30.外出と期限
タウンハウスから広場へは、海沿いを城壁に沿って進む。せっかくの綺麗な景色を堅牢な石壁で遮ってしまうなんて、と残念な気持ちになるが、海賊の餌食にならないためには仕方がないらしい。
広場に降りると、タウンハウス近辺とは空気の匂いが違った。くんくん、とまるでヴァレンみたいに匂いを嗅いでしまう。
「これ……これ、何の匂いなんでしょう。塩辛い、というのはおかしいですが」
「磯の香りだね。タウンハウスよりも海が近くなったから」
ラウレンツ様が視線を投げた先にあるのは例によって石壁だけだ。磯……磯、海の香り、ニコラウスが最初に話していたアレか。どうやら壁の狭間から、いやもしかしたら壁を越えて流れ込んでくるようだ。
「すごいですねえ……見えていないのに、香りでこんなに存在感を放つなんて」
「……そうか、海を見たことがなかったのか」
私の生まれ(というか生活)のことを失念していたわけではないだろうけれど、王城からほぼ一歩も出ない生活は想像しにくいものなのだろう。その相槌は少々意外そうだった。なお、ノイマン公爵との初対面に際してはネーベルハイン国にも行ったことがあるようなふりをして話を盛り上げたが、実際には本で知らない。ただ、ノイマン公爵が思わぬ食いつきを見せた理由は今になって分かった。ノイマン公爵自身がネーベルハイン国との外交に力を入れたからだったのだろう。
「だったら少し城門の外に出てみようか」
「えっいいんですか?」
「昼間ならそう心配はないよ。それに、目で見るのが大事なんだろう?」
うんうん、と激しく首を縦に振りながら、目を輝かせてしまっている自覚があった。海! 絵でしか見たことのない海をこの目で見ることができる!
とはいえもちろん、仕事でもありますと言い訳をしたのは私だ。街中の様子はちゃんと観察しておこう、とさりげなくあたりを見回しながら歩く。なお、これがあからさまだとスリに目をつけられるらしい。
「なんだか、全体的に建物の色が鮮やかですね。青に赤、かと思えば黄色……何でもありって感じです」
「遊び心が多いね。まあ、オストリン・ノイには歓楽街も多いし……」
言いながら、ラウレンツ様の足が地面を蹴る。石畳ではない、ただの地面だ。昨晩も雨が降っていたので少し湿っていて、ブーツが沈み込むような感覚がある。
「……ただ、日没より前にはタウンハウスに戻りたいね。この時間に出てよかったかもしれない」
「グランブルクほど治安が良くはない、というのは分かりますけど、地面と関係あるのですか?」
ヴァレンも、来たばかりのときと同じように匂いをかぐ。でもなぜそれで早く帰ることになるのかは分からないらしく、軽く首を横に振った。
「道の整備がなっていない。これでは馬車はろくに動けまい」
「ああ、なるほど……でもなぜでしょう、魚も塩も、もちろん海の向こうとの交易品もあるでしょうし、運送技術は重宝されていそうですが……」
「……陸路はあまり使っていないのかもね」
私には理解できなかったけれど、ラウレンツ様はむしろ得心がいったような顔になる。
「海に面しているし、河川もあっただろう? おそらく水路のほうが栄えている。どうりで、道中もあまり状態がよくなかったわけだ」
帝都、特にグランブルクと異なり、町から町へ移動する道はそれはもう状態が悪く、馬車の乗り心地は控えめにいって最悪だった。ヴァレンなんて、途中で耐え切れずに馬車を降りて歩き始める始末……。私だって、思い出すだけでも気分が悪くなってしまう。
「だからこの区域内の移動は基本的に徒歩なんだろう。街灯も少ないし、日没後は人々は皆外に出ないのかもしれない。なるほどね、確かに。出てみなければ分からないこともある」
ラウレンツ様は感心しているけれど、私はどちらかというとしょんぼりした。さっきから私の返事は明後日の方向へいくか疑問になるかのどちらかだ。
「……なんだか……なんだか、自分が世間知らずだと言われた気分です。私、エーデンタール王家に召し上げられてからは国で最も安全な場所でしか生活したことがなかったですし……」
「そんなものじゃないかな。誰だって自分が生まれた環境を平均的にとらえるものだよ」
「ラウレンツ様は各地に出向いたことがあるのですか?」
「……まあ、そうだね。ヴィル殿が各地を連れ回してくれたよ。その中でも、オストリン・ノイは中々極端な街だと思う。俺には少し歪に見えるよ」
言葉数少なく話題を変え、ラウレンツ様はそのまま歩き出した。
……あまり話したくないのかしら。助け船を求めてヴァレンを見る。でもヴァレンも首を傾げて返すだけだ。
この間、ベルシュラムの宿で話したときだってそうだった。ラウレンツ様は仕事のことになると饒舌なのに、自分のことになると口を噤む。むしろ、意識して仕事のことを話題にしているようにさえ見える。やっぱり、この人にとっては仕事が逃避なのかも。そうでなくとも、どうして自分のことを話してくれないのだろう。私だと聞き手として力不足かしら。意気消沈しながらも、でも問いただして現に「力不足」なんて言われては立ち直れないし、もう一度誤魔化されても心が折れるだろう。しゅん、と肩を落とすしかできなかった。




