神託ログ11『守ったものの代償』
その日の朝、俺は一通の手紙を受け取った。
差出人は、トーマだった。
正確には、トーマの父親が経営する木工房からの依頼書である。大神殿の受付を通して届けられたそれには、工房の修繕を手伝ってほしいという、ごく普通の内容が書かれていた。
ただし、最後に一文だけ余計なものがあった。
『無職でもできる仕事を用意しておく』
「……喧嘩売ってる?」
思わず呟くと、隣で朝食を食べていたリナが手紙を覗き込んだ。
「いいじゃん。仕事もらえて」
「俺、無職を理由に仕事を選べない立場なの?」
「選べるよ。断ってもいいんじゃない?」
「……断ったら負けた気がする」
「じゃあ行こう」
「判断早いな!」
リナは笑いながらパンをちぎった。
俺はもう一度依頼書を見た。
工房の屋根の一部が傷んでいるらしい。先日の強風で雨樋が外れ、作業場の奥へ雨水が入り込んだという。
修理自体はトーマと父親でできるが、資材を運ぶ人手が足りないそうだ。
危険な仕事ではない。
報酬も出る。
そして何より、トーマが自分の力を制御する練習にもなるかもしれない。
「よし。行こう」
『その前に確認することがある』
エリオスの声が響いた。
「何?」
『昨日の育成管理記録についてだ』
俺は手紙を置いた。
レグルと一緒に調べた、二百年前の記録。
育成者。
育成対象。
完了判定。
そして、育成者資格の剥奪条件。
あれから七柱は、何か分かったのだろうか。
「進展あった?」
『確証のある情報は得られていない』
「……そっか」
『ただし、今後の対応について話し合った』
「対応?」
『お前が誰かを助ける時、我々は以前より慎重に助言する』
俺は眉を寄せた。
「どういうこと?」
『育成管理機構が、他者との関わりを成長として記録している可能性がある』
「つまり、俺がトーマを手伝ったり、ソラに何か教えたりすることも?」
『その可能性は否定できない』
俺は少し考えた。
昨日、ソラが落ち葉を浮かせる練習をした時、右腕の黒い線に【育成進行:確認】という文字が現れた。
俺たちはただ練習していただけだ。
それなのに、どこかで誰かが進み具合を記録していた。
「……じゃあ、誰も助けない方がいい?」
『そうは言っていない』
エリオスの声が少し強くなる。
『記録されることを恐れて、お前が自分の意思を捨てる必要はない』
「でも、利用されるかもしれないんでしょ?」
『ああ』
「難しいな」
『だから考える』
その答えに、俺は少し笑った。
「神様も結局それか」
『お前に教えてきたことだからな』
俺は椅子から立ち上がった。
分からないことは多い。
でも、トーマが困っている。
それなら、まず本人に話を聞こう。
助けるかどうかは、それから決めればいい。
◇ ◇ ◇
木工房へ着くと、トーマが店先で大きな板を運んでいた。
朝の町はすでに活気づいている。通りを行き交う荷車の音に混じって、近くの鍛冶屋から金属を打つ音が聞こえていた。
工房の前には、修理用の木材が何本も積まれている。
「おーい、トーマ!」
俺が手を振ると、トーマが振り返った。
「お、来たな!」
「来てやったぞ、無職代表として!」
「誰も代表にしてねえよ!」
トーマが笑った。
その奥から、父親が顔を出す。
「来たか、無職」
「親子そろって名前覚えて!」
「仕事が終わったら覚える」
「理不尽!」
リナが笑いながら木材へ近づいた。
「何を運べばいい?」
「助かる。奥の倉庫から屋根材を持ってきてほしい」
父親が指示する。
俺たちはさっそく作業を始めた。
木材を運ぶだけなら、俺にもできる。
そう思っていた。
……甘かった。
「重っ!」
長い板を持ち上げた瞬間、腕が震えた。
「レン、大丈夫?」
「大丈夫……たぶん……」
「無理しないでね」
「リナ、それ一人で持ってるの?」
「うん」
「俺の存在意義!」
リナは俺が苦労して持っている板と同じ大きさのものを、軽々と肩に担いでいた。
狩剣士の身体能力なのか、単純に鍛え方の違いなのか。
たぶん両方だ。
『腰を使え、腰を!』
ガルドが指導を始める。
『腕だけで持ち上げるな!』
「分かってる!」
『分かってないから言ってる!』
『持つ位置も悪い』
今度はヴォルグだ。
『重心を見ろ』
「神様二人がかりで木材運搬の指導!?」
『いい訓練になる』
「便利に使われてるだけじゃん!」
そんなやり取りをしながら、俺たちは資材を運び続けた。
最初はただの力仕事だったが、途中からトーマも加わった。
彼は自分の性質が暴発しないよう、留め具や継ぎ目に触れる時は必ず一度手を止めていた。
以前なら、嫌だと思っただけで勝手に物が外れていた。
今は違う。
自分が何を外そうとしているのか、考えてから手を動かしている。
「トーマ、だいぶ慣れたね」
「まだ怖いけどな」
トーマは木箱の金具を見つめながら答えた。
「でも、怖いからって何もしなかったら、ずっと怖いままだろ」
「……そうだな」
「それに、親父の仕事も手伝いたいし」
俺は少し笑った。
以前のトーマなら、父親に言われたから木工をやっていると思っていたかもしれない。
でも今は、自分で選んでここにいる。
それが嬉しかった。
ただ、その時。
工房の奥から、父親の怒鳴り声が響いた。
「トーマ! こっちへ来い!」
「何だよ、親父!」
「この金具、外せるか!」
俺たちは顔を見合わせた。
奥の作業場では、屋根の修理に使う古い固定具が錆びつき、どうしても外れなくなっていた。
普通なら切断するしかないらしい。
だが、固定具のすぐ下には、まだ使える木材が組み込まれている。
無理に切れば、周囲まで傷つける可能性がある。
「……やってみる」
トーマが言った。
父親は少しだけ不安そうだったが、頷いた。
「無理はするな」
「分かってる」
トーマは固定具へ手を伸ばした。
俺は隣で見守る。
右手が触れる。
金属が小さく震える。
そして。
カチン。
固定具だけが外れた。
「……おお!」
父親が目を見開いた。
トーマも驚いている。
「できた……」
「すげえじゃん!」
俺が声を上げると、トーマが嬉しそうに笑った。
父親は外れた固定具を手に取り、しばらく眺めていた。
それから。
「……便利だな」
ぽつりと呟いた。
トーマの表情が変わる。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「……便利?」
「ああ。これなら、古い家具の修理にも使える」
父親は悪気なく言ったのだろう。
でも、トーマは何も答えなかった。
俺はその横顔を見て、少し気になった。
便利。
確かにそうだ。
でも、トーマが欲しかったのは、便利な道具として認められることじゃない。
自分で木工を選んだことを、父親に認めてもらうことだったはずだ。
「……親父」
トーマが口を開く。
「俺、この力がなくても木工やりたいからな」
父親が顔を上げた。
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
父親は固定具を作業台へ置いた。
「お前が作った椅子、まだ店に置いてあるだろ」
「……うん」
「あれ、売らずに残してる」
「何で?」
「出来が悪いからだ」
「おい!」
俺は思わず笑った。
父親は続けた。
「だが、最初に自分で考えて作った椅子だろ」
トーマが黙る。
「俺は、ああいうのを作れる職人になってほしい」
父親は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……力が便利なのは本当だ。でも、それだけでお前を見てるわけじゃねえ」
トーマはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった」
俺はその様子を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
よかった。
ちゃんと話せた。
そう思った。
その直後だった。
◇ ◇ ◇
工房の外で、激しい音が響いた。
何かが倒れたような、鈍い衝撃音。
続いて、悲鳴。
「何だ!?」
俺たちは慌てて外へ飛び出した。
通りの向こうで、一台の荷車が横倒しになっていた。
積まれていた木箱が散乱し、荷馬車を引いていた馬が興奮して暴れている。
周囲の人々が逃げ惑う中、一人の小さな子どもが道路の真ん中で立ち尽くしていた。
「危ない!」
リナが駆け出す。
俺も走った。
馬が前脚を高く上げる。
子どもは動けない。
距離がある。
間に合うか?
『レン!』
ガルドの声が響いた。
『左から回れ!』
俺は反射的に方向を変えた。
リナが正面から子どもへ向かう。
俺は荷車の横へ回り込んだ。
馬が暴れる原因を探す。
車輪。
荷台。
そして。
馬の脚に絡まった一本の縄。
荷車の固定具が壊れ、縄が脚へ巻きついている。
これを外せば。
「トーマ!」
俺は叫んだ。
「縄、外せるか!?」
工房から飛び出してきたトーマが、状況を見た。
「……やってみる!」
俺は一瞬迷った。
トーマの力は、まだ完全には制御できない。
何が外れるか分からない。
でも、今は時間がない。
リナは子どもへ向かっている。
馬は暴れている。
俺のブレイカーなら、縄だけを切れるかもしれない。
ただ、縄の向こうには馬の脚がある。
切る場所を間違えたら。
……駄目だ。
考えている時間がない。
「トーマ、頼む!」
俺は叫んだ。
トーマが馬へ近づく。
右手を伸ばす。
縄が震える。
そして。
外れた。
……はずだった。
次の瞬間。
荷車の車輪が、軸から外れた。
「……え?」
誰かが呟いた。
横倒しになっていた荷車が、さらに大きく傾く。
積まれていた木箱が一斉に滑り落ちる。
その先には。
トーマの父親がいた。
「親父!」
トーマが叫んだ。
俺は反射的に右手を伸ばした。
ブレイカー。
切る。
何を?
木箱?
荷車?
重さ?
分からない。
でも。
今、何もしなかったら。
父親が潰される。
「――壊れろ!」
俺は叫んだ。
その瞬間。
荷車の一部が、音を立てて砕けた。
木材が散乱する。
衝撃が広がる。
そして。
父親の身体が、崩れた荷台の下へ消えた。
「……親父?」
トーマの声が震えた。
俺は動けなかった。
今。
何を切った?
何を壊した?
助けようとした。
でも。
何が起きた?
「レン!」
リナの声で我に返った。
彼女は子どもを抱えて、通りの端へ避難していた。
「こっち手伝って!」
俺は走った。
崩れた荷台の下へ手を伸ばす。
父親は意識があった。
でも、右脚が木材の下敷きになっている。
「……親父!」
トーマが膝をついた。
「大丈夫か!?」
「……うるせえ」
父親が苦しそうに笑った。
「まだ生きてる」
俺は胸を撫で下ろした。
でも、すぐに気づく。
右脚。
血が出ている。
骨が折れているかもしれない。
「フィリア!」
『分かっています!』
フィリアの声が響く。
『まず、荷重を取り除いてください。無理に脚を引き抜かないで』
「分かった!」
リナと俺、そして近くにいた男たちが協力して木材を持ち上げる。
父親の脚が解放された。
フィリアが治癒の力を使う。
淡い光が傷口を包む。
出血が少しずつ止まっていく。
でも。
父親の顔から、痛みは消えなかった。
『……レン』
フィリアの声が震えた。
「何?」
『骨と筋肉に損傷があります。応急処置はできますが、完全に元へ戻せるかは分かりません』
俺は息を止めた。
「……え?」
『治療が必要です。すぐに医療院へ』
トーマが父親の手を握った。
「親父……」
「……大丈夫だ」
父親は苦しそうに笑った。
「こんなもん、すぐ治る」
でも。
その言葉が強がりだと、誰にでも分かった。
◇ ◇ ◇
医療院へ運ばれた父親は、しばらく治療室から出てこなかった。
俺とトーマ、リナは廊下の長椅子に座っていた。
誰も話さない。
窓の外では、夕方の光がゆっくり薄れていく。
さっきまで、工房で笑っていた。
父親とトーマが、ようやく少しだけ本音を話せた。
それなのに。
今。
父親は治療室の中にいる。
俺は自分の右手を見た。
ブレイカー。
壊すものを選ぶ力。
でも、さっきの俺は選べていなかった。
ただ、壊れろと叫んだ。
何を壊すのかも分からないまま。
「……ごめん」
俺は呟いた。
トーマが顔を上げる。
「何が?」
「俺が、ちゃんと考えなかったから」
トーマは何も言わなかった。
「トーマに頼んだのも俺だし、最後にブレイカーを使ったのも俺だ」
「……」
「だから」
「レン」
トーマが遮った。
その声は、思っていたより静かだった。
「俺も、外すものを間違えた」
「でも、俺が頼まなきゃ」
「頼まれたからって、使ったのは俺だ」
俺は何も言えなかった。
トーマは自分の手を見つめた。
「……怖かったんだ」
「何が?」
「何もしなかったら、あの子が死ぬかもしれないって」
俺は頷いた。
「うん」
「だから、できると思った」
トーマの声が少し震えた。
「昨日、留め具を外せたから。今日もできるって思った」
俺は目を閉じた。
同じだった。
俺も、昨日セドリックの接続を切れたから、今日も何かを切れると思っていた。
でも、違った。
相手も。
状況も。
切るものも。
全部違った。
「……俺たち、調子に乗ってたのかな」
俺が呟くと、トーマは首を横に振った。
「分からない」
少し間を置いて、続ける。
「でも、俺は使うって決めた」
「……うん」
「だから、親父がどうなっても、俺のせいじゃないって言うつもりはない」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は何も言えなかった。
リナが静かに口を開く。
「二人とも」
俺たちは顔を上げた。
「今、誰が一番悪いか決めても、お父さんの脚は治らないよ」
その言葉は厳しかった。
でも、正しかった。
「……うん」
「だから、まずは先生の話を聞こう」
俺たちは頷いた。
しばらくして、治療室の扉が開いた。
医師が出てくる。
「ご家族の方は?」
トーマが立ち上がった。
「俺です」
医師は頷き、静かに説明を始めた。
父親の命に別状はない。
出血も止まっている。
ただし、右脚の骨と筋肉に大きな損傷があり、しばらくは歩くことも難しい。
治療には時間がかかる。
そして。
「……以前と同じように仕事ができるかは、まだ分かりません」
その言葉を聞いた瞬間。
トーマの顔から、血の気が引いた。
木工職人。
父親の仕事。
手で作り、足で立ち、工房を守ってきた人間。
その人が。
今までどおり働けないかもしれない。
「……そんな」
トーマが呟いた。
俺は何も言えなかった。
フィリアの力でも、すぐには治せない。
神様がいても。
俺がいても。
失われたものを、簡単には戻せない。
◇ ◇ ◇
夜になってから、俺は一人で医療院の外へ出た。
石段に腰を下ろし、暗くなった空を見上げる。
星がいくつも輝いていた。
この世界へ来たばかりの頃は、夜空を見る余裕なんてなかった。
神様七人に囲まれて、無職だと言われて、意味の分からない訓練をさせられて。
毎日、何かに振り回されていた。
でも、あの頃は。
失敗しても、笑って終われることが多かった。
今は違う。
俺の選択で、誰かが傷つく。
俺の判断で、誰かの人生が変わる。
それが怖かった。
「……なあ」
俺は空へ向かって呼びかけた。
「七柱」
『聞いている』
エリオスが答えた。
「俺、間違えた」
『ああ』
即答だった。
少しだけ胸が痛む。
「……そこは慰めてくれてもよくない?」
『慰めてほしいのか?』
俺は少し考えた。
「……分からん」
『なら、今は事実を話す』
エリオスの声は静かだった。
『お前は、対象を十分に認識しないままブレイカーを使った』
「うん」
『トーマへ性質の使用を頼んだ時も、失敗した場合の危険を考えきれていなかった』
「……うん」
『それは判断の誤りだ』
俺は俯いた。
分かっていた。
でも、神様に言われると、やっぱり苦しい。
『ただし』
エリオスが続けた。
『あの場で何もしなければ、別の被害が出た可能性もある』
「……うん」
『だからといって、結果が正当化されるわけではない』
「分かってる」
『なら、次にどうするか考えろ』
俺は顔を上げた。
「……次?」
『ああ』
「でも、もう起きたことは戻せない」
『そうだ』
「じゃあ、どうしたらいい?」
少し間があった。
答えたのはフィリアだった。
『レン』
「何?」
『謝ることと、償うことは違います』
俺は黙った。
『あなたが申し訳ないと思う気持ちは、大切です。でも、その気持ちだけでトーマさんのお父様の生活は戻りません』
「……うん」
『今、必要なのは、何ができるかを考えることです』
俺は自分の手を見つめた。
何ができる?
治療費。
工房の仕事。
トーマの手伝い。
父親が戻るまでの生活。
全部、俺一人で何とかできるわけじゃない。
でも。
できることはある。
「……メルク」
『はいはい』
「お金のこと、相談していい?」
『もちろん』
「治療費とか、工房の収入とか、どうしたらいいか分からない」
『まずは状況を整理しよう。何が必要で、誰が何を負担できるかを確認するんだ』
「うん」
『ただし、レン』
「何?」
『全部お前が払えば解決すると思うなよ』
俺は少し驚いた。
「……何で分かった?」
『顔に書いてある』
「神様って顔見えるの!?」
『比喩だよ』
メルクが笑った。
『お金で解決できることはある。でも、お金だけで戻らないものもある。だからこそ、相手が何を望んでいるか聞くんだ』
俺は頷いた。
助ける前に聞く。
何度も教わったことだ。
でも、今日の俺はそれを忘れていた。
急いでいた。
怖かった。
誰かが傷つくのが嫌だった。
だから、勝手に決めた。
「……明日、トーマと親父さんに聞く」
『それがいい』
俺は立ち上がった。
まだ怖い。
でも、逃げたくなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、俺はトーマの父親の病室を訪ねた。
右脚には厚い固定具がつけられている。
父親はベッドへ腰掛け、窓の外を眺めていた。
俺を見ると、少しだけ眉を上げる。
「……無職」
「おはようございます」
「朝から何だ」
「謝りに来ました」
父親は黙った。
俺は深く頭を下げた。
「昨日、俺がブレイカーを使ったことで、荷車が壊れて……」
「待て」
父親が遮った。
俺は顔を上げる。
「お前が全部壊したのか?」
「……分かりません」
「なら、分からんことまで自分のせいにするな」
俺は言葉に詰まった。
父親は続けた。
「荷車が倒れたのは、お前が来る前だろ」
「はい」
「トーマが車輪を外したのは、馬を助けようとしたからだろ」
「はい」
「お前も、俺を助けようとしたんだろ」
「……はい」
父親は小さく息を吐いた。
「なら、全部を一人のせいにするのは違う」
俺は何も言えなかった。
「ただし」
父親の声が少し強くなる。
「お前が何を壊したか分からないまま力を使ったのは、間違いだ」
「……はい」
「そこは反省しろ」
「はい」
「でも、反省したからって俺の脚が治るわけじゃねえ」
俺は頷いた。
「……だから、できることを考えたいです」
父親は俺を見た。
「何を?」
「工房の仕事とか、治療費とか」
「金なら何とかする」
「でも」
「トーマがいる」
父親は窓の外へ目を向けた。
「俺が動けない間、あいつが工房を守る」
俺は少し驚いた。
「……トーマが?」
「ああ」
「でも、まだ若いし」
「だから何だ」
父親は俺を見た。
「若いから任せないのか?」
俺は黙った。
「失敗するかもしれないから、やらせないのか?」
その言葉が胸に刺さった。
俺は、トーマを守ろうとしていた。
でも。
守るという理由で、トーマが選ぶ機会まで奪おうとしていたのかもしれない。
「……すみません」
父親は少しだけ笑った。
「謝るな。聞け」
「……はい」
「お前に頼みたいことは一つだけだ」
俺は顔を上げた。
「何ですか?」
「トーマが困った時、話を聞いてやってくれ」
俺は息を止めた。
「……それだけ?」
「ああ」
「仕事は?」
「必要なら頼む」
「お金は?」
「必要なら相談する」
父親は静かに続けた。
「でも、あいつが自分でやるって決めたことまで、お前が背負う必要はねえ」
俺はしばらく何も言えなかった。
それから、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
父親が笑った。
「よし」
そして。
「じゃあ、まずは工房の掃除から頼む」
「結局働くんかい!」
「無職だろ?」
「無職の扱い雑すぎる!」
父親が声を上げて笑った。
俺も笑った。
でも、その笑顔を見て、少しだけ救われた気がした。
父親の脚は、まだ治っていない。
工房も、これからどうなるか分からない。
でも。
全部が終わったわけじゃない。
まだ、できることがある。
◇ ◇ ◇
その日の午後、俺はトーマと一緒に工房の片づけをしていた。
父親が使っていた作業台には、途中まで作られた椅子が置かれている。
トーマはその椅子を見つめていた。
「……親父、これ作ってたんだ」
「何?」
「俺が子どもの頃、座ってた椅子に似てる」
トーマは木材へ手を伸ばした。
「……たぶん、作り直そうとしてたんだと思う」
俺は隣に立った。
「作れる?」
「分からない」
トーマは少し笑った。
「でも、やってみる」
「うん」
「レン」
「何?」
「昨日のこと、まだ怖い」
俺は頷いた。
「俺も」
「また力を使うの、正直怖い」
「……うん」
「でも、使わないままじゃ、何も分からない」
トーマは自分の右手を見つめた。
「だから、もう一回練習したい」
俺は少し考えた。
昨日、俺はトーマに力を使うよう頼んだ。
結果的に、父親が傷ついた。
だから、今度は簡単に頷けなかった。
「……安全な場所で?」
「ああ」
「外れても困らないものだけ?」
「うん」
「誰かが近くにいない状態で?」
「そうする」
俺は頷いた。
「じゃあ、やろう」
トーマが笑った。
「ありがとう」
「ただし」
「何?」
「俺も練習する」
「ブレイカー?」
「うん」
俺は右手を見た。
何を壊すのか。
何を残すのか。
それを分からないまま使わない。
今日の失敗を、次に繰り返さないために。
「……一緒に上手くなろう」
トーマが頷いた。
「ああ」
その時、工房の入口で小さな音がした。
誰かが扉を叩いたらしい。
「はーい!」
俺が返事をすると、見知らぬ男が立っていた。
年齢は四十代くらい。
地味な灰色の服を着て、手には小さな木箱を持っている。
「こちら、トーマさんの工房でしょうか」
「そうですけど」
トーマが答える。
男は丁寧に頭を下げた。
「職業管理院本部から参りました」
俺の身体が強張った。
男は穏やかに続ける。
「昨日の事故について、補償手続きのご案内です」
トーマが顔を上げた。
「補償?」
「はい。負傷された方の治療費と、工房の営業損失について、本部が支援する制度があります」
俺は少しだけ疑った。
タイミングが良すぎる。
でも、本当に支援制度があるのかもしれない。
「レグルさんから?」
俺が聞くと、男は首を横に振った。
「本部から直接です」
「……なるほど」
男は木箱を開いた。
中には、銀色の小さな板が入っていた。
見覚えのある形。
昨日、セドリックが使った装置に似ている。
俺は反射的に一歩前へ出た。
「それ、何ですか?」
「補償申請用の認証板です」
男は笑った。
「対象者の性質を確認するためのものです」
トーマが俺を見る。
俺は首を横に振った。
「ちょっと待って」
男の笑顔が僅かに変わる。
「何か?」
「申請するかどうか、本人が決める前に認証する必要あります?」
「制度上、必要です」
「じゃあ、説明書ください」
「……説明書?」
「はい。あと、レグルさんに確認します」
男はしばらく黙っていた。
そして。
「……やはり、あなたがいると面倒ですね」
声が変わった。
柔らかな笑みが消える。
俺は一歩後ろへ下がった。
「……誰?」
男は木箱を閉じた。
「名前など、どうでもいいでしょう」
その言葉と同時に、男の足元へ黒い線が広がった。
俺は右手を握る。
ブレイカー。
でも、まだ使わない。
何を切るのか分からないから。
「トーマ、下がって」
俺が言うと、トーマはすぐに後ろへ下がった。
男は静かに笑った。
「安心してください。今日は誰も傷つけません」
「信用できると思う?」
「できないでしょうね」
男はあっさり認めた。
「ですが、目的は果たしました」
「……何を?」
男は俺を見つめた。
「あなたが、昨日の失敗をどう受け止めたか」
俺は息を止めた。
「……昨日の事故、知ってるの?」
「もちろん」
男は笑った。
「非常に良い育成課題でした」
その瞬間。
俺の中で何かが冷たくなった。
「……育成課題?」
「はい」
男は続ける。
「喪失を経験し、人は成長する。あなたは今日、それを証明した」
俺は右手を握りしめた。
昨日の事故。
トーマの父親。
傷ついた脚。
工房。
全部。
誰かが見ていた?
いや。
まさか。
「……お前らが、やったのか?」
俺が聞くと、男は首を傾げた。
「何を?」
「荷車の事故」
男は少しだけ笑った。
「事故を起こしたのは、あなた方でしょう?」
俺は何も言えなかった。
「私たちは、ただ観察していただけです」
その言葉が、妙に引っかかった。
観察。
育成。
課題。
全部。
人の人生を、何かの実験みたいに扱っている。
「……ふざけるな」
俺は低く言った。
男は笑った。
「怒りもまた、成長の一部です」
俺は右手を上げた。
でも。
そこで止めた。
怒りだけで切るな。
昨日、自分で決めたことだ。
男は俺の手を見て、少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
「何が?」
「今日は、壊さないのですね」
俺は答えなかった。
男は満足そうに頷いた。
「素晴らしい」
その言葉が、何より腹立たしかった。
褒められたくない。
こんな奴に。
「……帰れ」
俺が言うと、男は静かに頭を下げた。
「では、また」
足元の黒い線が揺れる。
次の瞬間、男の姿が薄くなった。
俺は追わなかった。
追えなかった。
ただ、男が消える直前。
小さな声が聞こえた。
「次は、あなたが選ぶ番です」
男の姿が消えた。
工房には、俺とトーマだけが残された。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて、トーマが呟いた。
「……レン」
「うん」
「俺たち、見られてたんだな」
「……たぶん」
トーマは自分の右手を見た。
「……気持ち悪いな」
「うん」
俺は頷いた。
本当に。
気持ち悪い。
俺たちが悩んだことも。
失敗したことも。
誰かが傷ついたことも。
全部。
育成の進行として記録されている。
それが。
許せなかった。
俺は工房の外へ目を向けた。
夕方の空が赤く染まり始めている。
その色を見ながら、俺は静かに呟いた。
「……勝手に育てんなよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
でも。
確かに。
そう思った。
◇ ◇ ◇
職業管理院本部。
地下の円形装置の前で、セドリックは報告を受けていた。
「……喪失の課題は?」
部下が答える。
「完了と判定されました」
「素晴らしい」
セドリックは微笑んだ。
「対象の反応は?」
「自己責任の認識、他者への謝罪、償いの意思、能力使用への慎重化を確認」
「なるほど」
セドリックは満足そうに頷いた。
「非常に良い成長ですね」
装置の表面に、文字が浮かぶ。
【第109代育成対象】
【育成課題:喪失】
【判定:完了】
セドリックはその表示を眺めた。
そして、静かに笑った。
「……では、次へ進みましょう」
部下が尋ねる。
「次の課題は?」
セドリックは装置へ手をかざした。
文字が変わる。
【次回育成課題】
【裏切り】
セドリックの笑みが深くなる。
「今度は、彼が誰を信じるのかを確かめましょう」
装置の奥で、空席の一つが淡く光った。
【育成者候補:一名】
【育成進行:継続】
そして。
誰も触れていないはずの装置に、もう一つの文字が浮かんだ。
【裏切り候補:選定中】
セドリックはその文字を見つめた。
「……さて」
静かな声が、地下室へ響く。
「誰が、彼を裏切るのでしょうね」




