神託ログ09『神託に従わない日』
翌朝、俺のところへ職業管理院から呼び出しが届いた。
正確には、呼び出しというより面会の依頼だったらしい。
その違いをわざわざ説明してくれたのは、昨日の夕方、管理院の地下で少しだけ顔を合わせた若い査定官だった。
「特別査定部主任、レグル・ハイゼンより面会の申し入れです」
大神殿の入口で、ディンと名乗った男は背筋を伸ばしたままそう告げた。
濃紺の制服には銀色の徽章がついている。昨日、ミアへ剣を向けた時と同じ服装だ。ただ、今朝は剣の柄へ手を置いていない。
「面会って、俺が管理院へ行くってこと?」
「はい。ただし、任意です」
「任意?」
「拒否することもできます」
「……本当に?」
ディンの眉がわずかに動いた。
「そのように申し伝えるよう、主任から指示されています」
「なるほど」
俺は少し考えた。
レグルなら、たしかにそう言いそうだ。
昨日のあの人は、本人の意思を確認することの大切さを、嫌というほど思い知らされていた。俺が何度も口を挟んだせいでもある。
ただ、問題はそこじゃない。
「ちなみに、何の話?」
「詳細は主任から直接説明するとのことです」
「それ、任意で呼ばれる側としては結構怖いんだけど」
「……私もそう思います」
「え?」
思わず聞き返した。
ディンは自分の発言に気づいたらしく、慌てて咳払いをする。
「失礼しました」
「いや、今の本音?」
「職務上、お答えできません」
「答え合わせ終わったじゃん!」
後ろでリナが笑った。
「レン、朝から元気だね」
「元気というか、嫌な予感しかしないんだけど」
「だったら断る?」
その問いに、俺は少しだけ黙った。
断れる。
少なくとも、今のところは。
でも、昨日ソラの報告書に現れた【旧育成管理記録】という文字が気になっていたし、神名のない神託についても、まだ聞けていないことが山ほどある。
行かない理由を探すより、行って確かめた方が早い。
「行く」
俺が答えると、ディンはわずかに安堵したようだった。
「ありがとうございます」
「ただし、リナも一緒で」
「同行者については主任から許可が出ています」
「あと、七柱も」
「……七柱?」
「神様七人」
ディンの顔が固まった。
「全員ですか?」
「全員」
『おう!』
ガルドが威勢よく返事をする。
『私は別に行かなくてもいいけど』
セレナは少し面倒そうだ。
『資料があるなら行きます』
ノアはいつもどおり。
『管理院の備品を壊すなよ』
ヴォルグ。
『壊した場合の請求先は明確にしておきたいねえ』
メルク。
『皆さん、落ち着いてくださいね』
フィリア。
『レン。今回はこちらも確認すべきことがある』
エリオス。
……うん。
七柱、通常運転。
「全員来るって」
俺が伝えると、ディンは困り果てた顔で手帳を開いた。
「神性存在の同行人数は、記載すべきでしょうか……」
「書いといて。後で増えたら困るし」
「増えるんですか!?」
「知らん!」
俺だって聞きたい。
第一章の最後、育成者の枠は七つで終わらなかった。
あれ以来、何が増えるのか分からないままだ。
ディンは手帳に何かを書き込み、深々と頭を下げた。
「それでは、準備ができましたらご案内します」
俺はリナと顔を見合わせた。
今日は、何かが起きる。
そんな予感がしていた。
ただし、予感が当たるかどうかなんて、まだ分からない。
最近は毎日のように事件が起きているせいで、平和な朝まで疑うようになってしまった。
……そろそろ普通に寝坊して怒られる日が欲しい。
◇ ◇ ◇
職業管理院の会議室には、すでにレグルが待っていた。
昨日までの地下検査室とは違い、地上階の窓に面した部屋だった。壁には周辺地域の地図が掛けられ、長机の上には水差しと人数分の杯が用意されている。
ただ、机の中央に置かれた封筒だけが、妙に場違いだった。
赤い封蝋。
職業管理院本部の紋章。
そして、その周囲を囲むように描かれた細い黒線。
俺はその線を見た瞬間、思わず足を止めた。
「……それ」
レグルが頷く。
「気づいたか」
「昨日はなかった?」
「ああ。夜中に現れた」
ディンが扉を閉める。
室内には俺、リナ、レグル、ディンの四人。神々の声は俺に届いているが、当然ながら他の三人には聞こえていない。
「まず、これを読んでほしい」
レグルが封筒から文書を取り出した。
そこには、未登録性質保有者への対応を変更する命令が記されていた。
必要に応じた強制隔離。
神性存在との接続遮断。
育成状態が覚醒と判定された者の通常手続きからの除外。
そして。
【第109代育成対象レン・アルヴェインを、特例対象として速やかに確保すること】
「…………」
俺は二度読んだ。
三度目を読もうとしたところで、リナが横から紙を覗き込む。
「レン、確保って書いてあるよ」
「見えてる」
「捕まえるってこと?」
「たぶん」
「じゃあ、何で普通に座ってるの?」
「俺も今それ考えてた!」
レグルが小さく息を吐いた。
「安心しろ。少なくとも私は、今この場で君を拘束するつもりはない」
「少なくともって言い方が怖いんですよ」
「正確に説明している」
「正確すぎる!」
けれど、レグルは笑わなかった。
「レン。この命令は本部長名義で発令されている。現場の査定官が無視できるものではない」
「じゃあ、どうするんですか?」
「確認する」
「何を?」
「命令の根拠だ」
レグルは文書の最下部を指した。
【本件は神託に基づく特別命令である】
その一文を見た瞬間、エリオスの声が低くなった。
『……神託か』
「どの神様の?」
俺が聞くと、レグルは首を横に振った。
「記載がない」
「じゃあ、神託かどうか分からないじゃん」
「そのとおりだ」
レグルはあっさり認めた。
「だが、正式な印章が押されている以上、行政上は有効な命令として扱われる」
「それ、おかしくない?」
「おかしい可能性があるから君を呼んだ」
……なるほど。
この人、昨日より話が早い。
「ノア」
『確認します』
「この封筒、神様の力がある?」
『微弱な反応があります。ただし、神性存在から直接発せられたものか、神力を利用した装置によるものかは判別できません』
「じゃあ、神託って断言できない?」
『できません』
俺はそのままレグルへ伝えた。
すると、レグルは少しだけ目を細めた。
「やはりか」
「予想してた?」
「ああ。通常の神託文書とは異なる点が多い」
「例えば?」
「神名がない。受信した神官の記録がない。発令までの審査過程がない」
レグルは指を折りながら説明した。
「それなのに、通常の手続きを飛ばして本部長の決裁が下りている」
「めちゃくちゃ怪しいじゃん!」
「怪しいという理由だけで無効にはできん」
「そこは真面目なんだ」
「真面目でなければ、この仕事は務まらない」
……確かに。
俺は文書を見直した。
問題は、命令が正しいか間違っているかだけじゃない。
誰かがこの命令を利用して、ソラやトーマのような人間を自由に連れていけるようになることだ。
しかも、俺まで確保対象になっている。
「レグルさん」
「何だ」
「これ、もう他の管理院にも届いてる?」
「ああ」
即答だった。
「管轄内の各支部へ通達されている」
俺の背中に冷たいものが走った。
「じゃあ、ソラは?」
「現時点では、私の管理下にいる」
「トーマは?」
「正式な保護対象ではない」
「ミアは?」
「所在不明だ」
俺は机の端を握った。
昨日までの問題が、一気に別の形へ変わっていく。
これまでは、レグルたちが本人の意思をどこまで尊重するかという話だった。
でも、今度は上から命令が来た。
しかも、その命令は本人の意思確認を不要としている。
「……これ、従ったらどうなる?」
レグルは少し間を置いて答えた。
「ソラは隔離される可能性が高い。トーマも性質保有者として正式に確認されれば、同様の対象になるだろう」
「俺は?」
「確保される」
「ですよね!」
「ただし」
レグルが俺を見る。
「私はまだ、君を確保すべき理由を理解していない」
その言葉は、思っていた以上に重かった。
レグルは制度を守る人間だ。
その人が、正式命令に疑問を持っている。
だからといって、味方になったわけじゃない。
でも、少なくとも今は同じ問題を見ている。
「分かりました」
俺は頷いた。
「じゃあ、一緒に調べましょう」
「……一緒に?」
「だって、レグルさんも分かってないんでしょ?」
「そうだが」
「俺も分かってない」
「知っている」
「なら、二人で分からないことを調べればいい」
レグルは数秒だけ俺を見つめた。
そして。
「本当に、面倒な男だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていない」
リナが笑った。
ディンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ただ、その直後だった。
会議室の扉が、三度叩かれた。
「主任。至急の報告です」
入ってきた職員の顔は青ざめていた。
「何だ」
「本部から監察官が到着しました」
レグルの表情が変わる。
「……予定より早いな」
「すでに一階受付におります」
「人数は?」
「四名です」
職員は一度言葉を止めた。
「そのうち一名が、特例対象の引き渡しを要求しています」
俺は嫌な予感がした。
「特例対象って……」
レグルが俺を見る。
「君だ」
「やっぱり!!」
◇ ◇ ◇
一階の受付には、黒い制服を着た男女が四人立っていた。
職業管理院の査定官が濃紺の制服なのに対し、彼らの服装はほとんど黒に近い。胸元には銀ではなく、金色の紋章がついている。
その中央に立つ男は、まだ三十代半ばくらいに見えた。
整えられた黒髪。
細い目。
柔らかな笑み。
ただし、その笑顔には妙な隙のなさがあった。
「お待ちしておりました、レグル主任」
男は丁寧に頭を下げた。
「職業管理院本部監察局、第一監察官のセドリック・ヴァイスです」
レグルが前へ出る。
「到着予定は明日だったはずだ」
「予定が変更になりまして」
「連絡は受けていない」
「緊急性が高い案件ですので」
セドリックは穏やかに答えた。
その視線が、レグルの後ろにいる俺へ移る。
「……あなたがレン・アルヴェインさんですね」
「そうですけど」
「お会いできて光栄です」
「俺、何か有名なことしました?」
「ええ」
セドリックは笑った。
「非常に興味深いことを」
……怖い。
めちゃくちゃ怖い。
「本日は、あなたを本部へお連れするために参りました」
「それって任意?」
「形式上は、そう説明することもできます」
「形式上!?」
俺が思わず声を上げると、セドリックは少しだけ首を傾げた。
「何か問題でも?」
「問題しかないでしょ!」
レグルが一歩前へ出た。
「セドリック監察官。対象の確保については、現場で必要性を確認している段階だ」
「確認?」
「命令の根拠が不十分だ」
セドリックの笑顔が僅かに薄くなった。
「主任。これは本部長の正式命令です」
「承知している」
「では、なぜ従わないのですか?」
「対象の危険性が立証されていない」
「危険性の立証は、確保後に行えばよいでしょう」
その瞬間。
俺は少しだけ腹が立った。
「ちょっと待って」
セドリックが俺を見る。
「何でしょう?」
「確保してから危険かどうか調べるって、順番逆じゃない?」
「危険な可能性があるから確保するのです」
「じゃあ、危険じゃなかったら?」
「適切な処置を行います」
「それ、帰れるって意味?」
セドリックは答えなかった。
代わりに、柔らかな笑みを浮かべる。
「あなたは非常に特殊な存在です。通常の人間と同じ基準で判断することは難しい」
「でも、人間ですよ」
「もちろんです」
「なら、普通に説明してくれればいいじゃん」
セドリックは少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
「何が?」
「報告書どおりの方ですね」
俺は嫌な顔をした。
「何て書いてあるんですか?」
「質問が多い、と」
「それだけ!?」
「それから」
セドリックが続けた。
「神々の判断を、容易には受け入れない」
空気が少し変わった。
俺はセドリックを見つめた。
「それ、悪いこと?」
「場合によります」
「今回は?」
「非常に困ります」
セドリックは笑った。
でも、目は笑っていなかった。
「あなたには、すでに役割があるのですから」
……役割。
また、その言葉。
「誰が決めた?」
俺は聞いた。
「神々ですか?」
「それとも職業管理院?」
「あなたの役割は、もっと古いところで決められています」
セドリックはそう言った。
俺の心臓が一度だけ強く鳴った。
「……古いところ?」
「ええ」
「それって、旧育成管理記録?」
初めて。
セドリックの表情が変わった。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
「……どこで、その言葉を?」
俺は答えなかった。
代わりに聞き返す。
「知ってるんですね?」
セドリックは数秒だけ黙った。
それから、再び笑った。
「ますます、本部へ来ていただく必要がありそうです」
「説明してくれたら考えます」
「説明は本部で行います」
「ここじゃ駄目?」
「機密事項ですので」
「じゃあ行かない」
俺は即答した。
リナが隣で小さく頷く。
セドリックの笑顔が消えた。
「……拒否されるのですか?」
「はい」
「正式な命令ですよ」
「俺が出した命令じゃないし」
「神託に基づいています」
「どの神様?」
セドリックは答えない。
「名前、教えてください」
「……」
「神様が言ったなら、うちの七柱にも確認します」
その時。
『レン』
エリオスが呼んだ。
「何?」
『その男から、微弱な神性反応がある』
「え?」
『だが、我々のものではない』
俺はセドリックを見た。
男は相変わらず、こちらを見つめている。
ただ、さっきまでとは少し違った。
俺の背後。
何もない空間。
そこへ視線を向けている。
「……聞こえているのですね」
セドリックが呟いた。
「何が?」
「七柱の声が」
俺は黙った。
セドリックは小さく笑う。
「羨ましい」
「……何が?」
「神々に選ばれた人間というのは、実に恵まれています」
その言葉に、妙な違和感があった。
俺は七柱に選ばれたわけじゃない。
少なくとも、今の七柱はそう説明していた。
育成対象として現れた俺を、彼らが受け入れた。
順番が違う。
「俺、選ばれたわけじゃないですよ」
セドリックが目を細めた。
「……そうお考えなのですか?」
「七柱がそう言ってました」
「なるほど」
男は少しだけ笑った。
「では、彼らはまだ話していないのですね」
その瞬間。
エリオスの声が鋭くなった。
『レン。警戒しろ』
俺も気づいた。
この男。
何か知っている。
でも。
それを知っているからといって、信用できるわけじゃない。
「何を話してないんですか?」
俺は聞いた。
セドリックは答えなかった。
代わりに、懐から小さな銀色の板を取り出す。
表面には細かな文字が刻まれていた。
「では、正式な手続きに移りましょう」
レグルが一歩前へ出る。
「待て」
「主任?」
「対象本人の同意がない」
「必要ありません」
セドリックは銀板を掲げた。
「神託に基づく特別措置です」
銀板の文字が光り始める。
俺の視界に、見覚えのある表示が浮かんだ。
【第109代育成対象】
【接続確認中】
「……おい」
背中が冷たくなる。
【育成者権限照合】
七柱の声が一斉に響いた。
『レン!』
『触るな!』
『接続を許可するな!』
俺は反射的に右手を握った。
ブレイカー。
使える。
たぶん。
でも。
何を切る?
銀板?
接続?
権限?
分からない。
分からないまま切ったら、何が起きる?
その迷いを見透かしたように、セドリックが言った。
「抵抗は無意味です」
銀板がさらに強く光る。
【育成対象確保処理】
俺の足元に、薄い光の輪が現れた。
動こうとすると、身体が重い。
まるで足首を見えない紐で引っ張られているようだった。
「レン!」
リナが剣へ手を伸ばす。
「待って!」
俺は叫んだ。
リナが止まる。
今、斬ったら何が起きるか分からない。
銀板と俺が、どんな形で繋がっているのかも分からない。
ただ。
一つだけ分かる。
俺は同意していない。
「……ノア」
『はい』
「これ、俺が繋がったの?」
『いいえ。外部から既存の育成対象情報へ照合を試みています』
「じゃあ、新しく繋いでるわけじゃない?」
『少なくとも現段階では、そう判断できます』
なるほど。
俺の情報を使って、勝手に処理しようとしている。
なら。
「切る場所、分かったかもしれない」
『レン。慎重に』
「うん」
俺は銀板を見た。
壊すのは簡単かもしれない。
でも、銀板そのものを壊したら、証拠まで消える。
それは困る。
俺が切りたいのは、物じゃない。
俺の意思を無視して処理を進めようとしている、その接続だ。
「……ブレイカー」
右手に意識を集中する。
以前、ユリウスを救うために黒い線だけを切った時の感覚を思い出す。
必要なものまで壊さない。
切る対象を選ぶ。
銀板から伸びる、細い光。
俺の足元へ繋がろうとしている線。
それだけを。
「――断つ」
乾いた音がした。
光の輪が消える。
身体の重さが抜けた。
俺は思わず一歩後ろへ下がった。
「……よし」
成功。
少なくとも、俺は動ける。
ただし。
銀板は壊れていない。
セドリックが目を見開いた。
「……まさか」
その声には、初めて明確な驚きが混じっていた。
「権限照合を……拒絶した?」
「拒絶したというか」
俺は息を整えながら答える。
「勝手に繋がないでください」
セドリックの顔から笑みが消えた。
その時、レグルが前へ出た。
「セドリック監察官」
「……何でしょう」
「今の行為は、本人の同意を得ていない強制処理だ」
「本部命令に基づいています」
「その命令の根拠を確認中だと伝えたはずだ」
「主任。あなたは本部に逆らうつもりですか?」
レグルは答えなかった。
代わりに、腰の徽章へ手を伸ばす。
外す。
掌に置く。
そして。
「私は、職業管理院の人間だ」
静かな声だった。
「だからこそ、手続きの正当性を確認する」
セドリックが眉を寄せる。
「それがあなたの答えですか?」
「ああ」
レグルは続けた。
「この施設内で、根拠不明の強制処理は認めない」
沈黙が落ちた。
ディンが一歩前へ出る。
セドリックの部下たちも身構えた。
今にも衝突が起きそうだった。
けれど。
「……分かりました」
セドリックは銀板を下ろした。
「本日は、ここまでにしましょう」
「帰るんですか?」
俺が聞くと、男は再び微笑んだ。
「ええ」
「意外とあっさり」
「無理に連れていくことだけが、方法ではありませんから」
その言い方が気になった。
セドリックは銀板を懐へ戻す。
「レンさん」
「何?」
「一つ、覚えておいてください」
男の目が細くなる。
「あなたが拒否したのは、私の命令ではありません」
「じゃあ誰の?」
「……あなた自身に与えられた役割です」
俺は何も言わなかった。
セドリックは踵を返す。
部下たちが続く。
受付の扉が開き、四人の黒い制服が外へ消えていった。
誰も追わなかった。
俺はようやく息を吐いた。
「……疲れた」
リナが近づいてくる。
「大丈夫?」
「うん。でも、めっちゃ嫌な人だった」
「私も」
「笑ってるのに怖い」
「分かる」
レグルがこちらへ向き直った。
「レン」
「はい」
「今の能力について、後で詳しく聞かせてもらう」
「えー」
「嫌なら断っていい」
「……学習してる」
「誰のせいだと思っている」
俺たちは顔を見合わせた。
そして、少しだけ笑った。
ただ。
問題は何一つ終わっていない。
セドリックは帰った。
でも、命令は残っている。
神託も。
育成対象の確保も。
そして、俺に与えられたという役割も。
まだ、何も分かっていなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、ソラが大神殿へやって来た。
レグルが手配した職員に付き添われ、少し大きめの外套を羽織っている。
白い髪は昨日より整えられていたが、右腕の黒い線はまだ消えていない。
ただ、その表情は少しだけ明るかった。
「レン!」
「ソラ!」
俺が手を振ると、ソラは小走りで近づいてきた。
その途中、足元の小石がふわりと浮かぶ。
「……あ」
ソラが立ち止まった。
小石が地面へ落ちる。
本人も驚いたようだった。
「ごめん」
「何で謝るの?」
「また、変なの出た」
「誰も怪我してないし、大丈夫」
「でも……」
ソラは右腕を押さえた。
俺は少し考えてから言った。
「じゃあ、練習しよう」
「練習?」
「うん」
「何を?」
「浮かせない練習」
ソラが目を丸くする。
「浮かせる練習じゃないの?」
「それも大事かもしれないけど、まずは止め方を知りたい」
俺は自分の右手を見た。
ブレイカーも同じだ。
使えることと、使っていいことは違う。
何が起きるか分からないなら、まず安全に止められるようになりたい。
「セレナ」
『何よ』
「ソラの練習、手伝える?」
『……いいわよ』
「珍しく素直!」
『やっぱりやめようかしら』
「ごめんなさい!」
ソラが笑った。
その笑顔を見て、俺も少し安心する。
ただし、訓練を始める前に確認することがあった。
「ソラ」
「うん」
「ここに来ること、自分で決めた?」
「うん」
「管理院の人に言われたんじゃなくて?」
「違うよ」
ソラは首を横に振った。
「私が、ここに来たいって言った」
「そっか」
「でも、レグルさんがいっぱい質問した」
「何て?」
「どこで寝たいかとか、誰と話したいかとか、何が怖いかとか」
「めっちゃレグルさんだ」
「あと、何かあった時はすぐ知らせてって」
「それもレグルさんだ」
ソラは少し笑った。
「でも、ちゃんと聞いてくれた」
その言葉が嬉しかった。
レグルは変わろうとしている。
制度の中にいる人間が、自分のやり方を少しずつ変えている。
それは、俺がブレイカーで何かを壊すこととは違う。
でも。
たぶん。
同じくらい大事なことだ。
「じゃあ、まず場所を決めよう」
俺が言うと、アリアが近づいてきた。
「レンさん。訓練でしたら、神殿の裏庭が使えます」
「本当?」
「はい。ただし、周囲に人がいない時間帯に限ります」
「了解!」
「それから、危険がある場合は中止してください」
「了解!」
「そして、建物を壊さないでください」
「俺じゃなくてソラに言って!」
アリアはにっこり笑った。
「レンさんもです」
「信用ゼロ!?」
リナが笑いながら肩を叩く。
「日頃の行いだね」
「俺そんな壊してないよ!?」
『職業石を割ったな』
エリオス。
「それ俺のせい!?」
『旧観測機構の接続も切った』
「必要だったじゃん!」
『管理院の装置にも干渉した』
「今日の話!?」
ソラが目を丸くしている。
「レンって、いっぱい壊してるんだね」
「違う! 壊すもの選んでるの!」
「……でも、壊してる?」
「はい……」
ソラは笑った。
俺もつられて笑う。
そんなやり取りをしながら、俺たちは裏庭へ向かった。
◇ ◇ ◇
神殿の裏庭は、夕方になるとほとんど人がいなくなる。
石畳の向こうには低い塀があり、その先に小さな林が広がっている。普段は神官たちが薬草を干したり、子どもたちが遊んだりする場所らしい。
今日は訓練のために、アリアが周囲への立ち入りを制限してくれた。
ただし、完全な隔離ではない。
出入口は開いたまま。
ソラが嫌になったら、いつでもやめられる。
「まず、何も浮かせない状態を確認するわ」
セレナの声を俺が伝える。
ソラは頷いた。
「分かった」
「次に、小さな石を一つだけ浮かせることを考えてみよう」
「……うん」
ソラは地面に置いた小石を見つめた。
最初は何も起きなかった。
けれど、しばらくすると小石が微かに震え始める。
「……動いた」
ソラが呟く。
「うん。今、何考えてる?」
「浮いてほしいって」
「じゃあ、そのまま」
小石がゆっくり浮き上がった。
ほんの指一本分。
でも、確かに地面から離れている。
「できた!」
ソラが嬉しそうに声を上げた。
その瞬間、小石が勢いよく跳ね上がった。
「うわっ!」
俺が慌てて避ける。
小石は塀へぶつかり、乾いた音を立てて落ちた。
ソラの顔が青ざめる。
「ごめん!」
「大丈夫!」
「でも!」
「当たってないから!」
俺は笑おうとした。
けれど、セレナがすぐに口を挟む。
『レン。今のは危険よ』
「……うん」
『小石でも速度が上がれば怪我をする。次はもっと軽いものにしなさい』
「了解」
俺はソラを見る。
「今の、失敗じゃないよ」
「……でも」
「浮かせることはできた。次は、飛ばさずに止める練習」
ソラは少し考えた。
「……できるかな」
「分からん」
「レン、そればっかり」
「だって分からんもん」
ソラが笑う。
俺も笑った。
でも、次はちゃんと考える。
小石は危ない。
なら、もっと軽いもの。
「……葉っぱとか?」
『それがいいわ』
セレナが答えた。
俺たちは落ち葉を一枚拾い、石畳の上へ置いた。
ソラは深呼吸してから、もう一度集中する。
葉が震える。
ゆっくり浮く。
今度は、さっきより低い。
「……浮いた」
「うん」
「止める?」
「そう」
ソラは眉を寄せた。
葉がふらふら揺れる。
そして。
ゆっくり。
地面へ戻った。
「……できた?」
ソラが俺を見る。
「できた!」
俺が笑うと、ソラも嬉しそうに笑った。
セレナが満足そうに言う。
『悪くないわね』
「セレナが褒めた!」
『何よ、その反応!』
「いや、珍しいから」
『レンは褒めないわよ』
「差別!」
ソラが声を上げて笑った。
その笑い声を聞いて、俺は少しだけ胸が温かくなった。
昨日まで、この子は自分の名前すら知らなかった。
今日は自分で名前を決めた。
そして今、自分の力を少しだけ扱えるようになった。
まだ何も分からない。
でも。
昨日よりできることが一つ増えた。
それでいい。
俺自身も、そうやって七柱に育てられてきたのだから。
◇ ◇ ◇
訓練を終えた後、ソラは神殿の客室へ案内された。
正式な保護登録については、まだ決まっていない。
ただし、本人の希望に基づく一時滞在として、今夜だけ部屋を使えることになった。
アリアが手続きを進め、レグルも管理院側の責任者として承認したらしい。
……あの人、仕事が早い。
俺は廊下を歩きながら、エリオスへ話しかけた。
「なあ」
『何だ』
「今日、セドリックが言ってたこと」
『役割の話か』
「うん」
俺は少し考えた。
「俺の役割って、何なんだろうな」
『分からない』
「即答!」
『だが、レン』
「何?」
『役割があることと、それに従わなければならないことは別だ』
俺は足を止めた。
「……そうだな」
『お前が育成対象として現れたことは事実だ。だが、それを理由に我々がお前の人生を決めていいわけではない』
「うん」
『同じように、お前が誰かの育成者候補として表示されたからといって、その人間の人生を決める権利を得たわけでもない』
トーマ。
ソラ。
ミア。
ユウ。
いろんな顔が浮かぶ。
「……分かってる」
『ならいい』
「でも」
俺は言った。
「もし、その仕組みが誰かを傷つけるなら」
『……』
「俺は壊すと思う」
エリオスはすぐには答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
『その時は、何を壊すのか、よく見極めろ』
「うん」
『そして、壊さずに済む方法があるなら、それも探せ』
「……分かった」
それは、俺が七柱から教わってきたことだった。
力を使う前に考える。
助ける前に聞く。
壊すものを選ぶ。
全部。
今の俺には必要なことだ。
俺は小さく息を吐き、廊下を歩き始めた。
その時だった。
『レン』
ノアの声が響く。
「何?」
『先ほどの銀板について、気になる点があります』
「銀板?」
『セドリックが使用した、育成対象確保処理の装置です』
「うん」
『あれは、あなたの育成対象情報を照合していました』
「そう言ってたね」
『しかし、照合先の情報に不整合がありました』
「……不整合?」
俺は足を止めた。
『第109代育成対象という識別は一致しています』
「うん」
『名称も、現在のレンと照合されました』
「じゃあ、何が違うの?」
少しだけ間があった。
『育成者の記録です』
「……育成者?」
『はい』
俺は嫌な予感がした。
七柱。
俺を育てている神様たち。
その記録が違う?
「どう違った?」
ノアが答えた。
『照合先には、七柱の名前が存在しませんでした』
「……は?」
『代わりに、一つだけ記録がありました』
俺の背中に冷たいものが走る。
「何て?」
ノアは静かに告げた。
『育成者――未登録』
俺は眉を寄せた。
「……未登録?」
『はい』
「それって、誰も育ててないってこと?」
『そうとは限りません』
「じゃあ、何?」
ノアは少し考えた。
『少なくとも、セドリックの装置が参照した記録上では、あなたの育成者は確定していません』
俺は何も言えなかった。
七柱は、ずっと俺を育ててきた。
走らされた。
魔法を教わった。
商売を手伝った。
剣を握った。
人を助けることについて考えた。
知らないことを知らないと言う大切さを学んだ。
それなのに。
記録上では、育成者がいない?
「……エリオス」
『何だ』
「これ、どういうこと?」
沈黙。
そして。
『分からない』
また。
その答え。
でも。
今回は少し違った。
『ただし、レン』
「うん」
『我々が、お前を育ててきた事実は変わらない』
俺は目を閉じた。
そうだ。
記録にないからといって、なかったことにはならない。
名前が違っても。
職業がなくても。
誰かに認められなくても。
自分で選んで積み重ねたものは、消えない。
「……うん」
俺は頷いた。
「分かってる」
ただ。
気になることが一つ増えた。
誰が、俺の育成者を未登録にしたのか。
それとも。
最初から登録されていなかったのか。
その答えは、まだ分からない。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
職業管理院本部へ戻る馬車の中で、セドリックは銀板を眺めていた。
表面には細い亀裂が走っている。
ただし、装置そのものは壊れていない。
レンが切断したのは、装置と育成対象を繋ごうとしていた処理だけだった。
「……素晴らしい」
セドリックは小さく笑った。
向かいに座る部下が不思議そうに尋ねる。
「監察官。確保に失敗したのに、なぜ笑っておられるのですか?」
「失敗?」
セドリックは首を傾げた。
「いいえ。確認できました」
「何を?」
「第109代が、正式な育成者権限に対しても干渉できることを」
部下の表情が変わる。
「それは……危険では?」
「非常に」
セドリックは楽しそうに答えた。
「だからこそ、価値がある」
銀板に、微かな光が戻る。
【照合結果】
【第109代育成対象:レン】
【育成者:未登録】
【育成者候補:複数】
セドリックはその表示を眺めた。
「七柱は、まだ自分たちが育成者だと思っているのでしょうね」
部下は何も言わなかった。
セドリックは銀板を指でなぞる。
「ですが、登録されていない育成者に、正式な権限はありません」
銀板の表示が変わった。
【育成者権限:空席】
セドリックの笑みが深くなる。
「……ようやく、席が空いた」
馬車が石畳を走る。
窓の外では、夕暮れの街並みがゆっくりと遠ざかっていく。
そして。
銀板の最下部に、新しい文字が浮かび上がった。
【育成者候補登録を開始します】
セドリックは目を細めた。
「さて」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。
「次は、誰が彼を育てるのでしょうか」




