↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々は無職を選んだ  作者: 夜凪 灯
第二章 神なき力の目覚め
PR
59/71

神託ログ11『守ったものの代償』

 その日の朝、俺は一通の手紙を受け取った。


 差出人は、トーマだった。


 正確には、トーマの父親が経営する木工房からの依頼書である。大神殿の受付を通して届けられたそれには、工房の修繕を手伝ってほしいという、ごく普通の内容が書かれていた。


 ただし、最後に一文だけ余計なものがあった。


『無職でもできる仕事を用意しておく』


「……喧嘩売ってる?」


 思わず呟くと、隣で朝食を食べていたリナが手紙を覗き込んだ。


「いいじゃん。仕事もらえて」


「俺、無職を理由に仕事を選べない立場なの?」


「選べるよ。断ってもいいんじゃない?」


「……断ったら負けた気がする」


「じゃあ行こう」


「判断早いな!」


 リナは笑いながらパンをちぎった。


 俺はもう一度依頼書を見た。


 工房の屋根の一部が傷んでいるらしい。先日の強風で雨樋が外れ、作業場の奥へ雨水が入り込んだという。


 修理自体はトーマと父親でできるが、資材を運ぶ人手が足りないそうだ。


 危険な仕事ではない。


 報酬も出る。


 そして何より、トーマが自分の力を制御する練習にもなるかもしれない。


「よし。行こう」


『その前に確認することがある』


 エリオスの声が響いた。


「何?」


『昨日の育成管理記録についてだ』


 俺は手紙を置いた。


 レグルと一緒に調べた、二百年前の記録。


 育成者。


 育成対象。


 完了判定。


 そして、育成者資格の剥奪条件。


 あれから七柱は、何か分かったのだろうか。


「進展あった?」


『確証のある情報は得られていない』


「……そっか」


『ただし、今後の対応について話し合った』


「対応?」


『お前が誰かを助ける時、我々は以前より慎重に助言する』


 俺は眉を寄せた。


「どういうこと?」


『育成管理機構が、他者との関わりを成長として記録している可能性がある』


「つまり、俺がトーマを手伝ったり、ソラに何か教えたりすることも?」


『その可能性は否定できない』


 俺は少し考えた。


 昨日、ソラが落ち葉を浮かせる練習をした時、右腕の黒い線に【育成進行:確認】という文字が現れた。


 俺たちはただ練習していただけだ。


 それなのに、どこかで誰かが進み具合を記録していた。


「……じゃあ、誰も助けない方がいい?」


『そうは言っていない』


 エリオスの声が少し強くなる。


『記録されることを恐れて、お前が自分の意思を捨てる必要はない』


「でも、利用されるかもしれないんでしょ?」


『ああ』


「難しいな」


『だから考える』


 その答えに、俺は少し笑った。


「神様も結局それか」


『お前に教えてきたことだからな』


 俺は椅子から立ち上がった。


 分からないことは多い。


 でも、トーマが困っている。


 それなら、まず本人に話を聞こう。


 助けるかどうかは、それから決めればいい。


          ◇ ◇ ◇


 木工房へ着くと、トーマが店先で大きな板を運んでいた。


 朝の町はすでに活気づいている。通りを行き交う荷車の音に混じって、近くの鍛冶屋から金属を打つ音が聞こえていた。


 工房の前には、修理用の木材が何本も積まれている。


「おーい、トーマ!」


 俺が手を振ると、トーマが振り返った。


「お、来たな!」


「来てやったぞ、無職代表として!」


「誰も代表にしてねえよ!」


 トーマが笑った。


 その奥から、父親が顔を出す。


「来たか、無職」


「親子そろって名前覚えて!」


「仕事が終わったら覚える」


「理不尽!」


 リナが笑いながら木材へ近づいた。


「何を運べばいい?」


「助かる。奥の倉庫から屋根材を持ってきてほしい」


 父親が指示する。


 俺たちはさっそく作業を始めた。


 木材を運ぶだけなら、俺にもできる。


 そう思っていた。


 ……甘かった。


「重っ!」


 長い板を持ち上げた瞬間、腕が震えた。


「レン、大丈夫?」


「大丈夫……たぶん……」


「無理しないでね」


「リナ、それ一人で持ってるの?」


「うん」


「俺の存在意義!」


 リナは俺が苦労して持っている板と同じ大きさのものを、軽々と肩に担いでいた。


 狩剣士の身体能力なのか、単純に鍛え方の違いなのか。


 たぶん両方だ。


『腰を使え、腰を!』


 ガルドが指導を始める。


『腕だけで持ち上げるな!』


「分かってる!」


『分かってないから言ってる!』


『持つ位置も悪い』


 今度はヴォルグだ。


『重心を見ろ』


「神様二人がかりで木材運搬の指導!?」


『いい訓練になる』


「便利に使われてるだけじゃん!」


 そんなやり取りをしながら、俺たちは資材を運び続けた。


 最初はただの力仕事だったが、途中からトーマも加わった。


 彼は自分の性質が暴発しないよう、留め具や継ぎ目に触れる時は必ず一度手を止めていた。


 以前なら、嫌だと思っただけで勝手に物が外れていた。


 今は違う。


 自分が何を外そうとしているのか、考えてから手を動かしている。


「トーマ、だいぶ慣れたね」


「まだ怖いけどな」


 トーマは木箱の金具を見つめながら答えた。


「でも、怖いからって何もしなかったら、ずっと怖いままだろ」


「……そうだな」


「それに、親父の仕事も手伝いたいし」


 俺は少し笑った。


 以前のトーマなら、父親に言われたから木工をやっていると思っていたかもしれない。


 でも今は、自分で選んでここにいる。


 それが嬉しかった。


 ただ、その時。


 工房の奥から、父親の怒鳴り声が響いた。


「トーマ! こっちへ来い!」


「何だよ、親父!」


「この金具、外せるか!」


 俺たちは顔を見合わせた。


 奥の作業場では、屋根の修理に使う古い固定具が錆びつき、どうしても外れなくなっていた。


 普通なら切断するしかないらしい。


 だが、固定具のすぐ下には、まだ使える木材が組み込まれている。


 無理に切れば、周囲まで傷つける可能性がある。


「……やってみる」


 トーマが言った。


 父親は少しだけ不安そうだったが、頷いた。


「無理はするな」


「分かってる」


 トーマは固定具へ手を伸ばした。


 俺は隣で見守る。


 右手が触れる。


 金属が小さく震える。


 そして。


 カチン。


 固定具だけが外れた。


「……おお!」


 父親が目を見開いた。


 トーマも驚いている。


「できた……」


「すげえじゃん!」


 俺が声を上げると、トーマが嬉しそうに笑った。


 父親は外れた固定具を手に取り、しばらく眺めていた。


 それから。


「……便利だな」


 ぽつりと呟いた。


 トーマの表情が変わる。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


「……便利?」


「ああ。これなら、古い家具の修理にも使える」


 父親は悪気なく言ったのだろう。


 でも、トーマは何も答えなかった。


 俺はその横顔を見て、少し気になった。


 便利。


 確かにそうだ。


 でも、トーマが欲しかったのは、便利な道具として認められることじゃない。


 自分で木工を選んだことを、父親に認めてもらうことだったはずだ。


「……親父」


 トーマが口を開く。


「俺、この力がなくても木工やりたいからな」


 父親が顔を上げた。


「分かってる」


「本当に?」


「ああ」


 父親は固定具を作業台へ置いた。


「お前が作った椅子、まだ店に置いてあるだろ」


「……うん」


「あれ、売らずに残してる」


「何で?」


「出来が悪いからだ」


「おい!」


 俺は思わず笑った。


 父親は続けた。


「だが、最初に自分で考えて作った椅子だろ」


 トーマが黙る。


「俺は、ああいうのを作れる職人になってほしい」


 父親は少し照れくさそうに視線を逸らした。


「……力が便利なのは本当だ。でも、それだけでお前を見てるわけじゃねえ」


 トーマはしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく頷いた。


「……分かった」


 俺はその様子を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 よかった。


 ちゃんと話せた。


 そう思った。


 その直後だった。


          ◇ ◇ ◇


 工房の外で、激しい音が響いた。


 何かが倒れたような、鈍い衝撃音。


 続いて、悲鳴。


「何だ!?」


 俺たちは慌てて外へ飛び出した。


 通りの向こうで、一台の荷車が横倒しになっていた。


 積まれていた木箱が散乱し、荷馬車を引いていた馬が興奮して暴れている。


 周囲の人々が逃げ惑う中、一人の小さな子どもが道路の真ん中で立ち尽くしていた。


「危ない!」


 リナが駆け出す。


 俺も走った。


 馬が前脚を高く上げる。


 子どもは動けない。


 距離がある。


 間に合うか?


『レン!』


 ガルドの声が響いた。


『左から回れ!』


 俺は反射的に方向を変えた。


 リナが正面から子どもへ向かう。


 俺は荷車の横へ回り込んだ。


 馬が暴れる原因を探す。


 車輪。


 荷台。


 そして。


 馬の脚に絡まった一本の縄。


 荷車の固定具が壊れ、縄が脚へ巻きついている。


 これを外せば。


「トーマ!」


 俺は叫んだ。


「縄、外せるか!?」


 工房から飛び出してきたトーマが、状況を見た。


「……やってみる!」


 俺は一瞬迷った。


 トーマの力は、まだ完全には制御できない。


 何が外れるか分からない。


 でも、今は時間がない。


 リナは子どもへ向かっている。


 馬は暴れている。


 俺のブレイカーなら、縄だけを切れるかもしれない。


 ただ、縄の向こうには馬の脚がある。


 切る場所を間違えたら。


 ……駄目だ。


 考えている時間がない。


「トーマ、頼む!」


 俺は叫んだ。


 トーマが馬へ近づく。


 右手を伸ばす。


 縄が震える。


 そして。


 外れた。


 ……はずだった。


 次の瞬間。


 荷車の車輪が、軸から外れた。


「……え?」


 誰かが呟いた。


 横倒しになっていた荷車が、さらに大きく傾く。


 積まれていた木箱が一斉に滑り落ちる。


 その先には。


 トーマの父親がいた。


「親父!」


 トーマが叫んだ。


 俺は反射的に右手を伸ばした。


 ブレイカー。


 切る。


 何を?


 木箱?


 荷車?


 重さ?


 分からない。


 でも。


 今、何もしなかったら。


 父親が潰される。


「――壊れろ!」


 俺は叫んだ。


 その瞬間。


 荷車の一部が、音を立てて砕けた。


 木材が散乱する。


 衝撃が広がる。


 そして。


 父親の身体が、崩れた荷台の下へ消えた。


「……親父?」


 トーマの声が震えた。


 俺は動けなかった。


 今。


 何を切った?


 何を壊した?


 助けようとした。


 でも。


 何が起きた?


「レン!」


 リナの声で我に返った。


 彼女は子どもを抱えて、通りの端へ避難していた。


「こっち手伝って!」


 俺は走った。


 崩れた荷台の下へ手を伸ばす。


 父親は意識があった。


 でも、右脚が木材の下敷きになっている。


「……親父!」


 トーマが膝をついた。


「大丈夫か!?」


「……うるせえ」


 父親が苦しそうに笑った。


「まだ生きてる」


 俺は胸を撫で下ろした。


 でも、すぐに気づく。


 右脚。


 血が出ている。


 骨が折れているかもしれない。


「フィリア!」


『分かっています!』


 フィリアの声が響く。


『まず、荷重を取り除いてください。無理に脚を引き抜かないで』


「分かった!」


 リナと俺、そして近くにいた男たちが協力して木材を持ち上げる。


 父親の脚が解放された。


 フィリアが治癒の力を使う。


 淡い光が傷口を包む。


 出血が少しずつ止まっていく。


 でも。


 父親の顔から、痛みは消えなかった。


『……レン』


 フィリアの声が震えた。


「何?」


『骨と筋肉に損傷があります。応急処置はできますが、完全に元へ戻せるかは分かりません』


 俺は息を止めた。


「……え?」


『治療が必要です。すぐに医療院へ』


 トーマが父親の手を握った。


「親父……」


「……大丈夫だ」


 父親は苦しそうに笑った。


「こんなもん、すぐ治る」


 でも。


 その言葉が強がりだと、誰にでも分かった。


          ◇ ◇ ◇


 医療院へ運ばれた父親は、しばらく治療室から出てこなかった。


 俺とトーマ、リナは廊下の長椅子に座っていた。


 誰も話さない。


 窓の外では、夕方の光がゆっくり薄れていく。


 さっきまで、工房で笑っていた。


 父親とトーマが、ようやく少しだけ本音を話せた。


 それなのに。


 今。


 父親は治療室の中にいる。


 俺は自分の右手を見た。


 ブレイカー。


 壊すものを選ぶ力。


 でも、さっきの俺は選べていなかった。


 ただ、壊れろと叫んだ。


 何を壊すのかも分からないまま。


「……ごめん」


 俺は呟いた。


 トーマが顔を上げる。


「何が?」


「俺が、ちゃんと考えなかったから」


 トーマは何も言わなかった。


「トーマに頼んだのも俺だし、最後にブレイカーを使ったのも俺だ」


「……」


「だから」


「レン」


 トーマが遮った。


 その声は、思っていたより静かだった。


「俺も、外すものを間違えた」


「でも、俺が頼まなきゃ」


「頼まれたからって、使ったのは俺だ」


 俺は何も言えなかった。


 トーマは自分の手を見つめた。


「……怖かったんだ」


「何が?」


「何もしなかったら、あの子が死ぬかもしれないって」


 俺は頷いた。


「うん」


「だから、できると思った」


 トーマの声が少し震えた。


「昨日、留め具を外せたから。今日もできるって思った」


 俺は目を閉じた。


 同じだった。


 俺も、昨日セドリックの接続を切れたから、今日も何かを切れると思っていた。


 でも、違った。


 相手も。


 状況も。


 切るものも。


 全部違った。


「……俺たち、調子に乗ってたのかな」


 俺が呟くと、トーマは首を横に振った。


「分からない」


 少し間を置いて、続ける。


「でも、俺は使うって決めた」


「……うん」


「だから、親父がどうなっても、俺のせいじゃないって言うつもりはない」


 その言葉が、胸に刺さった。


 俺は何も言えなかった。


 リナが静かに口を開く。


「二人とも」


 俺たちは顔を上げた。


「今、誰が一番悪いか決めても、お父さんの脚は治らないよ」


 その言葉は厳しかった。


 でも、正しかった。


「……うん」


「だから、まずは先生の話を聞こう」


 俺たちは頷いた。


 しばらくして、治療室の扉が開いた。


 医師が出てくる。


「ご家族の方は?」


 トーマが立ち上がった。


「俺です」


 医師は頷き、静かに説明を始めた。


 父親の命に別状はない。


 出血も止まっている。


 ただし、右脚の骨と筋肉に大きな損傷があり、しばらくは歩くことも難しい。


 治療には時間がかかる。


 そして。


「……以前と同じように仕事ができるかは、まだ分かりません」


 その言葉を聞いた瞬間。


 トーマの顔から、血の気が引いた。


 木工職人。


 父親の仕事。


 手で作り、足で立ち、工房を守ってきた人間。


 その人が。


 今までどおり働けないかもしれない。


「……そんな」


 トーマが呟いた。


 俺は何も言えなかった。


 フィリアの力でも、すぐには治せない。


 神様がいても。


 俺がいても。


 失われたものを、簡単には戻せない。


          ◇ ◇ ◇


 夜になってから、俺は一人で医療院の外へ出た。


 石段に腰を下ろし、暗くなった空を見上げる。


 星がいくつも輝いていた。


 この世界へ来たばかりの頃は、夜空を見る余裕なんてなかった。


 神様七人に囲まれて、無職だと言われて、意味の分からない訓練をさせられて。


 毎日、何かに振り回されていた。


 でも、あの頃は。


 失敗しても、笑って終われることが多かった。


 今は違う。


 俺の選択で、誰かが傷つく。


 俺の判断で、誰かの人生が変わる。


 それが怖かった。


「……なあ」


 俺は空へ向かって呼びかけた。


「七柱」


『聞いている』


 エリオスが答えた。


「俺、間違えた」


『ああ』


 即答だった。


 少しだけ胸が痛む。


「……そこは慰めてくれてもよくない?」


『慰めてほしいのか?』


 俺は少し考えた。


「……分からん」


『なら、今は事実を話す』


 エリオスの声は静かだった。


『お前は、対象を十分に認識しないままブレイカーを使った』


「うん」


『トーマへ性質の使用を頼んだ時も、失敗した場合の危険を考えきれていなかった』


「……うん」


『それは判断の誤りだ』


 俺は俯いた。


 分かっていた。


 でも、神様に言われると、やっぱり苦しい。


『ただし』


 エリオスが続けた。


『あの場で何もしなければ、別の被害が出た可能性もある』


「……うん」


『だからといって、結果が正当化されるわけではない』


「分かってる」


『なら、次にどうするか考えろ』


 俺は顔を上げた。


「……次?」


『ああ』


「でも、もう起きたことは戻せない」


『そうだ』


「じゃあ、どうしたらいい?」


 少し間があった。


 答えたのはフィリアだった。


『レン』


「何?」


『謝ることと、償うことは違います』


 俺は黙った。


『あなたが申し訳ないと思う気持ちは、大切です。でも、その気持ちだけでトーマさんのお父様の生活は戻りません』


「……うん」


『今、必要なのは、何ができるかを考えることです』


 俺は自分の手を見つめた。


 何ができる?


 治療費。


 工房の仕事。


 トーマの手伝い。


 父親が戻るまでの生活。


 全部、俺一人で何とかできるわけじゃない。


 でも。


 できることはある。


「……メルク」


『はいはい』


「お金のこと、相談していい?」


『もちろん』


「治療費とか、工房の収入とか、どうしたらいいか分からない」


『まずは状況を整理しよう。何が必要で、誰が何を負担できるかを確認するんだ』


「うん」


『ただし、レン』


「何?」


『全部お前が払えば解決すると思うなよ』


 俺は少し驚いた。


「……何で分かった?」


『顔に書いてある』


「神様って顔見えるの!?」


『比喩だよ』


 メルクが笑った。


『お金で解決できることはある。でも、お金だけで戻らないものもある。だからこそ、相手が何を望んでいるか聞くんだ』


 俺は頷いた。


 助ける前に聞く。


 何度も教わったことだ。


 でも、今日の俺はそれを忘れていた。


 急いでいた。


 怖かった。


 誰かが傷つくのが嫌だった。


 だから、勝手に決めた。


「……明日、トーマと親父さんに聞く」


『それがいい』


 俺は立ち上がった。


 まだ怖い。


 でも、逃げたくなかった。


          ◇ ◇ ◇


 翌朝、俺はトーマの父親の病室を訪ねた。


 右脚には厚い固定具がつけられている。


 父親はベッドへ腰掛け、窓の外を眺めていた。


 俺を見ると、少しだけ眉を上げる。


「……無職」


「おはようございます」


「朝から何だ」


「謝りに来ました」


 父親は黙った。


 俺は深く頭を下げた。


「昨日、俺がブレイカーを使ったことで、荷車が壊れて……」


「待て」


 父親が遮った。


 俺は顔を上げる。


「お前が全部壊したのか?」


「……分かりません」


「なら、分からんことまで自分のせいにするな」


 俺は言葉に詰まった。


 父親は続けた。


「荷車が倒れたのは、お前が来る前だろ」


「はい」


「トーマが車輪を外したのは、馬を助けようとしたからだろ」


「はい」


「お前も、俺を助けようとしたんだろ」


「……はい」


 父親は小さく息を吐いた。


「なら、全部を一人のせいにするのは違う」


 俺は何も言えなかった。


「ただし」


 父親の声が少し強くなる。


「お前が何を壊したか分からないまま力を使ったのは、間違いだ」


「……はい」


「そこは反省しろ」


「はい」


「でも、反省したからって俺の脚が治るわけじゃねえ」


 俺は頷いた。


「……だから、できることを考えたいです」


 父親は俺を見た。


「何を?」


「工房の仕事とか、治療費とか」


「金なら何とかする」


「でも」


「トーマがいる」


 父親は窓の外へ目を向けた。


「俺が動けない間、あいつが工房を守る」


 俺は少し驚いた。


「……トーマが?」


「ああ」


「でも、まだ若いし」


「だから何だ」


 父親は俺を見た。


「若いから任せないのか?」


 俺は黙った。


「失敗するかもしれないから、やらせないのか?」


 その言葉が胸に刺さった。


 俺は、トーマを守ろうとしていた。


 でも。


 守るという理由で、トーマが選ぶ機会まで奪おうとしていたのかもしれない。


「……すみません」


 父親は少しだけ笑った。


「謝るな。聞け」


「……はい」


「お前に頼みたいことは一つだけだ」


 俺は顔を上げた。


「何ですか?」


「トーマが困った時、話を聞いてやってくれ」


 俺は息を止めた。


「……それだけ?」


「ああ」


「仕事は?」


「必要なら頼む」


「お金は?」


「必要なら相談する」


 父親は静かに続けた。


「でも、あいつが自分でやるって決めたことまで、お前が背負う必要はねえ」


 俺はしばらく何も言えなかった。


 それから、ゆっくり頷いた。


「……分かりました」


 父親が笑った。


「よし」


 そして。


「じゃあ、まずは工房の掃除から頼む」


「結局働くんかい!」


「無職だろ?」


「無職の扱い雑すぎる!」


 父親が声を上げて笑った。


 俺も笑った。


 でも、その笑顔を見て、少しだけ救われた気がした。


 父親の脚は、まだ治っていない。


 工房も、これからどうなるか分からない。


 でも。


 全部が終わったわけじゃない。


 まだ、できることがある。


          ◇ ◇ ◇


 その日の午後、俺はトーマと一緒に工房の片づけをしていた。


 父親が使っていた作業台には、途中まで作られた椅子が置かれている。


 トーマはその椅子を見つめていた。


「……親父、これ作ってたんだ」


「何?」


「俺が子どもの頃、座ってた椅子に似てる」


 トーマは木材へ手を伸ばした。


「……たぶん、作り直そうとしてたんだと思う」


 俺は隣に立った。


「作れる?」


「分からない」


 トーマは少し笑った。


「でも、やってみる」


「うん」


「レン」


「何?」


「昨日のこと、まだ怖い」


 俺は頷いた。


「俺も」


「また力を使うの、正直怖い」


「……うん」


「でも、使わないままじゃ、何も分からない」


 トーマは自分の右手を見つめた。


「だから、もう一回練習したい」


 俺は少し考えた。


 昨日、俺はトーマに力を使うよう頼んだ。


 結果的に、父親が傷ついた。


 だから、今度は簡単に頷けなかった。


「……安全な場所で?」


「ああ」


「外れても困らないものだけ?」


「うん」


「誰かが近くにいない状態で?」


「そうする」


 俺は頷いた。


「じゃあ、やろう」


 トーマが笑った。


「ありがとう」


「ただし」


「何?」


「俺も練習する」


「ブレイカー?」


「うん」


 俺は右手を見た。


 何を壊すのか。


 何を残すのか。


 それを分からないまま使わない。


 今日の失敗を、次に繰り返さないために。


「……一緒に上手くなろう」


 トーマが頷いた。


「ああ」


 その時、工房の入口で小さな音がした。


 誰かが扉を叩いたらしい。


「はーい!」


 俺が返事をすると、見知らぬ男が立っていた。


 年齢は四十代くらい。


 地味な灰色の服を着て、手には小さな木箱を持っている。


「こちら、トーマさんの工房でしょうか」


「そうですけど」


 トーマが答える。


 男は丁寧に頭を下げた。


「職業管理院本部から参りました」


 俺の身体が強張った。


 男は穏やかに続ける。


「昨日の事故について、補償手続きのご案内です」


 トーマが顔を上げた。


「補償?」


「はい。負傷された方の治療費と、工房の営業損失について、本部が支援する制度があります」


 俺は少しだけ疑った。


 タイミングが良すぎる。


 でも、本当に支援制度があるのかもしれない。


「レグルさんから?」


 俺が聞くと、男は首を横に振った。


「本部から直接です」


「……なるほど」


 男は木箱を開いた。


 中には、銀色の小さな板が入っていた。


 見覚えのある形。


 昨日、セドリックが使った装置に似ている。


 俺は反射的に一歩前へ出た。


「それ、何ですか?」


「補償申請用の認証板です」


 男は笑った。


「対象者の性質を確認するためのものです」


 トーマが俺を見る。


 俺は首を横に振った。


「ちょっと待って」


 男の笑顔が僅かに変わる。


「何か?」


「申請するかどうか、本人が決める前に認証する必要あります?」


「制度上、必要です」


「じゃあ、説明書ください」


「……説明書?」


「はい。あと、レグルさんに確認します」


 男はしばらく黙っていた。


 そして。


「……やはり、あなたがいると面倒ですね」


 声が変わった。


 柔らかな笑みが消える。


 俺は一歩後ろへ下がった。


「……誰?」


 男は木箱を閉じた。


「名前など、どうでもいいでしょう」


 その言葉と同時に、男の足元へ黒い線が広がった。


 俺は右手を握る。


 ブレイカー。


 でも、まだ使わない。


 何を切るのか分からないから。


「トーマ、下がって」


 俺が言うと、トーマはすぐに後ろへ下がった。


 男は静かに笑った。


「安心してください。今日は誰も傷つけません」


「信用できると思う?」


「できないでしょうね」


 男はあっさり認めた。


「ですが、目的は果たしました」


「……何を?」


 男は俺を見つめた。


「あなたが、昨日の失敗をどう受け止めたか」


 俺は息を止めた。


「……昨日の事故、知ってるの?」


「もちろん」


 男は笑った。


「非常に良い育成課題でした」


 その瞬間。


 俺の中で何かが冷たくなった。


「……育成課題?」


「はい」


 男は続ける。


「喪失を経験し、人は成長する。あなたは今日、それを証明した」


 俺は右手を握りしめた。


 昨日の事故。


 トーマの父親。


 傷ついた脚。


 工房。


 全部。


 誰かが見ていた?


 いや。


 まさか。


「……お前らが、やったのか?」


 俺が聞くと、男は首を傾げた。


「何を?」


「荷車の事故」


 男は少しだけ笑った。


「事故を起こしたのは、あなた方でしょう?」


 俺は何も言えなかった。


「私たちは、ただ観察していただけです」


 その言葉が、妙に引っかかった。


 観察。


 育成。


 課題。


 全部。


 人の人生を、何かの実験みたいに扱っている。


「……ふざけるな」


 俺は低く言った。


 男は笑った。


「怒りもまた、成長の一部です」


 俺は右手を上げた。


 でも。


 そこで止めた。


 怒りだけで切るな。


 昨日、自分で決めたことだ。


 男は俺の手を見て、少しだけ目を細めた。


「……なるほど」


「何が?」


「今日は、壊さないのですね」


 俺は答えなかった。


 男は満足そうに頷いた。


「素晴らしい」


 その言葉が、何より腹立たしかった。


 褒められたくない。


 こんな奴に。


「……帰れ」


 俺が言うと、男は静かに頭を下げた。


「では、また」


 足元の黒い線が揺れる。


 次の瞬間、男の姿が薄くなった。


 俺は追わなかった。


 追えなかった。


 ただ、男が消える直前。


 小さな声が聞こえた。


「次は、あなたが選ぶ番です」


 男の姿が消えた。


 工房には、俺とトーマだけが残された。


 しばらく、誰も話さなかった。


 やがて、トーマが呟いた。


「……レン」


「うん」


「俺たち、見られてたんだな」


「……たぶん」


 トーマは自分の右手を見た。


「……気持ち悪いな」


「うん」


 俺は頷いた。


 本当に。


 気持ち悪い。


 俺たちが悩んだことも。


 失敗したことも。


 誰かが傷ついたことも。


 全部。


 育成の進行として記録されている。


 それが。


 許せなかった。


 俺は工房の外へ目を向けた。


 夕方の空が赤く染まり始めている。


 その色を見ながら、俺は静かに呟いた。


「……勝手に育てんなよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 でも。


 確かに。


 そう思った。


          ◇ ◇ ◇


 職業管理院本部。


 地下の円形装置の前で、セドリックは報告を受けていた。


「……喪失の課題は?」


 部下が答える。


「完了と判定されました」


「素晴らしい」


 セドリックは微笑んだ。


「対象の反応は?」


「自己責任の認識、他者への謝罪、償いの意思、能力使用への慎重化を確認」


「なるほど」


 セドリックは満足そうに頷いた。


「非常に良い成長ですね」


 装置の表面に、文字が浮かぶ。


【第109代育成対象】


【育成課題:喪失】


【判定:完了】


 セドリックはその表示を眺めた。


 そして、静かに笑った。


「……では、次へ進みましょう」


 部下が尋ねる。


「次の課題は?」


 セドリックは装置へ手をかざした。


 文字が変わる。


【次回育成課題】


【裏切り】


 セドリックの笑みが深くなる。


「今度は、彼が誰を信じるのかを確かめましょう」


 装置の奥で、空席の一つが淡く光った。


【育成者候補:一名】


【育成進行:継続】


 そして。


 誰も触れていないはずの装置に、もう一つの文字が浮かんだ。


【裏切り候補:選定中】


 セドリックはその文字を見つめた。


「……さて」


 静かな声が、地下室へ響く。


「誰が、彼を裏切るのでしょうね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。