prologue.01:Self Control
「じゃ、行ってきまぁ~す」
「気をつけて行くのよぉ~♪ 帰って夕飯食べるまでが入学式だからねぇ♪」
「そんな話、聞いた事がないんだよなぁ~」
母さんの妙な見送りの言葉に苦笑しながら、俺は自宅の玄関を出た。
目の前には、川沿いをバス通りへと続く、
舗装されていない砂利道が伸びている。
大小さまざまな石が敷き詰められたその道は、長年、人が歩き、
車が通ってきたせいか、ところどころで土が露出していた。
道には車のタイヤが通った跡が浅い轍となって残り、
その窪みに溜まった砂は、朝の風に吹かれてさらさらと表面を撫でている。
道の端には、雨に削られた土が小さな段差をつくり、
その隙間から名も知らない草が顔を出していた。
柔らかな緑の葉を広げた草の先には、朝露の名残だろうか、
小さな水滴がきらりと光っている。
さらにその脇には、踏まれて丸みを帯びた石や、白っぽい石灰色の小石、
赤茶けた土の色を残した石が入り交じり、
春の日差しを受けてそれぞれ違った色合いを見せていた。
俺は、一歩、足を踏み出す。
ザリッ……。
履き慣れない革靴の底が砂利を踏みしめ、乾いた音が耳に届いた。
体重をかけるたびに、小石同士が擦れ合ってカラカラと鳴る。
中には靴の下から逃げるように転がる石もあり、
足裏にわずかな凹凸が伝わってくる。
舗装された道なら意識することもない、ひと足ごとの不安定な感触。
それが妙に気になって、
俺はいつもより少しだけ足元に目を落としながら歩き始めた。
ザクッ、ザリッ、カラ……。
自分の歩く音だけが、静かな家の周囲に響いている。
ふと、視線を隣に流れる川へと向けた。
そこには、見慣れた川の風景が広がっていた。
川幅はそれほど狭くない。
両岸には土と岩が入り交じった斜面が続き、その上には草木が根を張っている。
岸辺に近い場所では、雨水に削られた土がむき出しになり、
ところどころに石が顔を覗かせていた。
長い年月をかけて水が土を削り、少しずつ形を変えてきたのだろう。
そして、川沿いの道から水面までは、ぞっとするほどの高低差がある。
高さにして、十メートルほど。
上から見下ろすと、水面はずいぶんと低い位置にあった。
岸から張り出した草の向こうには、灰色の岩肌や茶色い土の斜面が続き、
その下を川の水が絶え間なく流れている。
春の日差しを受けた水面は、ところどころで銀色にきらめいていた。
流れの緩やかな場所には空の青さが映り込み、
少し流れの速い場所では水が白く泡立ちながら岩にぶつかっている。
水面には小さな波紋が次々と生まれ、川下へと流れては消えていった。
耳を澄ませば、さらさらという水音が聞こえてくる。
穏やかな音だった。
少なくとも、今は。
――昔、俺はこの川に自転車ごと落ちたことがある。
ふと、そのときの記憶が頭をよぎった。
まだ小さかった頃のことだ。
どういう経緯でそうなったのか、今となっては細かな部分まで覚えていない。
けれど、あの高さだけは忘れようがなかった。
十メートル。
高校生になった今、改めて考えてみても、とんでもない高さだ。
道の上から見下ろすだけでも足元が落ち着かなくなるような場所から、
俺は自転車もろとも落ちたのだ。
もし落ちた場所が少し違っていたら。
もし川底の岩にぶつかっていたら。
もし、水の中から這い上がれなかったら。
そう考えると、背筋の奥がひやりとする。
よく助かったもんだ、ほんとに。
当時の俺がどれほど危険な目に遭ったのか……。
子供というのは、無茶をする生き物だ。
今になって振り返ると、無事だったことそのものが奇跡のように思える。
川を見つめていると、記憶の底に沈んでいた光景が、
少しずつ輪郭を取り戻していく。
目の前に広がる高い岸。
足元から突然消えていく地面。
身体が宙に投げ出される、あの一瞬の感覚。
そして、すぐ下に迫る水面。
実際にどこまで覚えているのか、
それとも後から何度も思い返すうちに記憶が形づくられたのか、
自分でもよくわからない。
それでも、川を目にするたび、
胸の奥に妙なざわつきが生まれるのは確かだった。
川の水は、今日も何事もなかったかのように流れている。
俺が落ちたことなど、とうの昔に忘れてしまったかのように。
水面を渡った風が岸辺の草を揺らし、枝先に咲いた小さな花をそっと震わせた。
陽光を反射する水のきらめきは美しく、のどかな春の風景によく似合っている。
それなのに、俺の目には、ただの穏やかな川には見えなかった。
家の前を通るたびに、こうして記憶が蘇る。
もう何年も前の出来事なのに、川を見下ろすと、
あの日の自分がまだどこかにいるような気がするのだ。
俺は小さく息を吐き、川から視線を外した。
ふと顔を上げると、砂利道の両脇には春の草花がぽつぽつと咲いていた。
道端の土から伸びた小さな花が風に揺れ、
その向こうでは庭木の枝が新しい葉を広げ始めている。
家々の敷地を囲む木々の隙間からは、淡い青色の空が覗いていた。
その先に続く道は、緩やかに曲がりながら遠くへと伸びている。
いつも見慣れた、なんの変哲もない道だ。
小さい頃から何度も歩いてきた。
小中学校へ行くときも、遊びに出かけるときも、家に帰るときも。
雨の日には泥が跳ね、風の強い日には砂埃が舞い、
冬になれば霜が降りて足元がぐちゃぐちゃになる。
そんな季節ごとの変化を繰り返しながら、この道はずっとここにあった。
そして、そのすぐ脇を流れる川もまた、ずっと変わらずそこにある。
けれど、今日だけは、いつもと少し違って見えた。
これから向かう先にあるのは、新しい学校。
新しい教室、新しいクラスメイト、そして、これまでとは違う生活。
そう考えると、踏みしめる砂利の音さえ、
どこか落ち着かないものに聞こえてくる。
「ふぅ……」
俺は歩みを緩め、肺の中に溜まった空気をゆっくりと吐き出した。
それから、春の空気を胸いっぱいに吸い込む。
柔らかな風が頬を撫で、木々の枝を揺らしていく。
頭上では、満開の桜が淡い桃色の花を枝いっぱいに咲かせていた。
風が吹くたび、枝先から花びらが一枚、また一枚と離れ、
陽光の中を頼りなげに舞い落ちてくる。
ひらり、ひらり。
風に乗った花びらは、砂利道の上を滑るように流れ、
ときには小石の隙間に引っかかり、ときには土の上にそっと着地した。
淡い桜色が灰色の砂利に混じる様子は、
まるで誰かが道に小さな彩りを添えているかのようだった。
鼻先をくすぐるのは、湿った土と草木の青い匂い。
それに、どこからともなく漂ってくる、ほのかな花の香り。
遠くから鳥のさえずりが聞こえ、枝葉の擦れ合う音が風に運ばれてくる。
空を見上げれば、雲ひとつないどこまでも澄んだ青色を広げ、その向こうに、
ちぎれた綿のような白い雲がゆっくりと浮かんでいた。
穏やかで、明るくて、どこか浮き立つような春の朝。
新しい生活の始まりを祝福するには、これ以上ないほどの天気だった。
――それなのに。
俺の胸の内には、どうしても拭いきれない重苦しさが居座っていた。
足元では相変わらず、砂利がザリザリと音を立てている。
頬を撫でる風は優しく、降り注ぐ日差しも温かい。
目の前には、桜の花びらが舞う美しい景色が広がっている。
それらすべてが、まるで俺ひとりを置き去りにして、
勝手に春を謳歌しているように思えた。
胸の奥に沈んだ、どろりとした暗い感情。
自分でもうまく言葉にできないそれは、時間が経つほどにじわじわと広がり、
心の内側を侵食していく。
まるで傷口の奥で膿が溜まっていくような、不快で、鈍く、重たい感覚だった。
せっかくの春の明るさも、満開の桜も、
今の俺にはどこか遠い世界の出来事のように感じられる。
俺はもう一度、足元に視線を落とした。
靴先で小さな石がひとつ、道の端へと弾かれる。
カラリ、と乾いた音がした。
その音を聞きながら、俺は歩き続ける。
「ちっ……あいつも同じ高校なのかよぉ……どっか違うとこに行けってんだよぉ~」
心の中で悪態をつくと、またあいつの顔と声が浮かんできた。
まったく、なんでこうも頭から離れないんだろうな。
あいつが何気なく口にした、あの一言。
たったそれだけのことだったはずなのに、俺の心の中では、
いつまでも小さな棘のように引っかかっていた。
中学卒業を目前にして、クラスメイトとの間に生まれた、ほんの些細な誤解。
最初は、少し話をすれば済むことだと思っていた。
お互いの言い分を聞いて、勘違いだったと分かれば、それで終わる。
今までだって、そんなことは何度もあったはずだ。
なのに、今回は違った。
言葉が足りなかったのか、それとも、
相手の言葉を最後まで聞こうとしなかったのか。
ほんの少しのすれ違いが、いつの間にか大きな亀裂になっていた。
気がついたときには、もう、
以前のように気軽に話しかけることさえできなくなっていた。
そして迎えた卒業式の日。
教室では、みんなが笑顔で写真を撮り合っていた。
肩を組んだり、ふざけ合ったり、別れを惜しんだり。
いつもとなんら変わらない、賑やかな連中の姿。
その中にいるはずの俺だけが、
まるで別の場所に取り残されているような気がした。
笑っているみんなを見ても、どこか他人事のようにしか思えなかった。
あいつらとだって、少し前までは普通に話していたんだ。
くだらないことで笑ったり、どうでもいい話で盛り上がったり……。
それなのに、たった1つの誤解で、こんなにも変わってしまうものなのか。
あの日、心の奥で何かが壊れたような気がしてならなかった。
砂利を踏みしめる足に、少しだけ力がこもる。
(人間は、戦闘民族だって聞いたことがあるけどさぁ~。今まで友達だったんだから、もう少し話を聞いてくれたっていいじゃねぇかよぉ……)
そんなことを考えながら、俺は道の先に目を向けた。
砂利道の向こうには、いつものバス通りが見えている。
そこまで出れば、あとはバス停まで歩くだけだ。
たったそれだけの道のりなのに、今日は妙に長く感じられた。
(……いや、俺だって、もっとちゃんと話せばよかったんだよな)
心の中で、ぽつりとつぶやく。
言葉が足りなかった。
お互いに、相手の気持ちを確かめることができなかった。
ただ、それだけのことだったのかもしれない。
そう思いたい自分がいる。
でも、あいつの言葉を思い出すたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。
どうして、あのとき、もっと落ち着いて先を考えなかったんだろう。
どうして、腹が立ったからといって、すぐに言い返してしまったんだろう。
どうして、分かってほしいと思うばかりで、
相手の言葉を理解しようとしなかったんだろう。
今になって考えれば、いくらでも思いつく。
けれど、あの瞬間に戻ってやり直すことなんてできない。
(もう少し、うまくやれてりゃなぁ……。言葉ってのは、ほんとムズイよなぁ……)
思わず、ため息が漏れた。
……いや、でも、全部が全部、俺のせいってわけでもないだろ。
あることないこと言いやがって。こっちの話も聞かずに決めつけやがって。
友達グループからはじきやがって。
そう考えると、また腹が立ってくる。
結局、俺は何度も同じところを行ったり来たりしている。
相手が悪いと思ったり、自分にも悪いところがあったと思ったり。
そのたびに、あのときのやり取りが頭の中で繰り返される。
考えたところで、何かが変わるわけでもないのに。
砂利道を抜けると、目の前にバス通りが広がった。
車が行き交う音が、途切れることなく耳に届く。
道路脇の用水路には、風が吹くたび、
桜の花びらがひらひらと舞い落ち、流されていく。
流れに乗った花びらが、寄り集まったかと思えば、すぐに離れ、
また別々の方向へ流れていった。
……なんだか、俺たちみたいだな。
そんな考えが浮かんで、すぐに苦笑した。
いやいや、何を詩人ぶってんだ、俺は。
けれど、あの花びらを見ていると、どうしても考えてしまう。
ほんの少し流れが違っていたら、どこかでまた一緒になれたのだろうか。
あのとき、もう少し冷静になれていたら。
あと一言、素直な言葉を口にできていたら。
せめて、最後まで話を聞いてくれたら。
今も、あいつらと普通に話せていたのだろうか。
(……ま、今さら考えたって、しょうがねぇか)
もう過去のことだ。卒業だってした。これからは新しい高校生活が始まる。
いつまでも昔のことを引きずっていたって、仕方がない。
そう、自分に言い聞かせる。
それでも、胸の奥に残ったわだかまりは、簡単には消えてくれなかった。
(まったく……敵がいなけりゃってかぁ?人間は争いごとからは逃げられないってかぁ?)
自嘲気味に笑ってみたものの、気分は晴れなかった。
バス停が近づいてくる。
道路脇に立つ標識を眺めながら、俺はふと、別のことを考えていた。
もし、どこかであいつと顔を合わせたら。
そのとき、俺はどうするんだろう。
知らないふりをして通り過ぎるのか。
それとも、何もなかったように声をかけるのか。
……いや、そんな簡単に割り切れるわけがない。
向こうだって、俺と話したいなんて思っていないかもしれない。
今さら何か喋ったところで、余計に気まずくなるだけかもしれない。
そう考えると、また足取りが重くなる。
だけど。
だけど、本当は――。
もう一度、ちゃんと話してみたい。
あのとき何を思っていたのか、何を誤解していたのか。
今さらかもしれないけれど、お互いに言えなかったことを、
もう一度だけ言葉にしてみたい。
仲直りしたい、と素直に認めるのは、なんだか負けを認めるようで癪だった。
だから、心の中でさえ、その言葉を口にするのをためらってしまう。
(……ま、向こうがどう思ってるかなんて、分かんねぇけどな)
あのときのことは、なかったことにはできない。
言ってしまった言葉も、傷ついた気持ちも、きっと簡単には元に戻らない。
それでも、もし次に話す機会があるのなら。
今度こそ、ちゃんと相手の話を聞こう。
自分の気持ちも、逃げずに伝えよう。
そんなことを考えながら、俺はバス停の古びたベンチに腰を下ろし、
少しだけ空を見上げた。
(……まあ、実際にできるかどうかは、別の話だけどな)
心の中でそう付け加えて、俺は小さく息を吐いた。
小学校前のバス停。
目の前に立つ見慣れた標識を眺めながら、
俺はふと、昔のことを思い出していた。
子供のころ、毎日このバス停の前を通って学校へ通っていた。
ランドセルを背負い、友達とくだらない話をしながら歩いた通学路。
道端の珍しい小石を見つけては足を止めたり、帰り道に寄り道をして、
親に怒られたり。
あのころは、毎日がそんな小さな出来事の繰り返しだった。
将来のことなんて、ろくに考えもしなかった。
明日がどうなるかなんて気にしなかったし、
自分がどんな人間になるのかなんて、想像すらしていなかった。
ただ、目の前にある楽しいことに夢中になっていた。
知らないことを知るのが楽しくて、
できなかったことができるようになるのが嬉しくて。
昨日まで何でもなかったことが、次の日には特別なことに思えたりもした。
今思えば、ずいぶん気楽な毎日だったんだろうな。
もちろん、あのころだって悩みくらいはあったはずだ。
それでも、今みたいに先の見えない不安に振り回されることは、
ほとんどなかった気がする。
少なくとも、こんなふうに、悩んでいることはなかった。
俺は空を見上げた。
春らしい青空が、頭上いっぱいに広がっていた。
薄く流れる雲はふんわりと白く、ゆっくりと形を変えながら流れていく。
風も穏やかで、日差しもちょうどいい。
こんな日は、どこかへ出かけるだけでも楽しい気分になれそうなものなのに。
……なんだかなぁ。
懐かしさに浸っていたはずなのに、胸の奥には、
落ち着かない感覚が残っていた。
空はこんなにも晴れているのに、俺の心はちっとも晴れてくれない。
むしろ、何もかもが穏やかに見えるからこそ、
自分の中にあるモヤモヤが余計に目立つような気がした。
周りの景色は、いつもと変わらない。
なのに、自分だけが、どこか変わってしまったような気がする。
いや、実際に変わったんだろうな。
小学校を卒業して、中学に入って、それから三年間。
いろんなことがあった。
楽しかったこともあれば、嫌なこともあった。
友達と笑い合った日もあれば、どうしてあんなことになったんだろうと、
後悔するような日もあった。
その一つ一つが積み重なって、今の俺がいる。
……そう考えると、少し不思議な気分になる。
俺は、昔の自分と今の自分で、いったい何が変わったんだろう。
そんなことを考えていたとき、
ふと、小学生のころに書いた作文のことを思い出した。
将来の夢について書いた作文。
確か、あのときの俺は――。
『皆を守るお医者さんになりたい』
そう書いたんだった。
頭の中に浮かんだ文字を、心の中でもう一度なぞってみる。
……ああ、そうだった。
あのころの俺は、本気でそう思っていたんだ。
病気やケガで苦しんでいる人を助けたい。
困っている人がいたら、手を差し伸べられる人間になりたい。
子供らしい、単純な夢だったのかもしれない。
でも、少なくとも、あのときの俺は迷っていなかった。
自分が何をしたいのか、どうなりたいのか。
そんなことを、今みたいにあれこれ考え込む必要もなかった。
ただ、そうなりたいと思っていた。
それだけで、十分だったんだろう。
(……あれから、もう六年かぁ)
心の中でつぶやき、俺は小さく息を吐いた。
六年。
数字にしてしまえば、たったそれだけの時間なのに。
あのころの俺と今の俺は、ずいぶん遠く離れてしまったような気がする。
夢だって変わった。
気がつけば、以前ほど何かに夢中になることがなくなっていた。
興味を持つことはあっても、しばらくすれば熱が冷めてしまう。
やってみたいと思っても、面倒くささや失敗への不安が先に浮かんで、
結局、何もしないまま終わってしまう。
昔は、そんなことを気にもしなかったのにな。
できるかどうかなんて考える前に、まずやってみようとしていた。
失敗したら悔しがって、もう一度挑戦して。
それでも駄目なら、どうすればうまくいくのかを考えていた。
いつから俺は、やる前から諦めるようになったんだろう。
……いや、別に、何もかも諦めたわけじゃない。
そう言い返してみたものの、胸の奥では、どこか納得できない自分がいた。
昔の自分が持っていた情熱や、何かを信じる純粋な気持ち。
それを、俺はどこかに置き忘れてしまったのだろうか。
それとも、成長するというのは、そういうものなのだろうか。
大人になるにつれて、現実が見えるようになって、
夢だけではどうにもならないことを知っていく。
そうやって、少しずつ変わっていくものなのかもしれない。
だけど……。
(……なんか、それって寂しいよなぁ)
心の片隅で、そんな思いが静かに膨らんだ。
別に、昔の自分に戻りたいわけじゃない。
小学生のころは小学生のころで、何も知らなかったからこそ、
気楽でいられた部分もあったはずだ。
今は今で、昔には分からなかったことが少しずつ見えてきている。
それなら、それでいい。
(……いいはずなんだけどなぁ)
それでも、もう一度くらい、何かに全力で夢中になってみたい。
周りの目なんて気にせずに、失敗することを恐れずに、
自分がやりたいと思ったことに向かって、まっすぐ進んでみたい。
あのころのような情熱を、今の自分でも取り戻すことができるのだろうか。
そんな思いが、心の片隅にひっそりと宿っていた。
(……まあ、何をすればいいのかは、さっぱり分からないんだけどさ)
俺は苦笑しながら、ポケットからイヤホンを取り出した。
考え込んでばかりいても仕方がない。
とりあえず、いつものように音楽でも聴いて、気分を切り替えよう。
そう思いながらイヤホンを耳に差し込み、スマートフォンを操作する。
流れ始めたのは、ヒットチャートおすすめの明るいポップソングだった。
軽快なリズムに、弾むようなメロディ。
普段なら、自然と気分が上向くような曲だ。
なのに、今日はどうにも調子が狂う。
耳に届く音はいつもと変わらないはずなのに、
なぜか心の中にぽっかりと空いた場所ばかりを意識してしまう。
明るい曲を聴いているのに、気持ちはちっとも明るくならない。
むしろ、その明るさが、
今の自分との違いを際立たせているような気さえした。
(……なんだかなぁ)
俺は小さく首を振った。
いつもどおりにしていれば、いつもどおりの自分でいられる。
そんな気がしていた。
けれど、実際には、いつもどおりのふりをしているだけなのかもしれない。
心の中では、いろんなことが引っかかったままだ。
中学時代の出来事も、クラスメイトとのすれ違いも、自分の不器用さも。
考えないようにしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
そして、思い出すたびに、あのとき別の言葉を選んでいたら、
何かが変わっていたのだろうかと考えてしまう。
(……まったく、面倒くさい性格だよな、俺も)
そのとき、イヤホンから流れる歌声が耳に引っかかった。
『言葉が足りないから♪ 思いを込めても伝わらない♪Hey♪Hey♪Hey♪』
(……うわぁ……煽られてる?ねぇ今どんな気持ち?……ってやつか?)
思わず、顔をしかめた。
なんだよ、それ。
今の俺に向けて歌ってるのか?
ただの歌詞だ。そんなことは分かっている。
分かっているのに、まるで誰かに痛いところを突かれたような気分になった。
言葉が足りなかった。
自分の気持ちを、うまく伝えられなかった。
相手に分かってほしいと思うばかりで、相手が何を考えているのか、
ちゃんと理解しようとしていただろうか。
考え始めると、また同じところに戻ってしまう。
あのとき、こうしていれば。
あのとき、あんな言い方をしなければ。
もう少し落ち着いて話していれば。
答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。
まるで出口のない迷路に迷い込んでしまったみたいだ。
(……いや、だから、もう過去のことだって)
何度そう言い聞かせても、気持ちのほうは簡単に納得してくれない。
「ぅ~ん……選曲、間違えたかな……?」
思わず、ひとりごとが漏れた。
誰に聞かせるわけでもない、情けないつぶやき。
俺はスマートフォンに目を落としかけて、
ふと、道路の向こうに視線を向けた。
遠くから、バスが近づいてくる。
車体が揺れながら、いつもの道を走ってくる。
その見慣れた光景を眺めていると、考え込んでいた頭が、
ほんの少しだけ現実に引き戻された。
(……ま、いつまでも悩んでたって、仕方ないか)
そう思ったところで、悩みが消えるわけじゃない。
それでも、今はとりあえず、目の前のことをやっていくしかないんだろう。
バスが停留所に滑り込んでくる。
ドアが開く音に合わせて、俺はイヤホンを片方外し、乗り込んだ。
運転手に軽く会釈して、車内を奥へと進む。
そして、いつものように、一番後ろの席に腰を下ろした。
ここなら、周りを気にせずにいられる。
窓の外を眺めていてもいいし、音楽を聴きながらぼんやりしていてもいい。
誰かと無理に話す必要もない。
今の俺には、そういう場所がちょうどよかった。
バスがゆっくりと動き出す。
窓の外の景色が、少しずつ後ろへ流れていった。
見慣れた小学校も、いつものバス停も、あっという間に遠ざかっていく。
俺は何気なく窓ガラスに目を向けた。
そこには、ぼんやりと自分の顔が映っていた。
外の景色と重なったその顔は、どこか頼りなく見えた。
昔の自分が見たら、今の俺をどう思うだろう。
夢を持っていた、あのころの俺が。
(……少しは、がっかりするのかな)
そんな考えが浮かび、俺はすぐに目をそらした。
まだ何も決まっていない。
これから先、何があるのかも分からない。
だったら、今の自分だけを見て、勝手に結論を出すのは早いのかもしれない。
そう思いたい気持ちはあった。
けれど、窓ガラスに映っていた自分の顔は、
やっぱりどこか自信なさげで、頼りないままだった。
俺は背もたれに体を預け、もう一度、イヤホンから流れる音楽に耳を傾けた。
明るいメロディは、相変わらず変わらない調子で流れ続けている。
それを聴きながら、俺は窓の外へ目を向けた。
(……さて、これから、どうするかな)
車窓から流れる風景を眺める。
桜並木、川、古びた民家、新しいマンション、
この街の未来を掲げる看板……。
それらが、まるで映画のワンシーンのように流れ去っていく。
ふと、見慣れたはずの景色の中に、
以前はなかったものが増えていることに気づいた。
川沿いには真新しい柵が設けられ、かつて空き地だった場所には、
まだ人の気配の薄い建物が並んでいる。
その一方で、色褪せた看板を掲げた小さな店や、昔ながらの瓦屋根の家々も、
変わらずそこに残っていた。
新しいものと古いもの。残されるものと、少しずつ姿を変えていくもの。
その境目は思いのほか曖昧で、いつから変わり始めたのかさえ、
はっきりとはわからない。
道路脇に立つ大きな看板には、この街の未来を思わせる言葉が記されていた。
淡い色合いで描かれた街並みのイメージ図。
その向こうには、今の風景とは少し違う、
整然とした建物や緑地が広がっている。
何かが始まろうとしている。
そんな気配だけが、春の景色に薄く溶け込んでいた。
けれど、バスが速度を上げると、看板はあっという間に後方へと遠ざかり、
やがて視界から消えてしまった。
それらが、まるで過ぎ去った時間のように感じられる。
変わっていく街並みを眺めているうちに、心のどこかで、
無意識に時間を取り戻したくなっていた。
バスが終点の和嵐駅東口ロータリーに到着し、
エンジン音が静まり返る。
周囲の人々が降りていく姿を確認しながら、最後にバスを降りる。
駅の喧騒、カラフルなリュックを背負った学生たち、
急ぎ足で歩くサラリーマンたち。
そのすべてが1つの流れのように感じられ、どこか心をざわつかせる。
焦げついたような匂いと、少し生ぬるい風。
そして、人々の体温が混ざり合い、独特の活気が駅全体を包んでいた。
(排ガスの匂いって、小学生のころ、遊び疲れたあとに家へ帰るときの記憶が蘇るんだよなぁ……)
そんなことを考えながら、駅の反対方向へと足を向ける。
駅前の通りは、いつもよりも賑やかだった。
春の陽気に誘われた人々が行き交い、歩道にはさまざまな足音が重なっている。
ふと、駅前の景色を見渡す。
以前からある商店の隣に、見慣れない建物が建っていた。
ガラス張りの壁面に春の日差しが反射し、その向こうには、
工事用の白い囲いが長く続いている。
囲いの一部には、街の新しい姿を描いたポスターが貼られていた。
その脇を、自転車に乗った学生が何事もないように通り過ぎていく。
変わったものもあれば、変わらないものもある。
そんな当たり前のことを、今さらのように意識した。
駅前商店街の看板が色とりどりに並び、その合間から、
少し先にある新しい建物の輪郭が覗いている。
古い街並みの向こう側で、何かがゆっくりと形を変えつつあるようにも見えた。
けれど、それがこの街にとってどんな意味を持つのか、今の俺にはわからない。
ただ、春の陽気に包まれた街が、昨日までと同じようでいて、
ほんの少しだけ違って見えた。
これから始まる新しい季節が、人々の心に何かを予感させるかのようだ。
その喧騒の中に身を置きながら、ふと、胸の奥に小さな戸惑いを感じる。
この先に待っているのは、俺の新しい生活、そして新しい環境だ。
入学式が待ち遠しい一方で、どこか不安も拭いきれない。
これからどうなるんだろう。新しい友達はできるだろうか。
学校生活はどうなるんだろうか。
そんな思いが、頭の中で渦を巻いている。
駅前を通り抜け、しばらく歩くと、古い商店街が見えてきた。
小さな店が軒を連ね、看板や店舗のディスプレイが春の陽光に照らされている。
昔から変わらない店構えの中に、いつの間にか新しい看板や、
見慣れない店先が混じっていた。
閉じたシャッターの前には、鉢植えの花がいくつか並んでいる。
その隣の店では、店主らしき老人が、色褪せた日除けをゆっくりと畳んでいた。
少し先では、真新しい店舗のガラス窓を、作業着姿の男が丁寧に拭いている。
誰かが何かを始めようとしていて、
誰かはこれまでの日々を変わらず続けている。
そんな光景が、何の違和感もなく1つの通りに収まっていた。
パン屋の香ばしい匂い、花屋の新鮮な花の香り、そして人々の笑い声。
心地よく漂う春の匂いが、街並みの中に溶け込んでいる。
ふと、通りの先に目を向ける。
建物の隙間から、遠くにそびえる新しいマンションの姿が見えた。
その足元には、まだ工事用の囲いが残っている。
風に揺れた囲いの向こうで、クレーンの先端がゆっくりと動いていた。
街は、俺が知らないところでも少しずつ変わっているらしい。
それでも、この通りを満たす匂いや声、行き交う人々の何気ない仕草は、
記憶の中にあるものと、どこかよく似ていた。
そのことに、なぜか少しだけ安心する。
その喧騒に少しだけ圧倒されながらも、
俺は目の前に広がる光景を、一歩一歩進んでいった。
よろしくお願い致します。




