神託ログ18『魔力3の男、魔法の神を怒らせる』
翌朝、レンは扉に掛けた木札を眺めながら、人生における幸福とは何かについて真剣に考えていた。
【本日休業】
昨日、トーマが作ってくれたものだ。
木目に沿って丁寧に彫られた文字は、見れば見るほど素晴らしい。飾り気の少ない小さな札だが、レンにとっては高価な宝石よりも価値があった。何しろ、この世界へ来てからというもの、彼の予定は七柱の神々によって一方的に決められることが多かったからだ。
戦闘訓練、魔法訓練、身体検査、知識の習得、道具の修理、金銭管理。
普通なら数人の教師が分担するような内容を、七柱がそれぞれ好き勝手に教えてくる。
しかも全員、自分の専門分野が最も重要だと信じて疑わない。
「……よし」
レンは木札の位置を直した。
「今日は絶対に休むぞ」
『そうね。十分に休んだ方がいいわ』
思いがけない賛同が返ってきた。
セレナだった。
レンは目を丸くした。
「……え?」
『何よ、その反応』
「いや、セレナが俺の休日に賛成するなんて珍しいなって」
『失礼ね。私だって休息の重要性くらい理解しているわ』
「おお……!」
レンは感動した。
昨日は七柱の誰一人として、休日を休日として認めてくれなかったのだ。
ついに理解者が現れた。
「ありがとう、セレナ!」
『どういたしまして。だから、午前中は十分に休みなさい』
「……午前中?」
『ええ。午後から魔法訓練をするから』
「半日しか休めないじゃん!!」
『昨日、約束したでしょう?』
「したけど! したけどさ!」
『それに、魔法の基礎を覚えることはあなた自身のためでもあるのよ』
「分かってるよ!」
『なら問題ないわね』
「問題しかないんだけど!?」
セレナは満足そうに笑った。
レンは頭を抱えた。
神様たちに休日の概念を理解してもらうには、どうやら神託が必要らしい。
しかも、その神託を出す本人たちが問題の原因なのだから、救いようがない。
◇ ◇ ◇
午後。
大神殿の裏庭には、珍しい顔ぶれが集まっていた。
レン、リナ、ソラ。
そして、七柱の神々。
もっとも、神々の姿が見えているのはレンだけだ。リナとソラには声も聞こえないため、レンが説明役を務めることになっている。
訓練場として使われている裏庭は、周囲を低い石壁に囲まれていた。中央には古い木製の的が並び、地面には何度も訓練を重ねた跡が残っている。
空はよく晴れていた。
穏やかな風が吹き、庭の隅に植えられた木々が小さく揺れている。
絶好の昼寝日和だった。
「……帰りたい」
レンが呟くと、リナが笑った。
「まだ始まってもいないよ」
「だから帰りたいんだよ」
「始まったらもっと帰りたくなるってこと?」
「そういうこと!」
ソラが不思議そうに首を傾げた。
「レン、魔法嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。ただ、俺の魔力がね……」
レンは自分の能力を思い出した。
【魔力:3】
この世界に来た時から、ほとんど変わっていない数字だった。
筋力や敏捷性については訓練によって少しずつ成長してきたが、魔力だけは驚くほど伸びなかった。
七柱の神々に育てられているにもかかわらず、魔法の才能だけは見事に置き去りにされている。
『数字で判断するのは早計よ』
セレナが言った。
『魔力の総量と、魔法を扱う技術は別のもの。大切なのは、限られた魔力をどう使うかよ』
「……なるほど」
『例えば、大きな炎を一度だけ放つ者と、小さな炎を正確に何度も生み出す者。どちらが優れているかは状況によって変わるでしょう?』
「確かに」
『つまり、魔力が少なくても工夫次第で十分に戦えるということ』
レンは少し希望を感じた。
「じゃあ、俺にも強い魔法が使える?」
『努力次第ね』
「おお!」
『ただし、あなたの場合は魔力3だから、かなり工夫が必要だけれど』
「最後の一言いらなかった!」
リナが笑った。
ソラも楽しそうにしている。
セレナは構わず説明を続けた。
『まずは、魔力を身体の外へ放出する練習から始めるわ』
「分かった」
『手のひらを前へ出して』
レンは言われたとおりにした。
『目を閉じて、自分の内側にある魔力を感じなさい』
「……うん」
『そして、それを指先へ集めるの』
レンは深呼吸した。
身体の奥に意識を向ける。
魔力。
この世界に来てから何度も聞いてきた言葉だが、実際に感じ取るのは難しかった。
ブレイカーを使う時とは違う。
あの力は、何かを断ち切ろうとする意思に反応する。
だが、魔法は違った。
身体の中にあるものを、意識して動かさなければならない。
「……ん?」
指先が、わずかに温かくなった。
『そう。その感覚よ』
セレナの声が弾んだ。
『焦らず、ゆっくり外へ出しなさい』
レンは意識を集中させた。
すると。
指先に、小さな光が生まれた。
「……おお!」
レンは目を開いた。
手のひらの上に、米粒ほどの光が浮かんでいる。
「出た!!」
リナが驚いた。
「本当だ!」
ソラも目を輝かせた。
「すごい!」
レンは嬉しくなった。
初めて、自分の意思で魔法を生み出したのだ。
「セレナ! できた!」
『ええ。よくできたわ』
セレナの声には、確かな満足感があった。
レンはさらに嬉しくなった。
だが。
『……小っさ』
ガルドが呟いた。
「言うな!!」
『いや、見ろよ。米粒じゃねえか』
「俺にとっては大進歩なんだよ!」
『敵に向かって飛ばしたら、くしゃみで消えそうだな』
「戦闘基準で評価するな!!」
セレナが怒った。
『ガルド! 初めての魔法なのよ! もう少し言い方を考えなさい!』
『事実を言っただけだろ!』
『事実にも伝え方というものがあるの!』
『じゃあ、立派な米粒だ!』
「褒め方が下手すぎる!!」
リナが吹き出した。
ソラは腹を抱えて笑っている。
レンは手のひらの小さな光を見つめた。
……まあ、確かに小さい。
でも。
自分の力で生み出した光だ。
それだけで、今は十分だった。
◇ ◇ ◇
訓練が進むにつれて、問題が一つ明らかになった。
レンの魔法は、とにかく長続きしない。
光を生み出すことはできる。
だが、数秒もすれば消えてしまう。
もう一度生み出そうとすると、今度は指先が重くなり、身体全体に疲労が広がった。
「……はあ」
レンは膝に手をついた。
「もう疲れた……」
『まだ三回しか使っていないわよ』
セレナが呆れたように言った。
「その三回が限界なんだよ!」
『魔力の使い方が粗いのよ。もっと丁寧に循環させなさい』
「循環って言われても……」
レンは手を見つめた。
確かに、最初の一回は上手くいった。
だが、その後は光が安定しない。
魔力を集めようとすると、一気に力が抜けてしまうのだ。
『ふむ』
ノアが口を開いた。
『魔力の総量が少ないことに加え、放出時の損失が大きいようですね』
「……損失?」
『はい。身体の外へ魔力を出す際、必要以上の量を消費しています』
「じゃあ、どうすればいい?」
『放出する量を減らすことです』
「……それができたら苦労しないんだけど」
ノアは少し考えた。
『では、数値で説明しましょう』
「嫌な予感しかしない」
『現在の魔力を仮に三単位とします。最初の魔法で一単位を消費した場合――』
「待って待って!」
『何でしょう』
「魔法の授業で数学始めないで!」
『魔力管理には数的理解が重要です』
「俺、異世界に来てまで計算したくない!」
セレナが呆れたように息を吐いた。
『ノア。今は感覚を覚えさせる段階よ。数字ばかり並べても意味がないわ』
『しかし、感覚だけでは再現性が低いでしょう』
『だから実際に練習させるの』
『練習の前に理論を理解した方が効率的です』
『理論だけで魔法が使えたら苦労しないわ!』
レンは二人の言い争いを聞きながら、静かに空を見上げた。
「……神様同士で授業方針が割れてる」
リナが笑った。
「大変そうだね」
「学校だったら職員会議が終わらないタイプだよ」
「しょくいんかいぎ?」
「……説明すると長くなるから、忘れて」
レンは深く息を吐いた。
すると、今度はヴォルグが口を開いた。
『レン』
「……今度は何?」
『お前は、魔力を出そうとしすぎている』
「……え?」
『小さな光を作るだけなら、大量の魔力は必要ない。問題は、必要な量を見極められていないことだ』
レンは少し考えた。
「……つまり?」
『水を入れた器を想像しろ』
「うん」
『一滴だけ必要なのに、器をひっくり返しているようなものだ』
「……なるほど!」
レンは顔を上げた。
それなら分かる。
魔力を一気に出すのではなく、少しずつ使う。
必要な分だけ。
『ただし、最初から完璧にできると思うな』
ヴォルグは続けた。
『力加減は、失敗しながら覚えるものだ』
レンは頷いた。
「……分かった」
そして、もう一度手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
今度は、光を大きくしようとはしなかった。
ほんの少し。
指先に集まる温かさを、外へ漏らすように意識する。
すると。
小さな光が生まれた。
先ほどより、さらに小さい。
だが。
消えない。
「……あれ?」
レンは目を見開いた。
光は指先で静かに揺れている。
一秒。
二秒。
三秒。
まだ消えない。
「……おお!」
レンは思わず声を上げた。
五秒。
六秒。
七秒。
やがて、光はゆっくり消えた。
だが、先ほどのような疲労感はなかった。
「……できた!」
『ええ!』
セレナの声が弾んだ。
『今のよ! その感覚を覚えておきなさい!』
レンは嬉しくなった。
魔力3。
それは変わらない。
でも、使い方を変えるだけで、できることが増えた。
「……すごいな」
レンは自分の手を見つめた。
今まで、魔力が少ないことばかり気にしていた。
もっと大きな魔法を使いたい。
もっと強い力が欲しい。
そんなことばかり考えていた。
でも。
大切なのは、持っている力をどう使うか。
それは、ブレイカーにも通じることだった。
何でも切ればいいわけじゃない。
必要なものだけを、正確に切る。
魔法も同じなのかもしれない。
『……やっと分かったようね』
セレナが静かに言った。
「……うん」
レンは笑った。
「ありがとう、セレナ」
その瞬間。
『ふ、ふん!』
セレナが妙に慌てた。
『べ、別にお礼なんて必要ないわ! 私は当然のことを教えただけよ!』
「……何で急に照れてるの?」
『照れてないわ!』
『照れてるな』
ガルドが即座に言った。
『照れていますね』
ノアも続いた。
『声が少し上ずっているぞ』
ヴォルグまで加わった。
『み、みんな黙りなさい!!』
セレナの怒声が響いた。
レンは腹を抱えて笑った。
神様たちは、やっぱり面倒くさい。
でも。
こういうところが、嫌いじゃなかった。
◇ ◇ ◇
その後、ソラも魔法の練習をすることになった。
ただし、レンとは少し事情が違う。
ソラの力は、まだ性質が確定していない。物を浮かせることはできるが、それが一般的な魔法と同じ仕組みなのかも分からなかった。
以前、本人の意思で力を使った時には、右腕に育成進行の記録が浮かび上がったこともある。
だから、今日は無理をしない。
最初にそう決めた。
「ソラ。今日は何を試したい?」
レンが尋ねると、ソラは少し考えた。
「……小さいものを浮かせたい」
「葉っぱ?」
「ううん」
ソラは首を横に振った。
そして、庭の隅に置かれていた小さな木の実を拾った。
「これ」
レンは頷いた。
「いいと思う」
ソラは木の実を手のひらに乗せ、静かに目を閉じた。
しばらくして。
木の実が、ふわりと浮かび上がった。
「……おお!」
レンが声を上げる。
木の実は手のひらから数センチほど浮かび、ゆっくり回転していた。
ソラは嬉しそうに笑った。
「できた!」
「すごい!」
リナも拍手した。
その時、ガルドが呟いた。
『……レンより上手くねえか?』
「言うな!!」
『いや、だってよ。あっちは木の実を浮かせてるんだぞ』
「俺だって光を出しただろ!」
『米粒みてえな光をな!』
「まだ言うの!?」
ソラが不思議そうに首を傾げた。
「……レン?」
「何でもない!」
レンは慌てて笑った。
だが、セレナは違った。
『ソラ。今の感覚を、もう一度思い出してみなさい』
レンはその言葉を伝えた。
ソラは頷いた。
そして、もう一度木の実を浮かせようとした。
今度は、少しだけ高く浮いた。
だが。
その瞬間、右腕に黒い線が浮かんだ。
「……っ!」
レンは息を止めた。
ソラも驚いて手を引いた。
木の実が地面へ落ちる。
リナがすぐに近づいた。
「ソラ、大丈夫?」
「……うん」
ソラは自分の腕を見つめた。
黒い線は、すぐには消えなかった。
レンはノアへ確認した。
「……何が起きた?」
『育成管理機構に似た反応があります』
「……また?」
『ただし、以前と同じ処理かどうかは分かりません』
レンはソラを見た。
彼女は不安そうにしていた。
だが、泣いてはいなかった。
「……ソラ」
「うん」
「今日はここまでにする?」
ソラは少し考えた。
そして、頷いた。
「……うん」
レンも頷いた。
「分かった」
無理をする必要はない。
ソラの力は、まだ分からないことが多い。
だからこそ、本人が安心して練習できることが大切だった。
セレナも静かに言った。
『……今日は十分よ』
レンは少し驚いた。
もっと練習しろと言うかと思っていたからだ。
「……セレナ?」
『何よ』
「意外と優しいんだね」
『意外とは何よ!』
「いや、褒めてる!」
『褒め方が下手なのよ、あなたは!』
レンは笑った。
ソラも、少しだけ笑った。
黒い線は、やがて静かに消えていった。
◇ ◇ ◇
訓練が終わる頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
リナは木製の的を片づけ、ソラは落とした木の実を拾っている。
レンは石壁に腰掛け、今日の成果を思い返していた。
魔力3。
その数字は変わらない。
でも、自分の意思で小さな光を生み出せるようになった。
ほんの数秒だけ。
それでも、昨日までできなかったことだ。
「……セレナ」
『何?』
「今日、楽しかった」
少しの沈黙。
それから。
『……そう』
セレナの声は、いつもより柔らかかった。
『それなら、よかったわ』
レンは笑った。
「また教えてね」
『もちろんよ』
その瞬間。
『よし! 次は実戦で使ってみようぜ!』
ガルドが叫んだ。
「何でそうなる!?」
『敵の目をくらませるんだよ!』
「米粒サイズの光で!?」
『近づいて見せりゃいいだろ!』
「危なすぎる!!」
メルクが楽しそうに言った。
『でも、夜道を歩く時には便利かもしれないね』
「……あ、それは確かに」
『小さな光を売る商売も考えられる』
「また商売!?」
ノアが口を開いた。
『まずは発光時間と消費魔力の関係を記録しましょう』
「また計算!?」
ヴォルグが続けた。
『光を固定する道具を作れば、手を使わずに済む』
「今度は工作!?」
フィリアが嬉しそうに言った。
『でも、夜更かしは駄目ですよ。睡眠時間が減ってしまいますから』
「健康管理まで!?」
最後に、エリオスが静かに言った。
『……全員、少し落ち着け』
レンは深く息を吐いた。
「……エリオス」
『何だ』
「やっぱり、あんたが一番まともだよ」
『当然だ』
レンは少し安心した。
だが。
『では、明日の訓練計画を整理しよう』
「お前もかああああ!!」
リナが笑い、ソラも笑った。
夕暮れの庭に、賑やかな声が響く。
レンは空を見上げた。
今日も、神様たちは勝手だった。
それでも。
少しずつ、自分にできることが増えている。
七柱の神々は、いつも違うことを言う。
誰かが戦えと言えば、誰かが休めと言う。
誰かが理論を語れば、誰かが実践を求める。
そのたびにレンは振り回され、時には喧嘩になり、時には笑い合う。
でも。
その違いがあるからこそ、学べることもある。
レンは手のひらを見つめた。
もう一度、小さな光を生み出してみる。
指先に、淡い輝きが灯った。
今度は、先ほどより少しだけ長く続いた。
「……よし」
レンは小さく笑った。
魔力3の男にも、できることはある。
それを教えてくれたのは、世界で一番面倒くさい魔法の神様だった。
『……ところで、レン』
セレナが声をかけた。
「何?」
『明日は、今日の復習から始めるわよ』
「……明日?」
『ええ』
「……俺、明日こそ休みたいんだけど」
『魔法の上達に休日はないわ!』
「ブラック企業かああああ!!」
七柱の笑い声が、頭の中いっぱいに響いた。
レンはもう一度、空を見上げた。
……誰か。
神様に労働基準法を教えてくれ。




