神託ログ13『信じるための距離』
翌朝、俺はリナに置いていかれた。
正確には、置いていかれたというより、起こしてもらえなかった。
いつもなら朝食の時間になると、リナが部屋の扉を叩いてくれる。俺が寝坊していると分かれば、遠慮なくもう一度叩くし、それでも返事がなければ、最終的にはガルドが頭の中で怒鳴り始める。
ところが、今日は誰も起こしてくれなかった。
目を覚ました時には、窓から差し込む日差しがすっかり高くなっていた。
「……あれ?」
俺は寝台から起き上がり、部屋の隅に置いた時計を見る。
朝食の時間は、とっくに過ぎていた。
「……終わった」
『何が終わったのですか?』
ノアが尋ねてきた。
「俺の朝食」
『食堂には保存食があります』
「そういう問題じゃないんだよ!」
『では、どういう問題でしょうか』
「朝起きたら、みんなで朝ご飯を食べるっていう、あの平和な時間が終わったんだよ!」
『睡眠時間の管理を改善すれば、明日から再開できます』
「正論で殴らないで!」
俺は慌てて着替えを済ませ、食堂へ向かった。
そこには、すでに食事を終えたらしいリナがいた。
彼女は窓際の席に座り、一枚の紙を読んでいる。
「リナ!」
俺が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「あ、おはよう」
「おはようじゃないよ! 何で起こしてくれなかったの!?」
「気持ちよさそうに寝てたから」
「優しさの方向が違う!」
リナは小さく笑った。
いつもの笑顔だった。
でも、その笑顔を見た瞬間、昨日のことを思い出した。
シオンとの約束。
管理院の記録。
育成者候補。
そして、俺に話せない秘密。
昨日、俺たちは少しだけ本音を話した。
それで全部が解決したわけじゃない。
でも、だからといって、朝から気まずい顔をしていたくもなかった。
「……何読んでるの?」
俺が尋ねると、リナは紙を裏返した。
「ちょっとした資料」
「管理院の?」
「うん」
俺は一瞬だけ迷った。
聞いていいのか。
それとも、聞かない方がいいのか。
昨日、俺はリナの意思を尊重すると決めた。
だから、彼女が話したくないことを無理に聞くつもりはない。
「……そっか」
俺は頷き、食堂の奥へ向かった。
保存食のパンを受け取り、スープを温めてもらう。
席へ戻ると、リナはまだ資料を見ていた。
俺は何も聞かず、パンをちぎった。
そのまま、しばらく沈黙が続く。
……気まずい。
いや、気まずくない。
気まずくないはずだ。
俺たちは普通に朝食を食べている。
ただ、会話がないだけ。
それだけなのに。
「……レン」
リナが口を開いた。
「何?」
「何か聞きたいことある?」
俺はパンを持ったまま固まった。
「……ある」
「じゃあ、聞けばいいのに」
「いや、でも」
「でも?」
「昨日、無理に聞かないって決めたし」
リナは少し驚いたように目を丸くした。
そして、呆れたように笑った。
「レンって、極端だよね」
「え?」
「無理に聞かないことと、何も聞かないことは違うでしょ」
俺は言葉に詰まった。
……確かに。
「聞かれたくないことなら、そう言うよ」
「……なるほど」
「だから、普通に話して」
リナはそう言って、資料を畳んだ。
俺は少し考えた。
それから。
「……昨日のこと、怖くない?」
リナはすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向け、少しだけ考える。
「……怖いよ」
その声は、思っていたより静かだった。
「自分の職業が、勝手に変えられそうになってたんだもん」
「……うん」
「しかも、私が選んだ名前なのに」
リナは自分の胸に手を置いた。
「私、狩剣士だった頃の自分が嫌いだったわけじゃないんだよ」
俺は顔を上げた。
「……そうなの?」
「うん。剣を使えるようになったのも、いろんな人を守れたのも、あの職業があったからだと思う」
リナは少し笑った。
「でも、だからって、ずっと狩剣士でいなきゃいけないわけじゃないでしょ」
「……うん」
「だから、自分の名前を選んだ」
彼女は俺を見つめた。
「レンがブレイカーって名前を選んだのと、少し似てるかもしれない」
俺は頷いた。
俺も、自分の力をどう呼ぶかを選んだ。
誰かに与えられた名前ではなく、自分で決めた。
それが、思っていた以上に大切だった。
「……だから、勝手に変えられるのは嫌だ」
リナははっきりと言った。
「たとえ、それがレンを助けるための職業だったとしても」
俺は何も言えなかった。
でも、少しだけ嬉しかった。
リナが、自分の意思を言葉にしてくれたことが。
「……俺も嫌だよ」
俺が言うと、リナは首を傾げた。
「何が?」
「リナが、俺の補助っていう職業になるの」
「……何で?」
「だって、リナはリナだし」
俺は少し考えた。
「俺を助ける時もあれば、怒る時もあるし、俺より先に決めることもあるし」
「……うん」
「それを全部まとめて、俺の補助って呼ぶのは違うと思う」
リナはしばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ありがとう」
小さく笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。
ただ。
胸の奥には、まだ小さな不安が残っていた。
シオンとの約束。
リナが話せないこと。
それが何なのかは、まだ分からない。
でも、今は。
それでもいいと思った。
◇ ◇ ◇
朝食を終えた俺たちは、大神殿の中庭へ向かった。
今日はソラの訓練を見に行く予定だった。
昨日、ソラは落ち葉を二枚同時に浮かせることに成功した。
ただし、その直後に右腕へ【育成進行:確認】という表示が現れた。
そのため、今日は力を使う訓練ではなく、身体の感覚を確かめる練習を行うことになっている。
中庭へ着くと、ソラがアリアと一緒に待っていた。
「レン!」
「おはよう、ソラ」
「今日は寝坊?」
「……何で知ってるの?」
「リナが言ってた」
俺はリナを見た。
彼女は涼しい顔をしている。
「情報漏洩!」
「事実だから」
「神殿の情報管理どうなってるの!?」
ソラが笑った。
アリアも口元を押さえている。
……まあ、いいか。
ソラが笑っているなら、それでいい。
今日の訓練は、目を閉じて周囲の音や風を感じるというものだった。
ソラの力は、物を浮かせたり、動かしたりする。
ただ、その仕組みはまだ分かっていない。
セレナによれば、魔法とは違う可能性が高いらしい。
だからこそ、いきなり力を強くするのではなく、自分の身体と周囲の変化を意識することから始めるのだという。
「……難しそう」
ソラが呟いた。
「大丈夫。俺もやるから」
「本当?」
「うん」
俺はソラの隣に座った。
目を閉じる。
風が頬を撫でる。
遠くで鳥が鳴いている。
神殿の廊下を歩く足音。
そして。
『レン、姿勢が悪い』
「……ガルド」
『背筋を伸ばせ』
「今、集中してるんだけど」
『集中してるなら姿勢も意識しろ』
「神様の声が一番邪魔なんだけど!」
ソラが笑った。
俺も笑った。
でも、次の瞬間。
『レン』
セレナの声が、少しだけ変わった。
「……何?」
『ソラの周囲に、微かな反応があるわ』
俺は目を開けた。
ソラはまだ目を閉じている。
風が吹いている。
落ち葉が揺れている。
でも。
ソラの周囲だけ、何かが違った。
空気が、少しだけ歪んでいるように見える。
「……ソラ?」
「……うん?」
「何か感じる?」
ソラは目を閉じたまま答えた。
「……誰かが、見てる」
俺の背中が冷たくなった。
「……誰が?」
「分からない」
ソラは眉を寄せた。
「でも、昨日からずっと」
俺は息を止めた。
昨日から?
育成進行が確認された時から?
「……怖い?」
俺が尋ねると、ソラは少し考えた。
「……うん」
そして。
「でも、逃げたくない」
その言葉に、俺は驚いた。
ソラはゆっくり目を開けた。
「私、自分のことを知りたい」
「……うん」
「でも、誰かに勝手に決められるのは嫌」
俺は頷いた。
リナと同じだ。
自分のことは、自分で決めたい。
それは、きっと当たり前のことだ。
「……分かった」
俺はソラの隣に座り直した。
「じゃあ、今日は何もしない」
「……え?」
「力を使う練習は、いったん休み」
ソラが少し驚いたように俺を見る。
「でも、練習したい」
「うん。だから、練習する前に、何が起きてるのか調べよう」
俺は笑った。
「勝手に見られてるなら、まずは誰が見てるのか確認しないと」
ソラは少し考えた。
そして、頷いた。
「……うん」
その時だった。
『待ちなさい』
セレナの声が響いた。
俺は顔を上げた。
「……何?」
『今の判断には反対よ』
俺は驚いた。
「……え?」
セレナが、俺の判断に反対する?
もちろん、今までも怒られたり、文句を言われたりしたことはある。
でも、今回は声の調子が違った。
真剣だった。
『ソラは、自分の力を知りたいと言っている』
「……うん」
『それなのに、あなたは危険だからという理由で練習を止めた』
「でも、誰かに見られてるかもしれないんだよ?」
『だからこそ、本人に選ばせるべきでしょう』
俺は言葉に詰まった。
セレナは続けた。
『あなたは、ソラを守ろうとしている。でも、その守り方が、本人の意思を奪っていないかしら?』
胸に刺さった。
俺はソラを見た。
彼女は少し困ったような顔をしている。
「……ソラ」
「うん」
「ごめん。俺、勝手に決めた」
ソラは首を傾げた。
「……うん?」
「練習するかどうか、ソラが決めていい」
俺は少し考えた。
「ただ、今は誰かに見られてる可能性がある。それが危険かどうかも分からない」
「……うん」
「それを知った上で、どうしたい?」
ソラはしばらく考えた。
そして。
「……少しだけ、やってみたい」
俺は頷いた。
「分かった」
セレナが静かに言った。
『それでいいわ』
俺は少しだけ苦笑した。
「……神様って、厳しいね」
『あなたが勝手に決めるからでしょう』
「はい……」
リナが笑った。
「レン、昨日の今日なのに」
「本当にそれ!」
俺は頭を抱えた。
自分では気をつけているつもりなのに。
気づくと、また誰かの代わりに決めようとしている。
……難しい。
◇ ◇ ◇
訓練は、短い時間だけ続けることになった。
ソラが自分で決めた範囲で、落ち葉を一枚だけ浮かせる。
異常があれば、すぐに中止する。
俺たちはその条件を確認した。
ソラは深呼吸し、目の前の葉を見つめた。
葉が、ゆっくり浮き上がる。
指一本分。
昨日と同じ高さ。
そのまま、静かに止まった。
「……できた」
ソラが小さく呟いた。
俺は笑った。
「うん」
でも。
次の瞬間。
ソラの右腕の黒い線が、淡く光った。
俺は息を止めた。
「……ソラ」
彼女も気づいたらしい。
袖をまくる。
そこには、昨日と同じ文字が浮かんでいた。
【育成進行:確認】
ただし。
今日は、その下に新しい項目があった。
【育成者候補:照合中】
俺は眉を寄せた。
「……また?」
ノアが静かに言った。
『昨日より、処理が進んでいます』
「……どういうこと?」
『育成者候補の照合が開始されています』
俺はソラを見た。
彼女は不安そうに腕を見つめている。
「……私、何かした?」
「いや」
俺は首を横に振った。
「ソラは何も悪くない」
でも。
その言葉だけでは、もう足りない。
俺は右手を握った。
ブレイカー。
この接続を切れるかもしれない。
でも、切っていいのか?
何が繋がっているのか分からない。
昨日、トーマの父親が怪我をした時、俺は何を切るのか分からないまま力を使った。
同じ失敗はしたくない。
「……ノア」
『はい』
「この照合、止められる?」
『現時点では不明です』
「……そっか」
俺は少し考えた。
そして。
「ソラ」
「……うん」
「今、誰かがソラを育成者候補として調べてるみたい」
ソラが目を見開いた。
「……私が?」
「うん。でも、誰の育成者になるのかも、どういう意味なのかも分からない」
俺は続けた。
「もし嫌なら、止める方法を探す」
ソラは少し考えた。
「……止められる?」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、探す」
ソラは俺を見つめた。
そして。
「……じゃあ、止めたい」
俺は頷いた。
「分かった」
その時。
セレナが口を開いた。
『レン。今回は私が調べるわ』
「……え?」
『あなたが何でも壊す必要はないでしょう』
俺は少し驚いた。
セレナは続けた。
『魔法とは違う仕組みかもしれない。でも、力の流れを観察することはできる』
「……うん」
『だから、今は任せなさい』
俺は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
『礼は結果が出てからにしなさい』
いつものセレナだった。
少し偉そうで。
でも、頼りになる。
俺は右手の力を抜いた。
全部、自分で何とかしなくていい。
それも、七柱が教えてくれたことだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
俺は一人で大神殿の廊下を歩いていた。
ソラの右腕に現れた表示は、セレナの観察が終わる頃には消えていた。
ただし、育成者候補の照合が何を意味するのかは、まだ分からない。
俺は考えながら歩いていた。
リナ。
ソラ。
トーマ。
みんな、自分で選ぼうとしている。
それなのに。
誰かが、勝手に育成者を決めようとしている。
何のために?
誰が?
そして、なぜ俺たちなのか。
「……分からん」
俺は小さく呟いた。
『考えすぎだ』
ガルドが言った。
「いや、考えないと駄目でしょ」
『考えるのはいい。だが、飯を食え』
「……え?」
『昼から何も食ってないだろ』
俺は少し考えた。
……確かに。
「神様って、そういうのも分かるの?」
『腹の音がうるせえ』
「俺の腹の音まで聞こえるの!?」
『聞こえる』
「プライバシー!」
ガルドが笑った。
俺も笑った。
その時。
廊下の向こうから、リナが歩いてきた。
彼女は俺を見ると、少しだけ足を止めた。
「レン」
「お、リナ」
「ちょっと話せる?」
俺は頷いた。
「もちろん」
リナは少し考えた。
そして。
「……明日、出かけたい場所があるの」
「どこ?」
「町の外」
俺は眉を寄せた。
「……何しに?」
リナはすぐには答えなかった。
その沈黙に、嫌な予感がした。
「……シオン?」
俺が尋ねると、リナはゆっくり頷いた。
「……うん」
俺は息を止めた。
また、シオン。
でも、今回はリナが自分から話してくれた。
それが、少しだけ嬉しかった。
「……一人で?」
俺が聞くと、リナは頷いた。
「うん」
「危なくない?」
「分からない」
正直な答えだった。
俺は少し考えた。
行くなと言いたい。
危ないから。
シオンが何を考えているか分からないから。
でも。
それを言ったら、また同じだ。
リナの代わりに決めることになる。
「……分かった」
俺は頷いた。
「気をつけて」
リナは少し驚いたようだった。
「……止めないの?」
「止めたいけど」
俺は苦笑した。
「リナが決めたんでしょ?」
「……うん」
「だったら、信じる」
リナはしばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ありがとう」
小さく笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。
でも。
胸の奥には、まだ不安が残っていた。
信じること。
それは、相手を自由にすることなのか。
それとも。
危険だと分かっていても、見送ることなのか。
俺には、まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
町外れの古い礼拝堂で、シオンは一枚の紙を見つめていた。
紙には、リナの名前が記されている。
【名称:リナ】
【職業:リナ】
【育成者候補:照合中】
その下には、別の文字があった。
【接続対象:第109代】
シオンは小さく息を吐いた。
「……やはり、そうか」
背後から、ミアが声をかけた。
「……どうするの?」
シオンは振り返らなかった。
「明日、本人に話す」
「全部?」
その問いに、シオンは少しだけ黙った。
そして。
「……必要なことは」
ミアは眉を寄せた。
「それ、全部じゃないよね」
シオンは答えなかった。
ミアは続けた。
「あなた、また同じことするつもり?」
シオンの手が止まる。
「……何がだ」
「守るために、言わない」
礼拝堂が静かになった。
ミアはシオンを見つめた。
「それで、前はどうなったの?」
シオンは何も言わなかった。
ただ、左腕の袖を握った。
その下には、消えない文字がある。
【育成者資格:剥奪】
ミアは静かに言った。
「……今度は、本人に決めさせて」
シオンは長い沈黙の後、ようやく頷いた。
「……分かっている」
しかし、その声には、どこか迷いが残っていた。
◇ ◇ ◇
職業管理院本部。
地下の円形装置には、赤い文字が浮かんでいた。
【育成課題:裏切り】
【対象者:リナ】
【保護対象:第109代育成対象】
【選択条件:一方のみ選択可能】
セドリックはその表示を眺め、静かに微笑んだ。
「……順調ですね」
背後の男が答える。
「まだだ」
「……まだ?」
「ああ」
男は装置へ近づいた。
「彼女は、まだ何も失っていない」
セドリックは首を傾げた。
「ですが、信頼関係には亀裂が生じています」
「亀裂だけでは足りない」
男は低い声で続けた。
「選ばせろ」
「……何を?」
「自分の意思か、他人の安全か」
セドリックは少しだけ笑った。
「……なるほど」
装置の文字が変わった。
【選択開始まで】
【残り二日】
そして。
【対象者:リナ】
【選択拒否時】
【第109代育成対象への強制接続を実行】
セドリックの笑みが深くなる。
「……素晴らしい」
男は静かに呟いた。
「自由を望む者ほど、選択に苦しむ」
装置の奥で、微かな音が響いた。
まるで。
誰かが、次の答えを待っているようだった。




