神託ログ17『神様たちに休日の意味を教えたい』
その朝、レンは人生で初めて、神様に対して正式な苦情を申し立てることにした。
もっとも、苦情を受け付ける窓口がどこにあるのかは知らない。そもそも七柱の神々には住所もなければ、受付時間もない。呼べば返事をするし、呼ばなくても勝手に話しかけてくる。便利といえば便利だが、冷静に考えると相当な問題を抱えた仕組みだった。
特に、睡眠中の取り扱いについては改善の余地がある。
『起きろ、レン! 朝だぞ!』
「……あと五分」
『五分前にも同じことを言っていたな!』
「じゃあ、あと十分……」
『増やすな!』
ガルドの怒声が頭の中に響き、レンは枕を抱え込んだ。
昨夜は遅くまでリナと話していた。職業管理院から届いた書類の整理に始まり、レグルの処分、町に出された安全確認命令、ソラの今後についてまで。考えなければならないことが多すぎて、気づけば日付が変わっていたのだ。
だから今日くらい、ゆっくり寝かせてほしかった。
『レン。睡眠不足なら、もう少し休んだ方がいいですよ』
フィリアの優しい声が聞こえた。
「……フィリア」
レンは枕に顔を埋めたまま、感動に震えた。
「やっぱり俺の味方はフィリアだけだ……」
『ただし、起床後は全身の健康状態を確認させてください。昨日は拘束処理の影響を詳しく調べられませんでしたから』
「……健康診断?」
『はい。念のため、関節の可動域と神経の反応、それから魔力の循環も確認したいです。時間はそれほどかかりませんよ』
「どれくらい?」
『二時間ほどです』
「それほどの基準が違う!!」
レンは勢いよく起き上がった。
窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。大神殿の庭では神官たちが朝の掃除を始めている。遠くから鳥の声が聞こえ、開け放した窓を通して、焼きたてのパンの香りまで漂ってきた。
こんな日に、部屋の中で健康診断を受けるなんてもったいない。
レンは寝台から降り、両腕を大きく伸ばした。
「決めた」
『何をですか?』
「今日は休む!」
七柱の声が、一瞬だけ途切れた。
それから、ガルドが不思議そうに尋ねた。
『……何からだ?』
「全部!」
『全部とは?』
「訓練も、仕事も、管理院の書類も、神様たちの無茶振りも!」
『最後のものは、訓練や仕事と同列なのか?』
「一番重要な項目です!」
レンは胸を張った。
「本日は休業! 無職らしく、何もしない一日を過ごします!」
その宣言に、なぜか七柱は誰も賛成しなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席で、レンはリナに休日宣言を伝えた。
リナはパンをちぎる手を止め、しばらくレンを見つめていた。
「……休日?」
「そう。何もしない日」
「昨日も訓練してたよね」
「してた」
「一昨日は管理院に行ってた」
「行った」
「その前は?」
「……色々あった」
リナは少し考え、それから納得したように頷いた。
「確かに、休んだ方がいいかもね」
「だろ!?」
ようやく理解者が現れた。
レンは嬉しくなって、スープの入った器を持ち上げた。
「今日は何も考えずに、町をぶらぶらして、美味しいものを食べて、昼寝でもしようと思ってる」
「いいね。私も午後は空いてるから、一緒に行こうかな」
「もちろん!」
その時、頭の中で何かが動いた。
正確には、誰かがものすごい勢いで計算を始めたような気配がした。
『待ってくれ、レン』
メルクだった。
「……何?」
『今、町を歩くと言ったね?』
「言ったけど」
『美味しいものを食べるとも?』
「言った」
『つまり、今日は消費活動を行う予定なんだね』
「……まあ、そうなるのかな」
『素晴らしい!』
嫌な予感がした。
『だったら、ちょうどいい仕事があるよ』
「ないです」
『まだ説明していないよ?』
「聞く前から断ります!」
『町の商店街では、今日は月に一度の市が開かれるんだ。人が集まるから、ちょっとした商売には絶好の機会でね』
「俺、休みだって言ったよね!?」
『もちろん。だからこそ、休みながら稼げる方法を考えたんだ』
「休みながら稼ぐって、もはや休みじゃないだろ!」
リナが不思議そうに首を傾げた。
「誰と話してるの?」
「メルクが俺の休日を事業計画に組み込もうとしてる」
「……ああ」
リナは妙に納得した顔をした。
「メルク様なら、やりそう」
『おや、理解者がいるじゃないか』
「褒められてないから!」
そこへ、ヴォルグが割り込んできた。
『市へ行くなら、工具を見てこい』
「……工具?」
『トーマの工房で使っている古い締め具だ。昨日、修理を手伝った時に寸法を確認しておいた。代用品があれば、作業を再開しやすくなる』
レンは言葉を止めた。
トーマの父親は、荷車の事故で右脚に重い怪我を負った。治療は続いているが、以前のように工房へ立てるようになるかは分からない。トーマは父親の仕事を引き継ごうとしているものの、経験も人手も足りず、工房の経営は決して楽ではなかった。
そのことを考えれば、ヴォルグの提案は無視できない。
「……それは、見に行ってもいいかな」
『当然だ。職人が道具を選ぶのは大切な仕事だからな』
「仕事って言った!」
『言ったが?』
「俺の休日がまた削られた!」
レンが頭を抱えると、リナが笑った。
「でも、トーマのところに寄るのはいいと思うよ。最近ずっと忙しかったし」
「……うん。それは俺も思う」
レンはパンを口へ運んだ。
すると今度は、ガルドが嬉しそうに声を上げた。
『よし! なら俺も提案がある!』
「嫌です!」
『まだ何も言ってねえだろ!』
「どうせ戦うんでしょ!」
『おお、分かってきたじゃねえか!』
「分かりたくなかった!」
リナが吹き出した。
レンは天井を見上げ、深く息を吐いた。
どうやら、神様に休日の意味を教えるには、相当な時間が必要らしい。
◇ ◇ ◇
結局、レンの休日は「午前中だけ商店街を散歩し、必要ならトーマの工房へ寄る」という内容に落ち着いた。
少なくとも、レン本人はそのつもりだった。
町へ出ると、商店街は予想以上の賑わいを見せていた。
通りの両側には色とりどりの布が張られ、焼き菓子や果物、衣服、日用品などを売る露店が並んでいる。香辛料の匂いと焼いた肉の香りが混ざり合い、店主たちの呼び込みがあちこちから聞こえてきた。
最近は管理院の命令によって町全体に不安が広がっていたが、それでも人々の暮らしが止まったわけではない。
子どもたちは菓子の屋台へ駆け寄り、若者たちは衣服を選び、商人たちは一枚でも多く商品を売ろうと声を張り上げている。
レンはその光景を見て、少しだけ安心した。
「……こういうの、久しぶりだな」
「そうだね」
リナは隣を歩きながら頷いた。
「最近、管理院と神殿を行ったり来たりしてたもんね」
「そうなんだよ。異世界に来たのに、やってることが役所通いってどうなの?」
「役所?」
「ああ、俺のいた世界の管理院みたいなところ」
「へえ」
「ただ、こっちの管理院は急に光る板で人を捕まえようとするから、だいぶ物騒だけど」
「それは比べるところじゃないと思う」
リナは笑った。
レンもつられて笑う。
こうして二人で何でもない話をしながら歩くのは、いつ以来だろう。
少なくとも、昨日までのように誰かの命令や記録を気にしながら過ごすより、ずっと気持ちが軽かった。
そんな時だった。
『レン。右側の露店を見てごらん』
メルクの声がした。
「……何?」
『あの店、面白いことをしている』
レンが目を向けると、そこには木製の小物を並べた露店があった。小さな箱や皿、装飾品が並び、奥では年配の男が椅子に座っている。
ただ、客はほとんどいなかった。
「……普通の木工品の店じゃない?」
『そうだね。でも、値札を見てごらん』
レンは近づいた。
小さな木箱が一つ、銅貨三枚。
隣の箱は銅貨五枚。
さらに奥の箱は、銅貨八枚だった。
「……値段が違うね」
『違いが分かるかい?』
レンは箱を見比べた。
形はほとんど同じだった。
材質も、見たところ大きな差はない。
ただ、一番高い箱には細かな模様が彫られていた。
「……装飾の違い?」
『それもある。でも、一番大きな違いは別にある』
「何?」
『店主が説明していないことだよ』
レンは眉を寄せた。
すると、店主が声をかけてきた。
「兄ちゃん、何か気になるかい?」
「あ、すみません。ちょっと見てました」
「ゆっくり見ていってくれ」
男は笑ったが、その表情には少し疲れが見えた。
レンは木箱を一つ手に取った。
蓋の裏側には、丁寧に削られた溝がある。
「……これ、何のための溝ですか?」
「湿気で木が膨らんでも、蓋が開けやすいようにしてあるんだ」
「へえ!」
レンは思わず声を上げた。
確かに、木製品は湿気によって形が変わることがある。見た目には分からないが、使いやすさを考えた工夫なのだろう。
「じゃあ、こっちは?」
「そっちは底板を少し厚くしてある。重いものを入れても割れにくい」
「なるほど……!」
『ほらね』
メルクが得意そうに言った。
『いい商品なのに、価値が伝わっていない』
レンは木箱を見つめた。
確かに、何も知らずに見れば、ただの箱だ。
でも、説明を聞くと印象が変わる。
それぞれの値段には、きちんと理由があった。
「……おじさん」
「何だい?」
「この箱の特徴、紙に書いて並べたらどうですか?」
店主は目を丸くした。
「特徴?」
「はい。例えば、この箱は湿気に強いとか、こっちは重いものを入れられるとか」
男は少し考えた。
「……そんなことで売れるかね」
「分からないですけど、俺は今の説明を聞いて欲しくなりました」
レンは正直に答えた。
店主はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……なるほどな」
彼は店の奥から紙と筆を取り出した。
レンとリナは、店主の説明を聞きながら簡単な紹介文を書くことにした。
湿気に強い箱。
重いものを入れられる箱。
贈り物に向いた装飾箱。
それぞれの特徴を書いた紙を並べると、店の前を通る人々が少しずつ足を止めるようになった。
「……あれ?」
レンは驚いた。
さっきまで誰も見ていなかったのに。
若い女性が装飾箱を手に取り、店主へ質問している。
その隣では、職人らしい男が丈夫な箱を確認していた。
『価値は、存在するだけでは伝わらないんだよ』
メルクが静かに言った。
『相手に届く形へ変えて、初めて意味を持つ』
レンは少しだけ感心した。
「……メルク、たまにはいいこと言うね」
『たまには余計だね』
「でも、本当にすごいと思う」
『そうだろう?』
メルクの声が弾んだ。
『ちなみに、今の助言料は売上の一割でどうかな』
「台無しだよ!!」
レンの叫び声に、リナが腹を抱えて笑った。
店主は何が起きたのか分からず、二人を不思議そうに見つめていた。
◇ ◇ ◇
店を離れる頃には、レンの手には小さな木箱が一つ握られていた。
店主がお礼に渡そうとしてくれたものだったが、レンは代金を払って受け取った。売上が増えたとはいえ、店主の生活に余裕があるわけではない。それに、手間をかけて作られた品物を無料でもらうのは、何となく違う気がしたのだ。
「……いい買い物したね」
リナが言った。
「うん。何入れようかな」
「お金とか?」
「……それ、いいかも」
『では、収支管理表も作ろう』
メルクが即座に提案した。
「休日に帳簿をつけさせないで!」
レンが抗議すると、今度はヴォルグが口を開いた。
『その箱、角の接合が少し甘いな』
「……え?」
『長く使うなら補強した方がいい』
「いや、今買ったばっかりなんだけど」
『だからこそだ。壊れる前に直せ』
「神様って、何でも仕事に繋げるの!?」
ヴォルグは答えなかった。
代わりに、しばらく箱の構造について説明し始めた。
木材の膨張。
接合部分の負荷。
釘を使わない固定方法。
レンは途中から理解するのを諦めた。
ただ、ヴォルグの話を聞いているうちに、一つ思い出したことがあった。
「……そういえば、トーマの工房に寄るんだった」
リナも頷いた。
「工具を探してから行こうか」
「うん」
二人は市場の奥へ向かった。
工具を扱う店は、食べ物の屋台から少し離れた場所に集まっていた。金属を叩く音が響き、油と鉄の匂いが漂っている。
ヴォルグの指示に従って締め具を探していると、店主が奥から古い道具を持ってきた。
「これなら、使えるかもしれないな」
差し出されたのは、木材を固定するための金属製の締め具だった。
ヴォルグが細かな寸法を確認し、レンが店主へ質問する。何度もやり取りを重ねた結果、ようやく使えそうなものが見つかった。
「……よし、これだ!」
『待て』
ヴォルグが止めた。
「……何?」
『もう一つ買え』
「何で!?」
『予備だ』
「一つでいいって!」
『壊れた時に困る』
「その時また買えばいいじゃん!」
『その時に売っている保証はない』
レンは黙った。
……確かに。
『それに、工具は使い方を誤れば壊れる。予備があれば、作業を止めずに済む』
「……なるほど」
『分かったか』
「うん」
レンは店主へ向き直った。
「すみません、二つください」
その瞬間、メルクが叫んだ。
『待った!』
「今度は何!?」
『二つ買うなら値引き交渉だろう!』
「神様たち、俺を買い物させる気ある!?」
店主が怪訝そうにレンを見た。
リナは笑いを堪えるため、少し離れた場所へ移動していた。
◇ ◇ ◇
トーマの工房へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
工房の前には木材が積まれ、入口には新しい看板が掛けられていた。以前は父親の名前が書かれていた場所に、今は小さく「トーマ工房」と記されている。
レンはその文字を見て、少しだけ胸が温かくなった。
トーマは工房を続けると決めた。
父親が怪我をしたから仕方なく、というだけではない。
自分が木工を好きだから。
その気持ちを、今も大切にしているのだろう。
「トーマ!」
レンが声をかけると、工房の奥から返事があった。
「レンさん? ちょっと待ってください!」
しばらくして、木屑だらけのトーマが現れた。
額には汗が浮かび、袖をまくった腕には細かな傷がある。以前より少し疲れて見えたが、目には確かな力が宿っていた。
「どうしたんですか?」
「工具を持ってきた!」
レンは袋を掲げた。
トーマが中を覗き込み、驚いたように目を見開く。
「……これ、締め具ですか?」
「うん。ヴォルグが必要だって」
トーマは工具を手に取った。
何度か開閉し、金具の動きを確認する。
「……すごい。これなら、今まで一人じゃ固定できなかった板も扱えます」
「本当!?」
「はい!」
トーマの顔に笑みが広がった。
その表情を見て、レンは来てよかったと思った。
工房の中には、作りかけの椅子がいくつも並んでいた。
どれも同じ形ではない。背もたれの角度や脚の長さが少しずつ違い、用途に合わせて作られているらしい。
「……忙しそうだね」
リナが言うと、トーマは苦笑した。
「父が受けていた注文が残っていて。納期を延ばしてもらったものもあるんですけど、全部断るわけにもいかなくて」
「お父さんは?」
「今朝も診療所へ行ってきました。痛みは少し落ち着いたみたいです」
トーマはそう答えたが、声には疲れが滲んでいた。
父親の怪我は、簡単に治るものではない。
工房の仕事を続けることも、決して楽ではない。
レンは周囲を見回した。
「……何か手伝えることある?」
トーマは少し考えた。
「じゃあ、椅子の脚を固定するのを手伝ってもらえますか?」
「もちろん!」
レンは袖をまくった。
すると、頭の中でガルドが歓声を上げた。
『よし! ついに訓練だな!』
「違う! 手伝い!」
『椅子の脚を固定するんだろ? 力が必要じゃねえか!』
「必要だけど、戦闘訓練じゃないから!」
『力の使い方を学ぶのは立派な訓練だ!』
「何でも訓練にするな!」
トーマが不思議そうに首を傾げた。
「……ガルド様ですか?」
「うん」
「何て?」
「椅子と戦いたいらしい」
「……椅子と?」
トーマは真剣に考え込んだ。
「……椅子って、戦えるんですか?」
「そこを考えなくていいから!」
リナが笑い始めた。
工房に、久しぶりに明るい声が響いた。
◇ ◇ ◇
作業は、最初こそ順調だった。
レンが木材を支え、トーマが金具を締める。ヴォルグが角度や力加減を指示し、リナが完成した部品を運ぶ。
トーマの性質を使えば、金具を外すことは簡単だった。
ただし、以前の事故以来、彼は力を使う前に必ず周囲を確認するようになっていた。対象となる金具だけでなく、その金具が何を支えているのか、外した時に何が動くのかまで考えている。
レンはその姿を見て、少しだけ安心した。
トーマは、あの事故から何も学ばなかったわけではない。
むしろ、自分の力と向き合おうとしている。
「……トーマ」
「はい?」
「前より、ずっと慎重になったね」
トーマは手を止めた。
そして、少しだけ苦笑した。
「……怖いんです」
レンは黙って聞いた。
「また、何か壊したらどうしようって。父の怪我も、まだ……」
トーマは言葉を詰まらせた。
レンは何も言わなかった。
大丈夫だと簡単に言うことはできない。
昨日までの自分なら、励ます言葉を探していたかもしれない。
でも、今は。
トーマが話し終えるのを待ちたかった。
「……でも」
トーマは工具を握り直した。
「だからって、何もしなかったら、工房を続けられないので」
彼は作りかけの椅子を見つめた。
「父が戻ってこられるかどうか、まだ分かりません。でも、戻ってきた時に、ここがなくなってたら嫌なんです」
レンは頷いた。
「……うん」
「だから、できることをやろうと思ってます」
トーマは少し笑った。
レンも笑った。
その時、ヴォルグが静かに言った。
『……いい職人になる』
レンは驚いた。
ヴォルグが、こんなふうに誰かを褒めるのは珍しい。
「……ヴォルグが褒めてるよ」
レンが伝えると、トーマは目を丸くした。
「本当ですか!?」
「うん。いい職人になるって」
トーマはしばらく動かなかった。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとうございます」
ヴォルグは何も言わなかった。
ただ、しばらくしてから小さく呟いた。
『……まだ、これからだがな』
レンは笑った。
その一言に、ヴォルグらしさが詰まっていた。
◇ ◇ ◇
問題が起きたのは、それから三十分ほど後だった。
完成した椅子を確認していたレンが、何気なく腰を下ろした瞬間。
椅子が、奇妙な音を立てた。
「……ん?」
レンは動きを止めた。
脚の一本が、わずかに傾いている。
「……あれ?」
『レン、立て』
ヴォルグの声が響いた。
「……え?」
『今すぐだ』
レンが立ち上がろうとした瞬間、椅子の脚が外れた。
「うわああああ!?」
身体が後ろへ傾く。
レンは慌てて手を伸ばした。
だが、床には木材が置かれている。
足を引っかけ、さらに体勢を崩した。
「ちょ、待っ――!」
次の瞬間。
背中から床へ落ちた。
大きな音が工房に響く。
リナとトーマが駆け寄ってきた。
「レン!?」
「大丈夫ですか!?」
レンは床に寝転がったまま、天井を見つめていた。
「……俺」
ゆっくり口を開く。
「……椅子に負けた」
数秒の沈黙。
そして。
『だから言っただろう!』
ガルドが叫んだ。
『椅子と戦うなら、まず構えろって!』
「言ってないだろそんなこと!!」
レンは床から叫び返した。
リナが吹き出した。
トーマも、最初は心配そうにしていたが、レンが元気だと分かると笑い始めた。
その笑い声につられるように、レンも笑った。
ただし、フィリアだけは違った。
『レン! 動かないでください!』
「……え?」
『頭を打っていませんか!? 背中は!? 呼吸は苦しくありませんか!?』
「いや、大丈夫だって!」
『大丈夫かどうかは確認してからです!』
レンの身体が、淡い光に包まれた。
「ちょ、フィリア!?」
『念のため、全身を調べます!』
「朝の健康診断、ここで始まるの!?」
『二時間もかかりませんから!』
「そういう問題じゃない!!」
工房に、再び笑い声が響いた。
トーマは腹を抱え、リナは涙を拭いながら笑っている。
レンは床に寝転がったまま、深く息を吐いた。
……休日って、何だっけ。
◇ ◇ ◇
夕方。
作業を終えたレンたちは、工房の前で休んでいた。
空は茜色に染まり、町の向こうから夕食の支度をする匂いが漂ってくる。トーマは完成した椅子を一脚ずつ確認し、リナは使った工具を片づけていた。
レンは入口の段差に腰掛け、冷たい水を飲んだ。
「……疲れた」
『いい訓練になったな!』
ガルドが満足そうに言った。
「訓練じゃないって何回言えば分かるの!?」
『椅子との戦いには敗れたがな!』
「一生言われるやつだ、これ!」
レンは頭を抱えた。
すると、メルクが楽しそうに言った。
『でも、今日は収穫が多かったね』
「……収穫?」
『市場では商売の勉強をした。工具も手に入れた。トーマの工房では仕事を手伝った。そして、椅子の耐久性に問題があることも確認できた』
「最後だけ俺の犠牲が大きくない!?」
『経験には価値があるものさ』
「その価値、誰か買い取ってくれない!?」
リナが笑った。
レンもつられて笑う。
その時、トーマが工房から出てきた。
手には、小さな木製の札を持っている。
「レンさん」
「ん?」
「これ、よかったら」
差し出された札には、丁寧な文字が彫られていた。
【本日休業】
レンは目を丸くした。
「……これ」
「今日、ずっと休みたいって言ってたので」
トーマは少し照れくさそうに笑った。
「部屋の扉に掛けておけば、少しは休めるかなって」
レンは札を受け取った。
木目に沿って丁寧に削られた表面は滑らかで、文字の周囲には小さな装飾まで施されている。
きっと、作業の合間に作ってくれたのだろう。
「……ありがとう」
レンは笑った。
「めちゃくちゃ嬉しい」
トーマも笑った。
リナが札を覗き込む。
「いいね。レンにぴったり」
「だろ?」
レンは嬉しくなって、札を高く掲げた。
「これで明日こそ、完全な休日を――」
『待ちなさい』
セレナの声が響いた。
レンは固まった。
「……何?」
『明日は魔法の訓練をする約束でしょう』
「……え?」
『先週、あなたが自分で言ったのよ。魔力の扱いをもっと練習したいって』
レンは思い出した。
確かに言った。
言った気がする。
でも、それは。
「……明日だったっけ?」
『明日よ』
『俺との実戦訓練もあるぞ!』
ガルドが続けた。
『工具の補強も必要だ』
ヴォルグ。
『健康診断の続きもあります』
フィリア。
『今日の収支を整理しよう』
メルク。
『睡眠時間の記録も確認したいですね』
ノア。
『それから、管理院へ提出する書類の確認が――』
エリオス。
「ちょっと待てえええええ!!」
レンは立ち上がった。
「俺の休日、どこ行った!?」
七柱は誰も答えなかった。
代わりに、ガルドが豪快に笑った。
『はっはっは! 忙しいな、レン!』
「誰のせいだと思ってるんだよ!!」
リナが笑い、トーマも笑った。
夕暮れの工房に、賑やかな声が響いた。
レンは手にした札を見つめた。
【本日休業】
その文字を見て、少しだけ考えた。
今日は、結局休めなかった。
朝から神様たちに振り回され、市場では商売を手伝い、工房では椅子に負けた。
でも。
久しぶりに、たくさん笑った。
リナも笑っていた。
トーマも笑っていた。
神様たちも、いつもどおり騒がしかった。
最近は難しいことばかり考えていたから、こんな一日が少しだけ懐かしかった。
「……まあ」
レンは小さく笑った。
「悪くない休日だったかな」
『そうでしょう!』
フィリアが嬉しそうに答えた。
『心身の健康には、適度な運動と人との交流が大切ですから!』
「……そうだね」
『では、明日の健康診断も――』
「それは別!!」
再び笑い声が響いた。
レンは札を大切に鞄へしまった。
明日も、きっと騒がしい一日になる。
神様たちは勝手だし、無茶ばかり言うし、俺の予定なんて少しも考えてくれない。
でも。
そんな七柱と過ごす毎日が、今の俺は嫌いじゃなかった。
むしろ、少しだけ誇らしかった。
無職の俺を育てているのは、世界で一番面倒くさい七柱の神様たちだ。
そして、その神様たちに振り回されながら、俺は今日も少しずつ前へ進んでいる。
……ただし。
明日こそは、絶対に休む。
そう心に誓った瞬間。
『レン。明日の起床時間だが――』
「もう寝かせてくれええええ!!」




