近藤勇の孤独
朝一番、近藤勇が稽古をしようとした。
その瞬間、ぴたりと固まった。
「どうした、局長」
土方歳三が振り返る。
「こ、腰が……動けん……」
「……ぎっくり腰か」
土方は腕を組み、鼻で笑った。
「年だな」
「歳三!」
井上源三郎が苦笑する。
「若先生、ったく。ちゃんと準備運動をしろと、あれほど言ったのに」
「しかし……」
「今日は大人しく寝ていてください。無理をすると長引きますから」
「くっ、くそー。だ、大丈夫だ……」
「腰には勝てませんよ」
近藤は悔しそうに口をつぐんだ。
結局、近藤は布団に寝かされた。
そのうえ土方には、
「この忙しいのに、まったく」
と、舌打ちまでされる。
――ところが、同じ日の午後。
「副長……」
障子が開き、沖田総司が入ってきた。
「総司、どうした、その顔色」
「腰が……痛くて……」
「腰?」
「昨日から少し変だったんですが、今朝になって急に……」
総司は眉をしかめ、その場にしゃがみ込んだ。
「総司!」
井上が慌てて背中を支える。
総司は何とか外へ出ようとしたが、庭先でとうとう吐いてしまった。
「医者だ。今すぐ呼んでこい!」
隊士が飛び出していく。
井上が総司の額に手を当てた。
「冷たい……」
「飯は食べたのか?」
総司は力なく首を横に振った。
「食べようとしたんですが……腰が痛くて……」
「馬鹿野郎」
やがて医者が駆けつけ、総司を診察した。
「かなり消耗しているようですな。腰は、しばらく安静にしてください」
医者は少し考えてから続けた。
「それと、嘔吐ということですが……沖田さんは自家中毒の癖がありますからな。甘みだけは取らせるように。砂糖湯などがよいでしょう」
「わかった」
医者が帰ると、土方も井上も総司のそばを離れなかった。
――その間。
隣の部屋では、同じくぎっくり腰の近藤勇が、大人しく寝かされていた。
だが、誰もその存在を思い出さなかった。
おずおずと、近藤の小姓の市村が口を開く。
「……あの、副長。近藤先生も、医者に診てもらったほうが……」
「ああ、そうだったな」
土方は、今初めて思い出したように頷いた。
「ついでに、沖田と同じ貼り薬をもらっておけ」
「ついで……」
市村は小さく呟いたが、聞こえないふりをした。
やがて戻ってきた市村が、近藤の部屋へ入る。
「近藤先生、お待たせしました」
「おお、市村。来てくれたか」
近藤は、ようやく人の気配を感じて顔を明るくした。
「貼り薬をもらってきました」
「そうか。では、そこへ貼ってくれ」
市村が小さな手で貼り薬を貼る。
ひやりとした冷たさが腰に広がった。
けれど、それ以上に、近藤の胸には別の冷たさが広がっていた。
「……市村」
「はい」
「皆は、忙しそうだな」
「はい。沖田先生が大変なので……」
「そうか。なら、仕方がないな」
近藤は笑おうとしたが、その声は少し寂しかった。
市村が出ていくと、部屋はまた静かになった。
隣からは、沖田を気遣う声が聞こえてくる。
「総司、痛くないか」
「ハチミツ水を持ってきたぞ」
「無理に動くな」
近藤は天井を見つめた。
自分もここ数日、腰を痛めている。
立ち上がることも、寝返りを打つこともできない。
それなのに、自分の部屋には誰も来ない。
「おい、トシ……」
返事はない。
近藤はしばらく黙っていたが、やがて自分に言い聞かせるように頷いた。
「皆が総司を心配するのは当然だ。俺はもう大人だしな」
そして、ぽつりと呟く。
「大人だから……一人で耐えられる」
その直後、腰がずきりと痛んだ。
「痛っ……!」
目に涙が浮かぶ。
「目に汗が入るなあ」
当然、誰も聞いていない。
近藤はそっと寝返りを打とうとして、
「痛っ」
と、すぐに諦めた。
その頃、沖田のもとには山崎烝が通い、鍼を打ったり湿布を替えたりしていた。
厠へ行くときには、島田魁が付き添う。
誰もが総司を心配していた。
そして、誰も近藤勇を思い出さなかった。
――数日後。
「治った!」
沖田が元気よく立ち上がった。
「総司、無理するな!」
「もう大丈夫だよ」
その隣で、近藤もようやく布団から起き上がった。
「おいおい、俺も腰が痛かったんだぞ!」
「そうだったな」
土方が平然と答える。
「市村が貼り薬を持っていっただろ」
「ああ。冷えた握り飯ももらったよ。冷たいお茶とな」
「だって総司が大変だったんだから、仕方ねぇだろ」
「仕方なくない!」
近藤が叫ぶ。
その横で、沖田がにこりと笑った。
「お互い無事に治って、ありがたいことです」
沖田は少しあざとく首を傾げ、にっこり微笑んだ。
「近藤先生も頑張っておられると聞いて、僕、養生の励みにしていたんです」
「……総司」
その日、近藤勇はぎっくり腰から復活した。
ただし――
なぜか白髪だけは、しっかり増えていた。
おまけ
庭先では、永倉新八が一匹の犬と戯れていた。
近藤勇の愛犬、シロである。
「ほら、こっちだぞ。取ってこい」
ぽん、と木の枝を放る。
犬は嬉しそうに駆けていき、枝をくわえて戻ってくる。
「よしよし、偉いなあ」
永倉が頭を撫でていると、傍らで犬の水を替えていた市村鉄之助が、じっと永倉を見ていた。
「……永倉先生」
「ん?」
「ちょっと聞いてもいいですか」
「おう。なんだ?」
鉄之助は少し考えてから、真面目な顔で尋ねた。
「近藤先生と沖田さん、おふたりとも一緒にぎっくり腰になったんですよね」
「ああ」
「なのに……みんな沖田さんのことばかり気にして、近藤先生はほったらかしでした」
「……そうだったなあ」
永倉は犬の背中を撫でながら、遠い目をした。
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
鉄之助は首を傾げる。
「沖田さんのほうが、顔が綺麗だからですか?」
「ぶっ」
永倉が盛大に吹き出した。
犬まで驚いて、耳をぴんと立てる。
「な、永倉先生?」
「お前、何を言い出すんだ」
「だって」
永倉は笑いながら、犬の顎の下を撫でた。
「まあ、総司が可愛い顔をしてるってのは否定しねえけどな」
「やっぱり!」
「待て待て。そういう意味じゃねえ」
永倉は少し真面目な顔になった。
「近藤さんはな。多少痛がってても、『まあ、あの人なら大丈夫だろ』って思っちまうんだ」
「……なるほど」
「それに近藤さんも、『俺はいいから総司を見てやってくれ』とか言いそうだろ?」
「……言いそうですけど……」
「だから、誰も気にしなくなる」
「かわいそうです」
「だよなあ」
鉄之助はしばらく黙っていた。
「おんなじぎっくり腰なんですよ。なんであんなに、沖田さんばっかり」
「…………」
永倉が黙る。
「永倉先生?」
「……まあ」
「やっぱり! 顔が綺麗だと得なんだ!」
犬が驚いて、永倉の膝から飛び降りた。
「ほら、シロまで逃げたじゃねえか!」
「すみません!」
「ったく……」
永倉は笑いながら、逃げた犬を追いかけた。
「近藤先生も、気にかけてもらいたいでしょうね」
「……井上さんも、副長も、ちゃんとわかっているさ。
今回は、まあ、あの二人が、
ほっといても局長は大丈夫、と判断しただけだ」
「そうなんですか」
鉄之助は真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、沖田先生は?」
「総司は、ちょっと症状が重かったんだろ。それだけだ」
その向こうで、犬がまた枝をくわえて戻ってくる。
「永倉先生、シロ、戻ってきました」
「お、偉い偉い。よし、もう一回投げるか!」
永倉が枝を振り上げる。
「今度は近藤さんにも遊んでもらおうな」
「先生はまだ、腰が痛いですよ」
「……そうだった」
「なに、すぐに元気になるさ。なにしろ近藤勇だからな」
「そうですね」
結局、近藤は頑丈な男。
みんな、そう思っていた。




