神託ログ12『信じていたから、言わなかった』
トーマの工房に現れた男が姿を消してから、俺はしばらく、その場を動けなかった。
夕暮れの光が作業場の床へ斜めに差し込み、削りかけの木材や散らばった道具の影を長く伸ばしている。昼間なら木を削る音や職人たちの声が響いているはずの場所は、今は妙に静かだった。
男が残した言葉だけが、頭の中にこびりついている。
『非常に良い育成課題でした』
トーマの父親が怪我をした。
工房の仕事が止まりかけた。
トーマは自分の力を使うことに、もう一度恐怖を覚えた。
俺は、何を切るのか分からないままブレイカーを使ってしまった。
それらを全部まとめて、あの男は「良い育成課題」だと言った。
ふざけている。
誰かの苦しみを勝手に採点して、成長しただの、次の段階だの。
そんなもの、認められるわけがない。
「……レン」
隣からトーマの声がした。
振り向くと、彼は父親の作業台に手を置いていた。表情には怒りが残っていたが、それ以上に疲れが見えた。
「さっきの男、また来ると思うか?」
「分からない。でも、来る可能性はあると思う」
「……そうか」
トーマは作業台の上に置かれた椅子の脚を見つめた。
「親父が怪我したのも、俺たちが悩んでるのも、全部あいつらには都合がいいんだな」
「少なくとも、あいつらはそう考えてる」
「最悪だな」
「うん」
俺は頷いた。
その時、リナが工房の入口から戻ってきた。
彼女は男が消えた場所を調べていたのだが、手には何も持っていなかった。
「外には誰もいなかったよ。通りの人にも聞いてみたけど、灰色の服の男を見た人はいないって」
「……やっぱり普通の人間じゃないのかな」
「分からない。ただ、姿を消す前に足元へ黒い線が広がったのは、私にも見えた」
リナはそう言ってから、俺の右手へ視線を落とした。
「レン、さっきブレイカーを使わなかったね」
「……うん」
「どうして?」
「何を切るのか分からなかったから」
俺は少し間を置いた。
「それに、怒って使ったら、また間違える気がした」
リナは静かに頷いた。
「そっか」
「……何?」
「ううん。ちゃんと考えて止まれたんだなって」
その言葉を聞いても、素直には喜べなかった。
男を逃がした。
手がかりを失った。
俺が慎重になったせいで、また誰かが傷つくかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったからだ。
『レン』
エリオスが呼びかけてきた。
『今の判断が正しかったかどうかは、まだ分からない』
「……うん」
『だが、判断の根拠を持てたことには意味がある』
俺は小さく息を吐いた。
正しいかどうかは分からない。
それでも、選ばなければならない。
最近、そんなことばかりだ。
「とりあえず、レグルさんに報告しよう」
俺が言うと、トーマが顔を上げた。
「俺も行く」
「工房は?」
「今日はもう片づける。親父にも報告しないといけないしな」
「……分かった」
俺たちは工房の戸締まりを確認し、職業管理院へ向かうことにした。
その時だった。
リナが、ふいに立ち止まった。
「……レン」
「ん?」
「先に行ってて」
「どうした?」
「ちょっと確認したいことがある」
「何を?」
リナは一瞬だけ迷ったように見えた。
けれど、すぐに笑顔を作った。
「すぐ追いつくから」
俺は彼女を見つめた。
何か隠している。
そんな気がした。
でも、リナがそう言うなら、理由があるのだろう。
「……分かった。気をつけて」
「うん」
リナは頷き、通りの向こうへ歩いていった。
俺はその背中を見送った。
今思えば。
あの時、もう少し話を聞くべきだったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
職業管理院へ到着すると、レグルはすぐに面会へ応じてくれた。
ただし、話を聞いた彼の表情は、これまでになく険しかった。
「……補償申請用の認証板、だと?」
「はい。そう言ってました」
「本部から直接来たとも?」
「はい」
レグルは机の上へ手を置いた。
「そのような申請制度は存在しない」
「……やっぱり」
「少なくとも、性質保有者に認証板を使用させる補償制度など、私は聞いたことがない」
トーマが顔をしかめた。
「じゃあ、最初から俺たちを騙すつもりだったのか」
「可能性は高い」
レグルは頷き、ディンへ指示を出した。
「本部監察局の派遣記録を確認しろ。昨日から今日にかけて、この地域へ入った者をすべて洗い出す」
「承知しました」
ディンが部屋を出ていく。
俺はレグルへ向き直った。
「あと、あの男が変なこと言ってました」
「何だ?」
「昨日の事故を、育成課題だって」
レグルの手が止まった。
「……育成課題?」
「はい。喪失を経験すると人は成長する、みたいなことを」
レグルはしばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「それは、記録に残す必要がある」
「どうして?」
「育成管理制度に関する古い資料の中に、似た表現がある」
俺は身を乗り出した。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、資料そのものは断片的だ。育成対象に試練を与えることで進行度を測定する、という記述がある」
「……試練」
「当時の運用方法までは分からない。だが、現在それを意図的に再現している者がいるなら、重大な問題だ」
レグルはそこで言葉を切った。
「レン。一つ確認したい」
「何ですか?」
「昨日の事故が、意図的に引き起こされた可能性はあると思うか?」
俺はすぐには答えられなかった。
荷車が倒れた。
馬が暴れた。
縄が絡まった。
トーマが力を使い、車輪が外れた。
俺がブレイカーを使い、荷台の一部が崩れた。
あの男は、観察していただけだと言った。
でも、それが本当かどうかは分からない。
「……分かりません」
俺は正直に答えた。
「ただ、偶然起きた事故を利用した可能性もあると思います」
「そのとおりだ」
レグルは頷いた。
「現段階で、彼らが事故を起こしたと断定してはいけない」
「はい」
「だが、事故の結果を利用しようとしていることは、発言から疑われる」
俺は頷いた。
この人は、いつも慎重だ。
正直、少し面倒だと思う時もある。
でも、今はその慎重さがありがたかった。
俺は怒っている。
だからこそ、怒りだけで結論を出したくなかった。
「……ところで」
レグルが俺たちを見回した。
「リナはどうした?」
「ああ、ちょっと確認したいことがあるって」
「確認?」
「すぐ追いつくって言ってました」
レグルの眉がわずかに動いた。
「……そうか」
その反応が気になった。
「何か?」
「いや」
レグルは首を横に振った。
「ただ、今日は彼女に確認したいことがあった」
「リナに?」
「ああ」
「何を?」
レグルは少し考えた。
そして。
「……本人が来てから話そう」
俺は首を傾げた。
何だろう。
嫌な予感がした。
◇ ◇ ◇
リナが管理院へ戻ってきたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
俺とトーマは、レグルの部屋で資料を確認していた。
扉が開き、リナが姿を見せる。
「遅くなってごめん」
「おかえり」
俺は笑って迎えた。
でも。
彼女の表情を見た瞬間、何かがおかしいと感じた。
いつものリナなら、遅くなった理由を軽く説明するか、冗談を言って笑う。
今日は違った。
俺の顔を見て、一度だけ視線を逸らした。
「……リナ?」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
そう答えた声が、少し硬かった。
レグルが立ち上がった。
「リナ。話がある」
「……はい」
リナは驚かなかった。
まるで、そう言われることを予想していたみたいだった。
レグルは机の上へ一枚の書類を置いた。
「本部監察局から、君に関する照会が届いている」
俺は目を見開いた。
「……リナに?」
「ああ」
レグルは続けた。
「昨日の時点で、君の職業記録に異常が確認された」
リナは黙っていた。
「正式な職業分類が存在せず、代わりに個人名が登録されている」
俺は思わず口を挟んだ。
「それ、前からですよ」
「承知している」
レグルは頷いた。
「問題は、その記録に新しい照会履歴が残っていたことだ」
「照会履歴?」
「ああ」
レグルはリナを見た。
「昨夜、君自身が職業管理院の端末へアクセスしている」
部屋が静かになった。
俺はリナを見た。
「……え?」
リナは何も言わなかった。
「昨日、管理院に来たの?」
俺が聞くと、リナはゆっくり頷いた。
「……うん」
「何で?」
少し間があった。
リナは自分の手を握った。
「調べたいことがあったから」
「何を?」
「……私の職業のこと」
俺は言葉に詰まった。
職業。
リナ。
彼女は以前、自分でその名前を選んだ。
神様や制度に与えられた役割ではなく、自分自身として生きるために。
その記録を、今になって調べていた?
「……俺に言ってくれれば」
そこまで言って、俺は口を閉じた。
リナは俺を見つめた。
「レン」
「……何?」
「私、自分で調べたかったの」
その声は静かだった。
でも、はっきりしていた。
「レンに聞いたら、きっと一緒に調べてくれたと思う」
「……うん」
「でも、それだと、またレンに頼ることになる」
俺は何も言えなかった。
「私のことなのに」
リナは少しだけ笑った。
「私、自分で決めたかった」
その言葉が、胸に刺さった。
俺はずっと、リナの意思を尊重しているつもりだった。
でも。
彼女が自分で何かを選ぼうとした時、俺は当然のように一緒にいると思っていた。
それが、彼女にとって負担になることもある。
「……そっか」
俺は頷いた。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
リナは首を横に振った。
「レンが悪いわけじゃない」
その言葉に少し安心しかけた。
でも。
レグルが口を開いた。
「問題は、それだけではない」
俺たちは顔を上げた。
「リナ。君がアクセスした記録には、通常の閲覧権限では開けない領域が含まれていた」
リナの表情が変わった。
「……はい」
「誰に案内された?」
沈黙。
俺はリナを見た。
「……案内?」
リナはしばらく俯いていた。
そして。
「……シオン」
その名前を口にした。
俺の心臓が強く鳴った。
「……シオン?」
黒髪の男。
神々に管理されることを拒む者。
トーマやミアに接触し、職業管理院とも対立している。
あの男が。
リナに?
「……いつ?」
俺が聞くと、リナは答えた。
「昨日の夜」
「何で?」
「……会いたいって言われたから」
俺は息を止めた。
リナは続けた。
「私の職業記録について、知っていることがあるって」
俺は何も言えなかった。
シオン。
あの男は、俺たちへ何かを隠している。
でも、敵だと決めつけることもできない。
だからこそ、余計に怖かった。
「……何を聞いた?」
俺が尋ねると、リナは首を横に振った。
「全部は話せない」
その瞬間。
胸の奥が冷たくなった。
「……何で?」
リナは俺を見つめた。
「約束したから」
「誰と?」
「シオンと」
俺は言葉を失った。
約束。
俺に話さないという約束。
それを、シオンと?
「……俺より、シオンとの約束が大事?」
口にした瞬間、後悔した。
リナの表情が変わったからだ。
悲しそうだった。
でも、それ以上に。
少し怒っていた。
「……そういう話じゃない」
「……ごめん」
「レン」
リナは一歩近づいた。
「私が誰と何を話すか、全部レンに報告しないと駄目?」
俺は答えられなかった。
「レンは、私のことを信じてくれてると思ってた」
「信じてるよ」
「だったら」
リナは少しだけ声を強くした。
「私が自分で決めることも、信じてほしい」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は俯いた。
正しい。
リナの言っていることは、正しい。
でも。
怖かった。
シオンが何を考えているのか分からない。
リナが何を聞いたのかも分からない。
そして、俺に話せないことがある。
それが。
こんなにも怖いとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
沈黙を破ったのは、レグルだった。
「リナ。君の意思を尊重することと、管理院の記録へ不正にアクセスした疑いを調べることは別だ」
リナが顔を上げた。
「……はい」
「君が何を調べたかったのかは理解した。だが、誰がどの権限で端末を開いたのかは確認する必要がある」
「分かっています」
「シオンが案内したと言ったな」
「はい」
「彼は現在、管理院の正式な職員ではない」
レグルは書類へ目を落とした。
「それにもかかわらず、君が開いた領域には、旧育成管理記録の一部が含まれていた」
俺は顔を上げた。
「……旧育成管理記録?」
「ああ」
「リナの職業と、育成管理制度が関係あるんですか?」
「まだ分からない」
レグルは首を横に振った。
「だが、記録を開いた者が何を見たのかは確認したい」
リナは少しだけ迷った。
そして。
「……見たものは、話せます」
俺は彼女を見た。
「本当?」
「うん」
リナは頷いた。
「ただし、シオンが話したことは、まだ言えない」
レグルはしばらく考えた。
「分かった。まずは君自身が確認した事実だけを聞こう」
リナは深呼吸した。
「……私の職業記録には、最初から『リナ』って書かれていたわけじゃありません」
俺は息を止めた。
「……え?」
「前の職業記録が残ってた」
狩剣士。
以前のリナに与えられていた職業。
その記録が残っていること自体は、不思議じゃない。
でも。
リナは続けた。
「その記録の下に、別の項目があったの」
「……何?」
リナは俺を見つめた。
「育成者候補」
部屋が静かになった。
俺は何も言えなかった。
「……私も、候補になってた」
その言葉が、ゆっくり頭の中へ入ってくる。
リナが。
育成者候補?
俺を育てる側に?
それとも、別の誰かを?
「……誰の?」
俺が聞くと、リナは首を横に振った。
「分からない。名前は表示されてなかった」
ノアが静かに言った。
『レン。育成者候補という表示だけでは、対象との関係は確定できません』
「……うん」
分かってる。
分かってるけど。
嫌な予感がした。
リナは続けた。
「それから、もう一つ」
「……何?」
彼女は少しだけ唇を噛んだ。
「私の職業記録に、変更申請が出てた」
レグルの表情が変わった。
「変更申請?」
「はい」
「誰が?」
リナは答えた。
「……本部監察局」
俺の背中に冷たいものが走った。
セドリック。
あいつらが。
リナの職業を?
「……何に変えるつもりなんだ?」
俺が聞くと、リナは俯いた。
「……分からない」
「分からない?」
「申請内容は、まだ開けなかった」
レグルがすぐに立ち上がった。
「確認する」
彼は机の端末へ向かい、職員用の認証板を取り出した。
いくつかの文字が浮かぶ。
レグルの表情が険しくなる。
「……確かに申請がある」
「何て?」
俺が尋ねる。
レグルは画面を見つめた。
「職業記録の再分類申請だ」
「再分類?」
「ああ」
「誰の?」
レグルはゆっくり答えた。
「リナだ」
俺は息を止めた。
リナの職業。
彼女が自分で選んだ名前。
それを。
誰かが勝手に変えようとしている?
「……止められますか?」
俺が聞くと、レグルは頷いた。
「申請段階なら、異議申し立てができる」
「じゃあ、すぐに!」
「待って」
リナが口を開いた。
俺は振り向いた。
「……リナ?」
「私が決める」
その言葉に、俺は黙った。
リナはレグルを見た。
「その申請、私自身が確認できますか?」
「可能だ。ただし、本人確認が必要になる」
「分かりました」
リナは頷いた。
「じゃあ、私が見ます」
俺は彼女の横顔を見つめた。
さっきまでなら、俺が何とかしようとしていたかもしれない。
ブレイカーで切れるなら、切ってしまおうと考えたかもしれない。
でも。
これは、リナのことだ。
俺が勝手に決めていいわけじゃない。
「……分かった」
俺は一歩下がった。
「リナが決めて」
彼女は少しだけ驚いたようだった。
そして。
「……ありがとう」
小さく笑った。
◇ ◇ ◇
本人確認には、職業記録の照合が必要だった。
レグルが端末を操作し、リナが認証板へ手を置く。
淡い光が広がる。
【名称:リナ】
【職業:リナ】
【再分類申請:審査中】
俺は息を止めた。
レグルが操作を続ける。
申請内容が開かれる。
【再分類先】
【育成者補助】
俺は眉を寄せた。
「……育成者補助?」
レグルも困惑していた。
「聞いたことのない分類だ」
リナは画面を見つめたまま動かなかった。
さらに文字が現れる。
【対象:第109代育成対象】
俺のことだ。
リナが。
俺の育成者補助に?
「……何これ」
思わず呟いた。
レグルは首を横に振った。
「分からない。ただし、正式な職業分類として登録された記録はない」
リナが静かに尋ねた。
「これを拒否できますか?」
「ああ。本人の意思による異議申し立てが可能だ」
「じゃあ、拒否します」
即答だった。
俺はリナを見た。
彼女は迷っていなかった。
「私は、誰かの補助になるために自分の名前を選んだんじゃない」
その声は静かだった。
でも、はっきりしていた。
「レンを助けたい時は助ける。でも、それを職業にされるのは違う」
俺は何も言えなかった。
リナは続けた。
「私がレンの隣にいるのは、そうしたいから」
その言葉が、胸に響いた。
俺は小さく頷いた。
「……うん」
レグルが端末を操作する。
【本人異議申し立て】
【申請:受理】
【再分類処理:一時停止】
リナは息を吐いた。
「……よかった」
俺も少しだけ安心した。
でも。
その直後だった。
端末の表示が突然変わった。
【育成者候補:照合中】
レグルの手が止まる。
「……何だ?」
【候補者:リナ】
【対象:第109代育成対象】
俺は目を見開いた。
「……おい」
【候補者の意思確認】
リナが一歩下がる。
「……これ、何?」
レグルがすぐに操作を止めようとした。
だが、画面は変わらない。
【育成者登録を実行しますか】
【承認/拒否】
リナは画面を見つめた。
俺も見つめた。
承認。
拒否。
選択肢がある。
でも。
それを選ぶのは、俺じゃない。
リナだ。
「……リナ」
俺が呼ぶと、彼女は頷いた。
「分かってる」
そして。
迷わず、拒否を選んだ。
【登録拒否】
【処理中止】
光が消えた。
部屋に静寂が戻る。
俺は大きく息を吐いた。
「……よかった」
リナも頷いた。
「うん」
でも。
レグルだけは、端末を見つめたままだった。
「……おかしい」
「何が?」
俺が尋ねる。
レグルは低い声で答えた。
「この処理は、職業再分類とは別の仕組みで動いている」
「……別?」
「ああ」
彼は画面を指した。
「異議申し立てで再分類を止めた直後に、育成者登録の処理が起動した」
俺は眉を寄せた。
「つまり?」
「誰かが、二つの経路を用意していた可能性がある」
俺の背中が冷たくなった。
職業として登録する。
それが駄目なら、育成者として登録する。
どちらにしても。
リナを、俺に結びつけようとしている。
「……セドリック」
俺が呟くと、レグルは首を横に振った。
「まだ断定できない」
「でも」
「分かっている。調べる」
その言葉に、俺は頷いた。
ただ。
俺の頭には、別のことが浮かんでいた。
シオン。
あいつは、リナに何を話した?
なぜ、この記録を見せた?
そして。
リナは、何を約束した?
◇ ◇ ◇
管理院を出る頃には、すっかり夜になっていた。
通りには灯りがともり、店じまいをする商人たちの声が聞こえている。
トーマは父親の様子を見るため、先に医療院へ向かった。
俺とリナは、大神殿へ戻る道を並んで歩いていた。
しばらく、会話はなかった。
俺は何度か口を開きかけた。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
リナがシオンと会ったこと。
俺に話せない約束があること。
育成者候補として登録されていたこと。
全部、気になる。
でも。
それを聞くことが、リナを疑うことになるのか。
それとも、聞かないことが信じることなのか。
分からなかった。
「……レン」
先に口を開いたのは、リナだった。
「何?」
「怒ってる?」
俺は少し考えた。
「……怒ってない」
「本当?」
「うん」
俺は正直に続けた。
「でも、ちょっと寂しい」
リナが足を止めた。
「……寂しい?」
「うん」
俺も立ち止まる。
「リナが自分で決めるのは、当たり前だと思う」
「……うん」
「でも、何も話してもらえないと、俺が頼りないのかなって思う」
リナは黙っていた。
「……ごめん。面倒くさいこと言ってる」
「ううん」
リナは首を横に振った。
「私も、言い方が悪かった」
少し間があった。
彼女は夜空を見上げる。
「レンに話したくなかったわけじゃない」
「……うん」
「ただ、私が何を知って、どうするかを、自分で決めたかった」
俺は頷いた。
「分かる」
「でも、レンが心配することも分かってた」
リナは俺を見る。
「だから、言わなかった」
その言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。
「……心配させたくなかった?」
「うん」
「でも、結局心配したよ」
「……そうだね」
リナは苦笑した。
俺も少し笑った。
「俺たち、似てるな」
「何が?」
「相手を守ろうとして、勝手に決めるところ」
リナは一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「……確かに」
俺たちはしばらく笑った。
でも。
問題が解決したわけじゃない。
リナは、まだ話せないことがある。
俺も、それを無理に聞くつもりはない。
ただ。
「……リナ」
「何?」
「一つだけ約束してほしい」
彼女が俺を見る。
「何?」
「危ないことがあったら、一人で抱えないで」
リナは少し考えた。
「……うん」
「俺じゃなくてもいい。誰かに相談して」
リナは頷いた。
「分かった」
俺も頷いた。
「俺もそうする」
「本当?」
「……努力します」
「そこは即答してよ」
「いや、俺の性格的に難しい!」
リナが笑った。
俺も笑った。
その笑い声が、夜の通りへ小さく響いた。
少しだけ、胸が軽くなった。
信じることは、全部を知ることじゃない。
相手が自分で選ぶことを認めること。
たぶん、そういうことなんだと思う。
でも。
その選択が、誰かを傷つける可能性がある時。
どこまで信じればいいのか。
その答えは、まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
町外れの古い礼拝堂で、シオンは一人の男と向かい合っていた。
相手は、灰色の服を着た男だった。
昼間、トーマの工房に現れた人物と同じ服装。
ただし、その顔には先ほどまでの穏やかな笑みがなかった。
「……失敗したな」
シオンが言った。
男は肩をすくめる。
「何のことでしょう?」
「リナの登録だ」
男の表情が変わる。
「……ご存じでしたか」
「当然だ」
シオンは壁にもたれた。
「お前たちが何をしようとしているかくらい、分かる」
男は小さく笑った。
「では、なぜ止めなかったのです?」
シオンは答えなかった。
男は続ける。
「彼女に記録を見せたのは、あなたでしょう?」
「……ああ」
「結果として、彼女は育成者候補であることを知った」
「そうだ」
「それでも、登録を拒否した」
男は笑った。
「素晴らしいですね」
シオンの目が細くなる。
「何が?」
「本人の意思による拒否。第109代の育成方針に、実によく合っています」
シオンは黙っていた。
「ですが」
男は一歩近づいた。
「あなたは、彼女にすべてを話していない」
シオンの表情が変わった。
「……黙れ」
「第109代が知れば、どう思うでしょうね」
「黙れと言った」
礼拝堂の空気が、少しだけ重くなった。
男は笑みを消した。
「……怖いのですか?」
シオンは答えなかった。
「彼女が、自分で選ぶことが?」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
シオンは静かに言った。
「……俺は、あいつらとは違う」
男は首を傾げた。
「そうでしょうか」
シオンは何も言わなかった。
男は続ける。
「あなたも、彼女に情報を与え、選択を誘導した」
シオンの手が、わずかに動いた。
「……」
「それは、育成ではないのですか?」
男は笑った。
「あなたが嫌っている神々と、何が違うのでしょう」
シオンは答えなかった。
ただ。
その沈黙が、何より雄弁だった。
◇ ◇ ◇
職業管理院本部。
地下の円形装置には、新しい記録が表示されていた。
【第109代育成対象】
【育成課題:裏切り】
【進行状況:観測中】
【育成者候補:複数】
セドリックはその表示を眺め、静かに微笑んだ。
「……まだ、裏切りは起きていませんね」
背後から声がした。
「焦る必要はない」
影に隠れた男が答える。
「信頼は、一度で壊れるとは限らない」
「ええ」
「むしろ、守ろうとするほど、隠し事は増える」
セドリックは頷いた。
「リナは、自分の意思で登録を拒否しました」
「そうか」
「第109代も、それを尊重したようです」
男は低く笑った。
「ならば、次は選ばせろ」
「何を?」
男は装置へ視線を向けた。
「信頼と、安全だ」
セドリックの笑みが深くなる。
「……なるほど」
装置の文字が変わった。
【育成課題:裏切り】
【第二段階へ移行】
【選択条件を設定】
そして。
新しい文字が浮かんだ。
【対象者:リナ】
【保護対象:第109代育成対象】
【条件:一方のみ選択可能】
セドリックは、その表示を見つめた。
「……これは、興味深い」
影の男が静かに呟く。
「彼女が何を選ぶか、見せてもらおう」
地下室の灯りが、一度だけ揺れた。
【選択開始まで】
【残り三日】
誰もいないはずの装置の奥で、微かな音が響いた。
まるで。
誰かが、笑っているようだった。




