37.神獣と帝国皇子⑥
ロザリアが伯爵令息と共に消えた。
水浴びから帰ってくると、ロザリアがいなかった。どこかへ出かけたのだろうかと思案していた矢先、戻ってきた皇子からそう告げられ、少々驚いた。あの栗毛令息はさっぱり信頼できぬ相手であったが、だとしてロザリアをわざわざかどわかすだろうか。しかもこの皇子の目と鼻の先で。
疑問はあるが、しかし一刻の猶予もならん。この皇子もすぐに動くつもりだろう。皇子の部屋で話を聞いた後、すぐに扉の前へ向かった。
「そう離れてはおらんだろう? 今であればすぐに追いつけよう」
「……匂いを追うと」
「そうだな。ロザリアを連れ出したのであれば馬ではない、馬車だ。移動に時間はかかる」
しかし、皇子は机についたまま動かなかった。視線も上げぬ。机上を指で軽く叩くだけだ。
「何を悠長に座り込んでいる」
「……今考え中だ」
「考え中だと?」
ロザリアが連れ去られたのに、机について何を考えることがある。向きを変えて牙を剥いてやった。栗毛令息がロザリアを連れ去ったのは、十中八九、ロザリアが貴様の妃をやっているからではないか。その貴様がぼんやり考えるばかりで動かぬとは何事だ。
「よもや貴様、あの王子との会談に遅れるわけにはいかぬと、上っ面の理由を並べるのではあるまいな?」
もちろん、今後の予定は把握している。オストリン・ノイを発った後、ロザリアは宮殿へ戻るが、皇子は例の辺境伯領の城へ向かう予定だったのだ。明日の出立でちょうどよく間に合うだろう、と話していたことも知っている。しかし、だからなんだというのだ。
「……会談には出席しなければならない。これは絶対だ」
「ロザリアを寄越せと言う会談に出る裏で、ロザリアがエーデンタール国へ引き渡されていてもか!」
吠えてもなお、皇子は指を動かしたまま黙っていた。その表情にいつもとの変わりは――ないことは、ない。皇子なりに焦っていることは見てとれた。しかし腰を上げようとはせぬ。
「なんとか言ってはどうだ。皇子のメンツは契約妃よりも大事か?」
「そうではない。ただ、ニコラウスの意図を考えている」
「帝国に与したふりをし、その実、ロザリアを連れ戻す算段を整えていたというだけではないか」
もちろん、あの王子と内通しているとまでは断じまい。しかし、貴族がいかに狡猾な生き物か、私はよく知っている。家のためなら手柄のためなら、手段を惜しまぬ連中だ。
「こんなところまであの栗毛令息を連れて来た、貴様が浅薄だったではないか。帝都からであればロザリアも連れ出せなかっただろうに」
「……ニコラウスにはエーデンタール国へ行ってもらう必要がある。その時まで近くで見張っておくために欲しかったんだ」
「笑わせるな、おめおめとロザリアを連れ出されておきながら何が見張りだ。大方、先日の花売り案で油断したのだろう?」
自らに利を与える者は味方だと、すぐに勘違いする。馬鹿馬鹿しい、人間はそのような真っ当な生き物ではない。もう一度吠えたが、皇子はやはり指を動かすばかりで体を動かさない。
……もうよい。この皇子は、ロザリアよりも帝国の利益を考える男だったというだけだ。踵を返すと「待て」と止められた。
「待たんぞ。行き先は分かっているとはいえ、あまり離れては道中に困る」
「……追っても構わないが、ニコラウスの邪魔はするな」
「貴様、自分が何を言っているか分かっているのか?」
栗毛令息に仕事を頼んだとは聞いている。だが、この期に及んでその遂行を心配しているというのか。ロザリアの安否よりも。第一、その約束は既に反故にされているに違いない。
「よく分かった、貴様はロザリアとの雇用契約に非常に誠実な男であり、それ以上はない。くだらぬ」
皇子は答えなかった。扉を開けて飛び出すと、驚いた使用人が悲鳴を上げるのが聞こえた。
どいつもこいつも、ロザリアのことをなんだと思っているのだ。




