神託ログ15『裏切るべき約束』
その日の朝、大神殿の鐘は一度だけ鳴り損ねた。
いつもなら六つ目の鐘が鳴る頃、俺は食堂へ向かう準備をしている。実際には寝坊して七つ目を聞くことも多いのだが、今日は違った。まだ薄暗いうちに目が覚めてしまい、寝台の端に腰掛けたまま、窓の外が明るくなるのを待っていた。
昨日、ディンが持ってきた文書には、リナが育成者補助の登録を拒否した場合、俺に対する保護措置を強化すると書かれていた。
リナが自分の名前を守れば、俺の自由が危うくなる。俺の安全を優先すれば、リナが望まない役割を押しつけられる。
誰が考えたのか知らないが、実に嫌な二択だった。
しかも、その命令がいつ実行されるのかは、文書に書かれていなかった。
「……なあ、エリオス」
『何だ』
「神様って、人間が考えた嫌がらせにも詳しい?」
『質問の範囲が広すぎる』
「じゃあ、誰かに選ばせたい答えがある時、わざと選択肢を二つに絞るやり方」
『知っている』
即答だった。
『一方を選べば、もう一方を失うように見せる。そうすれば、選択そのものに意識が向き、選択肢を設定した者の権限が問われにくくなる』
「……なるほど」
『ただし、二択が常に偽りとは限らない。現実に両立できない利益も存在する』
俺は窓の外を見た。
東の空が淡い青色に変わり始めている。神殿の庭では、夜明け前から働いている神官が落ち葉を集めていた。
「今回のは、どっちだと思う?」
『まだ分からない』
エリオスはそこで言葉を切った。
『だからこそ、選ばされる前に、何を根拠にその二択が成立しているのか確かめるべきだ』
俺は立ち上がった。
そうだ。
リナが何かを選ぶ前に、そもそも誰が、何の権限で、そんな選択を迫っているのか。
そこから調べよう。
◇ ◇ ◇
食堂へ行くと、リナはすでに席に着いていた。
昨夜、彼女がシオンから受け取った黒い札は、テーブルの中央に置かれている。札の表面には【選択権:保留】という文字が刻まれていた。
ただし、昨日とは違うところがあった。
文字の周囲に、細い銀色の線が浮かんでいたのだ。
「……それ、光ってない?」
「うん。朝起きたら、こうなってた」
リナは不安そうに札を見つめていた。
俺は向かいの席に座り、七柱へ確認を頼んだ。
『表面に微弱な反応があります』
ノアが答える。
『ただし、昨日確認した時点では存在しなかったものです』
「何かに接続された?」
『可能性はあります。ですが、現段階では断定できません』
俺は札へ手を伸ばしかけた。
その瞬間、リナが俺の手首を軽く掴んだ。
「待って」
「……あ」
「昨日、何を切るか分からない時は使わないって話したでしょ」
「まだブレイカー使ってない!」
「使いそうな顔してた」
「顔で判断しないで!」
リナは少し笑った。
俺も笑ったが、彼女の手はすぐには離れなかった。
「レン。今日は私の登録のことだけじゃないと思う」
「……うん」
「シオンがくれた札も、本部からの命令も、全部どこかで繋がってる気がする」
「俺もそう思う」
リナは札を布で包み直した。
「だから、レグルさんに見せよう。私たちだけで判断するより、調べられることがあるはず」
「賛成」
俺は頷いた。
以前なら、誰かに相談する前に自分で何とかしようとしていたかもしれない。
でも、今回は違う。
俺たちはまだ、敵が何を仕掛けているのか知らない。
知らないまま動けば、またトーマの父親が怪我をした時のような失敗を繰り返すかもしれない。
「……ところで、リナ」
「何?」
「朝ご飯、食べた?」
「まだ」
「よかった」
「何が?」
「今日は一緒に食べられる」
リナは一瞬だけ目を丸くした。
それから、柔らかく笑った。
「……そうだね」
俺たちは温かいスープとパンを注文した。
窓の外では、朝の鐘がもう一度鳴り始めていた。
◇ ◇ ◇
職業管理院へ着いた時、建物の前には普段より多くの人が集まっていた。
入口には臨時の掲示板が置かれ、そこへ職員が新しい通達を貼り出している。人々はその周囲に集まり、不安そうに文書を読んでいた。
「……何かあったのかな」
リナが呟いた。
俺たちは人の隙間から掲示板を覗き込んだ。
そこには、本部監察局の印章が押された文書が貼られていた。
【未登録性質保有者に関する臨時安全確認】
【対象者は本日中に最寄りの職業管理院へ出頭し、性質および接続状況の確認を受けること】
【確認に応じない場合、安全確保のため一時的な行動制限を実施する場合がある】
俺は眉を寄せた。
「……これ、俺たちだけじゃない?」
「うん」
リナは周囲を見回した。
掲示板の前には、子どもを連れた母親や、仕事着のまま駆けつけた職人らしい男がいた。誰もが自分や家族に関係する命令なのか分からず、職員へ質問を繰り返している。
その中に、見覚えのある人物がいた。
「……バルク?」
以前、管理院の医療施設で会った護衛士だった。
彼は大きな身体を縮めるようにして、掲示板を見つめていた。人を恐怖で動けなくしてしまう性質を持ち、その力を怖れて自分から管理院の監督を受けている男だ。
「レンか」
「どうしたの?」
バルクは文書を指した。
「俺も対象らしい」
「でも、バルクは管理院に登録してるんじゃ……」
「性質の記録はある。だが、育成接続が未確認だと言われた」
彼は苦々しく笑った。
「今までは、俺が自分で監督を受けるかどうか決められた。今日は違うらしい」
俺は文書を見直した。
未登録性質保有者。
接続状況。
行動制限。
昨日まで、俺たちだけに向けられていた言葉が、町全体へ広がっている。
「……レグルさんは?」
「中にいる。だが、今朝から本部の職員が来ているらしい」
バルクは低い声で続けた。
「俺は、自分の力が怖い。だから監督を受けることには納得している。でも、今日の命令は何か違う」
「何が?」
「俺が危険かどうかを調べる前に、自由を制限することが決まっている」
俺は何も言えなかった。
その時、入口の扉が開いた。
現れたのはディンだった。
彼は俺たちを見ると、すぐに近づいてきた。
「レンさん、リナさん。レグル主任がお待ちです」
「……何が起きてるの?」
俺が尋ねると、ディンは周囲を確認してから答えた。
「本部が、昨夜のうちに臨時命令を発令しました。対象はこの地域全体です」
「レグルさんは認めたの?」
「……いいえ」
ディンの表情が険しくなる。
「主任は、命令の根拠が不十分だとして異議を申し立てました」
「それで?」
「本部は、主任の指揮権を一時停止しました」
俺は息を止めた。
「……え?」
「現在、管理院の指揮は本部監察局が代行しています」
ディンは唇を噛んだ。
「主任は職務から外され、別室で事情聴取を受けています」
俺は掲示板を見た。
不安そうな人々。
行動制限を告げる文書。
そして、レグルの指揮権停止。
昨日、俺たちを守ろうとしてくれた人が、今度は自分の立場を失っている。
「……ディン」
「はい」
「レグルさんに会える?」
「今なら、まだ」
彼は頷いた。
「ただし、長くは話せません」
俺たちは管理院の中へ入った。
◇ ◇ ◇
レグルは、地下の記録室ではなく、二階の小さな会議室にいた。
机の上には、取り上げられた職員証と、封印された書類が置かれている。普段はきちんと整えられている制服の襟元が少し乱れ、目の下には疲れが見えた。
それでも、俺たちが入ると、彼はいつもどおり静かに頷いた。
「来たか」
「……大丈夫ですか?」
俺が尋ねると、レグルは少しだけ笑った。
「職を失ったわけではない。指揮権を停止されただけだ」
「それ、十分大変じゃないですか!」
「そうだな」
レグルはあっさり認めた。
「だが、命令の正当性を確認するまでは、署名できなかった」
俺は胸の奥が重くなるのを感じた。
「……俺たちのせいで」
「違う」
レグルは即座に遮った。
「私は、自分の職務上の判断として異議を申し立てた。君たちに責任を負わせるつもりはない」
「でも」
「レン」
レグルは俺を見つめた。
「他人が自分で選んだことまで、君が背負う必要はない」
俺は口を閉じた。
最近、同じことを何度も言われている。
トーマの父親にも。
リナにも。
七柱にも。
それなのに、まだ自分のせいだと思ってしまう。
「……分かりました」
俺が頷くと、レグルは机の上の書類へ視線を落とした。
「それより、今日の命令について話そう」
彼は一枚の紙を差し出した。
「本部は、未登録性質保有者の安全確認を名目に、対象者の行動を制限しようとしている」
「……はい」
「問題は、その対象者の選定方法だ」
俺は文書を見た。
そこには、通常の職業分類とは異なる項目が並んでいた。
【性質保有者】
【育成接続未確認】
【安全確認対象】
その下に、小さな文字で追記がある。
【育成者候補との接続が成立した場合、行動制限を解除できる】
俺は息を止めた。
「……これ」
リナも文書を覗き込んだ。
「育成者候補と接続すれば、自由になれる?」
「そう読める」
レグルは頷いた。
「ただし、接続後にどのような権限が発生するのかは説明されていない」
俺は眉を寄せた。
接続しなければ、行動を制限する。
接続すれば、自由にする。
でも、接続した後に何が起きるかは分からない。
「……選ばせてるようで、選ばせてないじゃん」
「そのとおりだ」
レグルは静かに答えた。
「だから、私は署名しなかった」
リナが口を開いた。
「レグルさん。私にも、育成者補助の登録を求める命令が来ています」
「ああ。確認している」
「もし私が登録を拒否したら、レンが確保されると」
「……そうだ」
「でも、それって本当にできるんですか?」
レグルは少し考えた。
「現在の法令では、本人の意思に反する育成接続を認める明確な規定はない」
「じゃあ、拒否できる?」
「法的には争える」
その答えに、俺は少し安心しかけた。
だが、レグルは続けた。
「ただし、本部が実力行使に出る可能性はある」
俺は息を吐いた。
法律上は認められない。
でも、実際に止められるとは限らない。
それが、今の状況だった。
「……どうしたらいい?」
俺が尋ねると、レグルは首を横に振った。
「私が君たちの代わりに決めることはできない」
そして、少しだけ声を強くした。
「だが、一つだけ覚えておいてほしい。命令に従わないことと、他人を危険にさらすことは同じではない」
俺は顔を上げた。
「……どういうこと?」
「本部は、従わなければ危険が起きると説明している。しかし、その危険を生み出しているのが命令そのものなら、責任の所在は別だ」
俺は黙って考えた。
リナが拒否するから、俺が捕まる。
そう言われれば、リナは自分を責めるかもしれない。
でも、俺を捕まえようと決めたのは本部だ。
リナじゃない。
「……分かった」
俺は頷いた。
「俺たちが悪いことにされる必要はないんだ」
「そうだ」
レグルは小さく笑った。
「ただし、だからといって危険が消えるわけではない。そこは混同するな」
「……はい」
俺は苦笑した。
この人、本当に最後まで厳しい。
でも、だからこそ信用できる。
◇ ◇ ◇
管理院を出た後、俺たちは大神殿へ戻ることにした。
リナは道中、ほとんど話さなかった。
俺も無理に声をかけなかった。
町の様子は、朝よりさらに落ち着かなくなっていた。掲示板の前には人だかりができ、職員に詰め寄る者もいれば、家族を連れて急いで帰る者もいる。
俺たちはその中を歩いた。
やがて、リナが口を開いた。
「……レン」
「何?」
「私、決めた」
俺は足を止めた。
リナも立ち止まる。
「育成者補助には、ならない」
その声は、はっきりしていた。
「……うん」
「でも、レンが捕まるのは嫌」
「俺も嫌だよ」
「だから」
リナは俺を見つめた。
「二人で、別の方法を探したい」
俺は笑った。
「もちろん」
リナも少しだけ笑った。
その時だった。
通りの向こうから、悲鳴が聞こえた。
俺たちは同時に振り向いた。
職業管理院の前で、数人の職員が一人の若い男を取り囲んでいる。
男は必死に抵抗していた。
「だから、俺は何もしてないって!」
「安全確認のためです。ご同行ください」
「嫌だって言ってるだろ!」
職員の一人が、銀色の認証板を取り出した。
俺の背中が冷たくなる。
あれは。
昨日、セドリックが使ったものに似ている。
「……リナ」
「うん」
俺たちは走った。
若い男は職員に腕を掴まれ、必死に振りほどこうとしていた。
周囲の人々は不安そうに見守っているが、誰も近づこうとしない。
「待ってください!」
俺が声をかけると、職員たちが振り向いた。
「何ですか?」
「その人、何をしたんですか?」
「安全確認への協力を拒否しています」
「それって、捕まえる理由になるんですか?」
職員は一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、すぐに認証板を掲げた。
「本部命令です」
俺は息を吐いた。
また、それか。
命令。
保護。
安全。
全部、聞こえのいい言葉だ。
でも、その言葉の下で、本人の意思が無視されている。
「……その命令、本人の意思を無視していいって書いてあります?」
俺が尋ねると、職員の表情が険しくなった。
「あなたには関係ありません」
「関係あります」
俺は若い男を見た。
「その人、嫌だって言ってるから」
職員は認証板へ手をかざした。
銀色の光が広がる。
若い男の身体が、わずかに硬直した。
「……っ!」
俺は右手を握った。
ブレイカー。
切る。
でも。
何を?
昨日の失敗が頭をよぎった。
焦ってはいけない。
まず、何が起きているのか。
『レン』
ノアが呼んだ。
『対象の身体に、外部からの拘束処理が接続されています』
「……分かる?」
『はい。ただし、装置の内部構造までは確認できません』
「切るなら?」
『身体そのものではなく、拘束処理の接続部分です』
俺は頷いた。
今度は、分かっている。
何を切るのか。
何を残すのか。
「……リナ」
「うん」
「周りの人、下がらせて」
「分かった」
リナがすぐに動いた。
俺は職員へ向き直る。
「その処理、止めてください」
「命令に従ってください」
「止めないなら、切ります」
職員が眉を寄せた。
「何を?」
俺は右手を伸ばした。
「その人を勝手に縛ってるものを」
ブレイカー。
切るべき対象を認識する。
銀板から伸びる、見えない拘束。
若い男の身体へ繋がる、一本の線。
そこだけを。
「――断つ」
小さな音がした。
銀板の光が消える。
若い男の身体から力が抜けた。
「……え?」
職員たちが驚く。
俺はすぐに若い男へ声をかけた。
「大丈夫?」
「……あ、ああ」
彼は震える手を見つめた。
「動ける……」
俺は胸を撫で下ろした。
よかった。
今度は、ちゃんと切れた。
その時。
背後から、拍手が聞こえた。
ゆっくりと。
わざとらしい拍手だった。
「……素晴らしい」
聞き覚えのある声。
俺は振り向いた。
通りの向こうに、セドリックが立っていた。
黒い制服。
金色の紋章。
そして、あの不気味な笑顔。
「……お前」
俺が呟くと、セドリックは丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです、レンさん」
「昨日も会っただろ!」
「時間の感じ方は人それぞれですので」
「そういう問題じゃない!」
セドリックは笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「さて」
彼はリナへ視線を向けた。
「そろそろ、お返事をいただけますか?」
リナの表情が険しくなる。
「……何の?」
「育成者補助の登録です」
俺は一歩前へ出た。
「リナは拒否した」
「承知しています」
セドリックは頷いた。
「ですが、再審査の結果、対象保護の必要性が認められました」
「誰が認めた?」
「本部です」
「本人は認めてない」
「本人の意思だけでは、安全を確保できない場合もあります」
セドリックは穏やかに答えた。
俺は右手を握りしめた。
その時、リナが俺の隣へ立った。
「……私が話す」
俺は彼女を見た。
リナは真っ直ぐセドリックを見つめていた。
「私は、育成者補助にはなりません」
セドリックは微笑んだ。
「理由をお聞きしても?」
「私が望んでいないから」
「それだけですか?」
「それだけで十分でしょ」
リナの声は揺れなかった。
セドリックは少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
そして、銀色の認証板を取り出した。
俺の背中が冷たくなる。
「では、規定に従い、第109代育成対象の保護措置を開始します」
銀板が光った。
俺の足元へ、淡い輪が広がる。
昨日と同じ。
いや、昨日より強い。
身体が重くなる。
「……っ!」
俺は右手を上げた。
ブレイカー。
切る。
でも、今回は何かが違った。
銀板から伸びる接続が、一本ではない。
いくつもの線が重なり、俺の身体へ絡みついている。
『レン!』
ノアが叫んだ。
『複数の処理が同時に接続されています!』
「……分かってる!」
俺は歯を食いしばった。
切るべきものを探す。
でも、線が多すぎる。
何を切ればいいのか分からない。
その時。
リナが俺の前へ出た。
「……やめて」
セドリックは首を傾げた。
「何をでしょう?」
「レンを捕まえるのを」
「では、登録を承認しますか?」
リナは唇を噛んだ。
俺は叫んだ。
「リナ! 駄目だ!」
彼女は振り向かなかった。
セドリックは静かに続けた。
「あなたが登録を承認すれば、彼の拘束処理は停止します」
リナの手が震えた。
俺は必死に身体を動かそうとした。
でも、動かない。
七柱の声が頭の中で重なる。
『レン、落ち着いて!』
『接続の構造を確認します!』
『無理に動くな!』
俺は息を荒くした。
リナが、俺のために自分の意思を捨てようとしている。
そんなの。
絶対に嫌だ。
「……リナ!」
俺は叫んだ。
「俺のために、選ぶな!」
リナの肩が震えた。
セドリックは微笑んだ。
「……美しいですね」
その言葉が、何より腹立たしかった。
「互いを思いやる気持ち。まさに理想的な育成関係です」
俺は歯を食いしばった。
ふざけるな。
俺たちは、お前のために生きてるんじゃない。
その時。
リナが、ゆっくり顔を上げた。
「……分かった」
俺は息を止めた。
「……リナ?」
彼女はセドリックを見つめた。
「私、選ぶ」
セドリックの笑みが深くなる。
「素晴らしい」
リナは続けた。
「でも、その前に一つ聞かせて」
「何でしょう?」
「私が登録を承認したら、レンは本当に自由になるの?」
「もちろんです」
「……じゃあ、書面で約束して」
セドリックの笑顔が、わずかに止まった。
「……書面?」
「うん。登録後、レンへの拘束や行動制限を一切行わないって」
セドリックは少しだけ黙った。
そして。
「それは、状況によります」
リナは頷いた。
「……やっぱり」
彼女は一歩下がった。
「じゃあ、承認しない」
セドリックの表情が変わった。
「……よろしいのですか?」
「うん」
「彼は拘束されたままですよ」
リナは俺を見た。
その目には、恐怖があった。
でも、迷いはなかった。
「……レン」
「……何?」
「ごめん」
俺は息を止めた。
「……何で謝るの?」
「怖い思いをさせてるから」
俺は首を横に振った。
「……リナのせいじゃない」
彼女は小さく笑った。
「うん」
そして。
「だから、私も勝手に決めない」
その言葉が、胸に響いた。
俺は頷いた。
「……ありがとう」
セドリックは静かに息を吐いた。
「……残念です」
彼は銀板へ手をかざした。
拘束の輪が、さらに強く光る。
「では、規定に従い――」
その瞬間。
「待て!」
通りの向こうから、鋭い声が響いた。
振り向くと、ディンが走ってきていた。
その後ろには、数人の職員がいる。
「本部監察官!」
ディンは息を切らしながら叫んだ。
「その拘束処理について、正式な異議申し立てが受理されました!」
セドリックの目が細くなる。
「……誰が?」
「レグル主任です!」
俺は息を止めた。
指揮権を停止されたはずのレグルが。
それでも。
まだ、動いてくれていた。
「……指揮権停止中の者に、何ができると?」
セドリックが尋ねる。
ディンは書類を掲げた。
「異議申し立ては、職務権限ではなく、個人の法的権利として提出されています!」
セドリックの笑みが消えた。
「……なるほど」
ディンは続けた。
「また、現在の拘束処理は、本人の意思確認を経ていません。審査が完了するまで、処理を停止するよう命じられています!」
セドリックはしばらく黙っていた。
そして。
「……仕方ありませんね」
銀板の光が消えた。
俺の身体が軽くなる。
「……っ!」
俺は膝をついた。
リナがすぐに駆け寄る。
「レン!」
「……大丈夫」
俺は息を整えた。
身体は動く。
痛みもない。
でも、心臓はまだ激しく鳴っていた。
セドリックは俺たちを見下ろし、静かに微笑んだ。
「本日は、ここまでにしましょう」
「……もう来るな」
俺が言うと、彼は少しだけ笑った。
「それは、お約束できません」
そして、職員たちを連れて去っていった。
俺はその背中を見つめた。
逃げたわけじゃない。
諦めたわけでもない。
あいつは、まだ何かを考えている。
でも。
今日、俺たちは選んだ。
リナは、自分の意思を捨てなかった。
俺も、リナにそれを捨てさせなかった。
それだけは、確かだった。
◇ ◇ ◇
夕方、俺たちは大神殿へ戻った。
リナは少し疲れた様子だったが、食堂へ向かう途中で俺の袖を引いた。
「……レン」
「何?」
「今日、怖かった」
俺は頷いた。
「俺も」
「レンが動けなくなった時、登録しようかと思った」
「……うん」
「でも、あの人の言うことを信じられなかった」
リナは少しだけ俯いた。
「登録しても、レンが自由になれる保証なんてなかったから」
俺は頷いた。
「……正しかったと思う」
「でも、もしディンが来なかったら?」
その問いに、俺は答えられなかった。
確かに。
ディンが来なければ、どうなっていたか分からない。
俺のブレイカーで切れたかもしれない。
切れなかったかもしれない。
リナが登録を承認していたかもしれない。
その可能性を考えると、背中が冷たくなった。
「……分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、次はもっと準備したい」
リナは頷いた。
「うん」
「それと」
「何?」
「俺、今日ちょっと嬉しかった」
リナが目を丸くした。
「……何が?」
「リナが、自分で決めたこと」
彼女は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
俺も笑った。
ただし。
胸の奥には、まだ不安が残っていた。
セドリックは去った。
でも、問題が終わったわけじゃない。
レグルの指揮権は停止されたままだ。
未登録性質保有者への命令も撤回されていない。
そして。
誰かが、俺たちを育成対象として見ている。
その視線は、今もどこかにある。
◇ ◇ ◇
その夜。
職業管理院本部の地下で、セドリックは円形装置の前に立っていた。
装置には、赤い文字が浮かんでいる。
【育成課題:裏切り】
【対象者:リナ】
【選択結果:登録拒否】
【第109代育成対象:拘束解除】
セドリックはその表示を見つめ、静かに微笑んだ。
「……残念でしたね」
背後の男が答えた。
「何がだ」
「彼女は、裏切りませんでした」
男はしばらく黙っていた。
そして。
「……本当にそうか?」
セドリックが首を傾げた。
「どういう意味でしょう?」
男は装置へ近づいた。
「彼女は、自分の意思を守るために、第109代を危険へさらした」
「……なるほど」
「第109代は、彼女の意思を守るために、自分の安全を捨てた」
セドリックは少しだけ笑った。
「……確かに」
男は続けた。
「互いを守るという約束を、互いに破ったとも言える」
セドリックの笑みが深くなる。
「……素晴らしい解釈ですね」
装置の文字が変わった。
【育成課題:裏切り】
【判定:完了】
【育成進行:確認】
セドリックは満足そうに頷いた。
「……では、次の課題へ」
しかし。
装置は動かなかった。
「……?」
セドリックが眉を寄せた。
画面に、新しい文字が浮かんでいた。
【育成課題:裏切り】
【判定:異議あり】
セドリックの笑顔が消えた。
「……異議?」
男も装置を見つめた。
さらに文字が現れる。
【育成対象の意思確認:未実施】
【育成者候補の権限:未確定】
【判定の正当性:審査中】
セドリックは息を止めた。
「……誰が?」
装置の奥で、微かな音が響いた。
まるで。
誰かが、彼らの判定を拒否したようだった。
そして。
最後に、一つの文字が浮かんだ。
【審査請求者:第109代育成対象】
セドリックは目を見開いた。
「……レン?」
男はしばらく黙っていた。
そして、低く笑った。
「……面白い」
装置の光が、ゆっくり弱まっていく。
「育てられる側が、育てる側の判断を問うか」
セドリックは画面を見つめた。
その顔から、初めて笑みが消えていた。




