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神々は無職を選んだ  作者: 夜凪 灯
第二章 神なき力の目覚め
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神託ログ12『信じていたから、言わなかった』

 トーマの工房に現れた男が姿を消してから、俺はしばらく、その場を動けなかった。


 夕暮れの光が作業場の床へ斜めに差し込み、削りかけの木材や散らばった道具の影を長く伸ばしている。昼間なら木を削る音や職人たちの声が響いているはずの場所は、今は妙に静かだった。


 男が残した言葉だけが、頭の中にこびりついている。


『非常に良い育成課題でした』


 トーマの父親が怪我をした。


 工房の仕事が止まりかけた。


 トーマは自分の力を使うことに、もう一度恐怖を覚えた。


 俺は、何を切るのか分からないままブレイカーを使ってしまった。


 それらを全部まとめて、あの男は「良い育成課題」だと言った。


 ふざけている。


 誰かの苦しみを勝手に採点して、成長しただの、次の段階だの。


 そんなもの、認められるわけがない。


「……レン」


 隣からトーマの声がした。


 振り向くと、彼は父親の作業台に手を置いていた。表情には怒りが残っていたが、それ以上に疲れが見えた。


「さっきの男、また来ると思うか?」


「分からない。でも、来る可能性はあると思う」


「……そうか」


 トーマは作業台の上に置かれた椅子の脚を見つめた。


「親父が怪我したのも、俺たちが悩んでるのも、全部あいつらには都合がいいんだな」


「少なくとも、あいつらはそう考えてる」


「最悪だな」


「うん」


 俺は頷いた。


 その時、リナが工房の入口から戻ってきた。


 彼女は男が消えた場所を調べていたのだが、手には何も持っていなかった。


「外には誰もいなかったよ。通りの人にも聞いてみたけど、灰色の服の男を見た人はいないって」


「……やっぱり普通の人間じゃないのかな」


「分からない。ただ、姿を消す前に足元へ黒い線が広がったのは、私にも見えた」


 リナはそう言ってから、俺の右手へ視線を落とした。


「レン、さっきブレイカーを使わなかったね」


「……うん」


「どうして?」


「何を切るのか分からなかったから」


 俺は少し間を置いた。


「それに、怒って使ったら、また間違える気がした」


 リナは静かに頷いた。


「そっか」


「……何?」


「ううん。ちゃんと考えて止まれたんだなって」


 その言葉を聞いても、素直には喜べなかった。


 男を逃がした。


 手がかりを失った。


 俺が慎重になったせいで、また誰かが傷つくかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎったからだ。


『レン』


 エリオスが呼びかけてきた。


『今の判断が正しかったかどうかは、まだ分からない』


「……うん」


『だが、判断の根拠を持てたことには意味がある』


 俺は小さく息を吐いた。


 正しいかどうかは分からない。


 それでも、選ばなければならない。


 最近、そんなことばかりだ。


「とりあえず、レグルさんに報告しよう」


 俺が言うと、トーマが顔を上げた。


「俺も行く」


「工房は?」


「今日はもう片づける。親父にも報告しないといけないしな」


「……分かった」


 俺たちは工房の戸締まりを確認し、職業管理院へ向かうことにした。


 その時だった。


 リナが、ふいに立ち止まった。


「……レン」


「ん?」


「先に行ってて」


「どうした?」


「ちょっと確認したいことがある」


「何を?」


 リナは一瞬だけ迷ったように見えた。


 けれど、すぐに笑顔を作った。


「すぐ追いつくから」


 俺は彼女を見つめた。


 何か隠している。


 そんな気がした。


 でも、リナがそう言うなら、理由があるのだろう。


「……分かった。気をつけて」


「うん」


 リナは頷き、通りの向こうへ歩いていった。


 俺はその背中を見送った。


 今思えば。


 あの時、もう少し話を聞くべきだったのかもしれない。


          ◇ ◇ ◇


 職業管理院へ到着すると、レグルはすぐに面会へ応じてくれた。


 ただし、話を聞いた彼の表情は、これまでになく険しかった。


「……補償申請用の認証板、だと?」


「はい。そう言ってました」


「本部から直接来たとも?」


「はい」


 レグルは机の上へ手を置いた。


「そのような申請制度は存在しない」


「……やっぱり」


「少なくとも、性質保有者に認証板を使用させる補償制度など、私は聞いたことがない」


 トーマが顔をしかめた。


「じゃあ、最初から俺たちを騙すつもりだったのか」


「可能性は高い」


 レグルは頷き、ディンへ指示を出した。


「本部監察局の派遣記録を確認しろ。昨日から今日にかけて、この地域へ入った者をすべて洗い出す」


「承知しました」


 ディンが部屋を出ていく。


 俺はレグルへ向き直った。


「あと、あの男が変なこと言ってました」


「何だ?」


「昨日の事故を、育成課題だって」


 レグルの手が止まった。


「……育成課題?」


「はい。喪失を経験すると人は成長する、みたいなことを」


 レグルはしばらく黙っていた。


 そして、低い声で言った。


「それは、記録に残す必要がある」


「どうして?」


「育成管理制度に関する古い資料の中に、似た表現がある」


 俺は身を乗り出した。


「本当ですか?」


「ああ。ただし、資料そのものは断片的だ。育成対象に試練を与えることで進行度を測定する、という記述がある」


「……試練」


「当時の運用方法までは分からない。だが、現在それを意図的に再現している者がいるなら、重大な問題だ」


 レグルはそこで言葉を切った。


「レン。一つ確認したい」


「何ですか?」


「昨日の事故が、意図的に引き起こされた可能性はあると思うか?」


 俺はすぐには答えられなかった。


 荷車が倒れた。


 馬が暴れた。


 縄が絡まった。


 トーマが力を使い、車輪が外れた。


 俺がブレイカーを使い、荷台の一部が崩れた。


 あの男は、観察していただけだと言った。


 でも、それが本当かどうかは分からない。


「……分かりません」


 俺は正直に答えた。


「ただ、偶然起きた事故を利用した可能性もあると思います」


「そのとおりだ」


 レグルは頷いた。


「現段階で、彼らが事故を起こしたと断定してはいけない」


「はい」


「だが、事故の結果を利用しようとしていることは、発言から疑われる」


 俺は頷いた。


 この人は、いつも慎重だ。


 正直、少し面倒だと思う時もある。


 でも、今はその慎重さがありがたかった。


 俺は怒っている。


 だからこそ、怒りだけで結論を出したくなかった。


「……ところで」


 レグルが俺たちを見回した。


「リナはどうした?」


「ああ、ちょっと確認したいことがあるって」


「確認?」


「すぐ追いつくって言ってました」


 レグルの眉がわずかに動いた。


「……そうか」


 その反応が気になった。


「何か?」


「いや」


 レグルは首を横に振った。


「ただ、今日は彼女に確認したいことがあった」


「リナに?」


「ああ」


「何を?」


 レグルは少し考えた。


 そして。


「……本人が来てから話そう」


 俺は首を傾げた。


 何だろう。


 嫌な予感がした。


          ◇ ◇ ◇


 リナが管理院へ戻ってきたのは、それから一時間ほど経った頃だった。


 俺とトーマは、レグルの部屋で資料を確認していた。


 扉が開き、リナが姿を見せる。


「遅くなってごめん」


「おかえり」


 俺は笑って迎えた。


 でも。


 彼女の表情を見た瞬間、何かがおかしいと感じた。


 いつものリナなら、遅くなった理由を軽く説明するか、冗談を言って笑う。


 今日は違った。


 俺の顔を見て、一度だけ視線を逸らした。


「……リナ?」


「うん」


「大丈夫?」


「大丈夫」


 そう答えた声が、少し硬かった。


 レグルが立ち上がった。


「リナ。話がある」


「……はい」


 リナは驚かなかった。


 まるで、そう言われることを予想していたみたいだった。


 レグルは机の上へ一枚の書類を置いた。


「本部監察局から、君に関する照会が届いている」


 俺は目を見開いた。


「……リナに?」


「ああ」


 レグルは続けた。


「昨日の時点で、君の職業記録に異常が確認された」


 リナは黙っていた。


「正式な職業分類が存在せず、代わりに個人名が登録されている」


 俺は思わず口を挟んだ。


「それ、前からですよ」


「承知している」


 レグルは頷いた。


「問題は、その記録に新しい照会履歴が残っていたことだ」


「照会履歴?」


「ああ」


 レグルはリナを見た。


「昨夜、君自身が職業管理院の端末へアクセスしている」


 部屋が静かになった。


 俺はリナを見た。


「……え?」


 リナは何も言わなかった。


「昨日、管理院に来たの?」


 俺が聞くと、リナはゆっくり頷いた。


「……うん」


「何で?」


 少し間があった。


 リナは自分の手を握った。


「調べたいことがあったから」


「何を?」


「……私の職業のこと」


 俺は言葉に詰まった。


 職業。


 リナ。


 彼女は以前、自分でその名前を選んだ。


 神様や制度に与えられた役割ではなく、自分自身として生きるために。


 その記録を、今になって調べていた?


「……俺に言ってくれれば」


 そこまで言って、俺は口を閉じた。


 リナは俺を見つめた。


「レン」


「……何?」


「私、自分で調べたかったの」


 その声は静かだった。


 でも、はっきりしていた。


「レンに聞いたら、きっと一緒に調べてくれたと思う」


「……うん」


「でも、それだと、またレンに頼ることになる」


 俺は何も言えなかった。


「私のことなのに」


 リナは少しだけ笑った。


「私、自分で決めたかった」


 その言葉が、胸に刺さった。


 俺はずっと、リナの意思を尊重しているつもりだった。


 でも。


 彼女が自分で何かを選ぼうとした時、俺は当然のように一緒にいると思っていた。


 それが、彼女にとって負担になることもある。


「……そっか」


 俺は頷いた。


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


 リナは首を横に振った。


「レンが悪いわけじゃない」


 その言葉に少し安心しかけた。


 でも。


 レグルが口を開いた。


「問題は、それだけではない」


 俺たちは顔を上げた。


「リナ。君がアクセスした記録には、通常の閲覧権限では開けない領域が含まれていた」


 リナの表情が変わった。


「……はい」


「誰に案内された?」


 沈黙。


 俺はリナを見た。


「……案内?」


 リナはしばらく俯いていた。


 そして。


「……シオン」


 その名前を口にした。


 俺の心臓が強く鳴った。


「……シオン?」


 黒髪の男。


 神々に管理されることを拒む者。


 トーマやミアに接触し、職業管理院とも対立している。


 あの男が。


 リナに?


「……いつ?」


 俺が聞くと、リナは答えた。


「昨日の夜」


「何で?」


「……会いたいって言われたから」


 俺は息を止めた。


 リナは続けた。


「私の職業記録について、知っていることがあるって」


 俺は何も言えなかった。


 シオン。


 あの男は、俺たちへ何かを隠している。


 でも、敵だと決めつけることもできない。


 だからこそ、余計に怖かった。


「……何を聞いた?」


 俺が尋ねると、リナは首を横に振った。


「全部は話せない」


 その瞬間。


 胸の奥が冷たくなった。


「……何で?」


 リナは俺を見つめた。


「約束したから」


「誰と?」


「シオンと」


 俺は言葉を失った。


 約束。


 俺に話さないという約束。


 それを、シオンと?


「……俺より、シオンとの約束が大事?」


 口にした瞬間、後悔した。


 リナの表情が変わったからだ。


 悲しそうだった。


 でも、それ以上に。


 少し怒っていた。


「……そういう話じゃない」


「……ごめん」


「レン」


 リナは一歩近づいた。


「私が誰と何を話すか、全部レンに報告しないと駄目?」


 俺は答えられなかった。


「レンは、私のことを信じてくれてると思ってた」


「信じてるよ」


「だったら」


 リナは少しだけ声を強くした。


「私が自分で決めることも、信じてほしい」


 その言葉が、胸に刺さった。


 俺は俯いた。


 正しい。


 リナの言っていることは、正しい。


 でも。


 怖かった。


 シオンが何を考えているのか分からない。


 リナが何を聞いたのかも分からない。


 そして、俺に話せないことがある。


 それが。


 こんなにも怖いとは思わなかった。


          ◇ ◇ ◇


 沈黙を破ったのは、レグルだった。


「リナ。君の意思を尊重することと、管理院の記録へ不正にアクセスした疑いを調べることは別だ」


 リナが顔を上げた。


「……はい」


「君が何を調べたかったのかは理解した。だが、誰がどの権限で端末を開いたのかは確認する必要がある」


「分かっています」


「シオンが案内したと言ったな」


「はい」


「彼は現在、管理院の正式な職員ではない」


 レグルは書類へ目を落とした。


「それにもかかわらず、君が開いた領域には、旧育成管理記録の一部が含まれていた」


 俺は顔を上げた。


「……旧育成管理記録?」


「ああ」


「リナの職業と、育成管理制度が関係あるんですか?」


「まだ分からない」


 レグルは首を横に振った。


「だが、記録を開いた者が何を見たのかは確認したい」


 リナは少しだけ迷った。


 そして。


「……見たものは、話せます」


 俺は彼女を見た。


「本当?」


「うん」


 リナは頷いた。


「ただし、シオンが話したことは、まだ言えない」


 レグルはしばらく考えた。


「分かった。まずは君自身が確認した事実だけを聞こう」


 リナは深呼吸した。


「……私の職業記録には、最初から『リナ』って書かれていたわけじゃありません」


 俺は息を止めた。


「……え?」


「前の職業記録が残ってた」


 狩剣士。


 以前のリナに与えられていた職業。


 その記録が残っていること自体は、不思議じゃない。


 でも。


 リナは続けた。


「その記録の下に、別の項目があったの」


「……何?」


 リナは俺を見つめた。


「育成者候補」


 部屋が静かになった。


 俺は何も言えなかった。


「……私も、候補になってた」


 その言葉が、ゆっくり頭の中へ入ってくる。


 リナが。


 育成者候補?


 俺を育てる側に?


 それとも、別の誰かを?


「……誰の?」


 俺が聞くと、リナは首を横に振った。


「分からない。名前は表示されてなかった」


 ノアが静かに言った。


『レン。育成者候補という表示だけでは、対象との関係は確定できません』


「……うん」


 分かってる。


 分かってるけど。


 嫌な予感がした。


 リナは続けた。


「それから、もう一つ」


「……何?」


 彼女は少しだけ唇を噛んだ。


「私の職業記録に、変更申請が出てた」


 レグルの表情が変わった。


「変更申請?」


「はい」


「誰が?」


 リナは答えた。


「……本部監察局」


 俺の背中に冷たいものが走った。


 セドリック。


 あいつらが。


 リナの職業を?


「……何に変えるつもりなんだ?」


 俺が聞くと、リナは俯いた。


「……分からない」


「分からない?」


「申請内容は、まだ開けなかった」


 レグルがすぐに立ち上がった。


「確認する」


 彼は机の端末へ向かい、職員用の認証板を取り出した。


 いくつかの文字が浮かぶ。


 レグルの表情が険しくなる。


「……確かに申請がある」


「何て?」


 俺が尋ねる。


 レグルは画面を見つめた。


「職業記録の再分類申請だ」


「再分類?」


「ああ」


「誰の?」


 レグルはゆっくり答えた。


「リナだ」


 俺は息を止めた。


 リナの職業。


 彼女が自分で選んだ名前。


 それを。


 誰かが勝手に変えようとしている?


「……止められますか?」


 俺が聞くと、レグルは頷いた。


「申請段階なら、異議申し立てができる」


「じゃあ、すぐに!」


「待って」


 リナが口を開いた。


 俺は振り向いた。


「……リナ?」


「私が決める」


 その言葉に、俺は黙った。


 リナはレグルを見た。


「その申請、私自身が確認できますか?」


「可能だ。ただし、本人確認が必要になる」


「分かりました」


 リナは頷いた。


「じゃあ、私が見ます」


 俺は彼女の横顔を見つめた。


 さっきまでなら、俺が何とかしようとしていたかもしれない。


 ブレイカーで切れるなら、切ってしまおうと考えたかもしれない。


 でも。


 これは、リナのことだ。


 俺が勝手に決めていいわけじゃない。


「……分かった」


 俺は一歩下がった。


「リナが決めて」


 彼女は少しだけ驚いたようだった。


 そして。


「……ありがとう」


 小さく笑った。


          ◇ ◇ ◇


 本人確認には、職業記録の照合が必要だった。


 レグルが端末を操作し、リナが認証板へ手を置く。


 淡い光が広がる。


【名称:リナ】


【職業:リナ】


【再分類申請:審査中】


 俺は息を止めた。


 レグルが操作を続ける。


 申請内容が開かれる。


【再分類先】


【育成者補助】


 俺は眉を寄せた。


「……育成者補助?」


 レグルも困惑していた。


「聞いたことのない分類だ」


 リナは画面を見つめたまま動かなかった。


 さらに文字が現れる。


【対象:第109代育成対象】


 俺のことだ。


 リナが。


 俺の育成者補助に?


「……何これ」


 思わず呟いた。


 レグルは首を横に振った。


「分からない。ただし、正式な職業分類として登録された記録はない」


 リナが静かに尋ねた。


「これを拒否できますか?」


「ああ。本人の意思による異議申し立てが可能だ」


「じゃあ、拒否します」


 即答だった。


 俺はリナを見た。


 彼女は迷っていなかった。


「私は、誰かの補助になるために自分の名前を選んだんじゃない」


 その声は静かだった。


 でも、はっきりしていた。


「レンを助けたい時は助ける。でも、それを職業にされるのは違う」


 俺は何も言えなかった。


 リナは続けた。


「私がレンの隣にいるのは、そうしたいから」


 その言葉が、胸に響いた。


 俺は小さく頷いた。


「……うん」


 レグルが端末を操作する。


【本人異議申し立て】


【申請:受理】


【再分類処理:一時停止】


 リナは息を吐いた。


「……よかった」


 俺も少しだけ安心した。


 でも。


 その直後だった。


 端末の表示が突然変わった。


【育成者候補:照合中】


 レグルの手が止まる。


「……何だ?」


【候補者:リナ】


【対象:第109代育成対象】


 俺は目を見開いた。


「……おい」


【候補者の意思確認】


 リナが一歩下がる。


「……これ、何?」


 レグルがすぐに操作を止めようとした。


 だが、画面は変わらない。


【育成者登録を実行しますか】


【承認/拒否】


 リナは画面を見つめた。


 俺も見つめた。


 承認。


 拒否。


 選択肢がある。


 でも。


 それを選ぶのは、俺じゃない。


 リナだ。


「……リナ」


 俺が呼ぶと、彼女は頷いた。


「分かってる」


 そして。


 迷わず、拒否を選んだ。


【登録拒否】


【処理中止】


 光が消えた。


 部屋に静寂が戻る。


 俺は大きく息を吐いた。


「……よかった」


 リナも頷いた。


「うん」


 でも。


 レグルだけは、端末を見つめたままだった。


「……おかしい」


「何が?」


 俺が尋ねる。


 レグルは低い声で答えた。


「この処理は、職業再分類とは別の仕組みで動いている」


「……別?」


「ああ」


 彼は画面を指した。


「異議申し立てで再分類を止めた直後に、育成者登録の処理が起動した」


 俺は眉を寄せた。


「つまり?」


「誰かが、二つの経路を用意していた可能性がある」


 俺の背中が冷たくなった。


 職業として登録する。


 それが駄目なら、育成者として登録する。


 どちらにしても。


 リナを、俺に結びつけようとしている。


「……セドリック」


 俺が呟くと、レグルは首を横に振った。


「まだ断定できない」


「でも」


「分かっている。調べる」


 その言葉に、俺は頷いた。


 ただ。


 俺の頭には、別のことが浮かんでいた。


 シオン。


 あいつは、リナに何を話した?


 なぜ、この記録を見せた?


 そして。


 リナは、何を約束した?


          ◇ ◇ ◇


 管理院を出る頃には、すっかり夜になっていた。


 通りには灯りがともり、店じまいをする商人たちの声が聞こえている。


 トーマは父親の様子を見るため、先に医療院へ向かった。


 俺とリナは、大神殿へ戻る道を並んで歩いていた。


 しばらく、会話はなかった。


 俺は何度か口を開きかけた。


 でも、何を言えばいいのか分からなかった。


 リナがシオンと会ったこと。


 俺に話せない約束があること。


 育成者候補として登録されていたこと。


 全部、気になる。


 でも。


 それを聞くことが、リナを疑うことになるのか。


 それとも、聞かないことが信じることなのか。


 分からなかった。


「……レン」


 先に口を開いたのは、リナだった。


「何?」


「怒ってる?」


 俺は少し考えた。


「……怒ってない」


「本当?」


「うん」


 俺は正直に続けた。


「でも、ちょっと寂しい」


 リナが足を止めた。


「……寂しい?」


「うん」


 俺も立ち止まる。


「リナが自分で決めるのは、当たり前だと思う」


「……うん」


「でも、何も話してもらえないと、俺が頼りないのかなって思う」


 リナは黙っていた。


「……ごめん。面倒くさいこと言ってる」


「ううん」


 リナは首を横に振った。


「私も、言い方が悪かった」


 少し間があった。


 彼女は夜空を見上げる。


「レンに話したくなかったわけじゃない」


「……うん」


「ただ、私が何を知って、どうするかを、自分で決めたかった」


 俺は頷いた。


「分かる」


「でも、レンが心配することも分かってた」


 リナは俺を見る。


「だから、言わなかった」


 その言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。


「……心配させたくなかった?」


「うん」


「でも、結局心配したよ」


「……そうだね」


 リナは苦笑した。


 俺も少し笑った。


「俺たち、似てるな」


「何が?」


「相手を守ろうとして、勝手に決めるところ」


 リナは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、小さく笑った。


「……確かに」


 俺たちはしばらく笑った。


 でも。


 問題が解決したわけじゃない。


 リナは、まだ話せないことがある。


 俺も、それを無理に聞くつもりはない。


 ただ。


「……リナ」


「何?」


「一つだけ約束してほしい」


 彼女が俺を見る。


「何?」


「危ないことがあったら、一人で抱えないで」


 リナは少し考えた。


「……うん」


「俺じゃなくてもいい。誰かに相談して」


 リナは頷いた。


「分かった」


 俺も頷いた。


「俺もそうする」


「本当?」


「……努力します」


「そこは即答してよ」


「いや、俺の性格的に難しい!」


 リナが笑った。


 俺も笑った。


 その笑い声が、夜の通りへ小さく響いた。


 少しだけ、胸が軽くなった。


 信じることは、全部を知ることじゃない。


 相手が自分で選ぶことを認めること。


 たぶん、そういうことなんだと思う。


 でも。


 その選択が、誰かを傷つける可能性がある時。


 どこまで信じればいいのか。


 その答えは、まだ分からなかった。


          ◇ ◇ ◇


 同じ頃。


 町外れの古い礼拝堂で、シオンは一人の男と向かい合っていた。


 相手は、灰色の服を着た男だった。


 昼間、トーマの工房に現れた人物と同じ服装。


 ただし、その顔には先ほどまでの穏やかな笑みがなかった。


「……失敗したな」


 シオンが言った。


 男は肩をすくめる。


「何のことでしょう?」


「リナの登録だ」


 男の表情が変わる。


「……ご存じでしたか」


「当然だ」


 シオンは壁にもたれた。


「お前たちが何をしようとしているかくらい、分かる」


 男は小さく笑った。


「では、なぜ止めなかったのです?」


 シオンは答えなかった。


 男は続ける。


「彼女に記録を見せたのは、あなたでしょう?」


「……ああ」


「結果として、彼女は育成者候補であることを知った」


「そうだ」


「それでも、登録を拒否した」


 男は笑った。


「素晴らしいですね」


 シオンの目が細くなる。


「何が?」


「本人の意思による拒否。第109代の育成方針に、実によく合っています」


 シオンは黙っていた。


「ですが」


 男は一歩近づいた。


「あなたは、彼女にすべてを話していない」


 シオンの表情が変わった。


「……黙れ」


「第109代が知れば、どう思うでしょうね」


「黙れと言った」


 礼拝堂の空気が、少しだけ重くなった。


 男は笑みを消した。


「……怖いのですか?」


 シオンは答えなかった。


「彼女が、自分で選ぶことが?」


 しばらく沈黙が続いた。


 そして。


 シオンは静かに言った。


「……俺は、あいつらとは違う」


 男は首を傾げた。


「そうでしょうか」


 シオンは何も言わなかった。


 男は続ける。


「あなたも、彼女に情報を与え、選択を誘導した」


 シオンの手が、わずかに動いた。


「……」


「それは、育成ではないのですか?」


 男は笑った。


「あなたが嫌っている神々と、何が違うのでしょう」


 シオンは答えなかった。


 ただ。


 その沈黙が、何より雄弁だった。


          ◇ ◇ ◇


 職業管理院本部。


 地下の円形装置には、新しい記録が表示されていた。


【第109代育成対象】


【育成課題:裏切り】


【進行状況:観測中】


【育成者候補:複数】


 セドリックはその表示を眺め、静かに微笑んだ。


「……まだ、裏切りは起きていませんね」


 背後から声がした。


「焦る必要はない」


 影に隠れた男が答える。


「信頼は、一度で壊れるとは限らない」


「ええ」


「むしろ、守ろうとするほど、隠し事は増える」


 セドリックは頷いた。


「リナは、自分の意思で登録を拒否しました」


「そうか」


「第109代も、それを尊重したようです」


 男は低く笑った。


「ならば、次は選ばせろ」


「何を?」


 男は装置へ視線を向けた。


「信頼と、安全だ」


 セドリックの笑みが深くなる。


「……なるほど」


 装置の文字が変わった。


【育成課題:裏切り】


【第二段階へ移行】


【選択条件を設定】


 そして。


 新しい文字が浮かんだ。


【対象者:リナ】


【保護対象:第109代育成対象】


【条件:一方のみ選択可能】


 セドリックは、その表示を見つめた。


「……これは、興味深い」


 影の男が静かに呟く。


「彼女が何を選ぶか、見せてもらおう」


 地下室の灯りが、一度だけ揺れた。


【選択開始まで】


【残り三日】


 誰もいないはずの装置の奥で、微かな音が響いた。


 まるで。


 誰かが、笑っているようだった。

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