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prologue.03:Come on Let's Dance


 式もホームルームも無事に終わり、ようやく一息ついた俺は、

 元就と一緒に教室を出た。

 これから待ち合わせ場所へ向かうところだ。


 入学式を終えたばかりだというのに、今日はやけに長い一日だった気がする。

 慣れない制服に、初めての教室、見知らぬクラスメイトたち。

 緊張する場面の連続だったせいか、校舎を出るころには、

 肩の力がすっかり抜けていた。


 隣を歩く元就も、どこかほっとした様子だった。


 「初日から、なかなか濃い一日だったな」


 俺がそう言うと、元就は小さく笑った。


 「そうだね。でも、思っていたよりは悪くなかったんじゃない?」


 「ああ。クラスの連中とも少し話せたしな」


 「なら、上出来だね」


 そんなことを話しながら、第3校庭へと続く緩やかな下り坂を歩いていく。

 第3校庭とは、主に高校1年生が使用する校庭だそうだ。

 ……っていうか、校庭いくつあんのよ!


 春の陽射しが心地よく、風に乗って桜の花びらが舞っていた。

 ふと、坂の下から聞き覚えのある声が響いた。


 「おーい! 雫! 元就!」


 顔を上げると、こちらに向かって大きく手を振っている男子の姿が見えた。

 見間違えるはずもない。

 本樹だった。


 「おっ、来た来た!二人とも、待ってたぜ!ハッハー!」


 相変わらずのハイテンションな笑顔で駆け寄ってくる。

 その姿を見た途端、自然と頬が緩んだ。

 中学を卒業してから、およそ1か月。


 春休み中も連絡は取り合っていたし、

 まったく顔を合わせていなかったわけではない。

 それでも、こうして三人そろって同じ場所に立つのは、

 やっぱり特別な感じがした。


 「よっ、本樹。元気そうだな」


 「おう!雫も元就も元気そうだな!」


 本樹は俺と元就の顔を交互に見て、満足そうに頷いた。


 「二人とも、入学式どうだった? 変な失敗とかしてないよな?」


 「お前は俺たちを何だと思ってるんだよ……」


 思わず呆れた声が出る。


 「いやいや、こういう大事な日に限って何かやらかすのが雫だろ?」


 「おい、勝手に決めつけるな!」


 「ははっ、まぁまぁ。二人とも、相変わらずだね」


 元就が楽しそうに笑う。

 その言葉に、俺も本樹も顔を見合わせた。

 確かに、こういうやり取りは中学のころから何も変わっていない。

 卒業して、高校に進んでも、こうして顔を合わせれば、

 すぐにいつもの調子に戻れる。

 それが、何だか無性にうれしかった。


 「そういや、春休みはどうだった? 高校の部活、もう慣れたのか?」


 俺が尋ねると、本樹は待ってましたとばかりに胸を張った。


 「ハッハー! 最初は先輩たちの練習についていくので精いっぱいだったけどな。最近は少しずつ慣れてきたぜ!」


 「へぇ~。結構大変そうだな」


 「チームが変わると大変だからな。だけど、やっぱサッカーは楽しいからな! 絶対レギュラーを勝ち取ってやる!」


 力強く言い切る本樹。その目は、すでに先の目標を見据えているようだった。


 「元就のほうは?」


 「僕も吹奏楽部に参加してたよ。練習の進め方も中学とは違うし、覚えることは多いけどね」


 元就は穏やかな口調で答えた。


 「でも、早いうちから先輩たちと一緒に練習できたのはよかった。目標に向けて、やるべきことも見えてきたし」


 「相変わらず真面目だなぁ、元就は!まったく!」


 本樹が感心したように言う。


 「本樹だって、レギュラーになるって張り切ってるじゃないか」


 「そりゃそうだ!目標は高いほうがいいからな!チョモランマよ!」


 「チョモランマはようわからんが……その自信、少しは俺にも分けてほしいよ」


 俺が冗談めかして言うと、本樹はきょとんとした顔をした。


 「何だよ、雫。お前だって、これからいろいろできるだろ?」


 「まあ、それはそうなんだけどさぁ~」


 「だったら問題なッシング!no problem!」


 あまりにもあっさりと言い切られて、俺は思わず苦笑した。


 「お前、お悩み相談には向いてなさそうだよな」


 「何でだよ!俺、結構いいこと言っただろ!」


 「いや、言いたいことはわかるけど……」


 元就まで笑い出し、三人の間にいつもの空気が戻ってくる。

 せっかく天気もいいのだから、もう少し話していこうということになり、

 俺たちは校庭の隅にあるベンチへと向かった。


 腰を下ろすと、頭上の桜から花びらがひらひらと舞い落ちてきた。

 中学のころも、こうして三人で何気ない話をしたものだ。

 放課後にくだらないことで盛り上がったり、将来の話をしたり。

 あのころは、毎日が当たり前のように続いていく気がしていた。


 けれど、中学卒業という区切りを迎え、今は高校生になった。

 同じように笑い合っていても、少しずつ環境は変わっている。

 そう思うと、懐かしさと一緒に、ほんの少しの寂しさも込み上げてきた。


 「それにしても、二人とも春休みから部活に参加してるんだよなぁ」


 俺が改めて口にすると、本樹が大きく頷いた。


 「そうだぜぇ!だから、入学式って感じはもうあんまりしないんだよな。校舎にも何度も来てるし」


 「僕も、今日が初めてって感じはしなかったかな」


 元就も同意する。


 「そう考えると、俺だけちょっと出遅れた気分だな。ちと、悔しいぜ」


 「何言ってんだよ。まだ始まったばっかりだろ?」


 本樹は不思議そうに首を傾げた。


 「僕たちだって、まだ高校生活に慣れ始めたところだしね。雫は雫のペースでいいんじゃない?」


 元就も穏やかに続けた。


 「そうそう。焦る必要なんて、これっぽちもないって!ハッハー!」


 本樹が大きく頷く。


 「それに、これからも同じ高校で過ごすんだぜ?何かあったら相談すればいいだろ?」


 「……お前、ホントたまに、まともなこと言うんだな」


 「たまにって何だよ!たまにって!!玉煮って!煮卵かよ!」


 すかさず意味不明な抗議をする本樹に、

 俺と元就は顔を見合わせて笑った。


 「……すまん、まともなことは言わないんだな」


 「really?」


 「really?じゃねえんだよ!」


 けれど、二人の言葉は素直にうれしかった。


 春休みから一足先に高校生活を始めていた二人。

 その姿を見ていると、自分も何か目標を見つけなければと、

 少し焦っていたのかもしれない。


 でも、今すぐ答えを出す必要はないのだろう。

 まずは、新しい環境に慣れること。

 いろいろなことを経験して、その中から自分が本当にやりたいことを

 見つけていけばいい。

 そんなふうに思えた。


 「よし!じゃあ、改めて高校での目標を発表しようぜ!」


 突然、本樹が勢いよく立ち上がった。


 「はぁ?何だよ、急に」


 「いいから、いいから!まずは俺から!」


 本樹は咳払いを1つすると、やけに堂々と胸を張った。


 「俺は、高校で絶対にサッカー部のレギュラーを勝ち取る!そして、チームの勝利に貢献する!以上!」


 「おお、いいね!いいね!言葉にするのは、気持ちが入るからね!」


 元就が拍手を送る。


 「だろ?次、元就!」


 「僕は、吹奏楽部で夏のコンクールに出場して、全国大会で金賞を取ることだね」


 元就は静かに言った。


 いつもの落ち着いた口調だったが、その目には確かな意志が宿っている。


 全国大会で金賞。


 口にするのは簡単でも、実現するのは決して容易ではない。

 それでも、元就の表情には迷いがなかった。


 「ヒャッハー!!さすが元就!言うことがでかいな!」


 「本樹だって、レギュラーになるって言ったでしょ?」


 「それはそうだけどな!全国大会で金賞って、トップ・オブ・トップだろ?」


 「そうだけど、やるからにはね」


 二人のやり取りを聞きながら、俺は少し考え込んだ。

 さて、俺はどうしようか。

 二人には、すでに明確な目標がある。

 それに比べて、俺にはまだ、

 これといって胸を張って言えるものがなかった。


 「で、雫は?」


 本樹に顔を覗き込まれ、俺は少しだけ言葉に詰まった。


 「俺は……そうだな。とりあえず、いろんなことに挑戦してみたいかな」


 「いろんなこと?」


 「ああ。まだ自分が何に向いてるのかも、何を本気でやりたいのかも、よくわかってないからさ。だから、まずは興味を持ったことに手を出してみようと思ってる」


 言葉にしてみると、それほど悪い目標でもない気がした。

 少なくとも、何もせずに立ち止まっているつもりはない。


 「いいんじゃね、それ!」


 本樹は迷いなく言った。


 「やってみなきゃ、向いてるかどうかなんてわからねぇからな!」


 「……そうだね。うん、雫らしいと思うよ」


 元就も頷いた。


 「焦らずに、いろいろ試してみればいいんじゃないかな」


 「……二人とも、ありがとな」


 少し照れくさくなって、俺は視線を逸らした。


 「おっ、何だよ。急にしおらしくなってよ!ハッハー!」


 「うるさい。本樹は黙ってろ!」


 「ひでぇ!」


 また笑い声が上がる。


 春の午後。柔らかな日差しと、頬を撫でる心地よい風。

 校舎を見上げると、窓ガラスが陽光を反射してきらきらと輝いていた。

 これから、どんな学園生活が待っているのだろう。


 何かに夢中になる日もあれば、

 思いどおりにいかずに悩む日もあるかもしれない。

 それでも、こうして一緒に笑い合える親友がいる。


 それだけで、これからの三年間が少し楽しみになった。

 しばらく話し込んでいるうちに、ひと段落し、まったりモードへ移行した。


 「そろそろ帰ろうか」


 元就が時計を確認して立ち上がる。


 「だな。俺も今日は早めに帰って、明日の練習に備えないと」


 本樹もベンチから腰を上げ、軽く伸びをした。


 「本樹、明日も部活か?」


 「ああ!朝から練習だぜぇ。まぁ、レギュラーを狙うなら当然だな!ハッハー!」


 「はいはい。頑張れよ」


 「おう!雫も元就も、高校生活を楽しめよ!」



 俺たちは和嵐駅の東口からバスに乗り込んだ。


 窓の外には、春の街並みがゆっくりと流れていく。

 入学式のことや部活動のこと、これから始まる学園生活のこと。

 話題は次から次へと移り変わり、俺たちの会話が途切れることはなかった。


 特別な話をしているわけじゃない。

 くだらないことで笑ったり、思いついたことを何となく口にしたり。

 そんな、いつもと変わらないやり取りが妙に心地よかった。


 そうして、尽きることのない他愛もない会話を楽しんでいるうちに、

 二十五分ほどが過ぎた。


 やがて、聞き慣れた車内アナウンスが流れる。


 俺たちは小学校前のバス停で降り、

 午後の柔らかな日差しが降り注ぐ街の中へと足を踏み出した。


 元就と俺は家が近い。

 一方、本樹は途中で別の道に入ることになる。


 「じゃあ、俺はこっちだから。またな!」


 本樹はそう言って、いつものように手を振った。


 「おう。また明日な!」


 「練習、頑張ってね」


 俺と元就が声をかけると、本樹は親指を立てて応えた。


 「任せとけ! 明日には一段と上手くなってるからな!」


 「一日でそんなに変わるかよ!」


 「変わるぜぇ~、超~変わるぜぇ~!」


 最後まで調子のいいことを言いながら、本樹は笑顔で歩いていった。

 その背中が見えなくなるまで見送ってから、俺たちも帰路についた。


 「本樹、相変わらずだな」


 俺が言うと、元就は小さく笑った。


 「そうだね。でも、あいつらしくていいんじゃないかな?」


 「ああ。ああいうところは、見習いたいくらいだよ」


 「雫も、やりたいことが見つかるといいね。……でもさ、あぁ……いや、何でもないよ」


 「あぁ……うん、そうだな。まあ、焦らず探してみるよ」


 そんな話をしながら、俺たちは並んで歩いていた。

 やがて、俺の家が見えてきた。


 「じゃあな、元就。またな!」


 「うん。じゃあね、雫!」


 中学を卒業してから1か月。

 それぞれ新しい環境に足を踏み入れたけれど、

 こうして一緒に帰る時間は、あのころと変わらない。


 ただ、これからは少しずつ、話題も変わっていくのだろう。

 高校で出会った人たちのこと。部活動のこと。将来のこと。


 そんな新しい話が、これからの俺たちの思い出になっていく。

 今日一日を振り返りながら、俺は春の空を見上げた。


 新しい学校、新しいクラス、そして、これから出会うたくさんの人たち。

 まだ何もかもが始まったばかりだ。

 だからこそ、焦らずに一歩ずつ進んでいこう。


 いつか振り返ったとき、

 この学園生活がかけがえのない時間だったと思えるように。




 ああ、そういえば、まだ名乗っていなかったな。

 

 俺の名前は、天下雫(あまもと しずる)。

 今、この瞬間、心の中で「えっ、オレっ娘?」と思ったそこのあなた。

 安心してほしい。俺は正真正銘、純度100%の男子高校生だ。


 しかも、男子の中でもわりとガタイがいい方に入る。

 少なくとも、可憐な美少女を期待されても応えられない程度には。


 ……おや。今、少しがっかりした?


 さっきまで俺のことを美少女だと想像していたのなら、申し訳ない。

 どうやら期待とはずいぶん違う方向に話が進んでしまったらしい。

 残念ながら、華奢で可憐な美少女ではない。

 肩幅もそれなりにある、れっきとした男である。


 いや、そんなに落ち込まないでくれよ。


 そもそも、こうして早々に誤解を解いておけば、

 お互いに無駄な期待をせずに済む。

 そう考えれば、むしろ親切な自己紹介と言えるのではないだろうか。


 ……まあ、最初から「俺は男でーす」と一言添えておけば、

 ここまで回りくどい説明も必要なかったんだけど。


 とはいえ、俺が女の子に間違われるのは、今に始まった話じゃない。

 そのたびに訂正するのも、正直ちょっと面倒くさい。

 最初のうちは律儀に説明していたものの、

 最近では聞き流すことも増えてきた。


 だってさぁ、いちいち相手の勘違いを正すのも疲れるじゃないか。

 ちなみに、名前の読み間違いも日常茶飯事だ。


 「しずくちゃん!」と呼ばれるたびに、俺は一応訂正してきた。


 『し・ず・く』じゃなくて、『し・ず・る』だ、と。


 ……そう。

 女の子に間違われるうえに、名前まで女の子っぽく読まれるのである。

 ここまでくると、もはや偶然というより、何かしらの悪意すら感じてしまう。

 もちろん、そんなものがあるはずもないのだが。


 最近では、訂正するのもすっかり億劫になった。

 呼び方なんて、伝わってさえいればいい。

 そう自分に言い聞かせながら、

 今日も俺は「しずくちゃん」という呼び声を聞かなかったことにしている。


 そんな俺が暮らしているのが、ここ、和嵐(かずらん)市だ。


 和嵐市は、どこにでもありそうな中規模の街である。

 駅前にはそれなりに店が並んでいるものの、

 少し歩けば昔ながらの商店街がひっそりと姿を現す。

 看板の色あせた店や、年季の入った建物が軒を連ね、

 道を歩けばどこか懐かしい空気が漂ってくる。


 都会のような慌ただしさとは無縁で、

 かといって、何もない田舎というわけでもない。

 生活に必要なものは大抵そろっているし、

 少し足を延ばせば、それなりに楽しめる場所だってある。


 まぁ、わざわざ遠くから訪れるほどの観光名所があるかと聞かれれば、

 返答に困るところだけど。

 けれど、俺はこの街が嫌いじゃない。

 むしろ、気に入っている。


 近所のスーパーには、地元で採れた新鮮な野菜が並び、

 夕方ともなれば、買い物かごを手にした人たちでそこそこ賑わう。

 レジに並んでいれば、

 顔なじみのおばちゃんに声をかけられることも珍しくない。

 世間話に付き合っているうちに、

 気づけば買い物そっちのけで話し込んでいた、

 なんてこともある。


 商店街の隅にある自転車屋のおじちゃんとも、すっかり顔なじみだ。


 ……もっとも、つい先日そこを訪れたときは、

 あまり嬉しくない事情があったのだけれど。

 まあ、その話はまた別の機会にしよう。


 とにかく、この街には都会のような華やかさもなければ、

 思わず目を奪われるような刺激も少ない。

 流行の最先端を追いかけるには、少々物足りない場所なのかもしれない。


 それでも、ここにはここなりの良さがある。


 顔を合わせれば自然と挨拶を交わし、困っている人がいれば、

 誰かが当たり前のように手を貸す。

 お節介だと思うこともあるけれど、そういう何気ないやり取りが、

 案外この街を居心地のいい場所にしているのだと思う。


 少なくとも、俺にとってはそうだった。

 毎日、何か特別なことが起こるわけじゃない。

 見慣れた道を歩き、見慣れた店の前を通り、

 見慣れた人たちと顔を合わせる。

 昨日とよく似た今日がやってきて、今日とよく似た明日がやってくる。


 そんな日々を退屈だと言う人もいるだろう。

 けれど、変わらないということは、案外ありがたいものだ。

 いつもの場所に、いつもの景色がある。

 いつもの人たちが、いつもと変わらない顔でそこにいる。

 そんな当たり前が、ずっと続いていく。

 俺は、それで十分だと思っていた。



 俺が進学することになったのは、

 『私立 師新(ししん)学園大学附属中学校・高等学校』

 という、地元ではかなり有名な学園だ。


 中高大一貫校で、県内でも屈指の規模を誇る名門校。

 なんといっても特徴的なのは、その広大な敷地だろう。

 生徒会長が迷子になる理由の1つでもある。


 その面積、約三百ヘクタール。


 ……三百ヘクタールって言われても、

 正直、どれくらい広いのかピンとこないよな。


 とにかく、普通の学校とは比べものにならないくらい広い。

 校舎や体育館はもちろん、グラウンドや各種運動施設、

 芸術系の実習棟まで揃っている。

 敷地内には緑も多く、場所によっては学校というより、

 ひとつの街を歩いているような気分になるほどだ。


 初めて訪れた人なら、

 目的の建物にたどり着くだけでも一苦労するかもしれない。

 そんな学園に、俺はこれから通うことになる。


 もっとも、最初からここを目指していたわけじゃない。


 中学時代、俺の成績は上の下くらい。

 特別勉強ができるわけでもなければ、

 授業についていけずに苦労するほどでもなかった。

 テスト前にそれなりに勉強すれば、そこそこの結果は出せる。

 まあ、可もなく不可もなく、といったところだ。


 中学受験をしなかった理由は、

 小学校からの友達と離れたくなかったからだ。


 特に畑葉元就(はたば もとなり)とは、昔からよく一緒に遊んでいた。

 進学先を決めるときも、できることなら今までどおり、同じ学校に通って、

 放課後も一緒に過ごしたいと思っていたんだ。


 結局、俺は友達の多くが進学する公立中学校を選んだ。

 今思えば、ずいぶん単純な理由だと思う。

 でも、当時の俺にとっては、それが何より大切だった。


 ……まあ、放課後の過ごし方まで思い描いたとおりになったかというと、

 そうでもなかったんだけど。


 じゃあ、どうして今になって、この学園に進学することになったのか。


 理由は、俺の成績が急に伸びたからでも、

 猛勉強の末に難関校を突破したからでもない。


 きっかけは、芸術だった。


 美術や音楽、技術・家庭科。

 昔から、そういう授業は好きだった。


 ただ、好きだからといって、専門的な知識をたくさん持っているわけじゃない。

 絵画の技法に詳しいわけでもなければ、

 音楽理論をきちんと理解しているわけでもない。


 それでも、なんとなくわかるんだ。


 こう描きたいとか、こんな音を出したいとか。

 頭で考えるより先に、感覚が答えを見つけてくれる。


 絵を描くときも、楽器を演奏するときも、俺はその感覚を頼りにしていた。


 もちろん、いつも思いどおりにいくわけじゃない。

 それでも、周りからは不思議なくらい高く評価されることがあった。


 地域の美術展では何度か最優秀賞をもらい、

 地元の新聞に作品が掲載されたこともある。

 自分としては、ただ夢中になって作っていただけなんだけどな。


 そんな俺の作品を見た人が、師新学園への推薦を勧めてくれた。


 師新学園には、一般的な進学校としての一面だけでなく、

 芸術分野に力を入れた教育環境も整っている。

 美術や音楽をはじめ、

 さまざまな分野に挑戦できる設備や施設が揃っているらしい。


 しかも、ひとつの分野だけにこだわる必要はないという。


 絵を描くことも、楽器を演奏することも、何かを作り出すことも。

 興味を持ったものに、自由に手を伸ばせる環境がある。


 そう聞いて、少し興味が湧いた。


 自分の才能がどこまで通用するのかなんて、考えたこともなかった。

 将来、何をしたいのかも、まだはっきりとは決まっていない。

 ただ、ここなら何か面白いことが見つかるかもしれない。


 そんな気がしたんだ。


 それに、これだけ広い学園なら、

 今まで知らなかったものにもたくさん出会えるだろう。


 ……うん。そう考えると、ちょっと楽しみになってきた。


 まさか自分が、こんな大きな学園に通うことになるなんてな。

 人生、何があるかわからないものだ。


 それに、何より嬉しかったのは、元就と同じクラスになれたことだ。


 まさか、また同じ教室で過ごせるなんてな。

 これから一緒に授業を受けたり、

 休み時間にくだらない話で盛り上がったり……

 そんな何気ない毎日が、今から楽しみで仕方ない。


 せっかく同じ学校に通うんだから、

 元就とはこれまで以上にたくさんの思い出を作りたいと思っている。


 もっとも、もう一人の親友である藤嶺本樹(ふじみね ほんじゅ)とは、

 残念ながら別のクラスになってしまった。


 本樹はサッカーのスポーツ特待生だから、所属するコースが違うんだよな。

 まあ、同じ学園にいることには変わりないし、会おうと思えばいつでも会える。

 そこまで寂しがることでもないだろう。


 ……たぶん。


 そんなわけで、振り返ってみれば、

 今回の進学はなかなかいい結果だったと思う。


 もちろん、新しい環境に馴染めるかどうか、少しくらい不安はある。

 でも、元就がそばにいるし、本樹だっている。

 それに、この学園で初めて出会う人たちもたくさんいるはずだ。


 そう考えると、不安よりも楽しみのほうが大きい。


 この広い学園で、どんな人と出会うんだろう。

 今まで知らなかったことを知ったり、

 思いがけないことに夢中になったりするのかもしれない。

 もしかしたら、自分でも想像していなかったような毎日が待っているのかも。

 そう思うと、なんだかワクワクしてくる。


 さて、これからどんな学園生活が始まるのやら。


 ……うん。楽しみになってきた。


 ……まあ、進学先を決めた一番の理由は、家から近い。

 なんだけどね。



 入学式が終わり、初めての週末がやってきた。


 慣れない制服に、初対面のクラスメイト。

 入学式ではそれなりに緊張もしたし、気疲れだってした。

 だからこそ、休日くらいはのんびり過ごしたい。


 ……なんて言うと、いかにも年寄りくさいけど。


 いやいや、別にいいだろう。

 十六歳だって疲れるときは疲れるんだ。

 むしろ、こういうときに慌てず騒がず、

 自分の時間を大切にするのが大人の余裕というもの。


 うん。我ながら、なかなかいいことを言った気がする。

 誰も聞いていないけど。


 さて、そんな俺の自宅は、

 父さんが経営する建築設計事務所を兼ねた三階建ての家だ。


 一階は事務所と駐車場。

 設計図や建築模型、仕事道具なんかが並んでいて、

 父さんの仕事場らしい雰囲気が漂っている。


 二階にはリビングやキッチン、それに俺の部屋がある。

 家族が集まる場所でもあり、俺が一番長い時間を過ごすフロアだ。


 三階は両親のプライベートスペース。

 仕事を終えた父さんが本を読んだり音楽を聴いたりしている姿を、

 たまに見かける。


 そして地下には、もともと建築資材を保管していた倉庫がある。


 ……まあ、今ではすっかり別の用途に使われているんだけどね。

 その話は、また別の機会にしておこう。

 とにかく、仕事場と生活空間が一緒になっている家というわけだ。


 そんな我が家のバルコニーで、俺は朝のストレッチをしていた。

 春の風が頬を撫で、木々の間から差し込む日差しが心地いい。

 桜の季節もそろそろ終わり、街のあちこちで新緑が目立ち始めている。


 ひと通り身体を伸ばしたところで、俺は軽く肩を回し、

 腕や脚の筋肉をほぐしていく。

 ストレッチのあとは、いつもの筋トレだ。


 別に、誰かに自慢できるような身体を目指しているわけじゃない。

 ただ、身体を鍛えるのは嫌いじゃなかった。

 地道に続けた分だけ、少しずつでも成果が返ってくる。

 そういうところは、なかなか信用できる。


 筋肉は裏切らない、なんて言葉もあるくらいだしな。


 それに、これから何か新しいことを始めるにしても、

 体力があって困ることはないだろう。

 楽器を弾くにしたって、姿勢を保つにも、腕を動かし続けるにも、

 結局はそれなりの筋力が必要になるのだ。


 そんなことを考えながら、俺は慣れた動作で腕立て伏せを始めた。


 身体を動かす習慣が身についたのは、たぶん中学時代の経験も大きい。

 あのころは部活で身体を動かす機会も多かったし、

 練習の前後に準備運動や身体のケアをするのも当たり前だった。


 今でも、身体を動かしていると自然と調子が整ってくる。

 こういう習慣だけは、高校生になった今も変わらないらしい。

 軽く体を伸ばし、深呼吸をひとつ。

 こうして朝の時間を大切にするのも、悪くない。

 さて、今日も一日頑張りますか。


 ……なんて、ちょっと意識高い系の高校生みたいなことを考えてみる。


 ひと通り体をほぐした俺は、満足してリビングへ戻った。

 ソファに腰を下ろし、テーブルに置いてあったコーヒーを手に取る。


 もちろん、ブラックだ。


 ……と言いたいところだけど、正確にはミルクを少し入れている。


 苦いだけの飲み物を無理して飲むほど、俺は大人じゃない。

 それでも、マグカップを片手に窓の外を眺めていると、

 なんとなく大人になったような気分になるから不思議だ。


 休日の朝。静かなリビング。お気に入りのソファ。淹れたてのコーヒー。

 完璧じゃないか。

 こういう時間を楽しめる人間こそ、心に余裕があるというものだ。


 ……うん。今日はやたらと自分に酔っている気がする。


 まあ、休日くらいは大目に見てほしい。

 そんな具合に、ひとりで優雅な休日を満喫していた、そのときだった。


 リビングの向こうから、母さんの声が聞こえてきた。

 どうやら親戚の叔母さんから電話がかかってきたらしい。

 母さんは楽しそうに挨拶を交わし、近況報告を始めた。

 久しぶりの電話なのだろう。話題は次から次へと移っていく。

 俺は特に気にせず、コーヒーをひと口飲んだ。

 親戚同士の電話なんて、だいたいそんなものだ。


 ……と、思っていた。


 ところが。


 「そうそう、雫もこの春から高校生になったのよ!」


 ぶふっ。


 危うくコーヒーを吹き出すところだった。

 おいおい、母さん。

 別に隠すようなことじゃないけど、

 わざわざ大きな声で報告しなくてもいいだろう。


 いや、まあ、進学の報告くらい普通にするか。

 うん。落ち着け、俺。

 こんなことで動揺するなんて、いかにも子供っぽいじゃないか。

 俺はマグカップをテーブルに置き、

 何事もなかったかのようにテレビへ視線を戻した。


 ……戻したのだが。


 「雫が通うことになったのはね、和嵐市にある私立の高校なのよ。地元では結構有名なの!」


 ぴくっ。嫌な予感がした。いや、まさか。

 頼むから、そこで余計なことを言わないでくれ。

 俺はテレビの音量をほんの少しだけ下げた。


 別に、聞き耳を立てているわけじゃないんだからね。

 ただ、自然と耳に入ってくるだけなんだからね。

 そう、自然と。


 「そっちの地域ではあまり知られていないかもしれないけど、和嵐市内では一番の私立高校なのよ♪」


 ……。


 …………。


 母さん。

 それは、やめてくれ。

 俺は顔を覆いたくなる衝動を必死にこらえた。

 いや、確かに間違ってはいない。間違ってはいないんだ。


 ただし、重大な補足事項がある。


 和嵐市内にある男女共学の私立高校は、そもそも一校しかない。

 つまり、母さんの言っていることは、厳密には正しい。

 正しいんだけど!

 それを知らない人が聞いたら、どう思う?


 「へぇ、すごい名門校なのね!」


 なんて反応をされる可能性だってあるじゃないか!


 確かに、名門校であることに間違いない。

 いや、実際に名門校だと誤解されるかどうかは知らない。

 知らないが……少なくとも俺は今、

 ものすごくいたたまれない気持ちになっている。


 しかも、俺が通うのは、勉強一筋の進学コースというわけでもない。

 もちろん、総合芸術コースが悪いわけじゃない。

 むしろ、これからの学園生活を楽しみにしているくらいだ。


 ただ……。


 母さんの説明が、なんだか妙に大げさなんだよ!

 俺はソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げた。

 落ち着け。


 ここで慌てたら負けだ。

 大人の余裕、大人の余裕……。


 そう自分に言い聞かせてみるものの、

 十六歳の俺に大人の余裕なんてものが備わっているはずもない。

 せいぜい、平静を装うのが精いっぱいだ。


 「へぇ、そうなの。じゃあ、雫くんもこれから楽しみねぇ」


 電話の向こうから、叔母さんの声が聞こえた。


 ……あぁ、もう。

 完全に話が進んでしまっている。


 俺はクッションを抱え、顔を半分だけ埋めた。

 母さん、お願いだから、もうその話題は終わりにしてくれ。


 これ以上、俺のいないところで俺の評価を勝手に上げないでほしい。

 いや、上がっているのかどうかも怪しいけど。


 そもそも、俺は何も悪いことをしていないはずだ。

 普通に高校へ進学して、普通に休日を過ごしていただけなのに。


 どうしてこんな公開処刑みたいな気分を味わわなきゃならないんだ。


 ……いや、公開処刑はさすがに言いすぎか。


 誰も俺を責めていないし、母さんだって悪気があるわけじゃない。

 わかっている。

 わかっているんだけど、

 こういうのって本人がいないところで話が盛り上がるからこそ、

 余計に恥ずかしいんだよな。


 俺はクッションを抱え直し、深いため息をついた。


 「……はぁ」


 せっかくの休日。

 せっかくの優雅な朝。

 コーヒー片手に、ちょっと大人っぽく過ごすはずだったのに。

 どうやら俺には、まだまだ修行が必要らしい。


 ……主に、母さんへの耐性という意味で。


 窓の外では、春の風に揺れる若葉がきらきらと光っていた。

 平和だ。

 実に平和な朝だ。


 ただし、俺の心の平穏だけは、きれいさっぱり吹き飛んでしまったけれど。

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