28.恩恵と傲慢
市庁舎へ着き、最奥の応接室に通されると、期待通り、ニコラウスは調査官と談笑しながら夜に何のお酒を飲むか話しているところだった。ニコラウスのこの手の才能は本当に恐れ入る。
その担当調査官は若く、おそらく三十代後半ほど。私達が席に着くと、さっぱりと刈りこんだ鳶色の頭を軽く掻きながら「いやはや、殿下にお越しいただくとは」と参った様子で挨拶を始めた。
「我々調査官は現況を確認するのみで恐縮ですが、今最も勢いある帝国において足枷となっており、申し訳ございません」
「いや、こちらこそ、急に訪ねてくることになって申し訳ない。負担をかけてしまい恐れ入る」
次いでラウレンツ様は私とヴァレンのことも紹介してくれた。調査官はまず私を一瞥すると、少々難色を示す。例の、エーデンタール国の元婚約者ではないか、という件のせいだろう。
「どうかしたか?」
どんな反応をされても無視しておいてくれ、と言われたとおりに黙っておくと、代わりにラウレンツ様が踏み込んだ。そうされると、調査官は畏まるしかない。いえ、と短い掠れ声と共に、軽く頭を下げた。
「……ロザリア妃殿下にまでお会いできますとは、光栄で」
「もし妙な噂を聞いているなら勘違いしないでくれ。彼女はエーデンタール国とは無関係だ」
「……は」
そこまで言い切っていい……ものなのだろうか。相手は一調査官とはいえ、彼が知ることはノイマン公爵に伝わるおそれがある。アラリック王子に対する返答と矛盾するわけにはいかない。それをラウレンツ様が考えていないはずはない。
でもラウレンツ様にとってはそれだけで構わないようだった。何かを探すように書棚を含めた壁に視線を流す。
「ところで、その現況の資料を見せてもらっていいか」
「あ、はい、ええ、こちらに」
こちら、と示されたのは、部屋の一角に鎮座する小さなテーブルだ。ヴァレンがお座りすればそれでおしまいだろう。そんなところだからこそ、載っているのは片手で数えられそうな羊皮紙だけだった。私達の目の前に持ってこられたのもそれだけ。なまじテーブルが立派なだけに、ぽつんぽつんと置かれた羊皮紙はあまりにも頼りない。ラウレンツ様の眉間には皺が寄り、私も呆れてしまう。
「たったこれだけか……」
「は……しかし、必要なことは書いておりますし……」
ラウレンツ様が手に取って広げる横で、私も書簡を一つ広げてみる。書かれているのは数種類の作物と、まさかの矢印だけだった。
出た、記号。説明においては分かりやすく見えるけれど、いざ記録として残すと何を意味するのかさっぱり分からなくなりがちな、記号。
「……この矢印はどういう意味なんですか?」
思わず訊ねたけれど、調査官の反応は芳しくない。ただ、隣にラウレンツ様がいるからだろう、渋々といった様子で「前年に比べて悪かったというものです」と短く答えた。
「その前年の記録はどちらに?」
「そちらにご記載のとおりです」
「……矢印のみですが」
「前年は、一昨年に比べて良かったです」
「……一昨年の記録も矢印のみですが」
「まあ、一年前に比べてどうかということは常に体感で分かるものですし……」
頭を抱えたくなった。その前提が正しいとして、矢印が常に下向きなら「下がり続け」で構わないだろう。でもその肝心の矢印は上下に右まで三種ある。これでは前年との体感での比較以上のことは分からない。もちろん、作物同士の比較もできない。
ラウレンツ様もお手上げなのだろう。眉間の深い皺をほぐす以外できていない。調査官はどこか気まずそうな様子で「他の記録を探して参ります」と出て行ってしまった。
でもこの様子じゃ期待できないな……なんてところに、ふっとニコラウスが笑った。
「大した記録はないでしょうが、こんなものですよ。むしろよくここまでの記録があるものです」
「……そうか? 俺はここまで情報がないものを見たことがないが」
「そりゃあ、殿下は皇子殿下ですから。殿下のもとへ上がってくる情報は有識者によって理路整然と、過不足なく記載されていて当然です」
そう言われたらそうだけど、でもこんなめちゃくちゃな記録は“記録”と呼べないのでは……なんて私の懸念は、どうやら傲慢らしい。ニコラウスは別の書簡も広げたけれど、全く表情を変えずに頷いた。
「ラウレンツ殿下、恐れながら殿下の弱点を申し上げても?」
「構わないよ」
「殿下は恵まれすぎています。殿下は、話の通じない相手と話したことがない」
ラウレンツ様は眉を寄せた。馬鹿にされたと怒っているわけではないし、心外だと不快に感じているわけでもない。ただ、そういうものか、と言いたげだ。
でも確かに、モンドブルク宮殿の官僚は皆優秀だ。うんうん、横で頷いていると、なぜかニコラウスの顔は私にも向いた。
「そしてロザリア様、それは貴女もです」
「私……ですか?」
私はアラリック王子と長年に渡り接してきたのですが? そう言いたいのを堪えて続きを促すと、ニコラウスはどこか得意げに口角を吊り上げた。
「ええ。モンドブルク宮殿然り、統治者の働く場はその国内最高峰であり、集まる者もまた選りすぐりの人材です。記録をとれと命じれば、なぜその命令が下されたか、その意を汲むためには何を書きつける必要があるかを考え理解する者が多い。しかしそれは特殊な環境ですよ」
「……言われてみれば」
アラリック王子はそういった、いわゆる手を動かす立場にはない。彼は決定権を持つだけだ。だから私がその相手をしていたことなど大した問題ではない。
そしてニコラウスの言うことは、エーデンタール王城でもモンドブルク宮殿でも同じこと。私(とラウレンツ様)が接する相手は貴族の当主か官僚ばかりで、しかもその官僚も各職務を代表するほどの方と決まっている。確かに、と私は頷いた。
「選りすぐりの人材ですし、何よりラウレンツ様が書類に目を通し、必要なものは指摘しますから……いわば学べる環境でもありますよね。でも例えばここではそうではないです。そうでなくとも、この記録が公爵家にとって必要十分であればそれでいい」
「ええ。しかも、公爵家が直轄領に必要とするのは主に税収でしょう? 大きな変動がなければそう気にしない……結果さえあれば過程までは見ないのです。特にオストリン・ノイは安定して塩を供給できますから、全体としての心配事はごく小さなものに留まる。忙しい公爵が現地に任せきりにしてしまうのも無理はない」
なるほど……。感心しながら頷いた。考えてみれば、ニコラウスのモルグッド伯爵家も飛地は有している。領地が広くなればなるほどその管理が大変になるのは自然の摂理で、安定した税収が見込める領地とその逆の領地とを比べると、前者を放置してしまうのは仕方がない。
「もちろん、この手の“記録”に殿下とロザリア様が慣れる必要はない。時間の無駄ですからね。ただ、そういう話はあると知っておいて損はないでしょう」
「つまり何を言いたい、ニコラウス」
「最初に申し上げた通り、“こんなもの”です。世の中では『契約書は巻いたぞ』と息巻いて出てくるのが手控えと見紛う程度のものだった、などざらです。何の合意をしたのか契約書からはさっぱり分からず、手紙のほうがよっぽど有用なこともあるのですから」
というわけで、とニコラウスは記録を隅に寄せた。
「こういった場合は泥臭く、他の情報筋に当たるのが一番です。その上で記録と照合する。これが答えを得るための一番の近道ですよ」
「なるほどね。そうと決まれば、オストリン・ノイに出入りしているベルシュラム商会の人間を捕まえようか。彼らほど交易品の出入りに詳しい者はない」
「となれば、さきほどの調査官にはベルシュラム商会の担当者を紹介してもらいましょう」
ニコラウス、やるじゃない! 見直すと同時に、少しばかり悔しい気持ちも出てきた。私だってラウレンツ様の役に立ちたいのに。これではお株を奪われてばかりだ。
むむむと、私にもできることがないか考える。ふと、オストリン・ノイへ来る前にラウレンツ様と話していたことが浮かんだ。
「……そういえばラウレンツ様、オストリン・ノイには商人が必要なんじゃないかって話していらっしゃいませんでした?」
「ああ、その件か。そこはまだ保留中だな」
頷きながら、ラウレンツ様は屋敷の外へ視線を投げる。
「商人が必要だと考えたのは、オストリン・ノイの交易品が基本的に塩ばかりだからだ。塩は遠方へ運ぶ必要があるものの、なにせ保存がきく。だから帝国内へ運ぶのに問題はないが、穀物を運ぶとなれば話は別だ。エーデンタール国へ出すことも考えようとすれば、足掛かりになるのはうちの商会だと思ってね」
ただ、その穀物がさして振るわないのであれば少々話は別である、というわけだ。
「ベルシュラム商会もいる以上、下手に縄張り争いをするわけにはいかない。とはいえ人脈というのは商会によって違うものだ、お互いいい取引をできればいいと思ってるよ」
いい取引……ラウレンツ様の商会は何を望むだろう。何かは分からないけれど、少なくともラウレンツ様は一石二鳥では済ませない方だ。やっぱり、私ではあまり役に立てていないかも。むむむと、さらに口を引き結ぶ羽目になった。




