26.体温と暖炉
でもラウレンツ様の表情が一瞬消えた。何かまずいことを言ったかしら。でも本当に一瞬だった。すぐに笑みは戻る。
「そうか。ベルシュラムは帝都とはまた違う雰囲気があるからね、楽しかったかい?」
「え、ええ、まあ……」
気のせいだったかしら……いや気のせいにしては妙にはっきり見えたような……。
「帝都はやっぱり華やかですし、いちいち目に入るものも洗練されていて、中心地にいる満足感みたいなものはありますけれど……ベルシュラムは温かいといいますか……空気ではなくてですね、なんとなく、誰もが楽しげにしている雰囲気が好きといいますか」
「ああ、貴族は保守的で商人は前衛的だからね。……あまり一括りにできるものではないけど。帝都にいると少しびっくりするようなものもあるかもね」
「ええ、特にあのラウレンツ様がニコラウスに行かせた、あの商会館! 商会があんなにも大きな建物を持っているなんて驚きました」
あのような展示品があってですね、とそこに置いてある椅子を指さすと、展示されていたものと同じだった。なるほど、さすがベルシュラム商会の用意する宿泊先。きっと家具も調度品もすべてベルシュラム商会お手製に違いない。
「今日はあまりゆっくり見て回ることはできなかったのですが、新しい場所というのは楽しいですね。経由できてよかったです」
ラウレンツ様は無言になった。つまらなさそうなわけでもなければ、呆れているわけでもない。ただ、そうか、と少し眉尻を下げながら微笑んだだけだった。
「……それならよかった。ニコラウスと一緒にいれば、君も肩の力が抜けたところはあっただろう」
「なんでニコラウスなんですか! 私はラウレンツ様と一緒に歩くのを楽しみにしていたんですよ!」
何を言うのだこの皇子! 眉根を寄せて心外な顔をしてみせると、ラウレンツ様は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「もともと、今回の視察にニコラウスが同行するなんて聞いておりませんでしたし! ああもう、これだって! 商会長に舐められないためにつけておけなんて言われて結局外し方も分からずに……」
この腕輪、と掲げてみせると、手が伸びてきた。驚く間もなく、長い指先が腕輪と手首の間に滑り込んできてくすぐったい。というか恥ずかしくて耳が少し熱くなった。
パチンと音がしたかと思うと、不思議なことに腕輪が割れ、手首から外れた。私が何をどうやっても外せなかったのに、ラウレンツ様は器用だ。
「……まあ、そうだね。舐められないためというか、さり気なくこういったものを身に着けていると、相手も気分がいいだろう」
「……ニコラウスの提案が正鵠を射ているとして、それはそれで複雑な気分です」
ラウレンツ様はそのまま腕輪を自分の机上に置いた。そのままニコラウスに返しておいてください、と付け加えたけれど、苦笑するだけで返事はなかった。
「あ、そうです、それでですね。私が我儘を言っていいなら、今度は一緒に参りましょう。オストリン・ノイでご一緒するのも、もちろん歓迎しております」
そしてあわよくば、ラウレンツ様にも羽を伸ばしていただきたい。
ふふん、と得意になって笑んだ後で、そうだと今晩の目的を思い出す。
「ところでラウレンツ様、私の務めはまだ終わっておりませんというか、これからです」
「何の務……いや、俺は構わないけれど、もう遅いだろう。明日も朝は早いし、休んだほうがいいんじゃないか」
「いえいえ、お休みになるからこそ意味があるのです」
部屋に入れてもらったときと同じ顔をされた。でも構わずに、さあさあと両手でベッドを示す。
「ラウレンツ様はあまり長くお眠りになりませんでしたよね。特にベルシュラムの夜は肌寒いですから、お一人では寝心地も良くありませんでしょう」
「……どこかで聞いたような口上だな」
「あっそういえば雇われ当初はよく縁談がございましたね! 今やすっかりなくなって、ご心労も少なくなって良かったです」
そういえばそんな話もありました。笑いながら立ち上がり、ラウレンツ様の腕を引っ張ってみるけれど、びくともしなかった。こんなところで屈強さを教えてくれなくてもいいです。
「まあまあラウレンツ様、ご安心ください。何も怪しいことをしようというのではありません」
「じゃあ何をしようとしてる」
「背中を温めると体全体が温まっていいので、背中に体温をと思いまして!」
ラウレンツ様はやはり無言だった。かと思えば、ややあって「……いや」とぎこちなく片手を動かす。
「……一人で休むから、心配しないでくれ」
「何を仰るのです、体温には暖炉や火鉢とは違う心地の良さがあります。さあさ、ご遠慮なさらず!」
「いやだから俺は――」
押し問答が終わる前に、ぴょんとヴァレンが寝台に飛び乗った。ど真ん中に偉そうに寝そべり、ぺろんと尻尾を降ろす。そのお尻を軽く叩いた。
「こらヴァレン、もう少し寄りなさい。ラウレンツ様が横になれないでしょう」
「ふん、神獣を脇に寄せるなど生意気だぞ。案ずるな、私は寝ている間は大人しい。誤って蹴飛ばすことなどせん」
「そういう問題じゃないのよ。ラウレンツ様に休んでもらうためなのに、窮屈な思いをさせちゃいけないでしょう」
「…………ロザリア」
「あ、大丈夫です、私の部屋の前にも護衛が立ってますし。ヴァレンも、隣の部屋にいるなら大丈夫とのことで」
一晩くらいヴァレンをお貸しするつもりで参りましたので! そう晴れやかに告げたのだけれど、ラウレンツ様は額を押さえ、そのまま俯いて顔を隠していた。
「……心遣いを、ありがとう。俺はどうでも構わない」
「もう、ラウレンツ様ったら……ヴァレンを甘やかすと調子に乗りますよ?」
「むしろ調子に乗せたほうがいいぞ。私は今や帝国に加護を及ぼしているのだからな」
ラウレンツ様の姿勢は変わらなかった。同じ格好で固まったまま、うわごとのように呟く。
「……まあ、隣に獣が寝てくれることほど温かいことはないだろうな」
「誰か獣だ。神をつけろ」
「あ、では私は自室に戻りますので! 今晩はどうぞゆっくりお休みなさい!」
これで二人ももっと仲良しになったら私も嬉しいわ。るんるんと足取り軽く部屋を出るとき、背中からは「いやだとしてさすがにもっと寄ってくれ」「密着することを許そう」と既に仲良しな交渉が聞こえていた。




