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神々は無職を選んだ  作者: 夜凪 灯
第二章 神なき力の目覚め
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神託ログ16『名前を貸した覚えはない』

 翌朝、大神殿の食堂には、いつもより多くの人が集まっていた。


 普段なら神官や旅人が静かに朝食を取る場所だが、今日は入口の近くまで長い列ができている。列に並んでいるのは、宿泊者ばかりではなかった。仕事着のままの職人や、幼い子どもを抱いた母親、杖をついた老人までいる。誰もが落ち着かない様子で周囲を見回し、時折、神官に何かを尋ねていた。


 俺は食堂の入口で足を止めた。


「……何かあったの?」


 隣にいたリナも、驚いたように人々を見つめている。


「昨日の通達のせいでしょうね」


 声をかけてきたのはアリアだった。いつもなら朝から忙しそうに動き回っている彼女だが、今日は目の下に薄い隈ができていた。


「職業管理院で安全確認を受けるよう命じられた人たちが、相談に来ているんです。自分が対象なのか分からない人もいれば、確認を受けた後に帰してもらえるのか不安だという人もいます」


「……神殿に?」


「ええ。管理院へ直接行くのが怖いから、まずこちらで話を聞いてほしいと」


 アリアは手にしていた紙束を持ち直した。


「ただ、私たちにも答えられないことが多くて。昨日までは、管理院へ問い合わせればレグル主任が確認してくださったんですが……」


 言葉の続きを聞かなくても分かった。


 レグルは指揮権を停止されている。


 昨日、ディンが持ってきた異議申し立てによって俺への拘束は一時的に止まった。しかし、町全体に出された安全確認命令まで撤回されたわけではない。レグルが現場を指揮できなくなった今、管理院の職員たちも何を基準に判断すればいいのか分からなくなっているらしかった。


「……俺、何か手伝える?」


 そう尋ねると、アリアは少しだけ考えた。


「では、相談に来た方の案内をお願いできますか? 受付で名前を確認して、順番に奥の部屋へ通してほしいんです」


「分かった!」


「ただし、レンさん」


「はい?」


「相談内容を勝手に判断しないでくださいね」


「……信用がない!」


「昨日、管理院の前で拘束処理を切った人に言っています」


 アリアは笑顔だった。


 でも、目は笑っていなかった。


「……はい。案内に徹します」


「よろしい」


『見事に教育されているな』


 ガルドが楽しそうに言った。


「誰のせいでこんな性格になったと思ってるんだ!」


『俺じゃねえ!』


『少なくとも一部はガルドの影響でしょう』


 ノアが冷静に指摘する。


『おい、ノア!』


 いつもの騒がしさに、少しだけ肩の力が抜けた。


 けれど、食堂に集まった人々の表情を見れば、笑ってばかりもいられない。


 俺たちにとっては、昨日から続いている問題だ。


 でも、彼らにとっては違う。


 突然、知らない制度によって自分の生活が変えられようとしている。


 それがどれほど怖いことなのか、俺はまだ十分に分かっていなかった。


          ◇ ◇ ◇


 相談に来た人々の案内を始めて一時間ほど経った頃、俺は一人の女性から声をかけられた。


 年齢は三十代くらいだろうか。薄い青色の外套を羽織り、左手には小さな布袋を握っている。隣には十歳ほどの男の子が立っていた。


「あの……すみません」


「はい。どうしました?」


「この子も、安全確認を受けなければならないのでしょうか」


 女性は不安そうに息子の肩へ手を置いた。


 俺は受付用の紙を確認した。


「何か通知が届いたんですか?」


「昨日、家に職員の方が来ました。この子には、まだ職業が決まっていないから、育成接続の確認が必要だと……」


 俺は眉を寄せた。


 職業が決まっていない。


 それだけなら、子どもには珍しくないはずだ。


「性質について、何か言われました?」


「いえ。特別な力があるとは聞いていません。ただ、以前の検査で記録に空欄があったそうで」


 女性は布袋から一枚の紙を取り出した。


 そこには、管理院の印章と、見覚えのある項目が並んでいた。


【職業:未確定】


【性質:未確認】


【育成接続:未登録】


 俺は紙を見つめた。


 未確定。


 未確認。


 未登録。


 どれも、何かが不足していることを示す言葉だ。


 でも、まだ決まっていないことが、どうして危険だという理由になるのだろう。


「……この子、何か困ってることはありますか?」


 俺が尋ねると、女性は首を横に振った。


「いいえ。元気ですし、学校にも通っています。ただ……」


 彼女は息子を見た。


「もし確認を受けなかったら、学校へ行けなくなるかもしれないと言われて」


 男の子が母親の服を握った。


「……お母さん」


「大丈夫よ」


 女性はそう答えたが、その声は少し震えていた。


 俺は何も言えなかった。


 昨日、俺は自分の拘束を止めるために戦った。


 リナも、自分の意思を守るために登録を拒否した。


 でも、今ここにいる人たちは、そんな選択をするための情報すら持っていない。


 ただ、命令に従わなければ生活が変わるかもしれないと脅されている。


「……アリアさんに相談してみましょう」


 俺は紙を返した。


「俺には、これが正しい命令かどうか判断できません。でも、何も分からないまま連れていかれる必要があるのか、一緒に確認できます」


 女性は少しだけ目を見開いた。


「……ありがとうございます」


 男の子も、小さく頭を下げた。


 俺は二人を奥の相談室へ案内した。


 その背中を見送りながら、胸の奥に重たいものが残った。


 自分が自由になるだけでは、終わらない。


 昨日、レグルが止めようとしていたものの大きさを、ようやく少し理解した気がした。


          ◇ ◇ ◇


 昼前、職業管理院からディンが訪ねてきた。


 彼は神殿の入口で俺を見つけると、周囲を確認してから小さく手招きした。


「レンさん。少しお時間をいただけますか」


「もちろん。何か分かった?」


「……はい。ただ、良い知らせとは言い切れません」


 俺はリナを呼び、アリアに受付を引き継いでもらった。


 ディンが案内したのは、神殿の裏手にある小さな応接室だった。人の出入りが少なく、窓からは庭の一部が見える。


 彼は席に着くと、鞄から二枚の書類を取り出した。


「まず、昨日の拘束処理についてです」


「うん」


「レグル主任が提出した異議申し立ては、正式に受理されました。審査が終わるまで、同じ命令を根拠としたレンさんへの拘束は停止されています」


「……それはよかった」


「ただし、停止は一時的なものです。命令そのものが無効になったわけではありません」


 ディンは慎重に言葉を選んでいた。


 俺は頷いた。


「分かってる」


「それから、もう一つ」


 彼は二枚目の書類を差し出した。


「今朝、本部から新しい照会が届きました」


 そこには、昨日までとは違う文字が並んでいた。


【旧育成管理機構】


【第109代育成対象】


【審査請求:受理】


【請求者:第109代育成対象】


 俺は紙を見つめた。


「……何これ?」


「私も確認したのですが、通常の職業管理院の手続きではありません」


 ディンが答える。


「本部が管理している古い記録に、突然この申請が現れたそうです」


 俺は眉を寄せた。


「……俺、申請してないけど」


「その点を確認したくて来ました」


「してない。絶対に」


 俺ははっきり答えた。


 リナも隣で頷いた。


「昨日、レンはずっと私と一緒だったよ。管理院で何か手続きしたわけじゃない」


 ディンは書類へ目を落とした。


「……そうですか」


「誰かが俺の名前を使ったってこと?」


「その可能性はあります。ただし、記録には通常の署名が存在しません」


「署名がない?」


「はい。代わりに、育成対象本人の意思を確認したという項目があります」


 俺は息を止めた。


 意思確認。


 そんなことをされた覚えはない。


「……ノア」


『確認します』


 ノアの声が響いた。


『レン。昨日、あなたがブレイカーを使用した時、旧育成管理機構に接続したという反応は確認されていません』


「じゃあ、何で?」


『不明です。ただし、申請書に署名が存在しないのであれば、通常の手続きとは異なる認証方法が使われた可能性があります』


 俺は書類を見つめた。


 俺が何かを選んだ。


 その選択を、誰かが勝手に申請として扱った?


 それとも、本当に誰かが俺の名前を使った?


 どちらにしても、気持ちのいい話じゃない。


「……ディン」


「はい」


「これ、取り消せる?」


 ディンは少しだけ驚いた。


「……取り消すのですか?」


「俺が出した覚えのない申請だから」


 俺は書類を指した。


「内容が俺たちに有利でも、勝手に名前を使われるのは嫌だ」


 ディンはしばらく考えた。


「……なるほど」


 そして、静かに頷いた。


「レグル主任も、同じことを言っていました」


「え?」


「本人の意思を守るための申請が、本人の意思を確認せずに提出されているなら、それ自体が問題だと」


 俺は少し笑った。


「……さすがレグルさん」


 ディンも小さく笑った。


「ただ、取り消す前に確認したいことがあります」


「何?」


「この申請によって、旧育成管理機構の判定が一時停止している可能性があります」


 俺は眉を寄せた。


「……どういうこと?」


「本部の内部記録では、昨日の育成課題に対して、完了判定が出た直後に異議が発生しています」


 ディンは書類の一部を指した。


【育成課題:裏切り】


【判定:審査中】


【次段階移行:保留】


「……裏切り?」


 リナの表情が変わった。


 俺も息を止めた。


 育成課題。


 裏切り。


 昨日、俺たちがセドリックに迫られた選択。


 それが、課題として記録されていた?


「……つまり、あいつらは昨日のことを試験みたいに扱ってたの?」


 俺が尋ねると、ディンは首を横に振った。


「本部の記録からは、そのように読み取れます。ただし、何を目的とした課題なのかまでは分かりません」


 俺は拳を握った。


 リナが自分の意思を守ろうとしたことも。


 俺が拘束されたことも。


 レグルが指揮権を失ったことも。


 全部、誰かに採点されていたのかもしれない。


「……ふざけんなよ」


 思わず呟いた。


 その時、リナが俺の手に触れた。


「レン」


 俺は顔を上げた。


「……うん」


「怒るのは分かる。でも、今は何が起きてるのか調べよう」


 俺は深呼吸した。


 そうだ。


 怒りだけで動かない。


 何を切るのか分からないまま、力を使わない。


「……分かった」


 俺はディンへ向き直った。


「この申請、もう少し調べられる?」


「はい。ただし、旧育成管理機構の記録へアクセスするには、本部の許可が必要です」


「……セドリック?」


「おそらく」


 俺は小さく息を吐いた。


 また、あいつか。


          ◇ ◇ ◇


 その日の午後、俺たちは大神殿の中庭で七柱と話し合うことにした。


 リナには、神々の声を直接聞くことはできない。だから俺が内容を伝えながら、意見をまとめる形になった。


 正直、かなり面倒だった。


「……エリオスは、申請の出所を調べるべきだって」


「うん」


「ノアは、本人認証の方法を確認したいって」


「分かる」


「フィリアは、まず俺たちの安全を優先してほしいって」


「それも分かる」


「ガルドは、セドリックを一発殴れば話が早いって」


「それは却下」


「俺もそう思う!」


『おい!』


 ガルドが抗議する。


『一発とは言ってねえ!』


「もっと悪い!」


 リナが笑った。


 少しだけ、いつもの空気が戻る。


 でも、話し合いはすぐに真剣なものになった。


『レン』


 メルクが口を開いた。


『今回の問題は、申請が本物かどうかだけじゃない』


「……どういうこと?」


『誰が利益を得るかを考えるんだ』


「利益?」


『そう。審査請求が成立すれば、育成課題の判定が止まる。つまり、本部が次の段階へ進めなくなる可能性がある』


「……うん」


『では、誰がそれを望む?』


 俺は考えた。


 俺たち。


 レグル。


 シオン。


 もしかすると、七柱の誰か。


 でも。


『逆に、誰が困る?』


「……セドリック」


『そうだね』


 メルクは続けた。


『ただし、困っているように見せているだけかもしれない』


 俺は眉を寄せた。


「……罠?」


『可能性はある』


 メルクの声は、いつもより慎重だった。


『相手が欲しいのは、君が申請を取り消すことかもしれない。あるいは、申請を調べるために本部へ来ることかもしれない』


 俺は黙った。


 確かに。


 俺が申請を取り消せば、育成課題の判定が進むかもしれない。


 逆に、調べるために本部へ行けば、セドリックのいる場所へ自分から向かうことになる。


 どちらを選んでも、相手に都合がいい可能性がある。


「……じゃあ、何もしない方がいい?」


『それも選択だ』


 メルクは答えた。


『でも、何もしないことで誰が困るかも考えないといけない』


 俺は頭を抱えた。


「……難しい!」


『商売でも同じだよ。条件を提示された時、まず考えるのは、その条件を誰が作ったかだ』


「……なるほど」


『そして、提示された条件をそのまま受け入れる必要はない』


 俺は顔を上げた。


「……別の条件を出す?」


『そう』


 メルクが笑った。


『交渉は、相手の選択肢から選ぶだけじゃない』


 俺は少し考えた。


 審査請求を取り消す。


 そのままにする。


 本部へ行く。


 その三つだけじゃない。


 例えば、申請の根拠を公開させる。


 本人認証の方法を確認する。


 レグルやディンに正式な手続きを調べてもらう。


 他にも、できることがあるかもしれない。


「……分かった」


 俺は頷いた。


「まず、俺の名前がどう使われたのか調べよう」


 リナも頷いた。


「うん」


 その時。


『ただし、レン』


 エリオスが静かに言った。


「何?」


『一つ、覚えておけ』


「……何?」


『お前の名前を使った者が、必ずしも敵とは限らない』


 俺は息を止めた。


 敵ではない。


 でも、勝手に名前を使った。


 そんなことがあるのだろうか。


『善意であっても、本人の意思を無視すれば問題は残る』


 エリオスは続けた。


『そして、その問題をどう扱うかは、お前が決めることだ』


 俺は静かに頷いた。


「……うん」


          ◇ ◇ ◇


 夕方、ソラが中庭へやってきた。


 今日はアリアの手伝いをしていたらしく、腕には小さな布袋を抱えている。中には、相談に来た人たちへ配るための乾燥果実が入っていた。


「レン!」


「お、ソラ。お疲れ」


「うん!」


 ソラは嬉しそうに笑った。


 でも、俺たちの前へ来ると、少しだけ表情を変えた。


「……何かあった?」


「ちょっとね」


 俺は笑って答えた。


 ソラは俺とリナを交互に見た。


「……また、誰かに決められそうになってる?」


 その言葉に、俺は驚いた。


「……何で分かった?」


「最近、みんなそういう顔してるから」


 ソラは少しだけ俯いた。


「私も、昨日からずっと考えてた」


「何を?」


「自分の名前のこと」


 俺は黙って聞いた。


 ソラは以前、空を見上げて自分の名前を選んだ。


 それ以前の記憶は、まだ戻っていない。


 だから、彼女にとって「ソラ」という名前は、ただの呼び名ではなかった。


「もし、前の名前が見つかったら」


 ソラは静かに言った。


「私、ソラじゃなくなるのかな」


 俺は少し考えた。


 簡単に、大丈夫だと言いたかった。


 でも、それは俺が決めることじゃない。


「……ソラは、どうしたい?」


 俺が尋ねると、彼女は少し驚いたようだった。


 そして、ゆっくり答えた。


「……ソラでいたい」


 俺は頷いた。


「じゃあ、そうすればいいと思う」


「……いいの?」


「うん」


 俺は笑った。


「前の名前があっても、今の名前を選んだのはソラだから」


 ソラはしばらく俺を見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「……そっか」


 リナも優しく頷いた。


「うん。私も、自分の名前を選んだよ」


「……リナも?」


「そう」


 リナは自分の胸に手を置いた。


「前の職業があっても、今の私はリナ。それは変わらない」


 ソラは少し考えた。


 そして、嬉しそうに笑った。


「……じゃあ、私もソラ!」


 俺たちは笑った。


 その時だった。


 ソラの右腕が、淡く光った。


「……え?」


 彼女が驚いて袖をまくる。


 黒い線が浮かび上がっていた。


 俺は息を止めた。


 また、育成管理機構の反応か。


 だが、今回の文字は違った。


【名称:ソラ】


【自己認識:確定】


【旧名称との照合:保留】


 俺は目を見開いた。


「……ノア」


『確認しています』


 ノアの声が少しだけ鋭くなる。


『これは、育成進行とは異なる処理です』


「……どういうこと?」


『本人の自己認識が、記録へ反映された可能性があります』


 俺はソラを見た。


 彼女は自分の腕を見つめていた。


 怖がっているようには見えなかった。


 むしろ。


 少しだけ、安心したような表情だった。


「……ソラ」


「うん」


「大丈夫?」


 彼女は頷いた。


「……うん」


 そして、笑った。


「私、ソラだって」


 俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 誰かが勝手に名前を決めるのではなく。


 本人が選んだ名前が、記録へ反映される。


 もし、それが本当なら。


 この仕組みは、必ずしも人を縛るためだけのものではないのかもしれない。


 でも。


 そう考えた瞬間、別の疑問が浮かんだ。


 育成管理機構は、何を基準に本人の意思を確認している?


 そして。


 誰が、その記録を管理している?


          ◇ ◇ ◇


 その夜。


 職業管理院本部の地下で、セドリックは円形装置の前に立っていた。


 装置には、昨日から変わらない文字が表示されている。


【第109代育成対象】


【審査請求:受理】


【請求者:第109代育成対象】


【育成課題:裏切り】


【判定:審査中】


 セドリックは静かに息を吐いた。


「……厄介ですね」


 背後の男が答える。


「何がだ」


「育成対象本人の意思による審査請求です」


 セドリックは装置へ近づいた。


「通常、育成対象は自分の進行記録へ異議を申し立てることができません」


「……ああ」


「ですが、第109代だけは違う」


 男は黙っていた。


 セドリックは続けた。


「彼は、我々が用意した選択肢そのものを拒否しました」


「それだけではない」


 男が低い声で言った。


「彼は、自分が育成されているという前提を認めていない」


 セドリックは少しだけ笑った。


「……なるほど」


 男は装置へ手を伸ばした。


 文字が変わる。


【審査請求理由】


【育成対象の意思確認:未実施】


【育成者候補の権限:未確定】


【課題判定の正当性:不明】


 セドリックは眉を寄せた。


「……これは、誰が入力したのでしょう」


 男は答えなかった。


 しばらくして、装置の奥から低い音が響いた。


 新しい文字が浮かぶ。


【審査請求者の認証方式】


【意思記録照合】


 セドリックは息を止めた。


「……意思記録?」


 男が静かに頷いた。


「古い仕組みだ」


「では、彼が申請したわけではない?」


「少なくとも、書類を提出したわけではない」


 男は装置を見つめた。


「彼が自分の意思で拒否したことを、機構が審査請求として扱った」


 セドリックはしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり笑った。


「……素晴らしい」


 男は首を横に振った。


「いや」


 その声は、今までになく低かった。


「これは、我々にとって都合が悪い」


 セドリックの笑みが消えた。


「……なぜです?」


 男は装置へ視線を向けた。


「育成対象が、自分の意思で育成者の判断を問えるなら」


 少し間を置いて、続ける。


「育成者の権限は、絶対ではなくなる」


 セドリックは何も言えなかった。


 装置には、最後の文字が浮かんでいた。


【審査請求:有効】


【育成者候補の権限行使:一時停止】


【第109代育成対象】


【自己選択権:確認】


 地下室が静まり返る。


 セドリックは、しばらくその表示を見つめていた。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……育成対象が、育成者を拒否する」


 男は答えなかった。


 ただ、装置の奥を見つめていた。


 その表情には、初めて明確な焦りが浮かんでいた。


 彼らが育てようとしていた存在は、すでに自分で歩き始めていた。

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