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prologue.04:Crazy For You


 週が明け、いつもどおりの朝がやってきた。


 春の陽気は相変わらずで、窓から差し込む日差しもどこか柔らかい。

 朝の空気はまだ少しひんやりしているけれど、

 それがかえって心地よかった。


 (うん。いい朝だ)


 ……なんて、毎朝こんなことを考えているわけじゃないけどさ。


 入学式から数日。

 最初こそ慣れない環境に緊張していたものの、

 最近では少しずつ学園生活にも馴染んできた。


 初めての教室、見知らぬクラスメイト、今までとは違う通学路。

 最初は何もかもが新鮮だったけれど、数日も経てば、

 案外どうにかなるものだ。


 朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。

 当たり前といえば当たり前の毎日だけど、その繰り返しの中で、

 少しずつ自分の居場所ができていくような気がする。


 ちなみに、最近の俺には、もうひとつ楽しみができた。

 それは、帰り道にあるコンビニでフライドポテトを買うことだ。


 ……いや、何だよ、その顔は。


 別にいいだろう?フライドポテトくらい。

 揚げたてのポテトは外側がカリッとしていて、中はホクホク。

 ほどよい塩気がまた絶妙なんだよなぁ。


 しかも、たまに混じっている、ちょっとしんなりしたやつ。

 あれは当たりだ。妙にうまい。


 カリカリ派か、しなしな派か。

 

 そんな論争を耳にすることもあるけれど、俺に言わせれば、

 どっちも当たりなのだ。旨けりゃいいのよ!


 ……まあ、こんなことを熱弁したところで、誰も得をしないんだけど。


 とにかく、学校帰りにちょっとした楽しみがあるというのは、

 なかなかいいものだ。


 毎日が劇的に変わるわけじゃない。

 けれど、こういう小さな楽しみがひとつあるだけで、

 いつもの帰り道もちょっとだけ特別に感じられる。


 うん。フライドポテト、偉大なり。


 さて、そんな具合に学園生活にも慣れ始めた俺だが、

 そろそろ触れておきたい話題がある。


 学園生活といえば、やっぱり部活動だ。


 新しい学校に入ったら、何かしらの部活に入る。

 そんなイメージを持っている人も多いんじゃないだろうか。


 実際、クラスでも部活動の話題はよく出る。

 秋月(あきづき)さんと、池上(いけがみ)くんが俺を部活見学に誘ってくれたように。


 運動部に入ろうか、文化部に入ろうか。

 それとも、いくつか掛け持ちしてみようか。

 みんな、それぞれに考えているらしい。


 そんな中、俺はというと……。

 高校でも、帰宅部を続けるつもりだった。


 ……いや、正確に言えば、

 中学のころから帰宅部だったわけじゃないんだけど。

 まぁ、その辺の話は今は置いておこう。


 とにかく、今のところ、どこかの部活に入るつもりはない。


 友達からは「せっかく高校に入ったんだから、何かやればいいのに」

 なんて言われることもある。


 うん。その気持ちはわかる。

 わかるんだけど……どうにも、これだ!と思えるものがないんだよな。

 いや、勘違いしないでほしい。

 別に、部活動そのものに興味がないわけじゃないんだ。


 むしろ逆。


 音楽には興味があるし、絵を描くのも好きだ。

 何かを作ることだって楽しいし、ほかにも気になるものはいくらでもある。

 だからこそ、困っている。


 だって、どれも面白そうなんだぞ?

 あれもやってみたい。これも気になる。

 せっかくなら、あっちにも挑戦してみたい。


 そんなことを考えているうちに、結局ひとつに決められなくなってしまう。

 我ながら、優柔不断と言われても仕方がない気はする。

 けれど、だからといって、適当にひとつ選ぶのも何だか違うんだよな。


 部活動に入る以上、ある程度は時間を使うことになる。

 大会や発表会を目指すなら、なおさらだ。

 それ自体は悪いことじゃない。

 むしろ、ひとつの目標に向かって努力できるのは、すごいことだと思う。


 元就(もとなり)なんて、吹奏楽部で全国大会の金賞を目指しているくらいだしな。

 本樹(ほんじゅ)だって、サッカー部のレギュラーを勝ち取ろうと張り切っている。

 二人とも、自分のやりたいことがはっきりしているんだ。


 ……うん。改めて考えると、あいつらは本当にすごい。


 それに比べて俺は、あれもこれもと目移りしてばかり。

 まぁ、別にそれが悪いことだとは思っていないけど。

 今の俺は、何かひとつに絞るより、いろいろなことを試してみたいんだ。

 音楽に触れる日があってもいいし、絵を描く日があってもいい。

 気が向いたら何かを作ってみるのもいいだろう。


 そのときの気分や興味に合わせて、好きなことを好きなだけ楽しむ。

 そんな時間を大切にしたい。


 そして、そこでたまたま夢中になれるものが見つかったら、

 そのときに改めて考えればいい。


 最初から選択肢を狭める必要なんてないだろう。


 ……というわけで。


 俺は、『帰宅部』こそが最強の選択肢なのではないか?

 という結論にたどり着いた。

 ふっふっふ。

 どうだ、この自由な響き。

 帰宅部。英語で言うならば、Go-home Club.


 それは、あらゆる部活動のしがらみから解き放たれた、

 究極の自由を手にする者たちの称号である!


 ……いや、何を言っているんだ、俺は。


 でも、放課後を自由に使えるというのは、やっぱり大きな魅力だと思う。

 部活があれば、練習の時間もあるし、先輩や仲間との付き合いもある。

 それはそれで楽しそうだけど、俺には俺の過ごし方がある。


 家に帰って、好きな音楽を聴く。

 気が向いたら楽器を弾いてみる。

 机に向かって、思いつくままに絵を描く。

 何か面白そうなものを見つけたら、時間を忘れて没頭する。

 そして、疲れたら休む!


 ……完璧じゃないか。まさに究極ではないか!


 誰にも急かされず、自分のペースで好きなことを楽しめる。

 これぞ、ふり~だむ!

 いやあ、帰宅部って素晴らしいな!

 もちろん、部活動に入っていないからといって、

 毎日遊んで暮らすつもりはない。

 興味のあることには、きちんと時間を使うつもりだし、

 やるからにはそれなりに頑張りたいとも思っている。


 ただ、それを毎日決まった時間に、

 決まった形で続ける必要はないんじゃないか、というだけの話だ。


 その日の自分が何をしたいのか。

 それを自分で決められる。

 俺にとっては、それが何より大切なのだ。


 ……まぁ、こんなことを言っていると、また誰かに突っ込まれそうだけど。


 実際、以前こんな話をしたときには、


 「それって、ただ面倒くさいだけじゃね?」


 なんて、身も蓋もないことを言われた。

 失礼な!

 俺だって、ちゃんと考えたうえで決めているんだぞ!


 ……たぶん。


 いや、少なくとも、自分ではそう思っている。

 そもそも、何かひとつのことに打ち込むのが正解なら、

 いろいろなことに興味を持つのは間違いなのだろうか。


 そんなことはないはずだ。


 ひとつのことを極めるのも立派だし、

 いろいろなことに挑戦するのだって悪くない。

 大切なのは、自分に合ったやり方を見つけることだと思う。


 だから、俺は俺のやり方でいく。


 今はまだ、何が自分に向いているのかも、

 将来何をしたいのかもわからない。

 だったら、焦らずにじっくりと探していけばいいじゃないか。

 せっかく、いろいろなことに挑戦できる環境に来たんだからな。


 ……うん。


 我ながら、なかなかいいことを言った気がする。

 よし。この調子なら、これからの学園生活もきっとうまくいくはずだ!


 帰宅部の活動に、今日も余念がない俺なのであった。


 ……いや、まだ帰宅すらしていないんだけどな。

 今はまだ、6時限目の授業中なんだけど。


 でだ、今日はちょっと特別な日だ。


 なぜかって?

 そりゃあ、

 テレビでサッカー日本代表の試合が放送されるからに決まっている!

 普段から国内リーグや海外リーグの試合をチェックしている俺だが、

 やっぱり代表戦は別格だ。


 国を背負って戦う選手たち。ピッチに響く歓声。

 選手たちがピッチに整列し、国歌が流れる瞬間。

 そして、試合開始を告げる笛が鳴る直前の、あの独特の緊張感。

 

 あぁ、もぅ、たまらない。魂が震える。


 もちろん、勝負である以上、負ける可能性だってある。

 むしろ、期待が大きいぶん、敗戦のダメージも大きいわけだが……。


 それでも、期待せずにはいられない。

 今日こそ勝ってくれ!そんな願いを胸に秘め、

 俺は朝からそわそわしていた。


 授業中も、ふとした拍子に試合のことが頭をよぎる。

 今日のスタメンはどうなるんだろう。

 あの選手は出るのかな?

 相手チームの守備は堅そうだけど、うまく崩せるだろうか。


 (……いかんいかん。今は授業に集中しろ、俺!)


 試合のことを考えるのは、帰ってからでも遅くない。

 そう自分に言い聞かせながら、何とか一日を乗り切った。


 そして、待ちに待った放課後。


 終業のチャイムが鳴った瞬間、俺はカバンを肩に引っかけ、

 教室を飛び出した。

 いや、別に誰かと競争しているわけじゃない。

 ただ、早く帰りたいだけだ。

 そう、ただそれだけ!


 ……まぁ、顔がにやけていた可能性は否定しない。

 足取りも自然と軽くなる。

 駅へ向かう道を進みながら、頭の中ではすでに観戦の準備が始まっていた。

 帰ったら手を洗って、着替えて、飲み物を用意して……。

 あ、夕飯は試合を見ながら食べられるようにしたいな。


 うん。完璧だ。


 試合開始前から、すでに俺の中では勝利への道筋ができあがっていた。

 もちろん、俺がいくら張り切ったところで、

 試合の結果が変わるわけじゃないんだけどな。

 そこは言わないお約束である。


 和嵐(かずらん)駅の東口に着くと、駐輪場に停めてあった愛用の自転車にまたがった。

 サドルの位置を軽く確かめ、ハンドルを握る。


 (よし、準備完了!)


 ペダルを踏み込むと、自転車は軽快に走り出した。

 緩やかな坂道を下り、駐輪場の出口を抜ける。

 春の風が頬を撫で、制服の裾がパタパタと揺れた。


 (うーん、気持ちいぃ♪)


 こういう日は、自転車通学のありがたみを実感する。

 バスも悪くないけれど、風を切って走る爽快感はまた別物だ。


 ……まあ、調子に乗ってスピードを出しすぎると危ないので、

 そこはちゃんと気をつけている。

 よくわからんけど、すっ転ぶ時あるよね?


 何しろ、俺は今日、無事に家へ帰らなければならないのだ。

 日本代表の試合を見るという、重大な任務が待っているからな!

 そんなことを考えながら、立体交差になった高架橋の下をくぐり抜けた。


 薄暗いコンクリートの通路を抜けると、視界がぱっと開ける。

 右手には昔ながらの商店街へ続く道。左手には駅前の賑やかな通り。

 いつも見慣れた景色だ。


 そのまま歩道に沿って右へ曲がり、しばらく進むと、

 お気に入りの書店がある交差点に差しかかった。

 信号が赤だったので、俺はブレーキをかけて自転車を止めた。


 (さて、青になるまでのんびり待ちますか)


 ……などと思いながら、何気なく周囲を見回した、そのときだった。


 ふと、横断歩道の向こう側に立つ男性が目に留まった。

 年齢は四十代くらいだろうか。

 チャコールグレーのスーツに、きちんと締められたネクタイ。

 シャツにも皺ひとつなく、磨かれた革靴まで含めて、

 身だしなみには隙がない。


 いわゆる、仕事のできる大人。


 そんな言葉が、真っ先に頭に浮かんだ。

 背筋はすっと伸び、立ち姿にも無駄がない。

 よく通った鼻筋と、意志の強さを感じさせる輪郭。

 年齢を重ねた男性ならではの落ち着いた雰囲気がある。

 いわゆるナイスミドルというやつだ。


 (……うん。これは認めざるを得ない)


 俺だって男だからな。

 こういう、余裕のある大人の男性には、ちょっと憧れるものがある。

 慌てず、騒がず、いつでも落ち着いている。

 それでいて、どこか人を惹きつけるような存在感がある。

 ああいう大人になれたら、きっと格好いいんだろうな。


 ……なんて、ほんの一瞬だけ感心した。


 そぅ。

 ほんの一瞬だけ、だったのだ。

 男性が、こちらを見た。

 目が合った。


 ただ、それだけなら何もおかしくない。


 信号待ちをしていれば、たまたま目が合うことくらいあるだろう。

 俺だって、向こうを見ていたわけだし。


 ところが、男性は俺と目が合った直後、

 手にしていたスマートフォンへ視線を落とした。

 その動作が、妙に自然だった。

 自然すぎた、と言ってもいい。

 まるで、こちらを見ていたことなど最初からなかったかのように。


 (……あれ?なんだろう。今の、ちょっと引っかかるな)

 

 俺は何となく、男性の様子をうかがった。

 男性はスマートフォンの画面を見つめている。

 見た目だけなら、仕事の連絡を確認している、

 ごく普通のサラリーマンだ。


 けれど。


 どうにも、違和感が拭えない。

 画面を見ているはずなのに、意識はこちらに向いている。

 そんな気がするのだ。

 いや、気のせいかもしれない。

 俺が自意識過剰なだけという可能性も十分にある。

 そもそも、初対面の相手にそこまで注目されるような覚えもない。


 (……ない、よな?)


 思わず自分の格好を確認した。

 制服は乱れていない。カバンもちゃんと肩にかかっている。

 顔に何かついているわけでもないはずだ。


 (うん。問題なし)


 それなのに、なぜだろう。

 男性の存在が、どうしても気になって仕方がなかった。

 ただ立っているだけなのに、妙な圧がある。

 大声を出しているわけでもない。

 周囲を威圧するような仕草をしているわけでもない。


 むしろ、驚くほど静かだ。

 それなのに、そこだけ空気が違うように感じられる。

 背筋の伸びた姿勢。落ち着いた身のこなし。

 周囲の動きに惑わされない、ゆったりとした佇まい。

 どれも、それ自体は不自然なものではない。

 むしろ、大人としては理想的な振る舞いだろう。


 それなのに、目が離せない。


 まるで、こちらの知らない何かを見透かされているような。

 そんな、説明のつかない感覚があった。


 (……いやいやいや)


 落ち着け、俺。

 相手はただのスーツ姿の男性だ。

 スマートフォンを見ながら信号を待っている、

 どこにでもいそうな社会人。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 そう考えようとしたのだが、どうしても気になってしまう。


 男性が、ふと顔を上げた。

 再び、目が合う。

 今度は、先ほどよりもはっきりと。

 男性の瞳は穏やかだった。

 年齢相応の落ち着きを感じさせる、静かな眼差し。

 けれど、その奥には、何か鋭いものが潜んでいるようにも見えた。

 笑っているわけでもないのに、不思議と余裕が感じられる。

 こちらが慌てても、驚いても、

 きっとこの人は眉ひとつ動かさないのだろう。

 そんな想像をしてしまうくらい、男性の表情には揺らぎがなかった。


 (……何だ、この人?)


 ただ者じゃない。

 根拠はない。

 証拠もない。


 それでも、俺の直感がそう告げていた。

 武道の達人、と言われたら妙に納得してしまいそうな雰囲気がある。

 もちろん、実際に武道をやっているかどうかなんて知らない。

 剣道着を着ているわけでもなければ、

 腰に刀を差しているわけでもないのだから。


 (……いや、刀はさすがにないか)


 現代日本で、スーツ姿の男性が刀を持ち歩いていたら、

 それはそれで別の意味で大問題だ。


 ともかく。


 男性は、ただそこに立っているだけだった。

 それなのに、俺の身体はいつの間にか強張っていた。

 ハンドルを握る手に、じんわりと汗が滲む。

 心臓が、少しずつ速くなっていく。


 何か危険なことが起こると決まったわけじゃない。

 そもそも、相手はまだ何もしていない。

 それなのに、身体のほうが先に警戒しているようだった。


 (……これ、何なんだ?)


 そうこうしているうちに、信号が青へと変わった。

 周囲の人々が、いっせいに横断歩道を渡り始める。

 俺も自転車のペダルに足をかけ、進もうとした。


 そのとき。


 男性が、こちらへ向かって歩き出した。

 すらりと伸びた背筋。

 一定の歩幅。

 急いでいる様子はないのに、動きには一切の迷いがない。

 人の流れに逆らうわけでもなく、

 かといって周囲に紛れてしまうわけでもない。

 まるで、最初から進むべき道が決まっているかのようだった。

 そして、その進行方向は――。

 俺のいる場所だった。


 (……え?いや、待て。ちょっと待ってくれ)


 横断歩道の向こう側から、こっちへ歩いてくる人なんて珍しくもない。

 俺のすぐ横を通り過ぎていくだけかもしれない。

 そうだ。きっとそうに違いない。


 なのに。


 男性は、ほかの歩行者には目もくれず、まっすぐこちらへ向かってくる。

 その足取りに迷いはなかった。

 まるで、最初から俺の居場所を知っていたかのように。


 (……いやいやいやいや!何だ、この展開は!俺、何かしたか?)


 いや、していない。

 少なくとも、記憶にある限りでは何もしていないはずだ。

 授業を受けて、放課後になって、

 サッカーの試合を楽しみにしながら帰っているだけ。

 ごく普通の高校生である。

 それなのに、

 どうしてこんな得体の知れない緊張感を味わわなきゃならないんだ。


 周囲では、いつもどおり人々が行き交っている。

 車の走行音。横断歩道を渡る人たちの足音。

 どこかから聞こえてくる店員の呼び声。

 街は、いつもと何も変わらない。

 なのに、俺の意識は目の前の男性に釘づけになっていた。

 男性が一歩、また一歩と近づいてくる。

 そのたびに、心臓が嫌な音を立てる。


 (……頼む。頼むから、ただ通り過ぎてくれ。俺は今日、サッカーの試合を見る予定なんだ。こんなところで妙なイベントを発生させている場合じゃないんだよ!)


 しかし、俺のささやかな願いは、どうやら届かなかったらしい。

 男性は俺の目の前で足を止めた。

 近くで見ると、やはり身なりがいい。

 仕立てのよさそうなチャコールグレーのスーツ。

 落ち着いた色合いのネクタイ。

 整えられた髪に、年齢を感じさせながらも清潔感のある顔立ち。


 四十代くらいだろうか。

 大人の余裕を感じさせる、穏やかで洗練された雰囲気。

 もし、落ち着いた喫茶店で本を読んでいたなら、

 思わず見惚れてしまいそうなほど絵になる男性だった。


 ……そう。


 見た目だけなら、文句のつけようがない。

 問題は、その男性が今、俺の目の前に立っているということだ。

 しかも、何の用があるのかさっぱりわからない。

 俺が恐る恐る顔を上げると、男性はほんのわずかに口元を緩めた。

 その笑みは柔らかく、どこか人懐っこさすら感じさせるものだった。


 けれど、だからこそ余計に困る。


 穏やかな笑顔なのに、なぜか安心できない。

 むしろ、笑顔を向けられたことで、逃げ道を塞がれたような気さえした。


 (……何なんだ、この人。怖いんですけど)


 いや、怖いというより、得体が知れない。

 見た目はごく普通の大人なのに、

 どうしてここまで警戒心を刺激されるんだろう。

 俺が内心で混乱していると、男性は落ち着き払った声で口を開いた。


 「初めまして、天下雫(あまもと しずる)くん」


 …………。


 ………………。


 (……はい?今、何て言った?天下雫くん?え、俺?)


 いや、俺以外に誰がいるんだ、という話ではある。

 目の前に立っているのは俺で、男性は明らかに俺を見ている。

 つまり、間違いなく俺に向かって言ったのだ。


 (……待て待て待て。どうして俺の名前を知っている?)


 俺はこの男性に会った覚えがない。

 少なくとも、こんな印象的な人を忘れるほど記憶力が悪いつもりはない。

 それなのに、向こうは俺の名前を知っている。

 しかも、名字だけじゃない。フルネームだ。


 (これは、ちょっと……いや、かなり問題なのでは?)


 俺の頭の中で、警報がけたたましく鳴り響いた。

 そんな俺の動揺など知ってか知らずか、

 男性は穏やかな笑みを浮かべたまま、さらに言葉を続けた。


 「私は、決して怪しい者ではありませんよ」


 …………。


 ………………。


 (いゃ。それは。怪しい人が言う台詞じゃないかぁぁぁ!!)


 心の中で、盛大に叫んだ。

 だって、そうだろう?

 見知らぬ男性が突然現れて、こちらの名前をフルネームで呼んでくる。

 そのうえ、開口一番に「決して怪しい者ではありません」だ。

 これで警戒するなというほうが無理な話である。

 

 むしろ、どうして自分からそんなことを言ってしまうんだ。

 普通に名乗ってくれればいいじゃないか。

 いや、そもそも、どうやって俺の名前を知ったのか説明してほしい。

 頼むから、そこを先に説明してくれ!


 俺は自転車のハンドルを握りしめたまま、男性の顔を見つめた。

 男性は相変わらず、涼しい顔をしている。

 慌てる様子もなければ、こちらの反応を面白がっているようにも見えない。

 ただ、穏やかに微笑んでいるだけだ。

 その余裕が、かえって不気味だった。


 (……いや、待てよ)


 もしかすると、本当に怪しい人ではないのかもしれない。

 父さんの仕事の関係者とか。

 あるいは、何かの用事で俺を探していたとか。

 そういう可能性だって、ないわけじゃない。

 ないわけじゃないが……。

 

 だったら、そう言えばいいだけの話だ。

 それなのに、なぜわざわざ「決して怪しい者ではありません」

 なんて言う必要がある?


 (……うん)


 駄目だ。

 考えれば考えるほど、怪しさが増していく。

 まるで、目の前にある謎の箱を開けたら、

 中からさらに謎の箱が出てきたような気分だ。


 しかも、どちらの箱にも鍵がかかっている。

 何だ、この理不尽な状況は。


 俺は今日、ただ家に帰りたいだけなんだぞ。

 サッカーの試合が待っているんだぞ!

 それなのに、

 どうして知らない男性と交差点で対峙する羽目になっているんだ。


 (……いや、対峙って何だよ?)


 俺はただの高校生だぞ。

 そんな大層なものじゃない。

 ないはずなのに。

 目の前の男性を見ていると、

 どうしてもそんな言葉が頭に浮かんでしまう。


 穏やかな表情。落ち着いた物腰。

 そして、こちらの反応をすべて見透かしているかのような眼差し。

 何もかもが自然で、何もかもが隙なく整っている。

 だからこそ、どこか普通ではない。


 まるで、こちらが何を考え、どう動くのかまで、

 最初からわかっているかのようだった。


 (……ああ、もう!考えるな、俺!こういうときは、直感を信じるんだ!)


 そして、俺の直感は、ただひとつの答えを導き出していた。

 この男、絶対に何かヤバい。

 いや、間違いない。絶対にヤバい。

 何がどうヤバいのかは、さっぱりわからないけど!


 (……そこが一番困るんだよなあ!)


 背中に、じわりと冷たい汗が滲んだ。

 心臓は相変わらず、やたらと元気に暴れている。


 さっきまで、あんなに楽しみにしていた日本代表の試合。

 今日のスタメンも、試合の展開も、勝敗の行方も。

 そんなものは、今や頭の片隅にすら残っていなかった。

 俺の意識は、目の前のナイスミドルに完全に占領されていた。


 (……頼むから。せめて、怪しい人じゃないなら、もう少し怪しくない登場の仕方をしてくれ!)


 男性は、俺が黙り込んでいても急かそうとはしなかった。

 かといって、気遣うような言葉をかけてくるわけでもない。

 ただ、こちらが何かを言い出すのを待っているかのように、

 静かに立っている。

 その沈黙が、妙に重かった。


 (……頼むから、何か言ってくれ。いや、できれば、まともなことを)


 「実は道を尋ねたかっただけです」とか。

 「君のお父さんに頼まれた用事があって」とか。

 そういう、普通の理由であってくれ。

 今なら、多少強引な説明でも信じてしまいそうな気がする。


 それくらい、俺は答えを求めていた。

 けれど、男性は何も言わない。

 ただ、こちらを見ている。


 (……うわぁ。駄目だ)


 周囲では、相変わらず人々が行き交っている。

 横断歩道を渡る足音。車の走行音。誰かの楽しげな話し声。

 いつもと何も変わらない、見慣れた街の風景。


 なのに、俺の耳には、それらすべてが妙に遠く感じられた。

 まるで、俺とこの男性の周囲だけ、

 薄い膜で覆われてしまったかのようだ。

 目の前の男性から視線を外そうとしても、なぜかうまくいかない。

 別に、睨みつけられているわけではない。

 威圧するような言葉をかけられたわけでもない。

 それなのに、こちらから目を逸らすことさえ、ためらわれた。


 (……何なんだよ、本当に。俺は、ただの高校生だぞ!)


 こんな得体の知れない人物と、腹の探り合いをするような経験なんてない。

 そもそも、腹の探り合いって何だ。

 俺は今、何と戦っているんだ。

 いつの間にか、

 人生で経験したことのない謎のイベントに巻き込まれている。


 しかも、イベントの目的も、攻略方法も、発生条件すらわからない。

 ゲームなら、せめて画面の隅に説明くらい出してくれ!


 『謎の男性が現れました』

 『会話しますか?』


 (……いや、選択肢があったとしても、どれを選べばいいのかわからないけど!)


 そんなくだらないことを考えていなければ、

 どうにかなってしまいそうだった。

 それでも、頭の片隅では冷静な自分が警告を発していた。

 この男性は、俺の名前を知っている。

 俺に用があるらしい。


 そして、何かを隠しているように見える。

 少なくとも、ただの偶然で片づけるには、不自然な点が多すぎた。

 一体、この男性は何者なのだろう。

 なぜ、俺に声をかけてきたのだろう。


 そして――。


 俺に、何を伝えようとしているのだろう。

 疑問ばかりが膨らんでいく。

 答えは、まだ何ひとつわからない。

 目の前の男性は、相変わらず余裕のある微笑を浮かべていた。

 まるで、これから何が起こるのか、すべて知っているかのように。


 (……ああ、もう。お願いだから、誰か説明してくれ!!)


 俺の平穏な放課後は、一体どこへ行ってしまったんだ?

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