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神々は無職を選んだ  作者: 夜凪 灯
第二章 神なき力の目覚め
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神託ログ17『神様たちに休日の意味を教えたい』

 その朝、レンは人生で初めて、神様に対して正式な苦情を申し立てることにした。


 もっとも、苦情を受け付ける窓口がどこにあるのかは知らない。そもそも七柱の神々には住所もなければ、受付時間もない。呼べば返事をするし、呼ばなくても勝手に話しかけてくる。便利といえば便利だが、冷静に考えると相当な問題を抱えた仕組みだった。


 特に、睡眠中の取り扱いについては改善の余地がある。


『起きろ、レン! 朝だぞ!』


「……あと五分」


『五分前にも同じことを言っていたな!』


「じゃあ、あと十分……」


『増やすな!』


 ガルドの怒声が頭の中に響き、レンは枕を抱え込んだ。


 昨夜は遅くまでリナと話していた。職業管理院から届いた書類の整理に始まり、レグルの処分、町に出された安全確認命令、ソラの今後についてまで。考えなければならないことが多すぎて、気づけば日付が変わっていたのだ。


 だから今日くらい、ゆっくり寝かせてほしかった。


『レン。睡眠不足なら、もう少し休んだ方がいいですよ』


 フィリアの優しい声が聞こえた。


「……フィリア」


 レンは枕に顔を埋めたまま、感動に震えた。


「やっぱり俺の味方はフィリアだけだ……」


『ただし、起床後は全身の健康状態を確認させてください。昨日は拘束処理の影響を詳しく調べられませんでしたから』


「……健康診断?」


『はい。念のため、関節の可動域と神経の反応、それから魔力の循環も確認したいです。時間はそれほどかかりませんよ』


「どれくらい?」


『二時間ほどです』


「それほどの基準が違う!!」


 レンは勢いよく起き上がった。


 窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。大神殿の庭では神官たちが朝の掃除を始めている。遠くから鳥の声が聞こえ、開け放した窓を通して、焼きたてのパンの香りまで漂ってきた。


 こんな日に、部屋の中で健康診断を受けるなんてもったいない。


 レンは寝台から降り、両腕を大きく伸ばした。


「決めた」


『何をですか?』


「今日は休む!」


 七柱の声が、一瞬だけ途切れた。


 それから、ガルドが不思議そうに尋ねた。


『……何からだ?』


「全部!」


『全部とは?』


「訓練も、仕事も、管理院の書類も、神様たちの無茶振りも!」


『最後のものは、訓練や仕事と同列なのか?』


「一番重要な項目です!」


 レンは胸を張った。


「本日は休業! 無職らしく、何もしない一日を過ごします!」


 その宣言に、なぜか七柱は誰も賛成しなかった。


          ◇ ◇ ◇


 朝食の席で、レンはリナに休日宣言を伝えた。


 リナはパンをちぎる手を止め、しばらくレンを見つめていた。


「……休日?」


「そう。何もしない日」


「昨日も訓練してたよね」


「してた」


「一昨日は管理院に行ってた」


「行った」


「その前は?」


「……色々あった」


 リナは少し考え、それから納得したように頷いた。


「確かに、休んだ方がいいかもね」


「だろ!?」


 ようやく理解者が現れた。


 レンは嬉しくなって、スープの入った器を持ち上げた。


「今日は何も考えずに、町をぶらぶらして、美味しいものを食べて、昼寝でもしようと思ってる」


「いいね。私も午後は空いてるから、一緒に行こうかな」


「もちろん!」


 その時、頭の中で何かが動いた。


 正確には、誰かがものすごい勢いで計算を始めたような気配がした。


『待ってくれ、レン』


 メルクだった。


「……何?」


『今、町を歩くと言ったね?』


「言ったけど」


『美味しいものを食べるとも?』


「言った」


『つまり、今日は消費活動を行う予定なんだね』


「……まあ、そうなるのかな」


『素晴らしい!』


 嫌な予感がした。


『だったら、ちょうどいい仕事があるよ』


「ないです」


『まだ説明していないよ?』


「聞く前から断ります!」


『町の商店街では、今日は月に一度の市が開かれるんだ。人が集まるから、ちょっとした商売には絶好の機会でね』


「俺、休みだって言ったよね!?」


『もちろん。だからこそ、休みながら稼げる方法を考えたんだ』


「休みながら稼ぐって、もはや休みじゃないだろ!」


 リナが不思議そうに首を傾げた。


「誰と話してるの?」


「メルクが俺の休日を事業計画に組み込もうとしてる」


「……ああ」


 リナは妙に納得した顔をした。


「メルク様なら、やりそう」


『おや、理解者がいるじゃないか』


「褒められてないから!」


 そこへ、ヴォルグが割り込んできた。


『市へ行くなら、工具を見てこい』


「……工具?」


『トーマの工房で使っている古い締め具だ。昨日、修理を手伝った時に寸法を確認しておいた。代用品があれば、作業を再開しやすくなる』


 レンは言葉を止めた。


 トーマの父親は、荷車の事故で右脚に重い怪我を負った。治療は続いているが、以前のように工房へ立てるようになるかは分からない。トーマは父親の仕事を引き継ごうとしているものの、経験も人手も足りず、工房の経営は決して楽ではなかった。


 そのことを考えれば、ヴォルグの提案は無視できない。


「……それは、見に行ってもいいかな」


『当然だ。職人が道具を選ぶのは大切な仕事だからな』


「仕事って言った!」


『言ったが?』


「俺の休日がまた削られた!」


 レンが頭を抱えると、リナが笑った。


「でも、トーマのところに寄るのはいいと思うよ。最近ずっと忙しかったし」


「……うん。それは俺も思う」


 レンはパンを口へ運んだ。


 すると今度は、ガルドが嬉しそうに声を上げた。


『よし! なら俺も提案がある!』


「嫌です!」


『まだ何も言ってねえだろ!』


「どうせ戦うんでしょ!」


『おお、分かってきたじゃねえか!』


「分かりたくなかった!」


 リナが吹き出した。


 レンは天井を見上げ、深く息を吐いた。


 どうやら、神様に休日の意味を教えるには、相当な時間が必要らしい。


          ◇ ◇ ◇


 結局、レンの休日は「午前中だけ商店街を散歩し、必要ならトーマの工房へ寄る」という内容に落ち着いた。


 少なくとも、レン本人はそのつもりだった。


 町へ出ると、商店街は予想以上の賑わいを見せていた。


 通りの両側には色とりどりの布が張られ、焼き菓子や果物、衣服、日用品などを売る露店が並んでいる。香辛料の匂いと焼いた肉の香りが混ざり合い、店主たちの呼び込みがあちこちから聞こえてきた。


 最近は管理院の命令によって町全体に不安が広がっていたが、それでも人々の暮らしが止まったわけではない。


 子どもたちは菓子の屋台へ駆け寄り、若者たちは衣服を選び、商人たちは一枚でも多く商品を売ろうと声を張り上げている。


 レンはその光景を見て、少しだけ安心した。


「……こういうの、久しぶりだな」


「そうだね」


 リナは隣を歩きながら頷いた。


「最近、管理院と神殿を行ったり来たりしてたもんね」


「そうなんだよ。異世界に来たのに、やってることが役所通いってどうなの?」


「役所?」


「ああ、俺のいた世界の管理院みたいなところ」


「へえ」


「ただ、こっちの管理院は急に光る板で人を捕まえようとするから、だいぶ物騒だけど」


「それは比べるところじゃないと思う」


 リナは笑った。


 レンもつられて笑う。


 こうして二人で何でもない話をしながら歩くのは、いつ以来だろう。


 少なくとも、昨日までのように誰かの命令や記録を気にしながら過ごすより、ずっと気持ちが軽かった。


 そんな時だった。


『レン。右側の露店を見てごらん』


 メルクの声がした。


「……何?」


『あの店、面白いことをしている』


 レンが目を向けると、そこには木製の小物を並べた露店があった。小さな箱や皿、装飾品が並び、奥では年配の男が椅子に座っている。


 ただ、客はほとんどいなかった。


「……普通の木工品の店じゃない?」


『そうだね。でも、値札を見てごらん』


 レンは近づいた。


 小さな木箱が一つ、銅貨三枚。


 隣の箱は銅貨五枚。


 さらに奥の箱は、銅貨八枚だった。


「……値段が違うね」


『違いが分かるかい?』


 レンは箱を見比べた。


 形はほとんど同じだった。


 材質も、見たところ大きな差はない。


 ただ、一番高い箱には細かな模様が彫られていた。


「……装飾の違い?」


『それもある。でも、一番大きな違いは別にある』


「何?」


『店主が説明していないことだよ』


 レンは眉を寄せた。


 すると、店主が声をかけてきた。


「兄ちゃん、何か気になるかい?」


「あ、すみません。ちょっと見てました」


「ゆっくり見ていってくれ」


 男は笑ったが、その表情には少し疲れが見えた。


 レンは木箱を一つ手に取った。


 蓋の裏側には、丁寧に削られた溝がある。


「……これ、何のための溝ですか?」


「湿気で木が膨らんでも、蓋が開けやすいようにしてあるんだ」


「へえ!」


 レンは思わず声を上げた。


 確かに、木製品は湿気によって形が変わることがある。見た目には分からないが、使いやすさを考えた工夫なのだろう。


「じゃあ、こっちは?」


「そっちは底板を少し厚くしてある。重いものを入れても割れにくい」


「なるほど……!」


『ほらね』


 メルクが得意そうに言った。


『いい商品なのに、価値が伝わっていない』


 レンは木箱を見つめた。


 確かに、何も知らずに見れば、ただの箱だ。


 でも、説明を聞くと印象が変わる。


 それぞれの値段には、きちんと理由があった。


「……おじさん」


「何だい?」


「この箱の特徴、紙に書いて並べたらどうですか?」


 店主は目を丸くした。


「特徴?」


「はい。例えば、この箱は湿気に強いとか、こっちは重いものを入れられるとか」


 男は少し考えた。


「……そんなことで売れるかね」


「分からないですけど、俺は今の説明を聞いて欲しくなりました」


 レンは正直に答えた。


 店主はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「……なるほどな」


 彼は店の奥から紙と筆を取り出した。


 レンとリナは、店主の説明を聞きながら簡単な紹介文を書くことにした。


 湿気に強い箱。


 重いものを入れられる箱。


 贈り物に向いた装飾箱。


 それぞれの特徴を書いた紙を並べると、店の前を通る人々が少しずつ足を止めるようになった。


「……あれ?」


 レンは驚いた。


 さっきまで誰も見ていなかったのに。


 若い女性が装飾箱を手に取り、店主へ質問している。


 その隣では、職人らしい男が丈夫な箱を確認していた。


『価値は、存在するだけでは伝わらないんだよ』


 メルクが静かに言った。


『相手に届く形へ変えて、初めて意味を持つ』


 レンは少しだけ感心した。


「……メルク、たまにはいいこと言うね」


『たまには余計だね』


「でも、本当にすごいと思う」


『そうだろう?』


 メルクの声が弾んだ。


『ちなみに、今の助言料は売上の一割でどうかな』


「台無しだよ!!」


 レンの叫び声に、リナが腹を抱えて笑った。


 店主は何が起きたのか分からず、二人を不思議そうに見つめていた。


          ◇ ◇ ◇


 店を離れる頃には、レンの手には小さな木箱が一つ握られていた。


 店主がお礼に渡そうとしてくれたものだったが、レンは代金を払って受け取った。売上が増えたとはいえ、店主の生活に余裕があるわけではない。それに、手間をかけて作られた品物を無料でもらうのは、何となく違う気がしたのだ。


「……いい買い物したね」


 リナが言った。


「うん。何入れようかな」


「お金とか?」


「……それ、いいかも」


『では、収支管理表も作ろう』


 メルクが即座に提案した。


「休日に帳簿をつけさせないで!」


 レンが抗議すると、今度はヴォルグが口を開いた。


『その箱、角の接合が少し甘いな』


「……え?」


『長く使うなら補強した方がいい』


「いや、今買ったばっかりなんだけど」


『だからこそだ。壊れる前に直せ』


「神様って、何でも仕事に繋げるの!?」


 ヴォルグは答えなかった。


 代わりに、しばらく箱の構造について説明し始めた。


 木材の膨張。


 接合部分の負荷。


 釘を使わない固定方法。


 レンは途中から理解するのを諦めた。


 ただ、ヴォルグの話を聞いているうちに、一つ思い出したことがあった。


「……そういえば、トーマの工房に寄るんだった」


 リナも頷いた。


「工具を探してから行こうか」


「うん」


 二人は市場の奥へ向かった。


 工具を扱う店は、食べ物の屋台から少し離れた場所に集まっていた。金属を叩く音が響き、油と鉄の匂いが漂っている。


 ヴォルグの指示に従って締め具を探していると、店主が奥から古い道具を持ってきた。


「これなら、使えるかもしれないな」


 差し出されたのは、木材を固定するための金属製の締め具だった。


 ヴォルグが細かな寸法を確認し、レンが店主へ質問する。何度もやり取りを重ねた結果、ようやく使えそうなものが見つかった。


「……よし、これだ!」


『待て』


 ヴォルグが止めた。


「……何?」


『もう一つ買え』


「何で!?」


『予備だ』


「一つでいいって!」


『壊れた時に困る』


「その時また買えばいいじゃん!」


『その時に売っている保証はない』


 レンは黙った。


 ……確かに。


『それに、工具は使い方を誤れば壊れる。予備があれば、作業を止めずに済む』


「……なるほど」


『分かったか』


「うん」


 レンは店主へ向き直った。


「すみません、二つください」


 その瞬間、メルクが叫んだ。


『待った!』


「今度は何!?」


『二つ買うなら値引き交渉だろう!』


「神様たち、俺を買い物させる気ある!?」


 店主が怪訝そうにレンを見た。


 リナは笑いを堪えるため、少し離れた場所へ移動していた。


          ◇ ◇ ◇


 トーマの工房へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 工房の前には木材が積まれ、入口には新しい看板が掛けられていた。以前は父親の名前が書かれていた場所に、今は小さく「トーマ工房」と記されている。


 レンはその文字を見て、少しだけ胸が温かくなった。


 トーマは工房を続けると決めた。


 父親が怪我をしたから仕方なく、というだけではない。


 自分が木工を好きだから。


 その気持ちを、今も大切にしているのだろう。


「トーマ!」


 レンが声をかけると、工房の奥から返事があった。


「レンさん? ちょっと待ってください!」


 しばらくして、木屑だらけのトーマが現れた。


 額には汗が浮かび、袖をまくった腕には細かな傷がある。以前より少し疲れて見えたが、目には確かな力が宿っていた。


「どうしたんですか?」


「工具を持ってきた!」


 レンは袋を掲げた。


 トーマが中を覗き込み、驚いたように目を見開く。


「……これ、締め具ですか?」


「うん。ヴォルグが必要だって」


 トーマは工具を手に取った。


 何度か開閉し、金具の動きを確認する。


「……すごい。これなら、今まで一人じゃ固定できなかった板も扱えます」


「本当!?」


「はい!」


 トーマの顔に笑みが広がった。


 その表情を見て、レンは来てよかったと思った。


 工房の中には、作りかけの椅子がいくつも並んでいた。


 どれも同じ形ではない。背もたれの角度や脚の長さが少しずつ違い、用途に合わせて作られているらしい。


「……忙しそうだね」


 リナが言うと、トーマは苦笑した。


「父が受けていた注文が残っていて。納期を延ばしてもらったものもあるんですけど、全部断るわけにもいかなくて」


「お父さんは?」


「今朝も診療所へ行ってきました。痛みは少し落ち着いたみたいです」


 トーマはそう答えたが、声には疲れが滲んでいた。


 父親の怪我は、簡単に治るものではない。


 工房の仕事を続けることも、決して楽ではない。


 レンは周囲を見回した。


「……何か手伝えることある?」


 トーマは少し考えた。


「じゃあ、椅子の脚を固定するのを手伝ってもらえますか?」


「もちろん!」


 レンは袖をまくった。


 すると、頭の中でガルドが歓声を上げた。


『よし! ついに訓練だな!』


「違う! 手伝い!」


『椅子の脚を固定するんだろ? 力が必要じゃねえか!』


「必要だけど、戦闘訓練じゃないから!」


『力の使い方を学ぶのは立派な訓練だ!』


「何でも訓練にするな!」


 トーマが不思議そうに首を傾げた。


「……ガルド様ですか?」


「うん」


「何て?」


「椅子と戦いたいらしい」


「……椅子と?」


 トーマは真剣に考え込んだ。


「……椅子って、戦えるんですか?」


「そこを考えなくていいから!」


 リナが笑い始めた。


 工房に、久しぶりに明るい声が響いた。


          ◇ ◇ ◇


 作業は、最初こそ順調だった。


 レンが木材を支え、トーマが金具を締める。ヴォルグが角度や力加減を指示し、リナが完成した部品を運ぶ。


 トーマの性質を使えば、金具を外すことは簡単だった。


 ただし、以前の事故以来、彼は力を使う前に必ず周囲を確認するようになっていた。対象となる金具だけでなく、その金具が何を支えているのか、外した時に何が動くのかまで考えている。


 レンはその姿を見て、少しだけ安心した。


 トーマは、あの事故から何も学ばなかったわけではない。


 むしろ、自分の力と向き合おうとしている。


「……トーマ」


「はい?」


「前より、ずっと慎重になったね」


 トーマは手を止めた。


 そして、少しだけ苦笑した。


「……怖いんです」


 レンは黙って聞いた。


「また、何か壊したらどうしようって。父の怪我も、まだ……」


 トーマは言葉を詰まらせた。


 レンは何も言わなかった。


 大丈夫だと簡単に言うことはできない。


 昨日までの自分なら、励ます言葉を探していたかもしれない。


 でも、今は。


 トーマが話し終えるのを待ちたかった。


「……でも」


 トーマは工具を握り直した。


「だからって、何もしなかったら、工房を続けられないので」


 彼は作りかけの椅子を見つめた。


「父が戻ってこられるかどうか、まだ分かりません。でも、戻ってきた時に、ここがなくなってたら嫌なんです」


 レンは頷いた。


「……うん」


「だから、できることをやろうと思ってます」


 トーマは少し笑った。


 レンも笑った。


 その時、ヴォルグが静かに言った。


『……いい職人になる』


 レンは驚いた。


 ヴォルグが、こんなふうに誰かを褒めるのは珍しい。


「……ヴォルグが褒めてるよ」


 レンが伝えると、トーマは目を丸くした。


「本当ですか!?」


「うん。いい職人になるって」


 トーマはしばらく動かなかった。


 それから、少し照れくさそうに笑った。


「……ありがとうございます」


 ヴォルグは何も言わなかった。


 ただ、しばらくしてから小さく呟いた。


『……まだ、これからだがな』


 レンは笑った。


 その一言に、ヴォルグらしさが詰まっていた。


          ◇ ◇ ◇


 問題が起きたのは、それから三十分ほど後だった。


 完成した椅子を確認していたレンが、何気なく腰を下ろした瞬間。


 椅子が、奇妙な音を立てた。


「……ん?」


 レンは動きを止めた。


 脚の一本が、わずかに傾いている。


「……あれ?」


『レン、立て』


 ヴォルグの声が響いた。


「……え?」


『今すぐだ』


 レンが立ち上がろうとした瞬間、椅子の脚が外れた。


「うわああああ!?」


 身体が後ろへ傾く。


 レンは慌てて手を伸ばした。


 だが、床には木材が置かれている。


 足を引っかけ、さらに体勢を崩した。


「ちょ、待っ――!」


 次の瞬間。


 背中から床へ落ちた。


 大きな音が工房に響く。


 リナとトーマが駆け寄ってきた。


「レン!?」


「大丈夫ですか!?」


 レンは床に寝転がったまま、天井を見つめていた。


「……俺」


 ゆっくり口を開く。


「……椅子に負けた」


 数秒の沈黙。


 そして。


『だから言っただろう!』


 ガルドが叫んだ。


『椅子と戦うなら、まず構えろって!』


「言ってないだろそんなこと!!」


 レンは床から叫び返した。


 リナが吹き出した。


 トーマも、最初は心配そうにしていたが、レンが元気だと分かると笑い始めた。


 その笑い声につられるように、レンも笑った。


 ただし、フィリアだけは違った。


『レン! 動かないでください!』


「……え?」


『頭を打っていませんか!? 背中は!? 呼吸は苦しくありませんか!?』


「いや、大丈夫だって!」


『大丈夫かどうかは確認してからです!』


 レンの身体が、淡い光に包まれた。


「ちょ、フィリア!?」


『念のため、全身を調べます!』


「朝の健康診断、ここで始まるの!?」


『二時間もかかりませんから!』


「そういう問題じゃない!!」


 工房に、再び笑い声が響いた。


 トーマは腹を抱え、リナは涙を拭いながら笑っている。


 レンは床に寝転がったまま、深く息を吐いた。


 ……休日って、何だっけ。


          ◇ ◇ ◇


 夕方。


 作業を終えたレンたちは、工房の前で休んでいた。


 空は茜色に染まり、町の向こうから夕食の支度をする匂いが漂ってくる。トーマは完成した椅子を一脚ずつ確認し、リナは使った工具を片づけていた。


 レンは入口の段差に腰掛け、冷たい水を飲んだ。


「……疲れた」


『いい訓練になったな!』


 ガルドが満足そうに言った。


「訓練じゃないって何回言えば分かるの!?」


『椅子との戦いには敗れたがな!』


「一生言われるやつだ、これ!」


 レンは頭を抱えた。


 すると、メルクが楽しそうに言った。


『でも、今日は収穫が多かったね』


「……収穫?」


『市場では商売の勉強をした。工具も手に入れた。トーマの工房では仕事を手伝った。そして、椅子の耐久性に問題があることも確認できた』


「最後だけ俺の犠牲が大きくない!?」


『経験には価値があるものさ』


「その価値、誰か買い取ってくれない!?」


 リナが笑った。


 レンもつられて笑う。


 その時、トーマが工房から出てきた。


 手には、小さな木製の札を持っている。


「レンさん」


「ん?」


「これ、よかったら」


 差し出された札には、丁寧な文字が彫られていた。


【本日休業】


 レンは目を丸くした。


「……これ」


「今日、ずっと休みたいって言ってたので」


 トーマは少し照れくさそうに笑った。


「部屋の扉に掛けておけば、少しは休めるかなって」


 レンは札を受け取った。


 木目に沿って丁寧に削られた表面は滑らかで、文字の周囲には小さな装飾まで施されている。


 きっと、作業の合間に作ってくれたのだろう。


「……ありがとう」


 レンは笑った。


「めちゃくちゃ嬉しい」


 トーマも笑った。


 リナが札を覗き込む。


「いいね。レンにぴったり」


「だろ?」


 レンは嬉しくなって、札を高く掲げた。


「これで明日こそ、完全な休日を――」


『待ちなさい』


 セレナの声が響いた。


 レンは固まった。


「……何?」


『明日は魔法の訓練をする約束でしょう』


「……え?」


『先週、あなたが自分で言ったのよ。魔力の扱いをもっと練習したいって』


 レンは思い出した。


 確かに言った。


 言った気がする。


 でも、それは。


「……明日だったっけ?」


『明日よ』


『俺との実戦訓練もあるぞ!』


 ガルドが続けた。


『工具の補強も必要だ』


 ヴォルグ。


『健康診断の続きもあります』


 フィリア。


『今日の収支を整理しよう』


 メルク。


『睡眠時間の記録も確認したいですね』


 ノア。


『それから、管理院へ提出する書類の確認が――』


 エリオス。


「ちょっと待てえええええ!!」


 レンは立ち上がった。


「俺の休日、どこ行った!?」


 七柱は誰も答えなかった。


 代わりに、ガルドが豪快に笑った。


『はっはっは! 忙しいな、レン!』


「誰のせいだと思ってるんだよ!!」


 リナが笑い、トーマも笑った。


 夕暮れの工房に、賑やかな声が響いた。


 レンは手にした札を見つめた。


【本日休業】


 その文字を見て、少しだけ考えた。


 今日は、結局休めなかった。


 朝から神様たちに振り回され、市場では商売を手伝い、工房では椅子に負けた。


 でも。


 久しぶりに、たくさん笑った。


 リナも笑っていた。


 トーマも笑っていた。


 神様たちも、いつもどおり騒がしかった。


 最近は難しいことばかり考えていたから、こんな一日が少しだけ懐かしかった。


「……まあ」


 レンは小さく笑った。


「悪くない休日だったかな」


『そうでしょう!』


 フィリアが嬉しそうに答えた。


『心身の健康には、適度な運動と人との交流が大切ですから!』


「……そうだね」


『では、明日の健康診断も――』


「それは別!!」


 再び笑い声が響いた。


 レンは札を大切に鞄へしまった。


 明日も、きっと騒がしい一日になる。


 神様たちは勝手だし、無茶ばかり言うし、俺の予定なんて少しも考えてくれない。


 でも。


 そんな七柱と過ごす毎日が、今の俺は嫌いじゃなかった。


 むしろ、少しだけ誇らしかった。


 無職の俺を育てているのは、世界で一番面倒くさい七柱の神様たちだ。


 そして、その神様たちに振り回されながら、俺は今日も少しずつ前へ進んでいる。


 ……ただし。


 明日こそは、絶対に休む。


 そう心に誓った瞬間。


『レン。明日の起床時間だが――』


「もう寝かせてくれええええ!!」

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