31.退職と別荘
そうして歩いて十数分ほど、ようやく城門に辿りついた。交易品を運び入れる人々を横目に門を潜り、眼前に広がった光景にはっと息を呑む。
「すっごい……すごい、綺麗……!」
輝いている、というのはおかしいのだけれど、海は陽光に煌めき、夜空の星のような輝きを放っていた。それだけでも衝撃だったのに、さらに驚いたことに、海は緑色ではない。エメラルドとも違う。そんな宝石よりももっとたくさんの色が幾重にも重なっていた。昼空の青に近いかと思えば緑がかっても見え、かと思えば陶磁器に使われる塗料のような青にも見えた。
畔には、何隻もの巨大な帆船が停泊していた。出港の際に帆を張れば、その白が海に映えて一層美しいに違いない。矮小な悩みなどどうでもよくなる景色だった。
足元では一足早い夏の花も揺れている。ヴァレンが嬉しそうに鼻先を近づけるので、私も屈む。
「薔薇……に見えるけれど、小さいわね。なんだか可愛い」
薄紅色の小ぶりな花で、花びらが数えきれない層を作っている。これを毎朝部屋で見ることができたら素敵。
「誰かが育ててるのかしら?」
「そうでもなさそうだ。人が手を入れたものは大抵気持ちが悪いが、ここはそうでもない」
確かに、モンドブルク宮殿と比べてはいけないかもしれないが、好き勝手に伸び放題だと言っても過言ではない。でもだからこそ、ヴァレンも気に入るくらい生き生きして見えるのだろう。
「勝手にこれだけ育つなんて、強いのねえ」
「海風もあるのにな」
強い風でドレスの裾がはためく。私が膝のあたりを押さえるのと一緒に、ヴァレンも鬱陶しそうに目を細めた。
「これでは毛の調子も悪くなる。今日は水浴びをするぞ」
「いいけど、日が高いうちにね。……どうかしましたか、ラウレンツ様」
私達が勝手にはしゃいでいる間、ラウレンツ様はだんまりだった。しばらくは帆船の様子を観察していたようだけれど、途中からその視線はこちらを向いていたのだ。ヴァレンと花が可愛らしいでしょうか、と言うつもりでその体を抱いてみたら、確かに毛がべたつき始めていた。恐るべし、潮風。
それはさておき、ラウレンツ様は軽く首を横に振った。
「……いや。君があまりそういうものに関心があるとは知らなかったから。そういうものかと思っただけだよ」
「……それはまあ、そうですね」
言えない、モンドブルク宮殿の庭園は元皇妃が作ったものだから、ついつい仕事を連想してしまって純粋に楽しめない、なんて。苦笑いで誤魔化したけれど、ラウレンツ様は少し眉尻を下げて寂しそうな顔をした。なぜだろう。
「……それから海も。気に入ったかい?」
「ええ、とっても! 海を一望できる屋敷とか、素敵ですねえ」
オストリン・ノイは帝都から離れてしまうから、住むのは難しいだろう。でもたまに、気楽に足を延ばすことができれば。
「……そうだね」
「ですよね! こういうところに別荘……はなくとも、例えばほら、貸別荘なんてあるといいですよね」
我ながらいい考えかもしれない。帝都に戻ったらエリザベート様に提案してみよう。私だけでなく、海岸沿いの領地を持っていない貴族にとっては最高の行楽地に違いない。そうとなればますますオストリン・ノイは栄え、ノイマン公爵家への実入りも増えて喜ばれるはず。
「宮殿を離れて、お仕事を忘れてゆっくりするんです。ラウレンツ様も気分転換になるでしょう? あっ、お仕事が忙しければほら、一番暑い時期だけはここで仕事をするとか!」
いやそれはさすがに無理か、あれやこれや持ち出すのが大変過ぎる。今だってちょちょっと手紙を書くくらいだからどうにかなっているのだ。
となると仕事中毒のラウレンツ様を連れ出すのは無理か。いや仕事中毒だからこそ……なんて考えを巡らせていると、どこか意外そうな顔を向けられた。
「……俺も一緒にここに来るのか」
「えっそうですよ。オストリン・ノイはお気に召しませんか?」
「……いや、君の退職時の屋敷の話をしているんだと思ったんだが」
私が契約妃をやめるときにもらうお屋敷の話? 考えてもみなかったことに、今度はこっちが目を丸くしてしまう。
もちろん、その話は立ち消えてなどいない。むしろラウレンツ様のことだ、何があってもその約束は守ってくれるだろう。
ただ私は、お給金を貯めてお家を貰うことばかり目的にしているわけではない。むしろ、ラウレンツ様さえ許してくれれば一生仕えて傍にいたいと思っている。その意味では貰えるお屋敷のことなんてどうでもいいことだし、行楽地にお出かけするならラウレンツ様と一緒がいい。
「私がラウレンツ様のお傍を離れるわけないでしょう。私、申し上げたじゃありませんか。末永くお仕えしますと」
もちろん、例によって要らないと言われたら仕方がないけれど……。……想像するだけで少し悲しくなった。しかもニコラウスに余計なことを吹き込まれたことまで思い出す――帝国皇子にとって庶子は邪魔! 恋の病は勘違いだったとして、でも今後、ラウレンツ様がどこぞの貴族のご令嬢を見つけてきて、血筋と政治どころか何もかもに都合がいいから結婚しよう、契約妃は要らなくなったぞなんて言い始めたら……。
「……要らない《クビ》と言われたら……仕方がないと……割り切れはしませんが、そうする努力はいたします……」
「いやそんなことは言っていないし、思ってもいないから。落ち着いてくれ」
心に立ち込めた暗雲は、早口が払ってくれた。顔を明るくするとラウレンツ様の顔も少し明るくなったように見えたので、自分が詐欺師にでもなった気分だ。
「それでしたらまたいつか一緒に来ることができるかもしれませんね!」
「……そうだね」
「でも今日もいることはいるのですし、もっと楽しみましょう! 海を見たので次は帰りながらお店でも! 私、ティーハウスとやらに行ってみたかったのです!」
でもラウレンツ様も少し楽しそうになってきた。きっとやっとお仕事のことを忘れられ始めたのだろう。いい調子だ。




