剣豪は 心配症
道場の板張りは、朝から湿った空気を含んでいた。
「もう一手!」
声が飛ぶより早く、空気が裂ける。
服部武雄は大柄な体をわずかに沈め、二刀を同時に返した。
重さを感じさせない速さで木刀が交差し、乾いた音が道場に響く。
相手は新選組の看板、永倉新八。
鋭い踏み込み。
迷いのない打ち込み。
それでも服部は、一歩も退かない。
「おっ、旦那。手が空いたかい? 次は槍、やろうぜ。」
原田左之助が笑いながら槍を構える。
「おお。」
短い返事。
服部も、すっと槍を手にする。
次の瞬間、鋭い突きが走った。
しかし服部は半歩だけ身をずらし、左の刀で槍を絡め取る。
勢いを殺したところへ、右の刀が滑り込んだ。
「……すごいなあ。」
「ちょっと違う生き物だねえ。サノさんも、服部の旦那も。」
服部と原田を見ながら、周囲の隊士たちは苦笑する。
「休憩ってもんを知らねえな。」
「羨ましいかぎりだ。」
「まあ、俺らは俺らなりにやるだけさ。」
「あれ、終わったら僕も相手してもらおうかなあ。」
強く生き抜くために、ただ鍛える。
それが、この道場の日常だった。
服部武雄は伊東派の剣士である。
同じ新選組の隊士とはいえ、道場では近藤派には負けたくない。
とりわけ、近藤勇の直弟子・沖田総司だけは別格だった。
沖田が相手となれば、服部は鬼になる。
――だが。
稽古が終わると、その印象はまるで違った。
縁側。
沖田総司は汗を拭い、小さく咳をした。
それだけだった。
しかし服部は眉を寄せる。
「沖田くん、ちゃんと食っているのか。」
沖田はきょとんとした。
「またそれ?」
「どうしてそんなに細いんだ。」
「いやいや、服部さんに比べたら誰だって細いよ。」
服部は黙った。
気づけば、手が伸びていた。
「……立てるか。」
沖田は苦笑する。
「服部さん。僕さあ、沖田総司なんだけど。」
「あれだけ僕と竹刀を交えたのに、まだ病弱な若旦那だと思ってる?」
そう言って、沖田はすっと立ち上がる。
服部は反射的に腕を支えた。
「なんだ、この腕……。」
少し間を置いて、ぽつりとつぶやく。
「……お姫様じゃないか。」
一瞬、沈黙。
沖田の目が細くなる。
「今、お姫様って言った?」
「言ってない。」
しかし遅い。
沖田は吹き出した。
「服部さん、道場じゃあんなに怖いのに、外だと……面白いねえ。」
「面白いとか言うな。」
沖田は自分の腕を差し出す。
細い。だが、触れれば鋼のように硬い。
確かな剣士の腕である。
「ほら、新選組一番隊隊長、沖田総司の腕だよ。」
「余分な脂身がないから細く見えるけどさ、ちゃんと鍛えてあるでしょ。」
遠くでは永倉が鼻で笑い、原田は肩を震わせている。
斎藤だけは、見ていないふりをしていた。
服部はようやく手を離し、ひとつ咳払いをする。
「……次からは倒れるな。」
「はあ?」
沖田は目を丸くする。
「いつ倒れたの? 僕。」
「今の今まで服部さんとやり合ってたじゃん。」
服部は視線を逸らした。
「……まったく、厄介なやつだ。」
「それ、僕の台詞だと思う。」
沖田は呆れながら笑った。
その様子を見ていた永倉が肩をすくめる。
「なあ、あれ何なんだ?」
原田も苦笑する。
「さっきまで本気でやり合ってたんだぞ。」
「なのに今は、あれだ。」
永倉はため息をついた。
「一度竹刀を交えりゃ、総司がただの優男じゃないって分かるはずなんだけどな。」
「はっきり言って、服部の旦那が心酔してる伊東先生より、総司のほうが強え。」
「まあ……服部の旦那だからな。」
原田の一言に、全員が苦笑した。
その日の稽古が終わった後も。
服部の視線は、自然と沖田を追っていた。
縁側。
沖田が小さく咳をする。
「……大丈夫か。」
「また?」
沖田は笑う。
「服部さん、本当に心配性だね。でもさ、僕のことはいいから。」
「……。」
服部は黙った。
目の前にいるのは、沖田総司。
京では知らぬ者はいない、新選組の看板剣士だ。
それなのに。
道場を出た途端、放っておけなくなる。
理由は、自分でも分からなかった。
「おーい、服部さん? どうした?」
呆然と固まる服部の前で、沖田が不思議そうに首を傾げる。
服部は小さく息を吐いた。
「……次も全力で来い。」
「はあ〜? そりゃもちろん。
服部武雄相手に片手間って、ありえないでしょ?」
沖田は悪戯っぽく笑う。
少し離れた柱の陰。
伊東甲子太郎の懐刀、篠原泰之進と鈴木三樹三郎が、その様子を見ていた。
「……服部くん、その、少しまずいな。」
「ああ……似ているな。」
「白姫丸か。」
「ああ。服部くんは一途だ……。」
「このままでは……。」
「よからぬことになりかねない。」
二人は顔を見合わせ、
同時に大きなため息をついた。




