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神々は無職を選んだ  作者: 夜凪 灯
第二章 神なき力の目覚め
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神託ログ14『裏切りの値段』

 リナが出かけると言った翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。


 まだ日の出から間もない時間だった。大神殿の客室は薄暗く、窓の外には朝靄が残っている。遠くで鐘が鳴り、神官たちが一日の仕事を始める気配が、静かな廊下を通して伝わってきた。


 寝台の上で身体を起こした俺は、しばらく天井を眺めていた。


 昨日、リナは町の外へ行くと言った。


 会う相手はシオン。あの男が何を考えているのか、俺たちはまだ十分に知らない。トーマやミアの意思を尊重する一方で、育成対象を殺したと自分で語り、その理由については多くを明かしていない人物だ。


 信用できる部分はある。信用できない部分もある。


 だから、心配するなと言われても無理だった。


『……起きているのか』


 エリオスの声が聞こえた。


「起きてる。というか、目が覚めた」


『珍しいな』


「神様が寝坊キャラ認定してくるの、納得いかないんだけど」


『昨日は朝食に遅れただろう』


「一回だけじゃん!」


『先週も二回あった』


「記録しなくていいから!」


 いつものやり取りだったが、今日は少しだけ気持ちが軽くなった。


 俺は寝台から降り、顔を洗うために水差しへ手を伸ばした。冷たい水が頬を伝うと、頭の中に残っていた眠気がようやく消えていく。


「なあ、エリオス」


『何だ』


「リナがシオンに会うの、どう思う?」


『危険はある』


「だよな」


『だが、シオンと接触すること自体が誤りだとは言い切れない。彼は我々が知らない情報を持っている可能性がある』


「……うん」


『問題は、その情報を得るために何を要求されるかだ』


 俺は手を止めた。


 シオンは、以前から交換条件のようなものを口にしていた。


 知りたければ来い。選びたければ自分で決めろ。神々の言葉だけを信じるな。


 その考え方には納得できる部分もある。けれど、情報を持つ側が、何を教えて何を隠すかを決められることも事実だった。


「……リナに、もう一回聞いてみる」


『何を?』


「俺にできることがあるかどうか」


 エリオスは少しだけ黙った。


『それがいい』


 俺は頷き、身支度を始めた。


 心配だから行くなと言うのではなく、本人が何を必要としているのかを聞く。


 簡単そうで、今の俺には意外と難しいことだった。


          ◇ ◇ ◇


 食堂へ行くと、リナはすでに朝食を食べ終えようとしていた。


 いつもの軽装ではなく、革製の胸当てを身につけ、腰には剣を下げている。旅に出るほどの荷物ではないが、町の外へ向かう準備としては十分だった。


 彼女は俺を見ると、少し驚いたように目を丸くした。


「おはよう。今日は早いね」


「起きられる男なんですよ、俺は」


「昨日は?」


「昨日の俺とは別人なので」


「便利な理屈だね」


 リナは笑った。


 俺も笑いながら向かいの椅子へ座った。食堂の奥では神官たちが食器を片づけていて、焼きたてのパンの香りがまだ残っている。


「今日、何時に出るの?」


「もう少ししたら」


「帰りは?」


「夕方までには戻るつもり」


「場所は?」


 リナがパンを持つ手を止めた。


 俺は慌てて付け加える。


「あ、言いたくなかったら言わなくていい。ただ、何かあった時に探せるようにしておきたい」


 彼女は少し考えてから答えた。


「西門を出た先の、古い礼拝堂」


「……あそこか」


「知ってる?」


「シオンが使ってる場所だって聞いたことがある」


 リナは頷いた。


 俺はしばらく迷った末、もう一つだけ尋ねた。


「護衛、必要?」


「レンが?」


「俺でもいいし、リナが信用できる人なら誰でも」


「……大丈夫。一人で行くって決めたから」


 俺は頷きかけたが、途中で止まった。


「一人で行きたいのは分かった。でも、危険があることと、一人で決めたいことは別じゃない?」


 リナの表情が少し変わった。


 俺は続けた。


「俺がついていったら、シオンが話さなくなるかもしれない。だから無理には行かない。でも、もし帰ってこなかったら探しに行く。そのための約束はしておきたい」


 リナはしばらく俺を見つめていた。


 やがて、少しだけ肩の力を抜く。


「……そっか」


「何?」


「昨日までのレンなら、絶対についてくるって言うと思ってた」


「言いたい気持ちはある」


「正直だね」


「そこは隠せない」


 リナは笑った。


 それから、真剣な表情に戻る。


「分かった。日が沈む前には帰る。もし予定が変わったら、神殿へ知らせを送る」


「うん」


「それでも帰ってこなかったら、探しに来て」


「分かった」


 俺たちはそこで約束した。


 小さな約束だった。


 でも、今の俺たちには必要だった。


 リナが立ち上がり、椅子の背に掛けていた外套を手に取る。


「じゃあ、行ってくる」


「気をつけて」


「うん」


 彼女は少し歩いたところで振り返った。


「レン」


「何?」


「心配してくれて、ありがとう」


 俺は少し照れくさくなった。


「……まあ、相棒なので」


「うん。相棒だもんね」


 リナは笑い、食堂を出ていった。


 その背中を見送りながら、俺はようやく朝食に手を伸ばした。


『……で、レン』


 ガルドが呼んだ。


「何?」


『お前、飯を食う手が止まってるぞ』


「今から食べる!」


『心配なら身体を動かせ。考え込んでても腹は減るだけだ』


「神様の助言が体育会系すぎる!」


『実際、身体を動かした方がいい』


 ヴォルグまで同意した。


 ……この二柱、こういう時だけ意見が一致するんだよな。


          ◇ ◇ ◇


 西門を抜けたリナは、街道を外れて古い礼拝堂へ向かった。


 建物はかつて周辺の村人たちが祈りを捧げるために使っていたものらしい。今では屋根の一部が崩れ、石壁には蔦が絡みついている。正面の扉には古い傷がいくつも残り、風が吹くたびに蝶番が軋んだ。


 リナは入口の前で足を止めた。


 ここへ来るまでに、何度か引き返そうと思った。


 レンに話してしまえば、きっと一緒に考えてくれる。


 神々にも相談できる。


 管理院のレグルに頼めば、正式な記録を調べてくれるかもしれない。


 それでも、今日は一人で来たかった。


 自分の名前を選んだ時、リナはようやく誰かに与えられた役割から離れられた気がした。


 けれど、職業管理院の記録には【育成者補助】という新しい分類が申請されていた。


 しかも、その対象はレンだった。


 誰かの役に立つことが嫌なのではない。


 レンを助けることも、神々と一緒に過ごすことも、リナ自身が望んでいる。


 だからこそ、それを制度によって決められるのが嫌だった。


 自分の意思で隣にいることと、隣にいるよう命じられることは違う。


「……来たか」


 礼拝堂の奥から声がした。


 シオンが、壊れた祭壇の前に立っていた。


 黒い髪が肩にかかり、左腕は長袖に隠れている。以前と変わらない無表情だったが、リナにはどこか疲れているようにも見えた。


「約束どおり、一人で来たよ」


「ああ」


「話してくれるんだよね」


「……必要なことは」


 リナは眉を寄せた。


「その言い方、嫌い」


 シオンがわずかに目を上げる。


「何?」


「必要かどうかを決めるのは、あなた?」


 礼拝堂に沈黙が落ちた。


 シオンはしばらくリナを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……そうだな」


 意外な返事だった。


「俺は、また同じことをしようとしていたらしい」


「同じこと?」


「守るために、情報を隠すことだ」


 リナは何も言わなかった。


 シオンは祭壇の上へ一冊の古い帳簿を置いた。


 表紙には、かすれた文字で【旧育成管理記録・補助権限】と記されている。


「お前の職業が再分類されようとした理由は、これにある」


 リナは慎重に近づいた。


 帳簿の中には、育成対象と育成者の関係について、細かな規則が書かれていた。


 ただし、現在の職業管理院で使われている書式とは違う。紙の端には何度も訂正された跡があり、一部の文章は黒いインクで塗りつぶされていた。


「……補助権限って?」


「育成者が対象へ直接干渉できない場合、別の者が一時的に権限を代行する仕組みだ」


「それが、私?」


「候補の一人だ」


 リナは帳簿を見つめた。


「でも、私はレンを育ててない」


「育成管理機構は、そう判断していない」


「……どういうこと?」


「お前はレンの判断を変えてきた。戦い方を教え、危険を止め、時には彼の選択へ反対した。その行為が、育成に関わったものとして記録されている可能性がある」


 リナは思わず顔を上げた。


「そんなの、普通のことでしょ」


「ああ」


 シオンは頷いた。


「だから厄介なんだ」


 彼は帳簿の一箇所を指した。


【育成者補助は、対象の安全確保を最優先とする】


【必要と認められる場合、対象の意思に反する措置を実行できる】


 リナの表情が険しくなった。


「……何これ」


「補助権限が登録されれば、お前はレンを保護する名目で、本人の意思を制限できる可能性がある」


「そんなこと、するわけない」


「お前が望むかどうかとは別だ」


 シオンの声は静かだった。


「権限が与えられれば、それを利用しようとする者が現れる」


 リナは帳簿を閉じた。


「だから、私を登録しようとしてるんだ」


「そう考えられる」


「レンを捕まえるために?」


「少なくとも、自由に動けなくする手段にはなる」


 リナは唇を噛んだ。


 昨日、管理院で自分の登録を拒否した。


 あの判断は間違っていなかった。


 けれど、拒否したからといって終わりではない。


 誰かが、別の方法で同じことをしようとしている。


「……シオン」


「何だ」


「あなたは、どうしてこんなことを知ってるの?」


 シオンは答えなかった。


 リナは続けた。


「前に、自分の育成対象を殺したって言ってたよね」


 シオンの表情が変わる。


「……ああ」


「それと関係ある?」


 長い沈黙があった。


 礼拝堂の外で鳥が鳴き、崩れた屋根の隙間から風が入り込む。


 シオンは左腕の袖を少しだけまくった。


 そこには、以前レンたちが見た文字が残っていた。


【育成者資格:剥奪】


「……俺にも、かつて補助権限を持つ者がいた」


 リナは息を止めた。


「その人は?」


「俺の育成対象を守ろうとした」


「……それで?」


 シオンは左腕を見つめた。


「守るために、対象の意思を無視した」


 リナは何も言えなかった。


「その結果、取り返しのつかないことが起きた」


「……何が?」


 シオンは顔を上げた。


「まだ、話す準備ができていない」


 リナは眉を寄せた。


 また、隠す。


 そう思った。


 けれど、シオンは続けた。


「ただし、これは俺が話したくないという理由だ。お前を守るためだとは言わない」


 リナは少し驚いた。


 シオンは目を逸らさなかった。


「俺には、話したくないことがある。それを理由に信用しないなら、それでいい」


 リナはしばらく考えた。


 そして、静かに頷いた。


「……分かった」


 全部を話してもらえたわけではない。


 でも、少なくとも今のシオンは、隠す理由を他人のせいにしなかった。


 それだけは、以前と違っていた。


          ◇ ◇ ◇


 その頃、俺は大神殿の裏庭で木箱を相手に苦戦していた。


 ヴォルグが用意したのは、複数の金具で固定された小さな箱だった。


 中には何も入っていない。


 ただし、箱の底には細い糸が張られており、間違った金具を外すと糸が切れる仕組みになっている。


「……これ、何の訓練?」


『対象を正確に認識する訓練だ』


「ブレイカーで金具を外す?」


『そうだ。ただし、箱そのものを壊すな』


「……難しくない?」


『難しいから訓練する』


 正論。


 俺は箱を見つめた。


 金具は三つ。


 どれも似た形をしているが、それぞれ別の役割を持っている。


 ヴォルグの説明によれば、一つは蓋を固定するためのもの。もう一つは底板を支えるためのもの。そして最後の一つは、内部の糸と繋がっている。


 俺が外すべきなのは、蓋の固定具だけだった。


「……分かった」


 俺は右手を伸ばした。


 ブレイカー。


 壊すものを選ぶ。


 その感覚は、以前より少しずつ分かるようになってきた。


 でも、まだ完全じゃない。


 昨日の事故では、焦りのあまり対象を曖昧にしたまま力を使ってしまった。


 同じことを繰り返したくない。


「……これ」


 俺は蓋の金具を見つめた。


 金具そのものではなく、金具が蓋を固定している関係。


 そこだけを切る。


「――断つ」


 小さな音がした。


 蓋がわずかに浮く。


「……お?」


 俺は慎重に蓋を持ち上げた。


 中の糸は切れていない。


 底板も外れていない。


 成功。


「……やった!」


『悪くない』


 ヴォルグが言った。


「褒められた!」


『ただし、遅い』


「一言多い!」


『現場では、その時間が命取りになる』


 俺は箱を見つめた。


 確かに、今は落ち着いて考えられる。


 でも、昨日の事故のように、誰かが目の前で危険にさらされていたら。


 同じように判断できるだろうか。


「……ヴォルグ」


『何だ』


「急いでる時って、どうしたらいい?」


『何を?』


「壊すものを選ぶこと」


 ヴォルグは少しだけ黙った。


『急いでいる時ほど、選択肢を減らせ』


「……選択肢?」


『お前は、何でも自分の力で解決しようとする。だから判断が遅れる』


 俺は眉を寄せた。


「でも、誰かが危なかったら」


『助ける方法は、ブレイカーだけではない』


 ヴォルグは続けた。


『避ける。支える。周囲へ助けを求める。危険なものから距離を取る。そうした方法を先に考えろ』


 俺は箱を見つめた。


 確かに。


 昨日、荷車が倒れた時、俺はブレイカーを使うことばかり考えていた。


 もっと早く、周囲の人に協力を求めることもできたかもしれない。


「……なるほど」


『そして、使うと決めたなら迷うな』


「……うん」


『ただし、何を切るか分からないなら使うな』


 俺は頷いた。


 簡単なことじゃない。


 でも、今の俺には必要な訓練だった。


 その時だった。


 裏庭の入口から、ディンが駆け込んできた。


「レンさん!」


「……ディン?」


 彼は息を切らしていた。


 いつもの整った制服は少し乱れ、額には汗が浮かんでいる。


「レグル主任から、至急お伝えするようにと」


「何があった?」


 ディンは周囲を確認してから、低い声で言った。


「本部監察局が、リナさんの育成者補助登録について、再審査を開始しました」


 俺は息を止めた。


「……また?」


「はい。ただし、今回は通常の職業再分類ではありません」


「どういうこと?」


 ディンは一枚の文書を取り出した。


 そこには、見覚えのある文字が並んでいた。


【第109代育成対象】


【補助権限候補:リナ】


【登録拒否:確認済】


【再審査理由:対象保護の必要性】


 俺は眉を寄せた。


「拒否したのに?」


「はい」


「それ、おかしくない?」


「おかしいと思います」


 ディンははっきり答えた。


 俺は少し驚いた。


 以前の彼なら、命令に従うことを優先していたはずだ。


「……ディン、変わったね」


「そうでしょうか」


「うん」


 ディンは少しだけ苦笑した。


「レグル主任に、毎日説明を求められていますので」


「何を?」


「自分が従おうとしている命令の理由です」


 俺は笑った。


 ……レグルさん、教育してるな。


 でも、ディンはすぐに真剣な表情へ戻った。


「問題は、再審査の条件です」


「条件?」


「本部は、リナさんが補助権限を拒否した場合、第109代育成対象の保護措置を強化すると通達しています」


 俺の背中が冷たくなった。


「……保護措置?」


「はい」


「それって、俺を捕まえるってこと?」


 ディンは少しだけ迷った。


 そして。


「……その可能性があります」


 俺は文書を見つめた。


 リナが拒否する。


 すると、俺が確保される。


 そんな仕組みが、勝手に作られている。


「……何だよ、それ」


 俺は呟いた。


 リナが自分の意思を守ろうとすると、俺が危険になる。


 俺を守ろうとすると、リナが望まない役割を受け入れることになる。


 どちらかを選ばせる。


 それが、あいつらのやり方なのか。


「……レグルさんは?」


「現在、正式な異議申し立ての準備を進めています」


「止められる?」


「分かりません」


 ディンは正直に答えた。


「ですが、主任は最後まで確認すると」


 俺は頷いた。


 それなら、俺もできることを考えよう。


 ただし。


 今回は、勝手に決めない。


「……リナに知らせないと」


 俺が言うと、ディンが頷いた。


「はい」


 俺はすぐに動き出そうとした。


 その時。


『レン』


 エリオスが呼んだ。


「何?」


『一つ、確認しろ』


「何を?」


『その文書が、いつ発令されたものかだ』


 俺は足を止めた。


「……ディン」


「はい」


「これ、いつ出た命令?」


 ディンは文書の端を確認した。


「本日、午前十時です」


 俺は眉を寄せた。


 午前十時。


 リナが礼拝堂へ向かった後だ。


 偶然?


 それとも。


 誰かが、リナの行動を見ている?


「……ありがとう」


 俺は文書を受け取った。


 嫌な予感がした。


          ◇ ◇ ◇


 古い礼拝堂では、リナが帳簿を閉じたところだった。


「……これで全部?」


 彼女が尋ねると、シオンは首を横に振った。


「もう一つある」


 リナは眉を寄せた。


「何?」


 シオンは祭壇の奥から、小さな黒い札を取り出した。


 以前、トーマやユウが持っていたものと似ている。


 ただし、表面には数字ではなく、文字が刻まれていた。


【選択権:保留】


 リナは札を見つめた。


「……何これ」


「育成者補助の登録を一時的に止めるための札だ」


「そんなものがあるの?」


「古い制度の残骸だ。今でも使えるかは分からない」


 シオンは札を差し出した。


「ただし、これを使えば、少なくとも登録処理を遅らせられる可能性がある」


 リナは手を伸ばしかけた。


 でも、途中で止めた。


「……条件は?」


 シオンが目を上げる。


「何?」


「何かあるんでしょ。使うための条件」


 シオンはしばらく黙った。


 そして、静かに答えた。


「……ある」


「教えて」


「この札を使う者は、一時的に育成者候補としての照合対象から外れる」


「それだけ?」


「代わりに、育成対象との接続も切れる可能性がある」


 リナは眉を寄せた。


「……レンとの?」


「ああ」


「それって、どうなるの?」


「分からない」


 シオンは正直に答えた。


「記録上の接続が消えるだけかもしれない。だが、育成対象へ影響が出る可能性もある」


 リナは札を見つめた。


 使えば、自分の自由を守れるかもしれない。


 でも、レンに何が起きるか分からない。


 使わなければ、育成者補助として登録される可能性がある。


 どちらを選んでも、危険が残る。


「……シオン」


「何だ」


「これ、私に選ばせるために持ってきたの?」


「ああ」


「でも、レンに影響があるなら、私一人で決めることじゃないよね」


 シオンは何も言わなかった。


 リナは札から手を離した。


「……使わない」


 シオンの表情が変わった。


「理由は?」


「レンに関わることだから」


 リナははっきり答えた。


「私の登録を拒否するのは、私が決める。でも、レンの接続を切るかどうかは、私だけで決めていいことじゃない」


 シオンはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……そうか」


 リナは彼を見つめた。


「これ、持って帰っていい?」


「……何のために?」


「レンに見せる」


 シオンは少し驚いたようだった。


「……俺との約束は?」


「約束したのは、あなたが話したことを勝手に広めないこと」


 リナは静かに続けた。


「でも、レンに影響する道具を隠したまま使うのは違う」


 シオンは何も言わなかった。


 リナは札を見つめた。


「だから、持って帰って一緒に考える」


 長い沈黙があった。


 そして。


 シオンは札を差し出した。


「……分かった」


 リナはそれを受け取った。


「ありがとう」


 シオンは小さく息を吐いた。


「……礼を言われることじゃない」


 リナは少しだけ笑った。


「そうかもしれないね」


 彼女は札を布で包み、鞄へしまった。


 そして、礼拝堂を後にした。


          ◇ ◇ ◇


 リナが大神殿へ戻ってきたのは、夕方になる少し前だった。


 俺は入口で彼女を待っていた。


 姿を見つけた瞬間、胸の奥にあった緊張が少しだけ緩んだ。


「……おかえり」


「ただいま」


 リナは笑った。


 でも、俺の表情を見て、すぐに気づいたらしい。


「……何かあった?」


「うん」


 俺はディンから受け取った文書を見せた。


 リナは黙って読み進めた。


 読み終えた頃には、表情が険しくなっていた。


「……私が拒否したら、レンを確保する?」


「そう書いてある」


「……何それ」


「俺も同じこと思った」


 リナは文書を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 俺は彼女の返事を待った。


 今度は、勝手に答えを出さない。


 リナはやがて顔を上げた。


「……レン」


「何?」


「私、今日シオンに会ってきた」


「うん」


「そこで、これを渡された」


 リナは鞄から布に包んだ黒い札を取り出した。


 俺は息を止めた。


「……何それ?」


「育成者補助の登録を止められるかもしれない札」


「……本当?」


「分からない。でも、シオンはそう言ってた」


 リナは札を俺へ見せた。


【選択権:保留】


 俺は眉を寄せた。


「……条件は?」


 リナは少しだけ笑った。


「レンなら、そう聞くと思った」


 そして、シオンから聞いたことを説明した。


 札を使えば、リナの育成者候補としての照合を止められる可能性がある。


 ただし、俺との接続にも影響が出るかもしれない。


 どこまで影響するのかは分からない。


 俺は黙って聞いた。


 話を聞き終えると、しばらく考えた。


「……リナ」


「うん」


「使わなかったんだね」


「うん」


「どうして?」


 リナは俺を見つめた。


「レンに関わることだから」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「……そっか」


「私のことは私が決める。でも、レンのことまで勝手に決めたくない」


 俺は頷いた。


「……ありがとう」


 リナは首を横に振った。


「まだ、何も解決してないよ」


「うん」


「だから、一緒に考えたい」


 俺は笑った。


「もちろん」


 その時。


『レン』


 ノアの声が響いた。


「何?」


『その札について、確認したいことがあります』


「何?」


『表面の文字を、もう一度見せてください』


 俺はリナへ事情を説明し、札を近づけた。


 ノアはしばらく黙っていた。


 そして。


『……これは、旧育成管理機構のものではありません』


 俺は眉を寄せた。


「……え?」


『少なくとも、我々が確認した旧記録とは構造が異なります』


「じゃあ、何?」


 ノアは少しだけ間を置いた。


『……別の系統です』


 俺は息を止めた。


 別の系統。


 育成管理機構とは違う仕組み。


 シオンが持っていた札。


 そして。


 俺たちへ迫る、本部の命令。


「……シオンは、何を知ってるんだ?」


 俺が呟くと、リナは札を見つめた。


「……分からない」


 でも。


 今度は、俺たち二人で考えられる。


 それだけは、昨日までと違っていた。


          ◇ ◇ ◇


 その夜。


 職業管理院本部の地下で、セドリックは円形装置を見つめていた。


 装置には、赤い文字が浮かんでいる。


【育成課題:裏切り】


【対象者:リナ】


【保護対象:第109代育成対象】


【選択条件:一方のみ選択可能】


 その下に、新しい項目が現れた。


【選択開始まで】


【残り一日】


 セドリックは静かに笑った。


「……順調ですね」


 背後の男が答えた。


「まだだ」


「……まだ?」


「ああ」


 男は装置へ近づいた。


「彼女は、まだ自分の意思で選んでいない」


 セドリックは首を傾げた。


「ですが、札を使わないという選択をしました」


「それは準備にすぎない」


 男は低い声で続けた。


「本当の選択は、逃げ道がなくなった時に現れる」


 セドリックは微笑んだ。


「……なるほど」


 装置の文字が変わった。


【育成課題:裏切り】


【最終段階:準備完了】


【対象者:リナ】


【選択条件:確定】


 そして。


 最後に、一つの項目が追加された。


【選択期限:明日、日没】


 男はその文字を見つめ、静かに呟いた。


「さて」


 装置の奥で、低い音が響いた。


「彼女は、誰を裏切るのだろうな」

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