匂いも鼻をついた。タウンハウスで見た空は雲一つないいい天気だったから、雨が降るところまでやって来たということは、思った以上に進んでいるのかもしれない。
私が座り込む向かい側に、ニコラウスも座り込んでいた。睨むと笑んで返される。
「すみませんね、乗り心地が悪くて。これでも道は選んでいるのですが、この辺りはどうも道の整備が行き届かず」
「……エーデンタール国へ連れて行って、どうするつもりです? アラリック王子に私を差し出したところで、モルグッド伯爵家にそれほど利益があるとは思えませんが」
「どうでしょう。エーデンタール国は例によって不作で喘いでおりますし、神獣が戻ったと歓迎されるのでは?」
そうではなく、エーデンタール国は一枚岩ではないはずだ。特にクラウヴァルト家がなくなった今。しかも、ラウレンツ様に言わせれば王家がクラウヴァルト家を処断していないのは確実だという。処刑派と保留派で割れていてもおかしくない。そんな状況で王家に媚びたところで、ニコラウスの嫌いな面倒ごとが起きるだけだ。
だから、ニコラウスは、王家へ私を差し出すつもりではない、はず。そう自分に言い聞かせる。言い聞かせてはいるけれど、でも、不安はある。握った手の内側は汗でびっしょり濡れていた。
私はラウレンツ様みたいに次々と先を見通して動けるわけではない。クラウヴァルト家の謀反に気が付いたのだって、日々に些細な違和感の積み重ねがあったから、何より王子の婚約者という最も近い立場にあったからだ。モルグッド家が私を王家に引き渡す動機の程度は、なんて急に聞かれても分からない。
もしこのまま、ニコラウスに王都へ連れて行かれたら。ニコラウスに気付かれないよう、できるだけ自然に首筋の汗を拭った。いや、大丈夫だ。ラウレンツ様のことだ、ニコラウスが私と一緒にタウンハウスから消えたとなればすぐに後を追ってくれるはず。……アラリック王子との会談を控えてるから、無理かな。そうだとしても何か手配はしてくれるはずだ。ラウレンツ様が私を見放すはずがない。
それに、ヴァレンだっている。どんなに離れていたって、ヴァレンは鼻が利くのだ。きっとすぐに追いかけてきてくれる。……徒歩と違って、馬車に乗ると匂いが散逸するとか、そういうのはあるのかしら。分からなかった。だって私は生まれてからヴァレンと離れたことがない。
一人きりになったのは、今が初めて。そう気付かされ、愕然とした。今まで、生家を離れても、家族というものとさっぱり縁がなくても、不安や寂しさを感じたことがなかったのは、必ずヴァレンが近くにいて、いてくれることに何の疑いもなかったからだ。
ヴァレンがいない。ラウレンツ様だっていない。私はここから、どうやって逃げればいい。反語に近い問いに、体が震え始めた。
「……まあそう怖がることはありませんよ」
私のその気付きを、そっくりそのまま報告書の形で読んだかのように、ニコラウスは落ち着いた口ぶりで肩を竦めた。
「ご安心ください。ロザリア様を王家などへ引き渡しては、あの皇子殿下に地の果てまで追手を差し向けられ惨殺されるくらいの予想はつきます」
……王家へ引き渡すつもりは、ない。……本当に? おそるおそる見つめ返す先で、ニコラウスは頷いた。
「向かうのは私の家です」
「……モルグッド家の……領主邸ですか?」
「ええ。王都からオストリン・ノイへ向かうにはモルグッド領を経由する必要がありますからね」
「……逆ではないですか。私達はオストリン・ノイから王都の方向へ走っているのではなく?」
「逆ではないです」
……じゃあ、王都から誰かがオストリン・ノイへ来るということ? アラリック王子との会談は辺境伯領で行われるはずだ。では、誰が。
その疑問に、ニコラウスは答えを返さなかった。ただ、王都へ向かうのではないと聞いただけで、全身から噴き出していた汗は嘘のように引いていた。
「……私のたった一言は、そう信頼するに値しますか?」
動揺に気付かれていたらしい。少し決まりが悪く目を逸らしてしまった。
「……一言というか。私はもともと、帝国にやってきた貴方のことを疑っていませんでしたので。いえ、あれこれ言われて、正直何を考えているか分からないとは思いましたが。貴方が人を裏切るような人だとは思っていません」
もしかしたら、タウンハウスで交わした会話がなければ、疑ったかもしれない。だって今まで一緒にいた経験は、どれもエーデンタール国の王子妃と臣下という、国や身分を介しての繋がりありきだったから。でもあの時にニコラウスが見せた表情は本物だったはずだと思える。だから、私が庶子だと知っているとかなんとか言い始めても、やっぱり信頼できる人だと考え直したのだ。
視線を戻すと、ニコラウスはまた肩を竦めただけだった。いつものようにおどけてみせない姿に、少し安堵した。安心すると力が抜け、その場で座り直す。途端に体の節々が痛むことに気が付いて、ニコラウスが恨めしくもなった。寝ている人間を馬車で運ぶなんて、罪人じゃあるまいし。
「……この件、ラウレンツ様はご存知なのですよね?」
「ロザリア様を連れ出した件ですか? まさか」
「はい?」
例の、ラウレンツ様がニコラウスに任せた仕事の一環として私が必要なのではなく? 素っ頓狂な声を上げてしまった。
「う……裏切りじゃありませんか! 前言撤回します、貴方はそう簡単に人を裏切るのですか!?」
「皇子殿下の許可を得ていないだけで、裏切っているわけではないです」
「またそうやって詭弁を弄して!」
「落ち着いてください、ロザリア様」
身を乗り出した瞬間に馬車が大きく揺れ、姿勢を崩す。ニコラウスの手に支えられ、ぺいっとそれを叩いた。
「これが落ち着いていられますか! ラウレンツ様がご了承しているならともかく、秘密裏になんて!」
「そりゃ、あの帝国皇子にロザリア様をしばし拝借しますとは言えないでしょう」
「言えないことをしないでください!」
「まあ、いいではないですか。もともと、オストリン・ノイからの帰路では殿下だけ別行動をし、辺境伯領へ向かう予定だったのです。護衛の数もそれなりに減ると考えれば、ここで私とモルグッド領でゆっくりと紅茶でも飲み、万全の護衛で帰るほうが安心でしょう」
「だからそれをラウレンツ様に伝えていないのが問題なのです。……何が目的ですか」
もう一度強く睨みつけたけれど、ニコラウスは答えなかった。代わりに外へ視線を向ける。
「まあ、ロザリア様にとっても悪いことにはならないと思います。あの帝国皇子の妃をやり続けるのであれば、ですけどね」




