prologue.02:NERVOUS
古い商店街を抜け、緩やかな坂道を上り始めると、
道の両脇には満開の桜が続いていた。
桜の枝が空高く伸び、その隙間から柔らかな春の光がこぼれ落ちる。
風が吹くたびに花びらがひらひらと舞い、時折、肩や髪にそっと降りてくる。
足元には、風に運ばれた花びらが薄い絨毯のように広がっている。
その先から、いつもとは少し違う賑わいが聞こえてきた。
楽しげな話し声。時折響く笑い声。そして、誰かを呼ぶ保護者の声。
普段なら静かな朝を迎えているはずの坂道が、
今日はどこか浮き足立った空気に包まれていた。
桜並木を抜けると、目の前にひときわ高い建物が姿を現す。
『私立 師新学園大学附属中学校・高等学校』
歴史と伝統を感じさせる重厚な校舎は、
春の陽光を受けて穏やかな輝きを放っていた。
整然と並ぶ窓、その上にそびえる時計塔、手入れの行き届いた植え込み。
敷地内には新しい季節を迎える準備が整えられ、
校舎の前に広がる花壇にも色鮮やかな花々が咲いている。
正門の脇には、
今日の日付とともに『入学式』と記された案内板が設置されていた。
その傍らには、式場への道順を示す立て看板が並び、
教職員らしき人たちが来校者に声をかけながら、
慌ただしくも丁寧に案内をしている。
正門をくぐる人々の表情はさまざまだった。
緊張した面持ちで校舎を見上げる新入生。制服の襟元を直してやる保護者。
記念写真を撮ろうと、桜の木の下で立ち位置を相談する親子。
その一方で、慣れた様子で校内を歩く上級生の姿もあった。
新入生に道を譲ったり、迷っている親子に声をかけたりと、
それぞれが自分たちの日常の延長にあるような自然な振る舞いを見せている。
同じ制服を着ていても、そこに漂う空気は少しずつ違う。
これから始まる生活への期待に胸を弾ませている者もいれば、
慣れない環境を前に緊張を隠せない者もいる。
そんな一人ひとりの感情が入り混じり、普段の学園とは異なる、
独特の活気を生み出していた。
校舎の奥からは、椅子を動かす音や、
誰かがマイクの調子を確かめる声がかすかに聞こえてくる。
式場となる講堂では、きっと今も準備が進められているのだろう。
時計塔が静かに時を刻む。
その音を聞いたわけでもないのに、
ふと、時間が1つ先へ進んだような感覚を覚えた。
今日から、ここが俺の通う学園になる。
その実感が、桜の花びらと一緒に、少しずつ胸の中へ舞い落ちてくる。
……とはいえ。
新しい環境、新しい仲間、新しい生活。
期待が膨らむ一方で、これまで抱えてきた不安や悩みが、
そう簡単に消えてくれるわけでもなかった。
周囲を見渡せば、見知らぬ顔ばかりだ。
みんな、それぞれの思いを胸に、今日という日を迎えている。
そう考えると、ほんの少しだけ気が楽になった。
正門の前に立つ大きな桜の木の下では、
新入生とその保護者たちが次々と記念写真を撮っていた。
制服をきっちりと着こなした新入生たちは、少し緊張した面持ちで集まり、
互いにぎこちない挨拶を交わしている。
中には、すでに打ち解けた様子で談笑している連中もいた。
入学前からの知り合いなのか、それとも、この場で偶然話が弾んだのか。
どちらにせよ、ああいう輪に自然と入っていけるのは、少し羨ましい。
そんなことを考えながら眺めていると、近くでカメラのシャッター音が響いた。
続いて、母親らしき女性の明るい声が聞こえてくる。
「もう一枚撮ろうか。せっかくだから、桜も入れて!」
「えー、もういいって。早く行こうよ!」
照れくさそうに顔を背ける新入生と、それを笑いながら追いかける保護者。
ありふれた光景だ。
けれど、こういう何気ないやり取りが、
今日という日を特別なものにしているのかもしれない。
「ん~……新生活が始まる、って感じだよなぁ~」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
自分でも気づかないうちに、強張っていた肩から少しだけ力が抜けていた。
周囲に広がる新入生たちの声や、保護者たちのシャッター音。
教職員の丁寧な案内に、学園内から聞こえてくる式典の準備の音。
そのすべてが重なり合い、学園全体が今日という日を迎えようとしている。
そんな空気に触れていると、胸の奥にあった緊張も、
少しずつ和らいでいくような気がした。
……それでも。
心の奥底には、どうしても拭いきれないモヤモヤとした感情が残っている。
それは、あの卒業式の日からずっと続いているものだ。
(気持ち……切り替えていこうか。あいつらとは、式が終わったら校庭で合流だったな)
心の中でそうつぶやきながら、俺は深く息を吸い込んだ。
目の前にいるのは見知らぬ顔ばかりだが、
幼馴染の畑葉元就と藤嶺本樹のことを思い出すと、
少しだけ気持ちが楽になる。
彼らは小学校からの親友だ。
そして、同じ高校に進学することになった。
今日からは、また三人で同じ学園に通うことになるのだ。
クラスがどうなるかはわからないが、
少なくとも、完全に一人きりというわけではない。
そう考えると、少しだけ心が躍った。
「なるほどね……この雰囲気、悪くないねぇ……」
今度は、先ほどよりも自然に言葉が出てきた。
正門の向こうには、式場へ向かう新入生たちの列ができ始めている。
案内をする教職員の声に従い、
少しずつ人の流れが校舎の中へと吸い込まれていく。
その流れを眺めながら、俺はふと、これから始まる日々に思いを巡らせた。
どんな友達ができるのだろう。
どんな授業が待っているのだろう。
そして、この学園で過ごす時間は、どんな思い出になっていくのだろう。
まだ何もわからない。
けれど、わからないからこそ、楽しみだと思える部分もあった。
あのころのように、何気ない日常を過ごし、
くだらないことで笑い合える時間が、また戻ってくるのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は改めて、伝統ある校舎を見上げた。
春風が吹き抜け、桜の花びらが視界を横切る。
その向こうで、時計塔の針が静かに進んでいた。
(よし、行きますかね!)
もう一度、深呼吸をする。
胸の中に残る不安は、まだ消えていない。
それでも、さっきよりは少しだけ前を向ける気がした。
俺は制服の襟元を軽く整え、学園内へと歩き出す。
周囲では、同じように一歩を踏み出す新入生たちの姿があった。
緊張した顔も、期待に輝く顔も、
どこか落ち着かない様子も、みんなそれぞれだ。
けれど、今日この場所にいる誰もが、これから始まる何かを前にしている。
俺も、その一人だった。
桜の花びらが舞う春の朝。
私立 師新学園高校での、新しい日々が始まろうとしていた。
学園内を一歩、また一歩と進んでいく。
背筋がほんの少し伸びた気がした。
中央の校舎に足を踏み入れた瞬間、目の前に広がったのは、
想像をはるかに超える広大なホールだった。
高くそびえる天井。磨き上げられた床には、
壁一面の窓から差し込む春の日差しが柔らかく反射している。
明るく開放的な空間でありながら、どこか厳かな雰囲気も漂っていた。
壁や柱の随所には、長い年月を重ねてきた学園の歴史が刻まれている。
新しいものと古いものが、不思議なほど自然に調和している。
そんな印象を受けながら奥へと視線を向けると、
ひときわ大きな扉が目に入った。
その先には、今日のメインイベントである入学式の会場、講堂があるらしい。
講堂へ向かう通路の壁には、さまざまなポスターや掲示物が並んでいた。
文化祭で盛り上がる生徒たちの写真に、全国大会で活躍した運動部の記録。
文化部が制作した作品の紹介や、
地域の人々と協力して行ったイベントの報告まである。
どれも色鮮やかで、写真に写る生徒たちの表情からは、
充実した学校生活が伝わってくる。
その中に、ふと足を止めたくなる掲示物があった。
学園の卒業生を紹介するコーナーだ。
スポーツ界で活躍する選手や、
さまざまな分野で功績を残した人物たちの写真が並んでいる。
中には、ニュースで名前を聞いたことのある有名人もいた。
その一角に、音楽関係者を紹介する小さなパネルがあった。
黒と紫を基調としたスタイリッシュなデザイン。
その中央には、見覚えのあるバンドのロゴが印刷されている。
――FAL nothing。
思わず、目を見開いた。
「……えっ、マジか?」
小さく声が漏れる。
そこには、FAL nothingのヴォーカル、紫弦の名前が記されていた。
卒業生の一人として紹介されているらしい。
紫弦といえば、独特のハイトーンボイスと、
静かな歌い出しから一気に感情を爆発させるような
歌唱が魅力のアーティストだ。
普段はあまり多くを語らないらしいが、
歌詞には繊細さと激しさが同居していて、
聴くたびに新しい発見がある。
俺がFAL nothingを好きになったのも、
そんな紫弦の歌声に心をつかまれたからだった。
まさか、自分がこれから通う学園の卒業生だったとは。
パネルの説明文には、在学中の詳しいエピソードまでは書かれていなかった。
ただ、卒業生として名前が紹介されているだけだ。
それでも、十分だった。
この学校のどこかで、紫弦も授業を受けたり、友人と話したり、
放課後を過ごしたりしていたのだろうか。
そんなことを考えると、急にこの学園が身近な場所に思えてきた。
(師新学園って、こんなに活気があるんだなぁ。しかも、紫弦の母校とか……すげぇ。想像以上だぜぇ)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
入学前から好きなアーティストとの思わぬつながりを見つけられたのは、
なんだか幸先がいい。
もう少し掲示物を眺めていたい気持ちもあったが、
周囲には同じように講堂を目指す新入生たちがいる。
名残惜しさを感じながらも、俺は再び歩き始めた。
講堂へ近づくにつれ、人の声が少しずつ大きくなっていく。
大きく開かれた扉をくぐると、春の空気とともに、
桜色の装飾が目に飛び込んできた。
壇上には淡いピンクと白を基調とした花々が飾られ、
中央には学園の校章が掲げられている。
壁際にも春らしい飾り付けが施され、普段は非常に静かであろう講堂が、
今日ばかりは華やかな式典会場へと姿を変えていた。
あちこちから、新入生たちの弾んだ声や笑い声が聞こえてくる。
友人同士で写真を撮る者。緊張した面持ちで配布資料を確認する者。
どこか落ち着かない様子で周囲を見回す者。
それぞれに違う表情を浮かべながらも、
誰もが新しい生活の始まりを迎えようとしていた。
俺も、その一人だ。
入口の受付でクラスを告げられ、受け取った資料で座席表を確認し、
指定された席を探す。
何度か列を見間違えそうになりながら、
ようやく自分の席を見つけて腰を下ろした。
周囲には、まだ顔も名前も知らない新入生たちが座っている。
隣の席の生徒は配布された資料を真剣に読み込んでいるし、
前の列では、すでに隣同士で話を始めている二人組もいた。
ついさっきまで、俺もこれからどんな奴らと三年間を過ごすことになるのかと、
少なからず緊張していた。
知らない顔ばかりの教室。初めて交わす挨拶。少しずつ築いていく人間関係。
もちろん、それはそれで楽しみだ。
だけど――。
俺は手元の資料を開き、クラスメイトの名前が並ぶ一覧に目を走らせた。
上から順番に確認していくと、見慣れた名前が目に飛び込んできた。
――畑葉元就。
思わず、その名前のところで視線が止まる。
……ん?
もう一度、確認する。
見間違いじゃない。
そこには確かに、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染の名前があった。
「……っ!」
胸の奥が、ぽんっと弾んだ。
(おっ、元就いるじゃん♪ ラッキー♪ ラッキー♪)
思わず口元が緩む。
いや、これは嬉しい。
めちゃくちゃ嬉しい。
元就とは小さい頃からの付き合いだ。
今さら同じ学校に通うこと自体は、そこまで珍しい話でもない。
けれど、同じ学園に入学できただけでも十分嬉しかったのに、
まさか同じクラスにまでなれるとは思っていなかった。
新しい環境に飛び込むのは、誰だって多少なりとも不安がある。
どんなクラスになるのか。
気の合う友達はできるのか。
毎日楽しく過ごせるのか。
そんな漠然とした不安が、心のどこかにあったのも事実だ。
けれど、元就の名前を見つけた途端、胸の中にあった小さな緊張が、
嘘みたいにほどけていった。知っている顔が1つある。
それだけのことなのに、こんなにも心強い。
しかも、ただの顔見知りじゃない。
くだらないことで笑い合って、時には喧嘩もして、
それでも気づけば隣にいた、あの元就だ。
そんな相手と、これから同じ教室で授業を受ける。
朝、教室で顔を合わせて、何気ない話をして。
休み時間にはくだらないことで盛り上がって。
もしかしたら、今まで知らなかった元就の一面だって見られるかもしれない。
これまでは幼馴染として一緒に過ごしてきたけれど、
これからはクラスメイトとしても一緒にいられるのだ。
そう考えるだけで、これから始まる学園生活が急に楽しみになってきた。
(いやぁ~、これは幸先いいんじゃないか? 入学早々、こんな当たりを引くとは思わなかったぜ♪)
資料を持つ手に、自然と力がこもる。
別に、元就と同じクラスになれたからといって、
何か特別なことが起こると決まったわけじゃない。
明日からだって、きっといつもどおりだ。
顔を合わせれば、くだらない話をして、いつものように笑う。
そんな日常が続いていくのだろう。
……でも、その『いつもどおり』を、この新しい場所でも続けられる。
それが、たまらなく嬉しかった。
俺はもう一度、資料に記された元就の名前を眺めると、
込み上げてくる笑みをどうにか抑えた。
――さて。
出席番号が離れているってことは、元就の席は俺から結構離れているはずだ。
(畑葉だから、めっちゃ出席番号離れてんだよなぁ~。後ろの席にもういるのかな?)
そう思い、さりげなく肩越しに後ろを振り返る。
新入生たちが座る列を目で追いながら、見慣れた顔を探した。
まだ式も始まっていないというのに、俺の心はすっかり浮き立っていた。
だって、これから始まる三年間には、最初から元就がいるのだから。
講堂の空気は少しひんやりとしていた。
胸いっぱいに吸い込んだ空気をゆっくり吐き出すと、
強張っていた肩の力が抜けていく。
やがて、式の開始時刻が近づいた。
ざわめきが少しずつ収まり、教職員が壇上へと姿を現す。
司会者の案内に続いて新入生の入学が告げられると、
講堂には凛とした空気が満ちていった。
校長先生の式辞は、落ち着いた口調ながらも力強かった。
学ぶことの意味。失敗を恐れず挑戦することの大切さ。
そして、三年間という時間を、誰かに与えられるだけのものにせず、
自分自身の手で豊かなものにしてほしいという願い。
形式的な挨拶にとどまらない言葉の数々に、自然と背筋が伸びた。
……が、長い。長すぎる。おかしい。
校長先生の話が長いと言うのは、ドラマ等のお決まりの設定ではないのか?
リアルで体験するのは、苦痛以外の何物でもないのだが。
続いて、来賓の紹介が行われる。
地域の教育関係者や、学園と長年交流のある団体の代表者に続き、
一人の男性の名前が読み上げられた。
この地域を地盤とする、国政の場でも長く活動してきた大物政治家だった。
師新学園の卒業生でもある彼は、現在、地元の再開発事業や
交通網の整備に関する取り組みにも関わっているという。
駅周辺の整備計画や新たな公共施設の建設など、
この街で暮らす人々にとって身近な事業にも、
その名前が見られることがあるらしい。
壇上に立った男性は、落ち着いた濃紺のスーツに身を包み、
集まった新入生たちをゆっくりと見渡した。
威圧するような態度はなく、かといって気安さを前面に出すわけでもない。
長年、多くの人の前で話してきた人物らしい、
よく通る声と無駄のない所作が印象的だった。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」
穏やかな声が講堂に響く。
彼は、かつて自分がこの学園の生徒だった頃の思い出を、短く語った。
友人たちと過ごした日々や、思い通りにならないことに悩んだ経験。
今になって振り返れば、そうした何気ない時間こそが、
自分を形づくる大切な一部だったのだという。
そして、話題は学園の外へと移っていった。
「この街も、これから少しずつ姿を変えていきます。新しい駅前の施設や、人が集まる場所ができれば、暮らし方も、街のにぎわいも変わっていくでしょう。けれど、街をつくるのは建物だけではありません。そこで学び、働き、誰かと出会う人々がいてこそ、街は生きた場所になるのだと思います」
その言葉に、男性は一度だけ壇上から講堂内を見渡した。
「皆さんがこの学園で何を学び、どんな人と出会い、どんな未来を思い描くのか。それが、いつかこの街の未来にもつながっていくかもしれません。どうか、自分の可能性を狭めず、さまざまなことに挑戦してください」
最後に、彼は深く一礼した。
会場からは、礼儀正しい拍手が沸き起こった。
俺も周囲に合わせて手を叩きながら、先ほどの話を思い返していた。
街の開発だとか、駅前の施設だとか、正直なところ、
今の自分にはまだあまり実感の湧かない話だった。
それでも、この学園が単に勉強をするだけの場所ではなく、
地域とも深くつながっていることは伝わってきた。
壇上の男性は、祝辞を終えると、
ほかの来賓たちと共に静かに席へ戻っていった。
特別に何かを誇示する様子もなく、式はそのまま次の進行へと移っていく。
ただ、彼の語った街の未来という言葉だけは、なぜか少し耳に残った。
来賓の挨拶が終わると、続いて生徒会長による歓迎のスピーチが始まった。
先ほどまでの厳かな空気が、少しずつ和らいでいく。
壇上に立った先輩は、背筋をぴんと伸ばし、講堂を見渡した。
凛とした立ち姿には、さすが生徒会長と思わせる風格がある。
けれど、新入生たちの緊張した表情を目にすると、ふっと口元を緩めた。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。生徒会長の聖泉玲子です」
先輩はそこで一度言葉を切り、胸を張った。
「と、堅苦しい挨拶はこのくらいにしておきましょう。皆さん、今、ものすごく緊張していますよね?」
まるでこちらの心を見透かしたような言葉に、あちこちで小さな笑いが漏れる。
先輩は満足そうに頷いた。
「実は私も、入学式の日は緊張していました。何しろ、校長先生のお話が長くて……途中で、あと何分だろうと考えてしまったくらいです」
講堂が一瞬、静まり返った。
そして次の瞬間、あちこちから吹き出すような笑い声が上がった。
俺も思わず口元を押さえる。
いや、生徒会長がそれを言っていいのか。
そんな俺の心の声が聞こえたわけでもないだろうが、先輩は涼しい顔で続けた。
「もちろん、校長先生のお話は大切です。私も生徒会長として、しっかり拝聴しておりました」
そこで、ほんの少しだけ間を置く。
「……時計を確認した回数については、ノーコメントとさせていただきます!」
今度こそ、講堂中が笑いに包まれた。
先輩はその様子を満足げに見渡すと、何事もなかったかのように姿勢を正した。
「さて。冗談はこのくらいにして、皆さんに1つだけ覚えておいてほしいことがあります」
声の調子が変わった。
先ほどまでの軽やかさはそのままに、言葉の一つひとつが、
すっと耳に入ってくる。
「この学園には、勉強はもちろん、部活動や文化祭、修学旅行など、皆さんが楽しめる機会がたくさんあります。けれど、学園生活を楽しくするのは、用意された行事だけではありません」
先輩は、講堂の隅々まで目を配るようにして話を続けた。
「自分から誰かに話しかけてみる。興味のある部活動を見学してみる。やったことのないことに挑戦してみる。そうした小さな一歩が、思いがけない出会いや経験につながることもあります」
その言葉には、単なる綺麗事ではない説得力があった。
きっと、この先輩自身も、そうやって学園生活を切り開いてきたのだろう。
「もちろん、何もかも上手くいくとは限りません。私だって失敗はします。生徒会長だからといって、何でもできるわけではありませんから」
そこで先輩は、なぜか少しだけ胸を張った。
「ただし、困ったことがあれば生徒会に相談してください。皆さんの学園生活が充実したものになるよう、私たちも全力でサポートします!」
おお、と小さなどよめきが起こる。
頼もしい言葉だった。
……が。
「なお、生徒会室の場所がわからない場合は、遠慮なく聞いてください。私もたまに、書類を持って学園内をさまよっていますので、案内くらいはできると思います」
再び、笑い声が広がった。
さっきの宣言は何だったんだ。
いや、待て。
生徒会長が学園内で迷うって、どういうことだ?
俺が内心で突っ込んでいる間にも、先輩はいたって真面目な顔をしていた。
「安心してください。迷っているときも、生徒会長としての自覚は失っていません」
きっぱりと言い切る。
「……方向感覚は、少々失っていますが?広すぎるんですよっ!この学園っ!」
講堂がまたしても笑いに包まれた。
先輩はそれを咎めるどころか、どこか得意げに頷いている。
まるで、今の一言まで計算どおりだったとでも言いたげだ。
この人、絶対に面白がっている。
けれど、不思議と軽薄な印象はなかった。
冗談を言って場を和ませながらも、話すべきところではきちんと話す。
ふざけたことを口にしても、その立ち姿や言葉の端々には、
生徒会長としての自信と責任感が感じられた。
「皆さんにとって、この三年間がかけがえのない時間になることを願っています。そして、もし学園生活で悩んだり、困ったりしたときには、一人で抱え込まないでください。先生でも、友人でも、もちろん生徒会でも構いません。頼れる相手を見つけてくださいね」
先輩は最後に、柔らかな笑みを浮かべた。
「皆さんが、この学園に入学してよかったと思えるように。私たち生徒会も頑張ります。改めて、ご入学おめでとうございます!」
深々と一礼する。
その動作には、一切の隙がなかった。
直後、講堂いっぱいに拍手が響き渡った。
俺も自然と手を叩いていた。
凛とした立ち姿。堂々とした話しぶり。
それでいて、時折飛び出す妙に人間味がある冗談。
なんというか、思っていた生徒会長像とはずいぶん違う。
もっとこう、眉1つ動かさずに校則を読み上げるような、
近寄りがたい人を想像していたのだが。
あの先輩なら、学園内で会っても気軽に話しかけられそうだ。
……いや、学園内で迷子になっているところに遭遇したら、
まず道を教えてあげるべきなのだろうか。
……いや、俺も迷子になる可能性があるのか?
そんなことを考えて、俺は小さく笑った。
(なんだ、思っていたより楽しそうじゃん)
そう思えたことが、何よりもうれしかった。
やがて拍手が収まり、先輩が壇上を降りると、
式は再び厳かな雰囲気を取り戻した。
司会者から閉式の言葉が告げられ、新入生としての最初の大きな行事が、
こうして幕を閉じた。
周囲では、ほっとしたように息を吐く生徒や、
さっそく友人同士で言葉を交わす生徒たちの姿が見られた。
俺も小さく息をつく。
長いようで、終わってみればあっという間の時間だった。
けれど、これで終わりではない。
むしろ、本当の始まりはここからだ。
式が終わると、新入生たちは案内に従ってクラスごとに分かれ、
それぞれの教室へと向かい始めた。
俺も配布された書類を手に、
これから三年間を過ごすことになる教室を目指して歩き出した。
その途中、ふと壇上にいた生徒会長の姿を思い出す。
あの堂々とした立ち振る舞いと、最後まで崩れなかった涼しい顔。
それから、方向感覚を失っているという、あまりにも生徒会長らしくない告白。
……うん。
この学園、思っていた以上に面白い人がいるらしい。
新しい教室に足を踏み入れると、窓から差し込む柔らかな光が、
教室全体を明るく照らしていた。
整然と並んだ机と椅子。
その一つひとつが、これから誰かの居場所になっていく。
まだ誰のものとも決まっていないような、真新しい教室の空気。
そこに足を踏み入れた途端、
いよいよ高校生活が始まるのだという実感が湧いてきた。
廊下からは、ほかのクラスの生徒たちの話し声が聞こえてくる。
すでに打ち解けているように見えるグループもあれば、
少し離れた場所で所在なさげに立っている生徒もいた。
どうやら、緊張しているのは俺だけではないらしい。
そう思うと、ほんの少しだけ気が楽になった。
指定された席に腰を下ろし、俺は自分の制服に目を落とした。
ネイビーブルーのブレザー。
中学時代に着ていた学ランとはずいぶん印象が違う。
袖口を軽く引っ張り、胸元のボタンに指を触れてみる。
まだ着慣れないせいか、どこか落ち着かない。
それでも、こうして新しい制服に身を包んでいると、
これから始まる生活への期待が自然と膨らんでくる。
ふと顔を上げると、少し離れた席に座っていた元就と目が合った。
元就は軽く顎をしゃくり、こちらに笑いかけてくる。
どうやら、向こうも俺が同じクラスになったことに気づいていたらしい。
俺も小さく笑い返した。
知っている顔が一人でもいる。
それだけで、知らない場所に放り込まれたような心細さは
ずいぶん薄れるものだ。
もっとも、いつまでも元就に頼っているわけにもいかない。
せっかくの高校生活だ。新しい友達だって作りたい。
そんなことを考えていると、隣の席から控えめな声が聞こえてきた。
「あの……」
振り向くと、隣に座っていた女子が、少し緊張した面持ちでこちらを見ていた。
「あ、えっと……秋月恵夢です。よろしくね」
彼女はそう言って、ぺこりと頭を下げた。
どうやら、自己紹介をしてくれたらしい。
「天下雫って読むんだ。よろしくな」
俺も軽く頭を下げる。
「天下くん、か。珍しい名字だね」
「よく言われるよ。秋月っていうのも、なんか綺麗な名字だな」
「えっ、そ、そうかな?」
思いがけなかったのか、秋月さんは少し目を丸くした。
それから、照れくさそうに笑う。
「ありがとう。そんなこと言われたの、初めてかも」
「そうなのか? 結構いいと思うけど」
「ふふっ、ありがとう」
最初こそぎこちなかったものの、二言三言と交わすうちに、
彼女の表情からも少しずつ緊張が抜けていった。
会話らしい会話をしたわけではない。
それでも、こうして言葉を交わせただけで、
さっきまで遠く感じていた隣の席が、少しだけ身近に思えた。
そのときだった。
「なあ、天下くん。ちょっと聞いていい?」
後ろから声がした。
振り返ると、男子生徒が椅子から身を乗り出し、
興味津々といった様子でこちらを見ていた。
「ん? どうした?」
「いや、さっきから気になってたんだけどさ。天下くんって、向こうの席のあの人と知り合い?」
「ああ、元就? 中学からの付き合いだよ」
「やっぱり! さっき目が合ったとき、なんか普通に笑い合ってたからさ。知り合いなのかなって」
彼は納得したように頷いた。
「俺、まだ誰ともまともに話せてなくてさ。知ってる人がいるって、やっぱりいいよな」
「まあ、知ってる顔があると安心するのは確かだな」
「だよなぁ。俺なんか、さっきから誰に話しかけようか考えてたんだけど、考えてるうちにタイミング逃しまくってるんだよ」
「それ、考えすぎじゃないか?」
「そうなんだよ! 頭の中では何回も話しかけてるのに、実際には1回も話しかけてないっていう」
「……それ、何の意味があるんだ?」
「俺にもわからん!」
あまりにも堂々と言い切るものだから、思わず笑ってしまった。
隣で聞いていた秋月さんも、口元を押さえてくすくすと笑っている。
「でも、今はちゃんと話しかけられてるじゃん」
「おお、確かに! 天下くん、いいこと言うな!」
「いや、そんな大したこと言ってないけど……」
妙に感心されて、少しだけ反応に困る。
すると彼は、ふと思い出したように手を差し出してきた。
「あ、そういえば自己紹介がまだだったな。俺、池上総士。よろしく!」
「天下雫。よろしく」
差し出された手を握り返す。
「秋月さんも、よろしくな」
「うん、よろしく!」
秋月さんも笑顔で頷いた。
「よし、これで二人目!」
「二人目?」
俺が聞き返すと、池上は指を二本立てた。
「今日、ちゃんと話せたクラスメイトの人数。さっきまではゼロだったから、これは大きな進歩だぞ」
「ずいぶん慎重なスタートだな……」
「うるさいな。これからどんどん増やしていく予定なんだよ!」
「はいはい、頑張ってくれ」
「おう、任せとけ!」
妙に頼もしい返事に、俺と秋月さんは顔を見合わせて笑った。
そんなやり取りをしているうちに、最初に感じていたぎこちなさも、
いつの間にか薄れていた。
「そういや、二人はもう部活とか決めた?」
池上が尋ねてくる。
「いや、まだ全然。いろいろ見てから決めようと思ってる」
「俺も。どの文化部にするか、迷ってるんだよな」
「秋月さんは?」
「私もまだかな。気になる部活はあるんだけど、実際に見てみないとわからないし……」
「じゃあ、見学の日にいろいろ回ってみるか」
池上の提案に、秋月さんがぱっと顔を明るくした。
「いいね。もしよかったら、一緒に回らない?」
「お、いいじゃん。天下くんもどう?」
「……そうだな。予定が合えば、ぜひ」
そう答えると、池上は満足そうに頷いた。
「よし、決まり! ……って、まだ何の部活を見に行くかも決めてないけどな」
「そこからかよ」
思わず突っ込むと、池上は悪びれもせず笑った。
「細かいことはこれから考える!」
そんなやり取りに、また三人で笑った。
もちろん、まだお互いのことをほとんど知らない。
趣味も、好きなものも、どんな性格なのかも、
これから少しずつ知っていくことになるのだろう。
それでも、最初の一歩としては十分だった。
窓の外に目を向けると、桜の木が淡いピンク色の花を咲かせていた。
風が吹くたびに花びらが舞い、春の陽射しの中をゆっくりと落ちていく。
俺はその光景を眺めながら、胸の内でそっと呟いた。
(また、新しい一歩を踏み出すんだな……)
中学を卒業し、これまでとは違う環境に身を置くことになった。
不安がないと言えば嘘になる。
これからどんなことが待っているのか、どんな人たちと出会うのか、
今の俺にはまだわからない。
けれど、さっきまでの会話を思い返すと、不思議と悪い気はしなかった。
隣では秋月さんが、池上の話に相槌を打ちながら笑っている。
少し離れた席では、元就もほかのクラスメイトと何やら話しているようだった。
それぞれが、それぞれのやり方で、新しい生活を始めようとしている。
俺もきっと、焦る必要はない。
知らないことがあってもいい。
うまく話せないことがあってもいい。
こうして少しずつ言葉を交わしながら、
自分の居場所を見つけていけばいいのだ。
そう考えると、胸の奥に残っていた緊張が、ゆっくりとほどけていく気がした。
この三年間で、俺はどんな人間になるのだろう。
どんな友達ができて、どんな経験をして、
どんな景色を見ることになるのだろう。
まだ何もわからない。
だからこそ、楽しみだった。




