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神々は無職を選んだ  作者: 夜凪 灯
第二章 神なき力の目覚め
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神託ログ15『裏切るべき約束』

 その日の朝、大神殿の鐘は一度だけ鳴り損ねた。


 いつもなら六つ目の鐘が鳴る頃、俺は食堂へ向かう準備をしている。実際には寝坊して七つ目を聞くことも多いのだが、今日は違った。まだ薄暗いうちに目が覚めてしまい、寝台の端に腰掛けたまま、窓の外が明るくなるのを待っていた。


 昨日、ディンが持ってきた文書には、リナが育成者補助の登録を拒否した場合、俺に対する保護措置を強化すると書かれていた。


 リナが自分の名前を守れば、俺の自由が危うくなる。俺の安全を優先すれば、リナが望まない役割を押しつけられる。


 誰が考えたのか知らないが、実に嫌な二択だった。


 しかも、その命令がいつ実行されるのかは、文書に書かれていなかった。


「……なあ、エリオス」


『何だ』


「神様って、人間が考えた嫌がらせにも詳しい?」


『質問の範囲が広すぎる』


「じゃあ、誰かに選ばせたい答えがある時、わざと選択肢を二つに絞るやり方」


『知っている』


 即答だった。


『一方を選べば、もう一方を失うように見せる。そうすれば、選択そのものに意識が向き、選択肢を設定した者の権限が問われにくくなる』


「……なるほど」


『ただし、二択が常に偽りとは限らない。現実に両立できない利益も存在する』


 俺は窓の外を見た。


 東の空が淡い青色に変わり始めている。神殿の庭では、夜明け前から働いている神官が落ち葉を集めていた。


「今回のは、どっちだと思う?」


『まだ分からない』


 エリオスはそこで言葉を切った。


『だからこそ、選ばされる前に、何を根拠にその二択が成立しているのか確かめるべきだ』


 俺は立ち上がった。


 そうだ。


 リナが何かを選ぶ前に、そもそも誰が、何の権限で、そんな選択を迫っているのか。


 そこから調べよう。


          ◇ ◇ ◇


 食堂へ行くと、リナはすでに席に着いていた。


 昨夜、彼女がシオンから受け取った黒い札は、テーブルの中央に置かれている。札の表面には【選択権:保留】という文字が刻まれていた。


 ただし、昨日とは違うところがあった。


 文字の周囲に、細い銀色の線が浮かんでいたのだ。


「……それ、光ってない?」


「うん。朝起きたら、こうなってた」


 リナは不安そうに札を見つめていた。


 俺は向かいの席に座り、七柱へ確認を頼んだ。


『表面に微弱な反応があります』


 ノアが答える。


『ただし、昨日確認した時点では存在しなかったものです』


「何かに接続された?」


『可能性はあります。ですが、現段階では断定できません』


 俺は札へ手を伸ばしかけた。


 その瞬間、リナが俺の手首を軽く掴んだ。


「待って」


「……あ」


「昨日、何を切るか分からない時は使わないって話したでしょ」


「まだブレイカー使ってない!」


「使いそうな顔してた」


「顔で判断しないで!」


 リナは少し笑った。


 俺も笑ったが、彼女の手はすぐには離れなかった。


「レン。今日は私の登録のことだけじゃないと思う」


「……うん」


「シオンがくれた札も、本部からの命令も、全部どこかで繋がってる気がする」


「俺もそう思う」


 リナは札を布で包み直した。


「だから、レグルさんに見せよう。私たちだけで判断するより、調べられることがあるはず」


「賛成」


 俺は頷いた。


 以前なら、誰かに相談する前に自分で何とかしようとしていたかもしれない。


 でも、今回は違う。


 俺たちはまだ、敵が何を仕掛けているのか知らない。


 知らないまま動けば、またトーマの父親が怪我をした時のような失敗を繰り返すかもしれない。


「……ところで、リナ」


「何?」


「朝ご飯、食べた?」


「まだ」


「よかった」


「何が?」


「今日は一緒に食べられる」


 リナは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、柔らかく笑った。


「……そうだね」


 俺たちは温かいスープとパンを注文した。


 窓の外では、朝の鐘がもう一度鳴り始めていた。


          ◇ ◇ ◇


 職業管理院へ着いた時、建物の前には普段より多くの人が集まっていた。


 入口には臨時の掲示板が置かれ、そこへ職員が新しい通達を貼り出している。人々はその周囲に集まり、不安そうに文書を読んでいた。


「……何かあったのかな」


 リナが呟いた。


 俺たちは人の隙間から掲示板を覗き込んだ。


 そこには、本部監察局の印章が押された文書が貼られていた。


【未登録性質保有者に関する臨時安全確認】


【対象者は本日中に最寄りの職業管理院へ出頭し、性質および接続状況の確認を受けること】


【確認に応じない場合、安全確保のため一時的な行動制限を実施する場合がある】


 俺は眉を寄せた。


「……これ、俺たちだけじゃない?」


「うん」


 リナは周囲を見回した。


 掲示板の前には、子どもを連れた母親や、仕事着のまま駆けつけた職人らしい男がいた。誰もが自分や家族に関係する命令なのか分からず、職員へ質問を繰り返している。


 その中に、見覚えのある人物がいた。


「……バルク?」


 以前、管理院の医療施設で会った護衛士だった。


 彼は大きな身体を縮めるようにして、掲示板を見つめていた。人を恐怖で動けなくしてしまう性質を持ち、その力を怖れて自分から管理院の監督を受けている男だ。


「レンか」


「どうしたの?」


 バルクは文書を指した。


「俺も対象らしい」


「でも、バルクは管理院に登録してるんじゃ……」


「性質の記録はある。だが、育成接続が未確認だと言われた」


 彼は苦々しく笑った。


「今までは、俺が自分で監督を受けるかどうか決められた。今日は違うらしい」


 俺は文書を見直した。


 未登録性質保有者。


 接続状況。


 行動制限。


 昨日まで、俺たちだけに向けられていた言葉が、町全体へ広がっている。


「……レグルさんは?」


「中にいる。だが、今朝から本部の職員が来ているらしい」


 バルクは低い声で続けた。


「俺は、自分の力が怖い。だから監督を受けることには納得している。でも、今日の命令は何か違う」


「何が?」


「俺が危険かどうかを調べる前に、自由を制限することが決まっている」


 俺は何も言えなかった。


 その時、入口の扉が開いた。


 現れたのはディンだった。


 彼は俺たちを見ると、すぐに近づいてきた。


「レンさん、リナさん。レグル主任がお待ちです」


「……何が起きてるの?」


 俺が尋ねると、ディンは周囲を確認してから答えた。


「本部が、昨夜のうちに臨時命令を発令しました。対象はこの地域全体です」


「レグルさんは認めたの?」


「……いいえ」


 ディンの表情が険しくなる。


「主任は、命令の根拠が不十分だとして異議を申し立てました」


「それで?」


「本部は、主任の指揮権を一時停止しました」


 俺は息を止めた。


「……え?」


「現在、管理院の指揮は本部監察局が代行しています」


 ディンは唇を噛んだ。


「主任は職務から外され、別室で事情聴取を受けています」


 俺は掲示板を見た。


 不安そうな人々。


 行動制限を告げる文書。


 そして、レグルの指揮権停止。


 昨日、俺たちを守ろうとしてくれた人が、今度は自分の立場を失っている。


「……ディン」


「はい」


「レグルさんに会える?」


「今なら、まだ」


 彼は頷いた。


「ただし、長くは話せません」


 俺たちは管理院の中へ入った。


          ◇ ◇ ◇


 レグルは、地下の記録室ではなく、二階の小さな会議室にいた。


 机の上には、取り上げられた職員証と、封印された書類が置かれている。普段はきちんと整えられている制服の襟元が少し乱れ、目の下には疲れが見えた。


 それでも、俺たちが入ると、彼はいつもどおり静かに頷いた。


「来たか」


「……大丈夫ですか?」


 俺が尋ねると、レグルは少しだけ笑った。


「職を失ったわけではない。指揮権を停止されただけだ」


「それ、十分大変じゃないですか!」


「そうだな」


 レグルはあっさり認めた。


「だが、命令の正当性を確認するまでは、署名できなかった」


 俺は胸の奥が重くなるのを感じた。


「……俺たちのせいで」


「違う」


 レグルは即座に遮った。


「私は、自分の職務上の判断として異議を申し立てた。君たちに責任を負わせるつもりはない」


「でも」


「レン」


 レグルは俺を見つめた。


「他人が自分で選んだことまで、君が背負う必要はない」


 俺は口を閉じた。


 最近、同じことを何度も言われている。


 トーマの父親にも。


 リナにも。


 七柱にも。


 それなのに、まだ自分のせいだと思ってしまう。


「……分かりました」


 俺が頷くと、レグルは机の上の書類へ視線を落とした。


「それより、今日の命令について話そう」


 彼は一枚の紙を差し出した。


「本部は、未登録性質保有者の安全確認を名目に、対象者の行動を制限しようとしている」


「……はい」


「問題は、その対象者の選定方法だ」


 俺は文書を見た。


 そこには、通常の職業分類とは異なる項目が並んでいた。


【性質保有者】


【育成接続未確認】


【安全確認対象】


 その下に、小さな文字で追記がある。


【育成者候補との接続が成立した場合、行動制限を解除できる】


 俺は息を止めた。


「……これ」


 リナも文書を覗き込んだ。


「育成者候補と接続すれば、自由になれる?」


「そう読める」


 レグルは頷いた。


「ただし、接続後にどのような権限が発生するのかは説明されていない」


 俺は眉を寄せた。


 接続しなければ、行動を制限する。


 接続すれば、自由にする。


 でも、接続した後に何が起きるかは分からない。


「……選ばせてるようで、選ばせてないじゃん」


「そのとおりだ」


 レグルは静かに答えた。


「だから、私は署名しなかった」


 リナが口を開いた。


「レグルさん。私にも、育成者補助の登録を求める命令が来ています」


「ああ。確認している」


「もし私が登録を拒否したら、レンが確保されると」


「……そうだ」


「でも、それって本当にできるんですか?」


 レグルは少し考えた。


「現在の法令では、本人の意思に反する育成接続を認める明確な規定はない」


「じゃあ、拒否できる?」


「法的には争える」


 その答えに、俺は少し安心しかけた。


 だが、レグルは続けた。


「ただし、本部が実力行使に出る可能性はある」


 俺は息を吐いた。


 法律上は認められない。


 でも、実際に止められるとは限らない。


 それが、今の状況だった。


「……どうしたらいい?」


 俺が尋ねると、レグルは首を横に振った。


「私が君たちの代わりに決めることはできない」


 そして、少しだけ声を強くした。


「だが、一つだけ覚えておいてほしい。命令に従わないことと、他人を危険にさらすことは同じではない」


 俺は顔を上げた。


「……どういうこと?」


「本部は、従わなければ危険が起きると説明している。しかし、その危険を生み出しているのが命令そのものなら、責任の所在は別だ」


 俺は黙って考えた。


 リナが拒否するから、俺が捕まる。


 そう言われれば、リナは自分を責めるかもしれない。


 でも、俺を捕まえようと決めたのは本部だ。


 リナじゃない。


「……分かった」


 俺は頷いた。


「俺たちが悪いことにされる必要はないんだ」


「そうだ」


 レグルは小さく笑った。


「ただし、だからといって危険が消えるわけではない。そこは混同するな」


「……はい」


 俺は苦笑した。


 この人、本当に最後まで厳しい。


 でも、だからこそ信用できる。


          ◇ ◇ ◇


 管理院を出た後、俺たちは大神殿へ戻ることにした。


 リナは道中、ほとんど話さなかった。


 俺も無理に声をかけなかった。


 町の様子は、朝よりさらに落ち着かなくなっていた。掲示板の前には人だかりができ、職員に詰め寄る者もいれば、家族を連れて急いで帰る者もいる。


 俺たちはその中を歩いた。


 やがて、リナが口を開いた。


「……レン」


「何?」


「私、決めた」


 俺は足を止めた。


 リナも立ち止まる。


「育成者補助には、ならない」


 その声は、はっきりしていた。


「……うん」


「でも、レンが捕まるのは嫌」


「俺も嫌だよ」


「だから」


 リナは俺を見つめた。


「二人で、別の方法を探したい」


 俺は笑った。


「もちろん」


 リナも少しだけ笑った。


 その時だった。


 通りの向こうから、悲鳴が聞こえた。


 俺たちは同時に振り向いた。


 職業管理院の前で、数人の職員が一人の若い男を取り囲んでいる。


 男は必死に抵抗していた。


「だから、俺は何もしてないって!」


「安全確認のためです。ご同行ください」


「嫌だって言ってるだろ!」


 職員の一人が、銀色の認証板を取り出した。


 俺の背中が冷たくなる。


 あれは。


 昨日、セドリックが使ったものに似ている。


「……リナ」


「うん」


 俺たちは走った。


 若い男は職員に腕を掴まれ、必死に振りほどこうとしていた。


 周囲の人々は不安そうに見守っているが、誰も近づこうとしない。


「待ってください!」


 俺が声をかけると、職員たちが振り向いた。


「何ですか?」


「その人、何をしたんですか?」


「安全確認への協力を拒否しています」


「それって、捕まえる理由になるんですか?」


 職員は一瞬だけ言葉に詰まった。


 だが、すぐに認証板を掲げた。


「本部命令です」


 俺は息を吐いた。


 また、それか。


 命令。


 保護。


 安全。


 全部、聞こえのいい言葉だ。


 でも、その言葉の下で、本人の意思が無視されている。


「……その命令、本人の意思を無視していいって書いてあります?」


 俺が尋ねると、職員の表情が険しくなった。


「あなたには関係ありません」


「関係あります」


 俺は若い男を見た。


「その人、嫌だって言ってるから」


 職員は認証板へ手をかざした。


 銀色の光が広がる。


 若い男の身体が、わずかに硬直した。


「……っ!」


 俺は右手を握った。


 ブレイカー。


 切る。


 でも。


 何を?


 昨日の失敗が頭をよぎった。


 焦ってはいけない。


 まず、何が起きているのか。


『レン』


 ノアが呼んだ。


『対象の身体に、外部からの拘束処理が接続されています』


「……分かる?」


『はい。ただし、装置の内部構造までは確認できません』


「切るなら?」


『身体そのものではなく、拘束処理の接続部分です』


 俺は頷いた。


 今度は、分かっている。


 何を切るのか。


 何を残すのか。


「……リナ」


「うん」


「周りの人、下がらせて」


「分かった」


 リナがすぐに動いた。


 俺は職員へ向き直る。


「その処理、止めてください」


「命令に従ってください」


「止めないなら、切ります」


 職員が眉を寄せた。


「何を?」


 俺は右手を伸ばした。


「その人を勝手に縛ってるものを」


 ブレイカー。


 切るべき対象を認識する。


 銀板から伸びる、見えない拘束。


 若い男の身体へ繋がる、一本の線。


 そこだけを。


「――断つ」


 小さな音がした。


 銀板の光が消える。


 若い男の身体から力が抜けた。


「……え?」


 職員たちが驚く。


 俺はすぐに若い男へ声をかけた。


「大丈夫?」


「……あ、ああ」


 彼は震える手を見つめた。


「動ける……」


 俺は胸を撫で下ろした。


 よかった。


 今度は、ちゃんと切れた。


 その時。


 背後から、拍手が聞こえた。


 ゆっくりと。


 わざとらしい拍手だった。


「……素晴らしい」


 聞き覚えのある声。


 俺は振り向いた。


 通りの向こうに、セドリックが立っていた。


 黒い制服。


 金色の紋章。


 そして、あの不気味な笑顔。


「……お前」


 俺が呟くと、セドリックは丁寧に頭を下げた。


「お久しぶりです、レンさん」


「昨日も会っただろ!」


「時間の感じ方は人それぞれですので」


「そういう問題じゃない!」


 セドリックは笑った。


 だが、その目は笑っていなかった。


「さて」


 彼はリナへ視線を向けた。


「そろそろ、お返事をいただけますか?」


 リナの表情が険しくなる。


「……何の?」


「育成者補助の登録です」


 俺は一歩前へ出た。


「リナは拒否した」


「承知しています」


 セドリックは頷いた。


「ですが、再審査の結果、対象保護の必要性が認められました」


「誰が認めた?」


「本部です」


「本人は認めてない」


「本人の意思だけでは、安全を確保できない場合もあります」


 セドリックは穏やかに答えた。


 俺は右手を握りしめた。


 その時、リナが俺の隣へ立った。


「……私が話す」


 俺は彼女を見た。


 リナは真っ直ぐセドリックを見つめていた。


「私は、育成者補助にはなりません」


 セドリックは微笑んだ。


「理由をお聞きしても?」


「私が望んでいないから」


「それだけですか?」


「それだけで十分でしょ」


 リナの声は揺れなかった。


 セドリックは少しだけ目を細めた。


「……なるほど」


 そして、銀色の認証板を取り出した。


 俺の背中が冷たくなる。


「では、規定に従い、第109代育成対象の保護措置を開始します」


 銀板が光った。


 俺の足元へ、淡い輪が広がる。


 昨日と同じ。


 いや、昨日より強い。


 身体が重くなる。


「……っ!」


 俺は右手を上げた。


 ブレイカー。


 切る。


 でも、今回は何かが違った。


 銀板から伸びる接続が、一本ではない。


 いくつもの線が重なり、俺の身体へ絡みついている。


『レン!』


 ノアが叫んだ。


『複数の処理が同時に接続されています!』


「……分かってる!」


 俺は歯を食いしばった。


 切るべきものを探す。


 でも、線が多すぎる。


 何を切ればいいのか分からない。


 その時。


 リナが俺の前へ出た。


「……やめて」


 セドリックは首を傾げた。


「何をでしょう?」


「レンを捕まえるのを」


「では、登録を承認しますか?」


 リナは唇を噛んだ。


 俺は叫んだ。


「リナ! 駄目だ!」


 彼女は振り向かなかった。


 セドリックは静かに続けた。


「あなたが登録を承認すれば、彼の拘束処理は停止します」


 リナの手が震えた。


 俺は必死に身体を動かそうとした。


 でも、動かない。


 七柱の声が頭の中で重なる。


『レン、落ち着いて!』


『接続の構造を確認します!』


『無理に動くな!』


 俺は息を荒くした。


 リナが、俺のために自分の意思を捨てようとしている。


 そんなの。


 絶対に嫌だ。


「……リナ!」


 俺は叫んだ。


「俺のために、選ぶな!」


 リナの肩が震えた。


 セドリックは微笑んだ。


「……美しいですね」


 その言葉が、何より腹立たしかった。


「互いを思いやる気持ち。まさに理想的な育成関係です」


 俺は歯を食いしばった。


 ふざけるな。


 俺たちは、お前のために生きてるんじゃない。


 その時。


 リナが、ゆっくり顔を上げた。


「……分かった」


 俺は息を止めた。


「……リナ?」


 彼女はセドリックを見つめた。


「私、選ぶ」


 セドリックの笑みが深くなる。


「素晴らしい」


 リナは続けた。


「でも、その前に一つ聞かせて」


「何でしょう?」


「私が登録を承認したら、レンは本当に自由になるの?」


「もちろんです」


「……じゃあ、書面で約束して」


 セドリックの笑顔が、わずかに止まった。


「……書面?」


「うん。登録後、レンへの拘束や行動制限を一切行わないって」


 セドリックは少しだけ黙った。


 そして。


「それは、状況によります」


 リナは頷いた。


「……やっぱり」


 彼女は一歩下がった。


「じゃあ、承認しない」


 セドリックの表情が変わった。


「……よろしいのですか?」


「うん」


「彼は拘束されたままですよ」


 リナは俺を見た。


 その目には、恐怖があった。


 でも、迷いはなかった。


「……レン」


「……何?」


「ごめん」


 俺は息を止めた。


「……何で謝るの?」


「怖い思いをさせてるから」


 俺は首を横に振った。


「……リナのせいじゃない」


 彼女は小さく笑った。


「うん」


 そして。


「だから、私も勝手に決めない」


 その言葉が、胸に響いた。


 俺は頷いた。


「……ありがとう」


 セドリックは静かに息を吐いた。


「……残念です」


 彼は銀板へ手をかざした。


 拘束の輪が、さらに強く光る。


「では、規定に従い――」


 その瞬間。


「待て!」


 通りの向こうから、鋭い声が響いた。


 振り向くと、ディンが走ってきていた。


 その後ろには、数人の職員がいる。


「本部監察官!」


 ディンは息を切らしながら叫んだ。


「その拘束処理について、正式な異議申し立てが受理されました!」


 セドリックの目が細くなる。


「……誰が?」


「レグル主任です!」


 俺は息を止めた。


 指揮権を停止されたはずのレグルが。


 それでも。


 まだ、動いてくれていた。


「……指揮権停止中の者に、何ができると?」


 セドリックが尋ねる。


 ディンは書類を掲げた。


「異議申し立ては、職務権限ではなく、個人の法的権利として提出されています!」


 セドリックの笑みが消えた。


「……なるほど」


 ディンは続けた。


「また、現在の拘束処理は、本人の意思確認を経ていません。審査が完了するまで、処理を停止するよう命じられています!」


 セドリックはしばらく黙っていた。


 そして。


「……仕方ありませんね」


 銀板の光が消えた。


 俺の身体が軽くなる。


「……っ!」


 俺は膝をついた。


 リナがすぐに駆け寄る。


「レン!」


「……大丈夫」


 俺は息を整えた。


 身体は動く。


 痛みもない。


 でも、心臓はまだ激しく鳴っていた。


 セドリックは俺たちを見下ろし、静かに微笑んだ。


「本日は、ここまでにしましょう」


「……もう来るな」


 俺が言うと、彼は少しだけ笑った。


「それは、お約束できません」


 そして、職員たちを連れて去っていった。


 俺はその背中を見つめた。


 逃げたわけじゃない。


 諦めたわけでもない。


 あいつは、まだ何かを考えている。


 でも。


 今日、俺たちは選んだ。


 リナは、自分の意思を捨てなかった。


 俺も、リナにそれを捨てさせなかった。


 それだけは、確かだった。


          ◇ ◇ ◇


 夕方、俺たちは大神殿へ戻った。


 リナは少し疲れた様子だったが、食堂へ向かう途中で俺の袖を引いた。


「……レン」


「何?」


「今日、怖かった」


 俺は頷いた。


「俺も」


「レンが動けなくなった時、登録しようかと思った」


「……うん」


「でも、あの人の言うことを信じられなかった」


 リナは少しだけ俯いた。


「登録しても、レンが自由になれる保証なんてなかったから」


 俺は頷いた。


「……正しかったと思う」


「でも、もしディンが来なかったら?」


 その問いに、俺は答えられなかった。


 確かに。


 ディンが来なければ、どうなっていたか分からない。


 俺のブレイカーで切れたかもしれない。


 切れなかったかもしれない。


 リナが登録を承認していたかもしれない。


 その可能性を考えると、背中が冷たくなった。


「……分からない」


 俺は正直に答えた。


「でも、次はもっと準備したい」


 リナは頷いた。


「うん」


「それと」


「何?」


「俺、今日ちょっと嬉しかった」


 リナが目を丸くした。


「……何が?」


「リナが、自分で決めたこと」


 彼女は少しだけ笑った。


「……ありがとう」


 俺も笑った。


 ただし。


 胸の奥には、まだ不安が残っていた。


 セドリックは去った。


 でも、問題が終わったわけじゃない。


 レグルの指揮権は停止されたままだ。


 未登録性質保有者への命令も撤回されていない。


 そして。


 誰かが、俺たちを育成対象として見ている。


 その視線は、今もどこかにある。


          ◇ ◇ ◇


 その夜。


 職業管理院本部の地下で、セドリックは円形装置の前に立っていた。


 装置には、赤い文字が浮かんでいる。


【育成課題:裏切り】


【対象者:リナ】


【選択結果:登録拒否】


【第109代育成対象:拘束解除】


 セドリックはその表示を見つめ、静かに微笑んだ。


「……残念でしたね」


 背後の男が答えた。


「何がだ」


「彼女は、裏切りませんでした」


 男はしばらく黙っていた。


 そして。


「……本当にそうか?」


 セドリックが首を傾げた。


「どういう意味でしょう?」


 男は装置へ近づいた。


「彼女は、自分の意思を守るために、第109代を危険へさらした」


「……なるほど」


「第109代は、彼女の意思を守るために、自分の安全を捨てた」


 セドリックは少しだけ笑った。


「……確かに」


 男は続けた。


「互いを守るという約束を、互いに破ったとも言える」


 セドリックの笑みが深くなる。


「……素晴らしい解釈ですね」


 装置の文字が変わった。


【育成課題:裏切り】


【判定:完了】


【育成進行:確認】


 セドリックは満足そうに頷いた。


「……では、次の課題へ」


 しかし。


 装置は動かなかった。


「……?」


 セドリックが眉を寄せた。


 画面に、新しい文字が浮かんでいた。


【育成課題:裏切り】


【判定:異議あり】


 セドリックの笑顔が消えた。


「……異議?」


 男も装置を見つめた。


 さらに文字が現れる。


【育成対象の意思確認:未実施】


【育成者候補の権限:未確定】


【判定の正当性:審査中】


 セドリックは息を止めた。


「……誰が?」


 装置の奥で、微かな音が響いた。


 まるで。


 誰かが、彼らの判定を拒否したようだった。


 そして。


 最後に、一つの文字が浮かんだ。


【審査請求者:第109代育成対象】


 セドリックは目を見開いた。


「……レン?」


 男はしばらく黙っていた。


 そして、低く笑った。


「……面白い」


 装置の光が、ゆっくり弱まっていく。


「育てられる側が、育てる側の判断を問うか」


 セドリックは画面を見つめた。


 その顔から、初めて笑みが消えていた。

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