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神々は無職を選んだ  作者: 夜凪 灯
第二章 神なき力の目覚め
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神託ログ08『神様に褒められた殺人』

 シオンの最後の言葉が、頭から離れなかった。


『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』


『それどころか、俺は神に褒められた』


 森を抜けてからも、俺たちはしばらく無言で歩いていた。


 西へ向かった時にはまだ高かった太陽が、今は少しずつ傾き始めている。街道沿いの草が風に揺れ、遠くを走る荷馬車の車輪が乾いた音を立てていた。


 いつもならガルドが歩く速度に文句をつけたり、メルクが道端の商売について余計な解説を始めたりするところだ。


 けれど、今日は誰も口を開かない。


 その沈黙が、俺には少しだけ腹立たしかった。


「なあ」


 歩きながら呼びかける。


 返事はない。


「聞こえてるよな、七柱」


『聞こえている』


 エリオスだった。


「じゃあ聞くけど」


 俺は立ち止まった。


「シオンが言ったこと、どう思う?」


 リナとトーマも足を止める。


 俺の視線が何もない空間へ向いているのを見て、二人とも神々と話しているのだと察したらしい。


『現時点では、彼の発言を裏付ける情報が不足しています』


 ノアが答えた。


「そうだな。シオンが本当のことを言ってるかどうかも分からない」


『はい』


「でも、嘘だって決める理由もないよな?」


『ありません』


 即答だった。


 それで少しだけ気持ちが落ち着く。


 少なくとも、ノアは神様を守るために都合の悪い可能性を消そうとはしない。


「じゃあ、もう一つ」


 俺は息を吸った。


「神様が、人を殺したことを褒める場合ってあるのか?」


 風が吹いた。


 道の脇に生えた背の高い草が、ざわりと音を立てる。


 最初に答えたのはガルドだった。


『ある』


 思わず顔を上げた。


「……あるの?」


『戦場ではな』


 ガルドの声はいつもより低かった。


『敵を倒し、仲間を守った者が称えられることはある。俺自身、そういう戦士を何人も見てきた』


「それって、殺したことを褒めてるのか?」


『そこが難しい』


 ガルドは少し考えてから続けた。


『守り抜いたことを褒めているつもりでも、褒められた側は敵を殺したから認められたと思うかもしれん』


 意外だった。


 ガルドなら、もっと単純に「戦いだから仕方ない」と言うと思っていた。


『俺も昔は、敵を多く倒した戦士ほど強いと思っていた』


「今は?」


『倒さずに終わらせられるなら、その方が難しいこともあると知った』


 ガルドが少し笑った。


『まあ、お前のせいでもあるがな』


「俺?」


『戦う前にいちいち考えるだろ、お前は』


「考えないと怖いし」


『そのせいで動くのが遅い』


「結局怒られるんかい!」


『だが、考えたから助かった奴もいる』


 言い返そうとして、やめた。


 村で白い根を切らなかった時のことを思い出したからだ。


 あの時、見た目だけで敵だと決めていたら、五十一人を守っていたものを俺自身が壊していた。


 考えることには意味がある。


 でも、考えすぎて動けなくなることもある。


 どちらも、俺の中にある。


「フィリアは?」


 今度は自分から名前を呼んだ。


『……私は』


 返事までに少し時間がかかった。


『人の命を奪うことを、良いことだとは思いません』


「うん」


『けれど、誰かを守るために別の命を奪わなければならなかった人へ、あなたは間違っていると言い切れるかと問われれば……』


 そこで声が途切れた。


 フィリアらしい。


 優しいからこそ、簡単に答えられない。


「シオンは、褒められたって言ってた」


『はい』


「もし本当なら、その神様は何を褒めたんだろうな」


『分かりません』


「……そっか」


『ですが、レン』


「何?」


『褒められたことと、許されたことは同じではありません』


 俺は顔を上げた。


『そして、褒めた神がいたとしても、殺された人が戻るわけではありません』


 その言葉を聞いて、ユリウスの顔が浮かんだ。


 あの時、フィリアは彼を生き返らせられなかった。


 神様がいても。


 七柱がいても。


 できないことはある。


「……そうだな」


 俺は再び歩き始めた。


 リナが隣へ並ぶ。


「何て言ってた?」


「神様でも、殺すことを褒める場合はあるって」


「……そっか」


「でも、それが正しいかどうかは別だって」


 リナはしばらく黙っていた。


 彼女は剣を使う。


 俺よりずっと上手い。


 魔物とも戦ってきた。


 だから、俺とは違う感覚があるのかもしれない。


「リナはどう思う?」


「何が?」


「シオンの話」


 リナは腰の剣に手を置いた。


「私、シオンのこと好きじゃない」


「うん」


「何考えてるか分からないし、レンのこと知ってるみたいなのも気になる。それに、ユウみたいな子を連れて歩いてる理由だって、まだ全部は聞いてない」


「確かに」


「でも」


 リナは前を見たまま続けた。


「トーマに無理やり何かさせなかったのは、本当なんでしょ?」


「うん」


「ユウが嫌だって言ったことも、話させなかった」


「そうだった」


「だったら、そこは本当のこととして覚えておきたい」


 俺はリナを見た。


「殺したって話とは別に?」


「うん」


 彼女は頷いた。


「一つ悪いことをした人が、それ以外の全部も悪いとは限らない。でも、一つ良いことをしたからって、悪いことが消えるわけでもないでしょ?」


 ……なるほど。


「リナ、めっちゃいいこと言うじゃん」


「何その言い方」


「今日の七柱より先生っぽい」


『聞こえてるぞ!』


 ガルドが怒った。


「ほら、すぐ怒る先生もいるし」


『誰が先生だ!』


「今の完全に先生だったよ」


 トーマまで笑い始めた。


 重かった空気が、少しだけ軽くなる。


 でも、俺の中の疑問は消えていなかった。


 シオンは本当に誰かを殺したのか。


 殺したのなら、誰を。


 そして。


 なぜ神は、それを褒めたのか。


 今すぐ答えが出ないことだけは、分かっていた。


          ◇ ◇ ◇


 町へ戻る頃には、夕方の鐘が鳴り始めていた。


 トーマの工房へ近づくと、店先で木材を運んでいた父親がこちらに気づいた。


 その瞬間、肩に担いでいた板を地面へ下ろす。


「トーマ!」


「親父」


「お前……!」


 大股で近づいてくる。


 トーマが一歩だけ身構えた。


 殴られる。


 俺もそう思った。


 けれど、父親は息子の目の前まで来ると、拳を握ったまま動きを止めた。


「……怪我は」


「ない」


「本当に?」


「ないって」


「飯は?」


「食った」


「どこで?」


「川の近く」


「誰と?」


「知り合い」


「どこの誰だ!」


「親父、質問多い!」


「当たり前だろうが!」


 そこで父親の声が震えた。


「いなくなったんだぞ、お前」


 トーマが黙る。


 父親は拳を下ろした。


「昨日まで、何を考えてるのか分からんと思ってた。今日は、どこにいるのかも分からなくなった」


 怒鳴っていた時より、その声の方がずっと重かった。


「……悪かった」


 トーマが頭を下げる。


「勝手に出てったのは、俺が悪い」


「分かってるならいい」


「でも」


 トーマは顔を上げた。


「俺、聞きたいことがあったんだ」


「誰に?」


「俺と似た力を持つ人たちに」


 父親は少し驚いたようだった。


「……いたのか」


「ああ」


「お前だけじゃないのか」


「うん」


 トーマは自分の右手を見た。


「まだ怖いし、何ができるかも分からない。でも、俺だけがおかしくなったわけじゃないって分かった」


 父親の表情がゆっくり変わっていく。


「だから、調べたい」


「……仕事は?」


「やる」


「工房は?」


「手伝う」


「じゃあ、調べる時間なんか――」


「作る」


 トーマが言い切った。


「木工もやりたい。自分の力のことも知りたい。どっちか一つじゃなきゃ駄目なのか?」


 父親は答えなかった。


 俺も口を挟まなかった。


 これは、二人が話すことだ。


 しばらくして父親が大きく息を吐いた。


「……明日の朝、椅子を三脚直せ」


「え?」


「それが終わったら好きにしろ」


「親父」


「ただし、出かける時は言え」


「……分かった」


「帰る時間も」


「分かったって」


「行き先も」


「分かった!」


「誰と会うかも――」


「親父!!」


 俺とリナは思わず笑った。


 父親も、ようやく少しだけ口元を緩める。


 それから俺を見た。


「無職」


「名前で呼んでもらえません!?」


「息子を連れて帰ってくれて助かった」


「……どういたしまして」


「礼に飯を食っていけ」


「いいんですか?」


「ああ」


「やった!」


「ただし椅子を一脚直せ」


「職業なしなんですけど!?」


「手伝いくらいできるだろ」


 ……強い。


 この親父、メルクと気が合いそうだ。


『気が合いそうだねえ』


「本人も言ってる!」


『労働の価値が分かる人間は好きだよ』


「俺の無職を毎回攻撃しないで!」


 トーマが笑いながら作業台へ向かった。


 その背中を見て、俺は少し安心した。


 昨日、父親と喧嘩していた時とは違う。


 職業に従うためでも、父親を喜ばせるためだけでもない。


 自分で選んで木を触ろうとしている。


 それが分かったからだ。


          ◇ ◇ ◇


 夕食までの時間、俺たちは工房の隅で簡単な訓練をすることになった。


 言い出したのはヴォルグだった。


『トーマの性質を確認する』


「ここで?」


『壊れやすい物は避ける』


「この工房、壊れやすい物だらけじゃない?」


『だから選ぶ』


 相変わらず説明が短い。


 でも、以前よりは少しだけ言葉が増えた気がする。


 ヴォルグが指定したのは、古い木箱と二本の紐、それから金属製の留め具だった。


 どれも壊れても困らない廃材らしい。


 父親からも許可をもらった。


「まず、何もしない状態で持て」


 俺がヴォルグの言葉を伝えると、トーマは木箱を持ち上げた。


 何も起きない。


「次は、留め具を見て」


「外すのか?」


「まだ」


「……分かった」


 トーマは留め具を見つめる。


 数秒。


 何も起きない。


 さらに数秒。


 留め具が小さく震えた。


「おっと」


 トーマが目を逸らす。


 震えが止まった。


「今、何考えた?」


「外れそうだなって」


「外したいとは?」


「思ってない」


 ヴォルグが低く唸った。


『対象の認識だけで反応している可能性がある』


「それって危なくない?」


『危ない』


 即答。


 トーマが嫌そうな顔をする。


「もうちょっと安心させる言い方ないのか、その神様」


「ない」


『ある』


「あるの!?」


『今から教える』


 ヴォルグが少し間を置いた。


『危険だからこそ、扱い方を覚えればいい』


 ……おお。


 普通に先生っぽい。


「ヴォルグ、成長した?」


『お前を殴る方法を考えている』


「戻った!」


 トーマが吹き出した。


 でも、訓練はここからが本番だった。


 ヴォルグは留め具を外す練習ではなく、外れかけた状態を止める練習を提案した。


 以前、俺がトーマに言った「使わない練習」を、もっと細かくしたものだ。


 完全に発動する前の変化を見つける。


 何を考えた時に反応するのか確かめる。


 そして、反応が始まっても途中でやめられるか試す。


 トーマは最初、何度も失敗した。


 留め具が外れ、紐がほどけ、最後には木箱の底板まで抜けた。


「うわっ!」


 中に入れていた木片が床へ散らばる。


「……ごめん」


 トーマが肩を落とした。


 でも、ヴォルグは怒らなかった。


『今のは収穫だ』


「え?」


『留め具を見ていたのに、底板が外れた』


「それのどこが収穫?」


『外れた原因を考えろ』


 俺は木箱を持ち上げた。


 底板は釘ではなく、溝へはめ込む形で固定されていた。


 トーマは留め具を外そうとしていた。


 でも、実際に外れたのは底板。


 つまり。


「トーマが意識してたものと、実際に外れたものが違う?」


『そうだ』


「じゃあ、狙いがずれた?」


『それだけとは限らん』


 ヴォルグは木箱の構造を説明し始めた。


 留め具は箱の蓋を固定するためのもの。


 一方、底板は箱そのものを成立させるために組み込まれている。


 どちらも「外れる」構造だが、役割は違う。


『トーマは留め具を見ていた。しかし、頭の中では箱を開けたいと考えていた』


 トーマが目を見開いた。


「……そうだ」


「本当に?」


「ああ。留め具を外すっていうより、中を見たいと思ってた」


 なるほど。


 だから底板が外れた?


『可能性はある』


 ヴォルグは続けた。


『性質が何に反応するのか、まだ分からん。目で見た対象か、意識した対象か、それとも目的か』


 俺は自分のブレイカーを思い出した。


 切りたいものを認識する。


 何を切るのか理解する。


 そして、切る意思を持つ。


 似ている。


 でも、同じじゃない。


「トーマ」


「何?」


「次は箱を開けたいって考えないで、留め具だけを外すことを考えてみよう」


「……できるかな」


「分からん」


「お前、先生向いてねえな」


「先生じゃないから!」


『育成対象が育成を始めているな』


 エリオスがぼそっと言った。


「その言い方やめて!」


 今、その言葉は妙に引っかかる。


 育成。


 育成対象。


 育成者。


 最近、どこへ行っても出てくる。


 ただの訓練にまで、変な意味がつきそうになる。


 でも。


 今やっていることは、そんな大げさなものじゃない。


 困っている友達と、一緒に練習している。


 それだけだ。


 トーマはもう一度留め具を見た。


 深呼吸する。


 右手を伸ばす。


 留め具が小さく震える。


 今度は底板が動かない。


 蓋も動かない。


 そして。


 カチン。


 小さな音とともに、留め具だけが外れた。


「……できた」


 トーマが呟いた。


「できたじゃん!」


「今の、俺が?」


「他に誰がいるんだよ!」


 トーマが笑った。


 ヴォルグも満足そうだった。


『悪くない』


「褒めた!」


『一度できただけだ。次もできるとは限らん』


「すぐ厳しい!」


『だから次だ』


「休憩させろよ!」


 工房に笑い声が広がった。


 ただ、俺は一つだけ気づいていた。


 今の成功。


 トーマは自分で留め具を外した。


 でも、何も知らなかった昨日より、少しだけ制御できるようになっている。


 もしこれが育成だと言われたら。


 確かに、そうなのかもしれない。


 でも。


 だからといって。


 誰かがトーマを所有したわけじゃない。


 そこだけは、絶対に忘れたくなかった。


          ◇ ◇ ◇


 工房を出た頃には、すっかり夜になっていた。


 夕食をご馳走になった俺たちは、大神殿へ戻る道を歩いていた。


 リナは隣で、トーマの父親が作った料理について話している。


「美味しかったね」


「うん。あのスープ、めっちゃ良かった」


「レン、三杯飲んでた」


「二杯半」


「最後におかわりしたでしょ」


「半分だから」


「細かい!」


 そんな会話をしながら歩いていると、少しだけ普通の日常へ戻った気がした。


 朝からソラのこと、神託のこと、トーマの失踪、シオンの告白。


 いろいろありすぎた。


 でも、夕飯を食べて、友達と笑って、こうして帰る。


 それも俺の生活だ。


「レン」


 リナが急に真面目な声を出した。


「何?」


「シオンのこと、まだ考えてる?」


「……うん」


「そっか」


 リナはそれ以上聞かなかった。


 俺は少し迷ってから口を開いた。


「七柱に聞きたいことがある」


「さっき聞いてたじゃん」


「それとは別」


 リナがこちらを見る。


「俺さ」


 歩きながら言った。


「シオンが殺したって言った時、めちゃくちゃ腹立ったんだよ」


「うん」


「でも、何に腹立ったのか、ちょっと分からなくなってきた」


 人を殺したこと。


 それを平然と話したこと。


 神様に褒められたと言ったこと。


 それとも。


 自分が少し信用しかけていた相手から、そんな話を聞いたこと。


「全部かもしれない」


 リナが言った。


「……そうかも」


「でも、レン」


「うん」


「怒るのはいいと思う」


「いいの?」


「うん。ただ、怒ったまま何か決めるのは怖いかな」


 俺はリナを見た。


「経験者?」


「剣を使う人間だからね」


 リナは少しだけ笑った。


「怒って剣を振ったら、止めるの難しいんだよ」


 その言葉は、俺が思っていたより重かった。


 ブレイカーも同じだ。


 一度切ったものが、元に戻るとは限らない。


 だから。


 怒りだけで使ってはいけない。


「ありがと」


「どういたしまして」


 リナが笑う。


 その時。


『レン』


 エリオスの声が聞こえた。


「何?」


『先ほどの質問について、七柱で話した』


「……シオンの?」


『ああ』


 俺は立ち止まった。


「何か分かった?」


『結論から言えば、我々はシオンが語った事件を知らない』


「そっか」


『ただし』


 エリオスが続けた。


『神が殺人を褒めたという話について、もう一つ考えるべきことがある』


「何?」


『褒めた存在が、神だったとは限らない』


 俺は眉を寄せた。


「どういうこと?」


『彼が神と呼んだ存在が、実際に何者だったのか。それを確認しなければならない』


 確かに。


 神名のない神託。


 神として認識された何か。


 俺たちは、今日その話をしたばかりだった。


「じゃあ、シオンは騙された?」


『その可能性もある』


「でも、本人は神だと思ってる?」


『そうかもしれない』


 俺は考え込んだ。


 シオンは神を信用するなと言った。


 育成対象を殺した時、神に褒められたとも。


 もし、その神が偽物だったら。


 シオンの憎しみは、何に向いているんだろう。


 でも。


 だからといって。


 殺した事実が消えるわけじゃない。


「エリオス」


『何だ』


「俺、シオンのこと調べる」


『そうだろうな』


「でも、殺した相手のことも調べたい」


 少しだけ間があった。


『……それは重要だ』


「シオンの話だけじゃ、その人がどういう人だったか分からないから」


『ああ』


「死んだ人のことを、シオンの過去を説明するためだけの材料にしたくない」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 さっきまでは、シオンが何をしたのかばかり考えていた。


 でも。


 殺された人がいるなら。


 その人にも人生があったはずだ。


 名前があって。


 誰かに呼ばれて。


 何かを選んで。


 生きていた。


 それを知らないまま、シオンを理解した気になりたくない。


『レン』


 今度はフィリアだった。


「何?」


『その考えを、大切にしてください』


「……うん」


『ただし』


「ただし?」


『あなた一人で、すべてを背負おうとしないでください』


 胸が少し痛んだ。


 図星だったからだ。


「……気をつける」


『約束できますか?』


「努力します」


『レグルさんのようですね』


「そこ似なくていい!」


 リナが笑った。


 俺も笑う。


 でも。


 その言葉はちゃんと覚えておこうと思った。


          ◇ ◇ ◇


 大神殿へ戻ると、アリアが入口で待っていた。


 いつもより表情が硬い。


「レンさん」


「ただいま。どうしたの?」


「ソラさんのことで、少しお話が」


 俺とリナは顔を見合わせた。


「何かあった?」


「体調が悪くなったわけではありません」


 それを聞いて少し安心する。


「では?」


「彼女が、神殿へ来たいと」


「ソラが?」


「はい」


 アリアは頷いた。


「職業管理院から連絡がありました。休憩室で一人になった時、彼女が神殿について尋ねたそうです」


「何で?」


「神様と話せる場所だと聞いたから、と」


 俺は少し考えた。


 フィリアとセレナは、まだソラのそばにいる。


 なら、神様の声を聞くためだけなら管理院でもできるはずだ。


「他には?」


「……レンさんに会いたいそうです」


「俺?」


「はい」


 アリアが少し微笑んだ。


「今日、自分で名前を決めたことを、もう一度お話ししたいと」


 その言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。


 ソラ。


 あの子は今日、自分の名前を選んだ。


 何も覚えていない中で、初めて自分で決めたこと。


 それを誰かに話したいと思ってくれたのなら。


「会いに行こうかな」


 俺が言うと、アリアは頷いた。


「明日の朝、管理院の方が同行して来られる予定です」


「明日?」


「はい。レグル主任の許可も出ています」


「意外と話が早い」


「ただし」


 アリアが少し困った顔をした。


「神殿側にも、いくつか確認事項があるようで」


「確認事項?」


「ソラさんを、どのような立場で受け入れるかです」


 ……ああ。


 また。


 制度。


 職業。


 登録。


 そういう話か。


「普通に泊めたら駄目なの?」


「通常であれば可能です。ただ、彼女には身元を証明する記録がありません」


「名前はある」


「今日決めたものですね」


「うん」


「しかし、正式な住民登録がありません」


「じゃあ登録すれば」


「出生地も不明です」


「……なるほど」


 確かに。


 簡単じゃない。


 名前。


 決めた。


 でも。


 それだけで。


 この世界の制度が全部受け入れてくれるわけじゃない。


「どうしたらいい?」


 アリアは少し迷った。


「一つ、方法はあります」


「何?」


「神殿の保護下に置くことです」


 俺は思わず顔を上げた。


「保護?」


「はい」


 その言葉。


 今日。


 何度も。


 聞いた。


 職業管理院。


 特別査定部。


 レグル。


 ミア。


 トーマ。


 そして。


 ソラ。


「それって」


 俺は慎重に聞いた。


「ソラが嫌だって言ったら、出ていける?」


 アリアはすぐには答えなかった。


「……規定を確認する必要があります」


「じゃあ、先に確認しよう」


「はい」


「あと、ソラ本人にも聞こう」


「もちろんです」


 アリアは頷いた。


 俺は少し安心した。


 でも。


 そこで終わらなかった。


「実は」


 アリアが続ける。


「もう一つ、気になることがありまして」


「何?」


「今日、職業管理院から届いた報告書です」


 アリアは一枚の紙を差し出した。


 ソラについての簡単な記録。


【名称:ソラ】


【職業:なし】


【性質:未確定】


【育成状態:覚醒】


 ここまでは知っている。


 でも。


 その下。


【育成者:未接続】


 そして。


【育成対象番号:未登録】


「……ん?」


 俺は紙を見つめた。


「育成対象番号?」


「はい」


「これ、何?」


「私にも分かりません」


 俺はノアを呼んだ。


「ノア」


『確認しています』


「俺の第109代と関係ある?」


『不明です』


「同じ番号?」


『番号は表示されていません』


「じゃあ、まだ決めつけない」


『適切です』


 俺はもう一度、報告書を見た。


 育成対象番号。


 未登録。


 つまり。


 ソラには、まだ番号がない。


 それだけ。


 なのか。


 それとも。


 番号をつけようとしている何かがあるのか。


「アリア」


「はい」


「この報告書、誰が作った?」


「職業管理院です」


「レグルさん?」


「いえ」


 アリアが首を振る。


「自動記録装置によるものだそうです」


 俺は顔を上げた。


「自動?」


「はい」


 嫌な予感がした。


 誰かが書いたなら、その人に聞けばいい。


 でも。


 自動で表示されたなら。


 誰が決めた?


「その装置」


「昔からある?」


「職業管理院のものですので、詳しくは……」


「そっか」


 俺は報告書を返そうとして、手を止めた。


 紙の端。


 小さな文字。


 ある。


 最初はただの管理番号だと思った。


 でも。


 違う。


【照合元:旧育成管理記録】


「……旧?」


 心臓が鳴った。


「アリア」


「はい」


「これ、コピー取れる?」


「もちろんです」


「ありがとう」


 俺は紙をもう一度見た。


 旧育成管理記録。


 職業管理院。


 旧観測機構。


 神殿。


 全部。


 少しずつ。


 繋がっている。


 でも。


 繋がっていることと。


 同じもの。


 ということは。


 違う。


 そこ。


 間違えない。


「ノア」


『はい』


「旧育成管理記録って、知ってる?」


 少し間があった。


『その名称の記録は、私の保有情報にはありません』


「エリオスは?」


『知らない』


「他の五柱は?」


 順番に。


 返事。


 返る。


 全員。


 知らない。


 また。


 知らない。


 でも。


 今度。


 それだけで。


 終わらせない。


「じゃあ」


 俺は言った。


「明日、調べよう」


 アリアが頷く。


「管理院へ?」


「うん」


 そして。


「ソラにも聞く」


「何を?」


「自分のこと、どこまで知りたいか」


 アリアは少し驚いたようだった。


「全部調べるんじゃないんですか?」


「俺は調べたい」


 正直に答える。


「でも、ソラが怖いって思うなら、無理に全部知らせるのも違う気がする」


 自分の過去。


 名前。


 職業。


 性質。


 育成。


 それを知ることが、必ずしも幸せとは限らない。


 知らないままでは困ることもある。


 でも。


 知りたくないことを、勝手に暴くのも違う。


「難しいですね」


 アリアが言った。


「うん」


「レンさんは、いつも難しい方を選びますね」


「簡単な方が見つからないだけです」


 アリアが笑った。


 俺も笑う。


 その時。


 ふと。


 シオンの言葉を思い出した。


『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』


『それどころか、俺は神に褒められた』


 もし。


 育成管理記録。


 というものが。


 存在するなら。


 シオンの。


 記録も。


 どこかに。


 残っている?


 いや。


 まだ。


 分からない。


 でも。


 探す。


 理由が。


 一つ。


 増えた。


          ◇ ◇ ◇


 その夜。


 職業管理院の地下では、レグルが一人で古い記録を調べていた。


 机の上には、三十七年前の少女エナの記録と、今日届いたソラの報告書が並んでいる。


 どちらにも、通常の職業記録には存在しない項目が含まれていた。


【育成状態】


 レグルはその文字を何度も見比べた。


「……育成」


 誰かを育てる。


 それ自体は、悪いことではない。


 親が子を育てる。


 師が弟子を育てる。


 神が人を導く。


 だが。


 記録に残されているものは、どこか違う。


 人間が自分で決める前に、誰かが対象を選んでいる。


 誰かが番号をつけている。


 そして。


 誰かが、育成の完了を判断している。


「……誰の権限だ」


 レグルは呟いた。


 その時、扉が叩かれた。


「主任」


「入れ」


 若い査定官ディンが入ってくる。


 昨日、ミアへ剣を向けた男だ。


 今日はいつもより表情が硬い。


「ご報告があります」


「何だ」


「本部から、追加指示が届きました」


 レグルが顔を上げる。


「内容は?」


「未登録性質保有者への対応についてです」


「……読め」


 ディンは封筒を開いた。


「対象の保護を最優先とし、必要に応じて強制的な隔離措置を認める」


 レグルの眉が動いた。


「続けろ」


「対象が神性存在と接続している場合、接続の遮断を優先する」


「……何?」


「また、育成状態が覚醒と判定された個体については、通常の職業管理手続きから除外する」


 ディンが一度言葉を止めた。


「そして」


 レグルは黙って続きを待った。


「第109代育成対象、レン・アルヴェインについては――」


 そこでディンの声が僅かに震えた。


「特例対象として、速やかに確保すること」


 地下の記録室が静まり返る。


 レグルは封筒を受け取った。


 文書には、本部の正式な印章が押されている。


 偽物ではない。


 少なくとも、形式上は。


「……理由は?」


「記載されていません」


「発令者は?」


「本部長名義です」


「本部長が、直接?」


「はい」


 レグルは文書を見つめた。


 その最後に、小さな一文があった。


【本件は神託に基づく特別命令である】


「神託……?」


 レグルは顔を上げる。


「どの神からだ」


「それが」


 ディンが首を横に振った。


「神名の記載がありません」


 レグルの表情が変わった。


 神名のない神託。


 ここ半年で十一件。


 そのうち、意味の分からないものが三件。


 そして今。


 その神託が、正式な命令として職業管理院を動かそうとしている。


「ディン」


「はい」


「この命令は、まだ現場へ伝えるな」


「しかし、本部の正式命令です」


「分かっている」


「従わないのですか?」


 レグルはしばらく黙っていた。


 それから、静かに答えた。


「確認する」


「何を?」


「誰が命じたのかを」


「本部長では?」


「その本部長に、誰が命じた?」


 ディンは答えられなかった。


 レグルは文書を机へ置いた。


 そして、今日レンに言われた言葉を思い出す。


『誰を守るための規定なんですか?』


『まず本人に聞く』


 面倒な男だ。


 実に面倒だ。


 だが。


 あの無職が、たった一日で自分たちに思い出させたことがある。


 規則には、理由が必要だ。


 そして、保護する相手は人間だ。


「ディン」


「はい」


「レンの身柄を確保する必要があると判断するなら、まず本人に説明する」


「本部の命令では、速やかにと」


「説明できない命令を、保護と呼ぶつもりはない」


 レグルは文書を封筒へ戻した。


「明朝、レンを呼べ」


「任意ですか?」


「ああ」


「拒否された場合は?」


 レグルは少しだけ笑った。


「……あの男なら、来るだろう」


「なぜです?」


「聞きたいことが山ほどある顔をしていたからな」


 ディンは納得できない様子だった。


 だが、それ以上は何も言わなかった。


 レグルは窓のない地下室で、もう一度封筒を見た。


 神名のない神託。


 育成対象の確保。


 接続の遮断。


 そして。


 正式な命令。


 もし、この命令に従えば。


 自分たちは何を守ることになるのか。


 職業管理院か。


 神託か。


 市民か。


 それとも。


 まだ名前すら分からない、命令の主か。


 レグルは小さく息を吐いた。


「……明日は忙しくなりそうだな」


 机の上で、封筒の印章が一度だけ鈍く光った。


 誰も触れていない。


 それなのに。


 封筒の裏側に、黒い文字が一行だけ浮かび上がった。


【保護対象の意思確認は不要】


 レグルは動かなかった。


 文字を見つめる。


 やがて。


 ゆっくりと封筒を裏返した。


 そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「……それを決めるのは、お前ではない」

 シオンの最後の言葉が、頭から離れなかった。


『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』


『それどころか、俺は神に褒められた』


 森を抜けてからも、俺たちはしばらく無言で歩いていた。


 西へ向かった時にはまだ高かった太陽が、今は少しずつ傾き始めている。街道沿いの草が風に揺れ、遠くを走る荷馬車の車輪が乾いた音を立てていた。


 いつもならガルドが歩く速度に文句をつけたり、メルクが道端の商売について余計な解説を始めたりするところだ。


 けれど、今日は誰も口を開かない。


 その沈黙が、俺には少しだけ腹立たしかった。


「なあ」


 歩きながら呼びかける。


 返事はない。


「聞こえてるよな、七柱」


『聞こえている』


 エリオスだった。


「じゃあ聞くけど」


 俺は立ち止まった。


「シオンが言ったこと、どう思う?」


 リナとトーマも足を止める。


 俺の視線が何もない空間へ向いているのを見て、二人とも神々と話しているのだと察したらしい。


『現時点では、彼の発言を裏付ける情報が不足しています』


 ノアが答えた。


「そうだな。シオンが本当のことを言ってるかどうかも分からない」


『はい』


「でも、嘘だって決める理由もないよな?」


『ありません』


 即答だった。


 それで少しだけ気持ちが落ち着く。


 少なくとも、ノアは神様を守るために都合の悪い可能性を消そうとはしない。


「じゃあ、もう一つ」


 俺は息を吸った。


「神様が、人を殺したことを褒める場合ってあるのか?」


 風が吹いた。


 道の脇に生えた背の高い草が、ざわりと音を立てる。


 最初に答えたのはガルドだった。


『ある』


 思わず顔を上げた。


「……あるの?」


『戦場ではな』


 ガルドの声はいつもより低かった。


『敵を倒し、仲間を守った者が称えられることはある。俺自身、そういう戦士を何人も見てきた』


「それって、殺したことを褒めてるのか?」


『そこが難しい』


 ガルドは少し考えてから続けた。


『守り抜いたことを褒めているつもりでも、褒められた側は敵を殺したから認められたと思うかもしれん』


 意外だった。


 ガルドなら、もっと単純に「戦いだから仕方ない」と言うと思っていた。


『俺も昔は、敵を多く倒した戦士ほど強いと思っていた』


「今は?」


『倒さずに終わらせられるなら、その方が難しいこともあると知った』


 ガルドが少し笑った。


『まあ、お前のせいでもあるがな』


「俺?」


『戦う前にいちいち考えるだろ、お前は』


「考えないと怖いし」


『そのせいで動くのが遅い』


「結局怒られるんかい!」


『だが、考えたから助かった奴もいる』


 言い返そうとして、やめた。


 村で白い根を切らなかった時のことを思い出したからだ。


 あの時、見た目だけで敵だと決めていたら、五十一人を守っていたものを俺自身が壊していた。


 考えることには意味がある。


 でも、考えすぎて動けなくなることもある。


 どちらも、俺の中にある。


「フィリアは?」


 今度は自分から名前を呼んだ。


『……私は』


 返事までに少し時間がかかった。


『人の命を奪うことを、良いことだとは思いません』


「うん」


『けれど、誰かを守るために別の命を奪わなければならなかった人へ、あなたは間違っていると言い切れるかと問われれば……』


 そこで声が途切れた。


 フィリアらしい。


 優しいからこそ、簡単に答えられない。


「シオンは、褒められたって言ってた」


『はい』


「もし本当なら、その神様は何を褒めたんだろうな」


『分かりません』


「……そっか」


『ですが、レン』


「何?」


『褒められたことと、許されたことは同じではありません』


 俺は顔を上げた。


『そして、褒めた神がいたとしても、殺された人が戻るわけではありません』


 その言葉を聞いて、ユリウスの顔が浮かんだ。


 あの時、フィリアは彼を生き返らせられなかった。


 神様がいても。


 七柱がいても。


 できないことはある。


「……そうだな」


 俺は再び歩き始めた。


 リナが隣へ並ぶ。


「何て言ってた?」


「神様でも、殺すことを褒める場合はあるって」


「……そっか」


「でも、それが正しいかどうかは別だって」


 リナはしばらく黙っていた。


 彼女は剣を使う。


 俺よりずっと上手い。


 魔物とも戦ってきた。


 だから、俺とは違う感覚があるのかもしれない。


「リナはどう思う?」


「何が?」


「シオンの話」


 リナは腰の剣に手を置いた。


「私、シオンのこと好きじゃない」


「うん」


「何考えてるか分からないし、レンのこと知ってるみたいなのも気になる。それに、ユウみたいな子を連れて歩いてる理由だって、まだ全部は聞いてない」


「確かに」


「でも」


 リナは前を見たまま続けた。


「トーマに無理やり何かさせなかったのは、本当なんでしょ?」


「うん」


「ユウが嫌だって言ったことも、話させなかった」


「そうだった」


「だったら、そこは本当のこととして覚えておきたい」


 俺はリナを見た。


「殺したって話とは別に?」


「うん」


 彼女は頷いた。


「一つ悪いことをした人が、それ以外の全部も悪いとは限らない。でも、一つ良いことをしたからって、悪いことが消えるわけでもないでしょ?」


 ……なるほど。


「リナ、めっちゃいいこと言うじゃん」


「何その言い方」


「今日の七柱より先生っぽい」


『聞こえてるぞ!』


 ガルドが怒った。


「ほら、すぐ怒る先生もいるし」


『誰が先生だ!』


「今の完全に先生だったよ」


 トーマまで笑い始めた。


 重かった空気が、少しだけ軽くなる。


 でも、俺の中の疑問は消えていなかった。


 シオンは本当に誰かを殺したのか。


 殺したのなら、誰を。


 そして。


 なぜ神は、それを褒めたのか。


 今すぐ答えが出ないことだけは、分かっていた。


          ◇ ◇ ◇


 町へ戻る頃には、夕方の鐘が鳴り始めていた。


 トーマの工房へ近づくと、店先で木材を運んでいた父親がこちらに気づいた。


 その瞬間、肩に担いでいた板を地面へ下ろす。


「トーマ!」


「親父」


「お前……!」


 大股で近づいてくる。


 トーマが一歩だけ身構えた。


 殴られる。


 俺もそう思った。


 けれど、父親は息子の目の前まで来ると、拳を握ったまま動きを止めた。


「……怪我は」


「ない」


「本当に?」


「ないって」


「飯は?」


「食った」


「どこで?」


「川の近く」


「誰と?」


「知り合い」


「どこの誰だ!」


「親父、質問多い!」


「当たり前だろうが!」


 そこで父親の声が震えた。


「いなくなったんだぞ、お前」


 トーマが黙る。


 父親は拳を下ろした。


「昨日まで、何を考えてるのか分からんと思ってた。今日は、どこにいるのかも分からなくなった」


 怒鳴っていた時より、その声の方がずっと重かった。


「……悪かった」


 トーマが頭を下げる。


「勝手に出てったのは、俺が悪い」


「分かってるならいい」


「でも」


 トーマは顔を上げた。


「俺、聞きたいことがあったんだ」


「誰に?」


「俺と似た力を持つ人たちに」


 父親は少し驚いたようだった。


「……いたのか」


「ああ」


「お前だけじゃないのか」


「うん」


 トーマは自分の右手を見た。


「まだ怖いし、何ができるかも分からない。でも、俺だけがおかしくなったわけじゃないって分かった」


 父親の表情がゆっくり変わっていく。


「だから、調べたい」


「……仕事は?」


「やる」


「工房は?」


「手伝う」


「じゃあ、調べる時間なんか――」


「作る」


 トーマが言い切った。


「木工もやりたい。自分の力のことも知りたい。どっちか一つじゃなきゃ駄目なのか?」


 父親は答えなかった。


 俺も口を挟まなかった。


 これは、二人が話すことだ。


 しばらくして父親が大きく息を吐いた。


「……明日の朝、椅子を三脚直せ」


「え?」


「それが終わったら好きにしろ」


「親父」


「ただし、出かける時は言え」


「……分かった」


「帰る時間も」


「分かったって」


「行き先も」


「分かった!」


「誰と会うかも――」


「親父!!」


 俺とリナは思わず笑った。


 父親も、ようやく少しだけ口元を緩める。


 それから俺を見た。


「無職」


「名前で呼んでもらえません!?」


「息子を連れて帰ってくれて助かった」


「……どういたしまして」


「礼に飯を食っていけ」


「いいんですか?」


「ああ」


「やった!」


「ただし椅子を一脚直せ」


「職業なしなんですけど!?」


「手伝いくらいできるだろ」


 ……強い。


 この親父、メルクと気が合いそうだ。


『気が合いそうだねえ』


「本人も言ってる!」


『労働の価値が分かる人間は好きだよ』


「俺の無職を毎回攻撃しないで!」


 トーマが笑いながら作業台へ向かった。


 その背中を見て、俺は少し安心した。


 昨日、父親と喧嘩していた時とは違う。


 職業に従うためでも、父親を喜ばせるためだけでもない。


 自分で選んで木を触ろうとしている。


 それが分かったからだ。


          ◇ ◇ ◇


 夕食までの時間、俺たちは工房の隅で簡単な訓練をすることになった。


 言い出したのはヴォルグだった。


『トーマの性質を確認する』


「ここで?」


『壊れやすい物は避ける』


「この工房、壊れやすい物だらけじゃない?」


『だから選ぶ』


 相変わらず説明が短い。


 でも、以前よりは少しだけ言葉が増えた気がする。


 ヴォルグが指定したのは、古い木箱と二本の紐、それから金属製の留め具だった。


 どれも壊れても困らない廃材らしい。


 父親からも許可をもらった。


「まず、何もしない状態で持て」


 俺がヴォルグの言葉を伝えると、トーマは木箱を持ち上げた。


 何も起きない。


「次は、留め具を見て」


「外すのか?」


「まだ」


「……分かった」


 トーマは留め具を見つめる。


 数秒。


 何も起きない。


 さらに数秒。


 留め具が小さく震えた。


「おっと」


 トーマが目を逸らす。


 震えが止まった。


「今、何考えた?」


「外れそうだなって」


「外したいとは?」


「思ってない」


 ヴォルグが低く唸った。


『対象の認識だけで反応している可能性がある』


「それって危なくない?」


『危ない』


 即答。


 トーマが嫌そうな顔をする。


「もうちょっと安心させる言い方ないのか、その神様」


「ない」


『ある』


「あるの!?」


『今から教える』


 ヴォルグが少し間を置いた。


『危険だからこそ、扱い方を覚えればいい』


 ……おお。


 普通に先生っぽい。


「ヴォルグ、成長した?」


『お前を殴る方法を考えている』


「戻った!」


 トーマが吹き出した。


 でも、訓練はここからが本番だった。


 ヴォルグは留め具を外す練習ではなく、外れかけた状態を止める練習を提案した。


 以前、俺がトーマに言った「使わない練習」を、もっと細かくしたものだ。


 完全に発動する前の変化を見つける。


 何を考えた時に反応するのか確かめる。


 そして、反応が始まっても途中でやめられるか試す。


 トーマは最初、何度も失敗した。


 留め具が外れ、紐がほどけ、最後には木箱の底板まで抜けた。


「うわっ!」


 中に入れていた木片が床へ散らばる。


「……ごめん」


 トーマが肩を落とした。


 でも、ヴォルグは怒らなかった。


『今のは収穫だ』


「え?」


『留め具を見ていたのに、底板が外れた』


「それのどこが収穫?」


『外れた原因を考えろ』


 俺は木箱を持ち上げた。


 底板は釘ではなく、溝へはめ込む形で固定されていた。


 トーマは留め具を外そうとしていた。


 でも、実際に外れたのは底板。


 つまり。


「トーマが意識してたものと、実際に外れたものが違う?」


『そうだ』


「じゃあ、狙いがずれた?」


『それだけとは限らん』


 ヴォルグは木箱の構造を説明し始めた。


 留め具は箱の蓋を固定するためのもの。


 一方、底板は箱そのものを成立させるために組み込まれている。


 どちらも「外れる」構造だが、役割は違う。


『トーマは留め具を見ていた。しかし、頭の中では箱を開けたいと考えていた』


 トーマが目を見開いた。


「……そうだ」


「本当に?」


「ああ。留め具を外すっていうより、中を見たいと思ってた」


 なるほど。


 だから底板が外れた?


『可能性はある』


 ヴォルグは続けた。


『性質が何に反応するのか、まだ分からん。目で見た対象か、意識した対象か、それとも目的か』


 俺は自分のブレイカーを思い出した。


 切りたいものを認識する。


 何を切るのか理解する。


 そして、切る意思を持つ。


 似ている。


 でも、同じじゃない。


「トーマ」


「何?」


「次は箱を開けたいって考えないで、留め具だけを外すことを考えてみよう」


「……できるかな」


「分からん」


「お前、先生向いてねえな」


「先生じゃないから!」


『育成対象が育成を始めているな』


 エリオスがぼそっと言った。


「その言い方やめて!」


 今、その言葉は妙に引っかかる。


 育成。


 育成対象。


 育成者。


 最近、どこへ行っても出てくる。


 ただの訓練にまで、変な意味がつきそうになる。


 でも。


 今やっていることは、そんな大げさなものじゃない。


 困っている友達と、一緒に練習している。


 それだけだ。


 トーマはもう一度留め具を見た。


 深呼吸する。


 右手を伸ばす。


 留め具が小さく震える。


 今度は底板が動かない。


 蓋も動かない。


 そして。


 カチン。


 小さな音とともに、留め具だけが外れた。


「……できた」


 トーマが呟いた。


「できたじゃん!」


「今の、俺が?」


「他に誰がいるんだよ!」


 トーマが笑った。


 ヴォルグも満足そうだった。


『悪くない』


「褒めた!」


『一度できただけだ。次もできるとは限らん』


「すぐ厳しい!」


『だから次だ』


「休憩させろよ!」


 工房に笑い声が広がった。


 ただ、俺は一つだけ気づいていた。


 今の成功。


 トーマは自分で留め具を外した。


 でも、何も知らなかった昨日より、少しだけ制御できるようになっている。


 もしこれが育成だと言われたら。


 確かに、そうなのかもしれない。


 でも。


 だからといって。


 誰かがトーマを所有したわけじゃない。


 そこだけは、絶対に忘れたくなかった。


          ◇ ◇ ◇


 工房を出た頃には、すっかり夜になっていた。


 夕食をご馳走になった俺たちは、大神殿へ戻る道を歩いていた。


 リナは隣で、トーマの父親が作った料理について話している。


「美味しかったね」


「うん。あのスープ、めっちゃ良かった」


「レン、三杯飲んでた」


「二杯半」


「最後におかわりしたでしょ」


「半分だから」


「細かい!」


 そんな会話をしながら歩いていると、少しだけ普通の日常へ戻った気がした。


 朝からソラのこと、神託のこと、トーマの失踪、シオンの告白。


 いろいろありすぎた。


 でも、夕飯を食べて、友達と笑って、こうして帰る。


 それも俺の生活だ。


「レン」


 リナが急に真面目な声を出した。


「何?」


「シオンのこと、まだ考えてる?」


「……うん」


「そっか」


 リナはそれ以上聞かなかった。


 俺は少し迷ってから口を開いた。


「七柱に聞きたいことがある」


「さっき聞いてたじゃん」


「それとは別」


 リナがこちらを見る。


「俺さ」


 歩きながら言った。


「シオンが殺したって言った時、めちゃくちゃ腹立ったんだよ」


「うん」


「でも、何に腹立ったのか、ちょっと分からなくなってきた」


 人を殺したこと。


 それを平然と話したこと。


 神様に褒められたと言ったこと。


 それとも。


 自分が少し信用しかけていた相手から、そんな話を聞いたこと。


「全部かもしれない」


 リナが言った。


「……そうかも」


「でも、レン」


「うん」


「怒るのはいいと思う」


「いいの?」


「うん。ただ、怒ったまま何か決めるのは怖いかな」


 俺はリナを見た。


「経験者?」


「剣を使う人間だからね」


 リナは少しだけ笑った。


「怒って剣を振ったら、止めるの難しいんだよ」


 その言葉は、俺が思っていたより重かった。


 ブレイカーも同じだ。


 一度切ったものが、元に戻るとは限らない。


 だから。


 怒りだけで使ってはいけない。


「ありがと」


「どういたしまして」


 リナが笑う。


 その時。


『レン』


 エリオスの声が聞こえた。


「何?」


『先ほどの質問について、七柱で話した』


「……シオンの?」


『ああ』


 俺は立ち止まった。


「何か分かった?」


『結論から言えば、我々はシオンが語った事件を知らない』


「そっか」


『ただし』


 エリオスが続けた。


『神が殺人を褒めたという話について、もう一つ考えるべきことがある』


「何?」


『褒めた存在が、神だったとは限らない』


 俺は眉を寄せた。


「どういうこと?」


『彼が神と呼んだ存在が、実際に何者だったのか。それを確認しなければならない』


 確かに。


 神名のない神託。


 神として認識された何か。


 俺たちは、今日その話をしたばかりだった。


「じゃあ、シオンは騙された?」


『その可能性もある』


「でも、本人は神だと思ってる?」


『そうかもしれない』


 俺は考え込んだ。


 シオンは神を信用するなと言った。


 育成対象を殺した時、神に褒められたとも。


 もし、その神が偽物だったら。


 シオンの憎しみは、何に向いているんだろう。


 でも。


 だからといって。


 殺した事実が消えるわけじゃない。


「エリオス」


『何だ』


「俺、シオンのこと調べる」


『そうだろうな』


「でも、殺した相手のことも調べたい」


 少しだけ間があった。


『……それは重要だ』


「シオンの話だけじゃ、その人がどういう人だったか分からないから」


『ああ』


「死んだ人のことを、シオンの過去を説明するためだけの材料にしたくない」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 さっきまでは、シオンが何をしたのかばかり考えていた。


 でも。


 殺された人がいるなら。


 その人にも人生があったはずだ。


 名前があって。


 誰かに呼ばれて。


 何かを選んで。


 生きていた。


 それを知らないまま、シオンを理解した気になりたくない。


『レン』


 今度はフィリアだった。


「何?」


『その考えを、大切にしてください』


「……うん」


『ただし』


「ただし?」


『あなた一人で、すべてを背負おうとしないでください』


 胸が少し痛んだ。


 図星だったからだ。


「……気をつける」


『約束できますか?』


「努力します」


『レグルさんのようですね』


「そこ似なくていい!」


 リナが笑った。


 俺も笑う。


 でも。


 その言葉はちゃんと覚えておこうと思った。


          ◇ ◇ ◇


 大神殿へ戻ると、アリアが入口で待っていた。


 いつもより表情が硬い。


「レンさん」


「ただいま。どうしたの?」


「ソラさんのことで、少しお話が」


 俺とリナは顔を見合わせた。


「何かあった?」


「体調が悪くなったわけではありません」


 それを聞いて少し安心する。


「では?」


「彼女が、神殿へ来たいと」


「ソラが?」


「はい」


 アリアは頷いた。


「職業管理院から連絡がありました。休憩室で一人になった時、彼女が神殿について尋ねたそうです」


「何で?」


「神様と話せる場所だと聞いたから、と」


 俺は少し考えた。


 フィリアとセレナは、まだソラのそばにいる。


 なら、神様の声を聞くためだけなら管理院でもできるはずだ。


「他には?」


「……レンさんに会いたいそうです」


「俺?」


「はい」


 アリアが少し微笑んだ。


「今日、自分で名前を決めたことを、もう一度お話ししたいと」


 その言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。


 ソラ。


 あの子は今日、自分の名前を選んだ。


 何も覚えていない中で、初めて自分で決めたこと。


 それを誰かに話したいと思ってくれたのなら。


「会いに行こうかな」


 俺が言うと、アリアは頷いた。


「明日の朝、管理院の方が同行して来られる予定です」


「明日?」


「はい。レグル主任の許可も出ています」


「意外と話が早い」


「ただし」


 アリアが少し困った顔をした。


「神殿側にも、いくつか確認事項があるようで」


「確認事項?」


「ソラさんを、どのような立場で受け入れるかです」


 ……ああ。


 また。


 制度。


 職業。


 登録。


 そういう話か。


「普通に泊めたら駄目なの?」


「通常であれば可能です。ただ、彼女には身元を証明する記録がありません」


「名前はある」


「今日決めたものですね」


「うん」


「しかし、正式な住民登録がありません」


「じゃあ登録すれば」


「出生地も不明です」


「……なるほど」


 確かに。


 簡単じゃない。


 名前。


 決めた。


 でも。


 それだけで。


 この世界の制度が全部受け入れてくれるわけじゃない。


「どうしたらいい?」


 アリアは少し迷った。


「一つ、方法はあります」


「何?」


「神殿の保護下に置くことです」


 俺は思わず顔を上げた。


「保護?」


「はい」


 その言葉。


 今日。


 何度も。


 聞いた。


 職業管理院。


 特別査定部。


 レグル。


 ミア。


 トーマ。


 そして。


 ソラ。


「それって」


 俺は慎重に聞いた。


「ソラが嫌だって言ったら、出ていける?」


 アリアはすぐには答えなかった。


「……規定を確認する必要があります」


「じゃあ、先に確認しよう」


「はい」


「あと、ソラ本人にも聞こう」


「もちろんです」


 アリアは頷いた。


 俺は少し安心した。


 でも。


 そこで終わらなかった。


「実は」


 アリアが続ける。


「もう一つ、気になることがありまして」


「何?」


「今日、職業管理院から届いた報告書です」


 アリアは一枚の紙を差し出した。


 ソラについての簡単な記録。


【名称:ソラ】


【職業:なし】


【性質:未確定】


【育成状態:覚醒】


 ここまでは知っている。


 でも。


 その下。


【育成者:未接続】


 そして。


【育成対象番号:未登録】


「……ん?」


 俺は紙を見つめた。


「育成対象番号?」


「はい」


「これ、何?」


「私にも分かりません」


 俺はノアを呼んだ。


「ノア」


『確認しています』


「俺の第109代と関係ある?」


『不明です』


「同じ番号?」


『番号は表示されていません』


「じゃあ、まだ決めつけない」


『適切です』


 俺はもう一度、報告書を見た。


 育成対象番号。


 未登録。


 つまり。


 ソラには、まだ番号がない。


 それだけ。


 なのか。


 それとも。


 番号をつけようとしている何かがあるのか。


「アリア」


「はい」


「この報告書、誰が作った?」


「職業管理院です」


「レグルさん?」


「いえ」


 アリアが首を振る。


「自動記録装置によるものだそうです」


 俺は顔を上げた。


「自動?」


「はい」


 嫌な予感がした。


 誰かが書いたなら、その人に聞けばいい。


 でも。


 自動で表示されたなら。


 誰が決めた?


「その装置」


「昔からある?」


「職業管理院のものですので、詳しくは……」


「そっか」


 俺は報告書を返そうとして、手を止めた。


 紙の端。


 小さな文字。


 ある。


 最初はただの管理番号だと思った。


 でも。


 違う。


【照合元:旧育成管理記録】


「……旧?」


 心臓が鳴った。


「アリア」


「はい」


「これ、コピー取れる?」


「もちろんです」


「ありがとう」


 俺は紙をもう一度見た。


 旧育成管理記録。


 職業管理院。


 旧観測機構。


 神殿。


 全部。


 少しずつ。


 繋がっている。


 でも。


 繋がっていることと。


 同じもの。


 ということは。


 違う。


 そこ。


 間違えない。


「ノア」


『はい』


「旧育成管理記録って、知ってる?」


 少し間があった。


『その名称の記録は、私の保有情報にはありません』


「エリオスは?」


『知らない』


「他の五柱は?」


 順番に。


 返事。


 返る。


 全員。


 知らない。


 また。


 知らない。


 でも。


 今度。


 それだけで。


 終わらせない。


「じゃあ」


 俺は言った。


「明日、調べよう」


 アリアが頷く。


「管理院へ?」


「うん」


 そして。


「ソラにも聞く」


「何を?」


「自分のこと、どこまで知りたいか」


 アリアは少し驚いたようだった。


「全部調べるんじゃないんですか?」


「俺は調べたい」


 正直に答える。


「でも、ソラが怖いって思うなら、無理に全部知らせるのも違う気がする」


 自分の過去。


 名前。


 職業。


 性質。


 育成。


 それを知ることが、必ずしも幸せとは限らない。


 知らないままでは困ることもある。


 でも。


 知りたくないことを、勝手に暴くのも違う。


「難しいですね」


 アリアが言った。


「うん」


「レンさんは、いつも難しい方を選びますね」


「簡単な方が見つからないだけです」


 アリアが笑った。


 俺も笑う。


 その時。


 ふと。


 シオンの言葉を思い出した。


『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』


『それどころか、俺は神に褒められた』


 もし。


 育成管理記録。


 というものが。


 存在するなら。


 シオンの。


 記録も。


 どこかに。


 残っている?


 いや。


 まだ。


 分からない。


 でも。


 探す。


 理由が。


 一つ。


 増えた。


          ◇ ◇ ◇


 その夜。


 職業管理院の地下では、レグルが一人で古い記録を調べていた。


 机の上には、三十七年前の少女エナの記録と、今日届いたソラの報告書が並んでいる。


 どちらにも、通常の職業記録には存在しない項目が含まれていた。


【育成状態】


 レグルはその文字を何度も見比べた。


「……育成」


 誰かを育てる。


 それ自体は、悪いことではない。


 親が子を育てる。


 師が弟子を育てる。


 神が人を導く。


 だが。


 記録に残されているものは、どこか違う。


 人間が自分で決める前に、誰かが対象を選んでいる。


 誰かが番号をつけている。


 そして。


 誰かが、育成の完了を判断している。


「……誰の権限だ」


 レグルは呟いた。


 その時、扉が叩かれた。


「主任」


「入れ」


 若い査定官ディンが入ってくる。


 昨日、ミアへ剣を向けた男だ。


 今日はいつもより表情が硬い。


「ご報告があります」


「何だ」


「本部から、追加指示が届きました」


 レグルが顔を上げる。


「内容は?」


「未登録性質保有者への対応についてです」


「……読め」


 ディンは封筒を開いた。


「対象の保護を最優先とし、必要に応じて強制的な隔離措置を認める」


 レグルの眉が動いた。


「続けろ」


「対象が神性存在と接続している場合、接続の遮断を優先する」


「……何?」


「また、育成状態が覚醒と判定された個体については、通常の職業管理手続きから除外する」


 ディンが一度言葉を止めた。


「そして」


 レグルは黙って続きを待った。


「第109代育成対象、レン・アルヴェインについては――」


 そこでディンの声が僅かに震えた。


「特例対象として、速やかに確保すること」


 地下の記録室が静まり返る。


 レグルは封筒を受け取った。


 文書には、本部の正式な印章が押されている。


 偽物ではない。


 少なくとも、形式上は。


「……理由は?」


「記載されていません」


「発令者は?」


「本部長名義です」


「本部長が、直接?」


「はい」


 レグルは文書を見つめた。


 その最後に、小さな一文があった。


【本件は神託に基づく特別命令である】


「神託……?」


 レグルは顔を上げる。


「どの神からだ」


「それが」


 ディンが首を横に振った。


「神名の記載がありません」


 レグルの表情が変わった。


 神名のない神託。


 ここ半年で十一件。


 そのうち、意味の分からないものが三件。


 そして今。


 その神託が、正式な命令として職業管理院を動かそうとしている。


「ディン」


「はい」


「この命令は、まだ現場へ伝えるな」


「しかし、本部の正式命令です」


「分かっている」


「従わないのですか?」


 レグルはしばらく黙っていた。


 それから、静かに答えた。


「確認する」


「何を?」


「誰が命じたのかを」


「本部長では?」


「その本部長に、誰が命じた?」


 ディンは答えられなかった。


 レグルは文書を机へ置いた。


 そして、今日レンに言われた言葉を思い出す。


『誰を守るための規定なんですか?』


『まず本人に聞く』


 面倒な男だ。


 実に面倒だ。


 だが。


 あの無職が、たった一日で自分たちに思い出させたことがある。


 規則には、理由が必要だ。


 そして、保護する相手は人間だ。


「ディン」


「はい」


「レンの身柄を確保する必要があると判断するなら、まず本人に説明する」


「本部の命令では、速やかにと」


「説明できない命令を、保護と呼ぶつもりはない」


 レグルは文書を封筒へ戻した。


「明朝、レンを呼べ」


「任意ですか?」


「ああ」


「拒否された場合は?」


 レグルは少しだけ笑った。


「……あの男なら、来るだろう」


「なぜです?」


「聞きたいことが山ほどある顔をしていたからな」


 ディンは納得できない様子だった。


 だが、それ以上は何も言わなかった。


 レグルは窓のない地下室で、もう一度封筒を見た。


 神名のない神託。


 育成対象の確保。


 接続の遮断。


 そして。


 正式な命令。


 もし、この命令に従えば。


 自分たちは何を守ることになるのか。


 職業管理院か。


 神託か。


 市民か。


 それとも。


 まだ名前すら分からない、命令の主か。


 レグルは小さく息を吐いた。


「……明日は忙しくなりそうだな」


 机の上で、封筒の印章が一度だけ鈍く光った。


 誰も触れていない。


 それなのに。


 封筒の裏側に、黒い文字が一行だけ浮かび上がった。


【保護対象の意思確認は不要】


 レグルは動かなかった。


 文字を見つめる。


 やがて。


 ゆっくりと封筒を裏返した。


 そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「……それを決めるのは、お前ではない」

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