27.潮の香りと土の匂い
オストリン・ノイ地方は、まだ春だというのに突き抜けるような青い空のもとにあった。今日は雲も一つもない。暖かいと想像はしていたけれど、ここまでとは。木綿のドレスでよかった。
城門をくぐる前に、ラウレンツ様は馬車を止めた。私達が降りると後ろからニコラウスも降りてくる。スン、とその鼻がわざとらしく匂いをかいだ。
「ほんの少しですが、潮の香りがしますね。都市は海から離れているとばかり思っていましたが」
潮の香り……私もスンスンと意識して匂いをかぐ。でもあまり分からなかった。どんな香りだろう、潮の香りって。
「いや、その点は見越したうえで都市部としたはずだよ。オストリン・ノイは叔父上が自ら都市を作ったからね」
どうやらまだ新しい街らしい。まだ都市内部の様子はよく見えないが、こうして体を傾けると、どことなく帝都とは様子が違う気がする。その違和感が何か分からず観察し続けてしばらく、三階建て以上の建物がないことに気が付いた。全体的に建物の背が低いのだ。帝都やベルシュラムと同じ、どれもレンガ造りの建物なのに、妙に様子が違ってみえるのはそういうこと。
なぜだろう。新しい街ならなおさら、高い建物を作る技術が足りなかったとは思えないのだけれど……。
「ところでニコラウス、君は先に市庁舎へ向かってもらっていてもいいかな」
「ああ、例の調査官のもとへですか」
帝国では、各領地を有する貴族がその広大な領地の管理のため調査官を雇っている。領地を細かく分断して担当調査官を決め、定期的に報告を上げさせているのだそうだ。
「構いませんが、私で構わないのですか?」
「君の口の上手さは買っている。調査官に対しては……そうだな、皇子が来ていると伝えて構わない。その代わりノイマン公爵家の味方だと――下手な口出しをしに来たわけではないと印象付けさせたい。そのために先に向かっておいてほしい」
「畏まりました」
ラウレンツ様の評価は、それは裏を返せば「お前の言うことは割り引いて聞いているからな」ということだ。それにニコラウスが気付かないはずがないけれど、ニコラウスはしっかりと口角を挙げて拝承した。もしこの二人の化かし合いが始まれば、私は何も見抜けないに違いない。
ニコラウスがもう一度馬車に乗り込んで城門へ向かうと、ラウレンツ様は逆方向へ足を向ける。
「さてロザリア、俺達は少し外の様子も見て回ろうか」
「農村の様子を、ということですね。もちろんです」
今回の目的だし、何より邪魔者もいない。ドンと胸を叩いてみせた。でもラウレンツ様は無言だったので何か間違えたかもしれない。少し前にお忍び監査で城下へ降りたときと似ていた気がするけれど、だとして何の間違いだったのかはやはり分からない。
城門の外に広がる農村はどことなく寂れていた。畑らしいものはあるものの、充分に耕されているとはいいがたい。どちらかというと放置され荒れているように見えるし、住居もまばらだ。
「城門は立派ですし、中も普通の都市と同じように見えましたけれど……おかしいですね」
もちろん、城門の内外で居住地としての整備状況が全く違うのは当たり前だけれど、それにしたって違い過ぎる。外から少し見ただけでも、あの城門の内側はさぞかし居心地がいいだろうと見当がつくのだ。
「例のベルシュラム商会はオストリン・ノイの商売もしているのでしょう? であれば物の流通はあるはずですし、地域としてもそれなりに栄えるように思いますが」
「もともとベルシュラムは基幹産業があったからね、発展する土壌作りが必要なかったんだ。少し状況が違う」
「塩はとれるのにですか?」
「エーデンタール国と隣接しているだろう? 今でこそ落ち着いたものの、国境沿いで小競り合いも絶えない場所だった。落ち着いて農業をしている場合ではなかったし……特に海の反対側は野山で、畜産も難しい。そうなると、都市とその外側との格差が大きいのかもしれないね。エリザベート様が不作だと話していただろう?」
ラウレンツ様が見遣ったのは海の方向だ。
「塩の専売権を持っている連中――町の人間は豊かなんだ。しかしその権利を持たぬ農民の暮らしは推して知るべしだろう」
「なるほど……公爵家の懸念もそこにあるということですか……」
貧富の差は貧民側の不満に直結する。ただでさえ、ここからはあの巨大な城門が見えているのだ。ノイマン公爵家の他の領地の噂が舞い込むことで、農村側の不満はさらに大きくなるだろう。
「でもこの様子を見ますと、今に始まったことではないですよね?」
「いや、最近の話だと思うよ。海の向こうはネーベルハイン国なんだが」
ここからでは城壁が邪魔して見えないけれど、海辺へ寄れば向こう岸はネーベルハイン国だという。ラウレンツ様が指さしてくれた。
「ネーベルハイン国との国交に尽力してくれたのが、他でもない叔父上だ。オストリン・ノイが莫大な利益を上げ始めたのはその国交ありきで、そう昔のことではない」
「といっても十年は経つのではないです? 国にとっては短くとも、人にとっては長いですよ」
私にとっては、エーデンタール王家に召し上げられてから追い出されるまでの時間に等しい。思わず口にしてしまうと、ラウレンツ様は少し呆気にとられ、次いで恥ずかしそうに口を覆い隠した。
「……それはその通りだった。木を見て森を見ずとはよく言うが、逆だったな」
「そうなると、エリザベート様が心配なさる……公爵が気を揉むのも分かる気がしますよね。実際、土の質は帝都と随分違う気がします」
その場で屈んで、軽く掘るように地面を撫でる。雨上がりの匂いが鼻をついた。
「土の質?」
「はい。オストリン・ノイって、結構雨が多いんじゃないです? 特に夏……」
それでは果物や小麦が夏を越せないだろう。そう考えると、不意に建物の背の低さに納得がいった。海風が強いうえに、下手をすれば嵐もくるのだろう。高層階の建築には危険が伴うし、建築後も耐久性の問題があるに違いない。
「でも、そんなに雨が多いのはどうしてかしら……ヴァレンの影響でもいかんともしがたい、ってこと?」
「いかんともしがたいというか、私とは関係のないことだな」
乱暴な言葉ではあるけれど、言い方はいつも通りだった。ヴァレンも鼻で地面を掘るようにして土の匂いをかぐ。
「地域が違えば天候が違う。いくら食物が育ちやすくなるからといって、大陸のどこもかしこも最適な雨量、最適な気温、最適な土壌にするべきなど、そんな荒唐無稽な話があるものか」
例えばそれは、辺境伯領で育つ果物とここで育つ果物が全く同じであるはずない、ということ。どこもかしこも小麦が豊作で仕方がないなんて、そんなことは有り得ないと。
「海があれば空気は湿ろう、山に囲まれた冬は雪が降るまい。それをあれこれ操作することを天災というのだ」
「そう言われたらそうねえ……。あなたの加護は豊穣といっても、あるべき姿の最適解に近付けることだものねえ……」
「……最適解か」
ラウレンツ様も私達に倣ってその場に屈みこんだ。上等な手袋を外し、躊躇いなく土を掬ってみせる。でも「俺には分からないな」と頭を振った。
「……ただ、ヴァレンがいる以上、これ自体は悪い状態ではないはずだね」
「そうだな。何にとって最適であるか、それを考えるのは人の仕事だな」
「であれば、この辺りに留まっていても仕方がない。俺達も市庁舎へ向かおうか」
なんだ、ラウレンツ様と二人でもう少し一緒にいられると思ったのに、残念。肩を落としたけれど、まあ、仕事だし、仕方ない。




