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目を開けた瞬間、胸の奥がざわついた。
グラウンドには、異様な光景が広がっていた。
多くの生き物が人間のスペースを奪い取るようにして、集結している。
龍、ウサギ、猫、狸……。
不思議な光景であるのに、どこか僕には既視感があった。
懐かしさと共に、何かを失ったような切なさが、心の中には漂っている。
その事実に、僕自身、驚いていた。
「ほほう。ここにいる者どもは皆、神様になれるじゃろうと上から認められた奴らじゃな。これだけいると、圧巻じゃ」
僕の隣で、柴犬が「うんうん」と頷きながら、周りを見渡している。
「どうして柴犬が喋るのさ?」
質問しながらも、僕はこの柴犬が人間の言葉を操る現状に、何の違和感も抱いていない。
「それは、あれじゃ。ワシも神になり得る者じゃからじゃ」
柴犬であるのに、平然と人の言葉を話す。
丸顔だ。食べ過ぎだ。
柴犬であるのに、仁王立ちの姿勢を貫いていた。
「ねえ、シバコウ?」
柴犬の名前が、無意識にすっと僕の口から出ている。
やはり、この柴犬とは深い仲であったようだ、と僕は自覚する。
「なんじゃ、大ちゃん?」
僕はシバコウから、大ちゃんと呼ばれていたらしい。
「僕たちって、死んだんだよね?」
「うーむ。ワシは懸命に大ちゃんを救おうとした。じゃが敢えなく、失敗したんじゃ」
僕に残された記憶は、一つだけだった。
近くから水が流れ込んできたかと思うと、一気に僕は外へと流された。
荒れ狂う激流の中、モフモフの手が見え、僕は必死にその手を掴もうとする。
結局、水の勢いには逆らえなかった。意識が遠くなり、目の前が真っ暗になり、しばらくして気がついた頃には、僕はこのグラウンドに立っていた。
「やっぱり。じゃあ、ここは死後の世界ってこと?」
「ふむ。大ちゃんはワシのことを誰だか分かっておるのかのう?」
「シバコウだよね?」
「うむ。それだけかのう?」
「うん、それだけだよ。え、それだけじゃないの?」
今、僕の目の前では大きな身体を揺らしながら、龍が空を飛んでいる。
「残念じゃ。どうやら……」
シバコウは含みのある感じで、続きの言葉を紡ぎ出すことを止めていた。
次第に、眉間の皺がくっきりと浮かび上がってきて、シバコウの表情が醜く、歪んでいく。
「ふー、よし。耐えた、耐えた。危うく、お漏らしをするところじゃったぞ」
遠くの方から、先生らしきスーツ姿の女性が歩いてきていた。
グラウンドにいた多くの人間と生き物が、その女性の誘導に従い、どこかに移動していく。
「ほれ、あの一行についていくぞい」
軽快に二足歩行で歩み出したシバコウに「ちょっと待ってよ」と僕は声を掛ける。
止まらない。
慌てて、僕はモフモフの背中を追いかける。
「ねえ、シバコウ。周りを見て、ちょっと気づいたことがあるんだけど?」
「なんじゃい、ワシが一番プリティーなことかのう?」
胸のざわつきが、形を持ち始める。
今の何気ないシバコウの一言――聞き覚えがあった。
そうだ。
僕は何かを失い、ここに来た。
そしてシバコウは、僕の失われた過去を間違いなく知っている。
「いや、そうじゃなくてさ」
あくまで平静を装う。
シバコウの反応を事細かく、見たかった。
「なんじゃ。残念じゃ」
グラウンドには新鮮な空気が立ちこめていた。
「この学校にはペアしかいないの?」
「よく気づいたのう、大ちゃん。ワシには分からんかったぞい!」
突然、大声になったシバコウは周りにいた者からの視線をすべて集めている。
「いやあ、人気者になっておるのう」
頭の後ろを器用に手で掻くシバコウを引き連れ、僕は館内に入っていった。
「ねえ、シバコウ。ここで何が始まるのかな?」
「そりゃ、あれじゃろう。きっとダンス大会じゃよ」
「それは、ただシバコウが踊りたいだけでしょ?」
「バレては仕方ないのう。ほれ、大ちゃんもレッツダンスじゃ」
「嫌だよ」
今日は入学式であるらしい。
壇上に立った黒髪の男子は、どう見ても教える側の容姿ではなく、学生の風貌であった。
黒縁メガネが見事に、黒髪と同化している。
男子の隣には、すっと背筋を伸ばした白猫が二本足で立っていた。
「やったぞ、大ちゃん。これで神になるための学校に入学できたぞい!」
「それって光栄なことなの? おい、シバコウ。シバコウってば!」
早業だ。既に、シバコウは夢の世界へと旅立っている。
すやすやと寝息を立て、僕のつま先を枕代わりとして使っている。
女子の肩に乗るたぬきの口からも、ヨダレが垂れていた。
「チョコをおくれ」
残酷なくらいに退屈な入学式が終わると、それが目覚まし時計のアラームだったと言わんばかりに、シバコウはすっと目を覚ましている。
僕を引っ張るような形で体育館から出て、シバコウが校舎らしき場所を先導してくる。
「入学式で居眠りしてたのに、よく食欲があるね。でも犬にチョコは絶対ダメだよ」
「違うのう。寝てないのう。それに逆転の発想じゃよ」
「逆転?」
「柴犬から神になる今じゃからこそ、チョコが食べられるはずなんじゃ」
「そもそもシバコウって、神になれるの?」
「さて。それは分からんがのう。仕方ない。大ちゃんが意地っ張りであるなら、あれをやるしかないかのう」
ぶつぶつと、シバコウがその場で小言を呟き始めた。
刹那、ボン、と大きな音を立てたかと思うと、小包に包装されたチョコの数々が、なぜか僕の肩に掛けていたバッグの中に出現している。
シバコウがすぐに、僕のバッグの中に飛び込んでいく。
「やったぞ、大ちゃん。ワシの念によって、チョコが出てくると思ったんじゃ。ああ……、ワシのチョコが! 大ちゃん。返せ、返すんじゃ!」
僕はすぐにモフモフの首根っこを、ぐいと捕らえている。
「じゃあ、さっき寝ていたことを認めるんだね?」
「いんや。寝てはいないのう」
「そうなんだ。残念だったね。みんなでタップダンスをしたあの瞬間を見逃したんだ」
「見たに決まっとるじゃろう。あれは華麗なダンスじゃった」
「そんな催し、なかったよ?」
「こんにゃろ! 神をだますとは何事じゃ!」
廊下を行きかう人間と生き物から、僕は冷たい視線を何度も感じる。
ただ、気にしてもいられない。ここには絶対に負けられない戦いが、ある。
「そもそもシバコウは神様じゃなくて、ただの柴犬だよね?」
「言ったな、大ちゃん。もう大ちゃんには、チョコをやらんぞい」
「うん。元々、いらないよ」
これでもかと不平不満を垂れ流ししたシバコウは、下の世界では食べられなかったチョコをうっとりと眺め、口の中に勢いよく放り込んでいった。
が、口に入れた瞬間、嗚咽している。
「チョコは……あんまり美味しくないのう! というより、嫌いじゃ!」
シバコウが嘆き悲しむ中、僕は柴犬の背中をさすりながら、教室の扉を開けている。
教室の中は、物凄く静かだった。
唯一、空いていた真ん中、後方あたりの席に、僕とシバコウは腰を掛ける。
教室にはきちんと人間が座る席と生き物が座る席の両方が用意されていた。
しばらくチョコのまずさを絶叫でごまかしていたシバコウは、気持ちが落ち着いてきたのか、今度は「先生が、一向に来ないのう」と愚痴を漏らし始めている。
「シバコウ。うるさいよ」
「それはご愛嬌じゃのう。ん、このツンツン頭。淳ちゃんじゃ!」
シバコウが前の席を見て、僕の肩を強く、トントンとする。
「痛いよ」
「愛の大きさが痛みに変わっているだけじゃのう。気にするでないぞ、大ちゃん」
「そんな重たい愛、僕にはいらないなあ」
直後、僕はシバコウと舌戦を繰り広げている。
「ちょっと、うるさいぞ」
前にいたツンツン頭の人間が耳の中をほじりながら、シバコウの大声により、振り返っていた。
「おー、シバコウ! いたのかよ」
これが棒読みのような声色であったために、さっきシバコウが発した「ツンツン頭」の時点で気がつかなかったのかな、と、僕はどこか心の中で引っかかっている。明らかにタイミングを見計らって、偶然の再会を装っているようにしか見えなかった。
「ふむ。これで淳ちゃんとは仲良く一緒に、神になれるんじゃろうな」
妙に凜とした態度で、シバコウは神様になる予行演習かのような声音になっていた。
「なんだよ、シバコウ。神って、何の話だよ?」
対して淳ちゃんは真ん丸になった目に、黒の部分を増やしている。
思い出せない。
思い出せないのに、どこか懐かしい。
シバコウは何かを言おうとして、僕をちらりと見て、目を閉じた。
黙った。
やはり、この柴犬は、僕の過去を知っている。
だったら、僕はこのお喋りな柴犬についていくしかない。




