腰を笑えば
近藤勇と沖田総司が、立て続けに腰を痛めた。
「おやおや。腰というものは、普段から大事にしておかないと」
そう言ったのは、伊東甲子太郎である。
近藤が布団に伏せ、沖田が壁に手をついて、そろそろと歩いているのを眺めながら、伊東はいたく楽しそうだった。
「まったく、お二人とも、武士としての心構えが足りませんね」
「伊東さん」
沖田の世話をしていた井上が、静かに言った。
「笑ってると、うつりますよ」
「何を馬鹿な」
伊東は鼻で笑った。
*
――その翌日。
「……さて」
伊東は文机の前に座っていた。
少し離れたところにある本棚を眺める。
「たしか、あの本は……」
立ち上がる。
一歩。
二歩。
本棚へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
「――ぐきっ」
伊東の顔から、すべての表情が消えた。
「……まさか」
額に汗が浮かぶ。
伊東は必死に平静を装った。
「これは腰ではない」
もう一度、動こうとする。
「……っ」
痛い。
「腰では……ない」
三度目。
「…………」
完全に動けない。
伊東は本棚に手をついたまま、長い沈黙の末、
「……腰だ」
と認めた。
「伊東先生?」
背後から声がした。
伊東の肩が跳ねる。
「……篠原か」
「はい」
篠原泰之進だった。
生真面目な男である。
「何をしておられるのですか」
「本を読もうとな」
「……もしや」
「聞くな」
篠原は黙った。
伊東も黙った。
しばらくして、篠原が言った。
「これは……いわゆる、ぎっくり腰と申すものでありましょうな」
「違う」
思わず 叫んだ。
「おや」
「違う」
「では、歩けますか」
「……」
伊東は答えなかった。
篠原は、ますます真面目な顔になった。
「動くこともできませぬか」
「声が大きい」
「申し訳ありません」
篠原は少し考えた。
「誰か呼んできます。先生の弟の三樹三郎殿でもおられれば良いのだが」
*
そして、篠原が連れてきたのは、武田観柳斎だった。
隊内でも一、二を争うおしゃべりな男である。
医学の知識があることは認めるが、一度話し始めると、とにかく長い。
「いやあ、なんとも、とんでもないことですな」
よく通る声。
しかも、なんだか楽しげである。
「ふむ……なるほど……これは……」
伊東を一目見る。
「ぎっくり腰ですな」
「声が大きい!」
「おっと、これは失礼」
武田は口元に手を当てた。
「ぎっくり腰です」
「変わっていない!」
「では、小声で」
武田は伊東の耳元まで顔を寄せた。
「ぎっくり腰です」
「しかし、これは医学的には実に興味深い症例で――」
「なにがだ」
「いやいや、腰というものはですね、身体の要。古来より――」
「長くなる……」
篠原が即座に遮った。
「治療法をお願いします」
「おお、そうでした」
武田は咳払いをした。
「まず、無理に動かしてはいけません」
伊東は少しだけ安心した。
「そして、安静」
「うむ」
「それから患部を――」
「あの」
篠原が訊いた。
「武田先生。このことは、その……他の御仁には知られたくないのです」
「なぜです? ぎっくり腰とは誰にでも起こる病で、これは人間が二本足で歩行することから――」
武田観柳斎は、人類と腰痛の歴史を朗々と語る。
「……長い」
伊東は目を伏せた。
やがて伊東が、ぽつりと言った。
「……笑われる」
武田が黙った。
篠原も黙った。
やがて武田が、ぽつりと言った。
「まあ……」
「何だ」
「私も武士の情けを持つ男です。ご心配なさいますな」
「…………」
「伊東先生と井上先生のやりとりは聞きました」
「……」
「因果応報という言葉が――」
「武田先生」
「はい」
「黙られよ」
「承知しました」
武田は珍しく素直に黙った。
ところが、数秒後。
「しかし、伊東先生」
「何だ」
「人間、腰を痛めて初めて腰痛持ちの気持ちが分かるというものでして――」
「黙れと言っただろう!」
伊東は本棚に手をついたまま、天井を仰いだ。
「……もう嫌だ」
篠原が真面目な顔で言った。
「伊東先生」
「何だ」
「これから、本は私が取ります」
「……頼む」
篠原が本を取る。
武田が、その横で頷いた。
「では、伊東先生。まずは安静に――」
「分かった」
「それから、腰を冷やすか温めるかは――」
「分かったと言っている」
「いや、これは大切な話でしてな。そもそも急性腰痛というものは――」
「篠原」
「はい」
「武田先生に お帰りいただけ」
「承知しました」
「えっ、ちょっと待ってください。まだ医学の話が――」
襖が閉まった。
伊東は深々と息を吐いた。
ぎっくり腰がうつるなど、ありえない。
だが、もう、人のぎっくり腰を笑ったりはしない。
そう、深く誓った。




