神託ログ08『神様に褒められた殺人』
シオンの最後の言葉が、頭から離れなかった。
『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』
『それどころか、俺は神に褒められた』
森を抜けてからも、俺たちはしばらく無言で歩いていた。
西へ向かった時にはまだ高かった太陽が、今は少しずつ傾き始めている。街道沿いの草が風に揺れ、遠くを走る荷馬車の車輪が乾いた音を立てていた。
いつもならガルドが歩く速度に文句をつけたり、メルクが道端の商売について余計な解説を始めたりするところだ。
けれど、今日は誰も口を開かない。
その沈黙が、俺には少しだけ腹立たしかった。
「なあ」
歩きながら呼びかける。
返事はない。
「聞こえてるよな、七柱」
『聞こえている』
エリオスだった。
「じゃあ聞くけど」
俺は立ち止まった。
「シオンが言ったこと、どう思う?」
リナとトーマも足を止める。
俺の視線が何もない空間へ向いているのを見て、二人とも神々と話しているのだと察したらしい。
『現時点では、彼の発言を裏付ける情報が不足しています』
ノアが答えた。
「そうだな。シオンが本当のことを言ってるかどうかも分からない」
『はい』
「でも、嘘だって決める理由もないよな?」
『ありません』
即答だった。
それで少しだけ気持ちが落ち着く。
少なくとも、ノアは神様を守るために都合の悪い可能性を消そうとはしない。
「じゃあ、もう一つ」
俺は息を吸った。
「神様が、人を殺したことを褒める場合ってあるのか?」
風が吹いた。
道の脇に生えた背の高い草が、ざわりと音を立てる。
最初に答えたのはガルドだった。
『ある』
思わず顔を上げた。
「……あるの?」
『戦場ではな』
ガルドの声はいつもより低かった。
『敵を倒し、仲間を守った者が称えられることはある。俺自身、そういう戦士を何人も見てきた』
「それって、殺したことを褒めてるのか?」
『そこが難しい』
ガルドは少し考えてから続けた。
『守り抜いたことを褒めているつもりでも、褒められた側は敵を殺したから認められたと思うかもしれん』
意外だった。
ガルドなら、もっと単純に「戦いだから仕方ない」と言うと思っていた。
『俺も昔は、敵を多く倒した戦士ほど強いと思っていた』
「今は?」
『倒さずに終わらせられるなら、その方が難しいこともあると知った』
ガルドが少し笑った。
『まあ、お前のせいでもあるがな』
「俺?」
『戦う前にいちいち考えるだろ、お前は』
「考えないと怖いし」
『そのせいで動くのが遅い』
「結局怒られるんかい!」
『だが、考えたから助かった奴もいる』
言い返そうとして、やめた。
村で白い根を切らなかった時のことを思い出したからだ。
あの時、見た目だけで敵だと決めていたら、五十一人を守っていたものを俺自身が壊していた。
考えることには意味がある。
でも、考えすぎて動けなくなることもある。
どちらも、俺の中にある。
「フィリアは?」
今度は自分から名前を呼んだ。
『……私は』
返事までに少し時間がかかった。
『人の命を奪うことを、良いことだとは思いません』
「うん」
『けれど、誰かを守るために別の命を奪わなければならなかった人へ、あなたは間違っていると言い切れるかと問われれば……』
そこで声が途切れた。
フィリアらしい。
優しいからこそ、簡単に答えられない。
「シオンは、褒められたって言ってた」
『はい』
「もし本当なら、その神様は何を褒めたんだろうな」
『分かりません』
「……そっか」
『ですが、レン』
「何?」
『褒められたことと、許されたことは同じではありません』
俺は顔を上げた。
『そして、褒めた神がいたとしても、殺された人が戻るわけではありません』
その言葉を聞いて、ユリウスの顔が浮かんだ。
あの時、フィリアは彼を生き返らせられなかった。
神様がいても。
七柱がいても。
できないことはある。
「……そうだな」
俺は再び歩き始めた。
リナが隣へ並ぶ。
「何て言ってた?」
「神様でも、殺すことを褒める場合はあるって」
「……そっか」
「でも、それが正しいかどうかは別だって」
リナはしばらく黙っていた。
彼女は剣を使う。
俺よりずっと上手い。
魔物とも戦ってきた。
だから、俺とは違う感覚があるのかもしれない。
「リナはどう思う?」
「何が?」
「シオンの話」
リナは腰の剣に手を置いた。
「私、シオンのこと好きじゃない」
「うん」
「何考えてるか分からないし、レンのこと知ってるみたいなのも気になる。それに、ユウみたいな子を連れて歩いてる理由だって、まだ全部は聞いてない」
「確かに」
「でも」
リナは前を見たまま続けた。
「トーマに無理やり何かさせなかったのは、本当なんでしょ?」
「うん」
「ユウが嫌だって言ったことも、話させなかった」
「そうだった」
「だったら、そこは本当のこととして覚えておきたい」
俺はリナを見た。
「殺したって話とは別に?」
「うん」
彼女は頷いた。
「一つ悪いことをした人が、それ以外の全部も悪いとは限らない。でも、一つ良いことをしたからって、悪いことが消えるわけでもないでしょ?」
……なるほど。
「リナ、めっちゃいいこと言うじゃん」
「何その言い方」
「今日の七柱より先生っぽい」
『聞こえてるぞ!』
ガルドが怒った。
「ほら、すぐ怒る先生もいるし」
『誰が先生だ!』
「今の完全に先生だったよ」
トーマまで笑い始めた。
重かった空気が、少しだけ軽くなる。
でも、俺の中の疑問は消えていなかった。
シオンは本当に誰かを殺したのか。
殺したのなら、誰を。
そして。
なぜ神は、それを褒めたのか。
今すぐ答えが出ないことだけは、分かっていた。
◇ ◇ ◇
町へ戻る頃には、夕方の鐘が鳴り始めていた。
トーマの工房へ近づくと、店先で木材を運んでいた父親がこちらに気づいた。
その瞬間、肩に担いでいた板を地面へ下ろす。
「トーマ!」
「親父」
「お前……!」
大股で近づいてくる。
トーマが一歩だけ身構えた。
殴られる。
俺もそう思った。
けれど、父親は息子の目の前まで来ると、拳を握ったまま動きを止めた。
「……怪我は」
「ない」
「本当に?」
「ないって」
「飯は?」
「食った」
「どこで?」
「川の近く」
「誰と?」
「知り合い」
「どこの誰だ!」
「親父、質問多い!」
「当たり前だろうが!」
そこで父親の声が震えた。
「いなくなったんだぞ、お前」
トーマが黙る。
父親は拳を下ろした。
「昨日まで、何を考えてるのか分からんと思ってた。今日は、どこにいるのかも分からなくなった」
怒鳴っていた時より、その声の方がずっと重かった。
「……悪かった」
トーマが頭を下げる。
「勝手に出てったのは、俺が悪い」
「分かってるならいい」
「でも」
トーマは顔を上げた。
「俺、聞きたいことがあったんだ」
「誰に?」
「俺と似た力を持つ人たちに」
父親は少し驚いたようだった。
「……いたのか」
「ああ」
「お前だけじゃないのか」
「うん」
トーマは自分の右手を見た。
「まだ怖いし、何ができるかも分からない。でも、俺だけがおかしくなったわけじゃないって分かった」
父親の表情がゆっくり変わっていく。
「だから、調べたい」
「……仕事は?」
「やる」
「工房は?」
「手伝う」
「じゃあ、調べる時間なんか――」
「作る」
トーマが言い切った。
「木工もやりたい。自分の力のことも知りたい。どっちか一つじゃなきゃ駄目なのか?」
父親は答えなかった。
俺も口を挟まなかった。
これは、二人が話すことだ。
しばらくして父親が大きく息を吐いた。
「……明日の朝、椅子を三脚直せ」
「え?」
「それが終わったら好きにしろ」
「親父」
「ただし、出かける時は言え」
「……分かった」
「帰る時間も」
「分かったって」
「行き先も」
「分かった!」
「誰と会うかも――」
「親父!!」
俺とリナは思わず笑った。
父親も、ようやく少しだけ口元を緩める。
それから俺を見た。
「無職」
「名前で呼んでもらえません!?」
「息子を連れて帰ってくれて助かった」
「……どういたしまして」
「礼に飯を食っていけ」
「いいんですか?」
「ああ」
「やった!」
「ただし椅子を一脚直せ」
「職業なしなんですけど!?」
「手伝いくらいできるだろ」
……強い。
この親父、メルクと気が合いそうだ。
『気が合いそうだねえ』
「本人も言ってる!」
『労働の価値が分かる人間は好きだよ』
「俺の無職を毎回攻撃しないで!」
トーマが笑いながら作業台へ向かった。
その背中を見て、俺は少し安心した。
昨日、父親と喧嘩していた時とは違う。
職業に従うためでも、父親を喜ばせるためだけでもない。
自分で選んで木を触ろうとしている。
それが分かったからだ。
◇ ◇ ◇
夕食までの時間、俺たちは工房の隅で簡単な訓練をすることになった。
言い出したのはヴォルグだった。
『トーマの性質を確認する』
「ここで?」
『壊れやすい物は避ける』
「この工房、壊れやすい物だらけじゃない?」
『だから選ぶ』
相変わらず説明が短い。
でも、以前よりは少しだけ言葉が増えた気がする。
ヴォルグが指定したのは、古い木箱と二本の紐、それから金属製の留め具だった。
どれも壊れても困らない廃材らしい。
父親からも許可をもらった。
「まず、何もしない状態で持て」
俺がヴォルグの言葉を伝えると、トーマは木箱を持ち上げた。
何も起きない。
「次は、留め具を見て」
「外すのか?」
「まだ」
「……分かった」
トーマは留め具を見つめる。
数秒。
何も起きない。
さらに数秒。
留め具が小さく震えた。
「おっと」
トーマが目を逸らす。
震えが止まった。
「今、何考えた?」
「外れそうだなって」
「外したいとは?」
「思ってない」
ヴォルグが低く唸った。
『対象の認識だけで反応している可能性がある』
「それって危なくない?」
『危ない』
即答。
トーマが嫌そうな顔をする。
「もうちょっと安心させる言い方ないのか、その神様」
「ない」
『ある』
「あるの!?」
『今から教える』
ヴォルグが少し間を置いた。
『危険だからこそ、扱い方を覚えればいい』
……おお。
普通に先生っぽい。
「ヴォルグ、成長した?」
『お前を殴る方法を考えている』
「戻った!」
トーマが吹き出した。
でも、訓練はここからが本番だった。
ヴォルグは留め具を外す練習ではなく、外れかけた状態を止める練習を提案した。
以前、俺がトーマに言った「使わない練習」を、もっと細かくしたものだ。
完全に発動する前の変化を見つける。
何を考えた時に反応するのか確かめる。
そして、反応が始まっても途中でやめられるか試す。
トーマは最初、何度も失敗した。
留め具が外れ、紐がほどけ、最後には木箱の底板まで抜けた。
「うわっ!」
中に入れていた木片が床へ散らばる。
「……ごめん」
トーマが肩を落とした。
でも、ヴォルグは怒らなかった。
『今のは収穫だ』
「え?」
『留め具を見ていたのに、底板が外れた』
「それのどこが収穫?」
『外れた原因を考えろ』
俺は木箱を持ち上げた。
底板は釘ではなく、溝へはめ込む形で固定されていた。
トーマは留め具を外そうとしていた。
でも、実際に外れたのは底板。
つまり。
「トーマが意識してたものと、実際に外れたものが違う?」
『そうだ』
「じゃあ、狙いがずれた?」
『それだけとは限らん』
ヴォルグは木箱の構造を説明し始めた。
留め具は箱の蓋を固定するためのもの。
一方、底板は箱そのものを成立させるために組み込まれている。
どちらも「外れる」構造だが、役割は違う。
『トーマは留め具を見ていた。しかし、頭の中では箱を開けたいと考えていた』
トーマが目を見開いた。
「……そうだ」
「本当に?」
「ああ。留め具を外すっていうより、中を見たいと思ってた」
なるほど。
だから底板が外れた?
『可能性はある』
ヴォルグは続けた。
『性質が何に反応するのか、まだ分からん。目で見た対象か、意識した対象か、それとも目的か』
俺は自分のブレイカーを思い出した。
切りたいものを認識する。
何を切るのか理解する。
そして、切る意思を持つ。
似ている。
でも、同じじゃない。
「トーマ」
「何?」
「次は箱を開けたいって考えないで、留め具だけを外すことを考えてみよう」
「……できるかな」
「分からん」
「お前、先生向いてねえな」
「先生じゃないから!」
『育成対象が育成を始めているな』
エリオスがぼそっと言った。
「その言い方やめて!」
今、その言葉は妙に引っかかる。
育成。
育成対象。
育成者。
最近、どこへ行っても出てくる。
ただの訓練にまで、変な意味がつきそうになる。
でも。
今やっていることは、そんな大げさなものじゃない。
困っている友達と、一緒に練習している。
それだけだ。
トーマはもう一度留め具を見た。
深呼吸する。
右手を伸ばす。
留め具が小さく震える。
今度は底板が動かない。
蓋も動かない。
そして。
カチン。
小さな音とともに、留め具だけが外れた。
「……できた」
トーマが呟いた。
「できたじゃん!」
「今の、俺が?」
「他に誰がいるんだよ!」
トーマが笑った。
ヴォルグも満足そうだった。
『悪くない』
「褒めた!」
『一度できただけだ。次もできるとは限らん』
「すぐ厳しい!」
『だから次だ』
「休憩させろよ!」
工房に笑い声が広がった。
ただ、俺は一つだけ気づいていた。
今の成功。
トーマは自分で留め具を外した。
でも、何も知らなかった昨日より、少しだけ制御できるようになっている。
もしこれが育成だと言われたら。
確かに、そうなのかもしれない。
でも。
だからといって。
誰かがトーマを所有したわけじゃない。
そこだけは、絶対に忘れたくなかった。
◇ ◇ ◇
工房を出た頃には、すっかり夜になっていた。
夕食をご馳走になった俺たちは、大神殿へ戻る道を歩いていた。
リナは隣で、トーマの父親が作った料理について話している。
「美味しかったね」
「うん。あのスープ、めっちゃ良かった」
「レン、三杯飲んでた」
「二杯半」
「最後におかわりしたでしょ」
「半分だから」
「細かい!」
そんな会話をしながら歩いていると、少しだけ普通の日常へ戻った気がした。
朝からソラのこと、神託のこと、トーマの失踪、シオンの告白。
いろいろありすぎた。
でも、夕飯を食べて、友達と笑って、こうして帰る。
それも俺の生活だ。
「レン」
リナが急に真面目な声を出した。
「何?」
「シオンのこと、まだ考えてる?」
「……うん」
「そっか」
リナはそれ以上聞かなかった。
俺は少し迷ってから口を開いた。
「七柱に聞きたいことがある」
「さっき聞いてたじゃん」
「それとは別」
リナがこちらを見る。
「俺さ」
歩きながら言った。
「シオンが殺したって言った時、めちゃくちゃ腹立ったんだよ」
「うん」
「でも、何に腹立ったのか、ちょっと分からなくなってきた」
人を殺したこと。
それを平然と話したこと。
神様に褒められたと言ったこと。
それとも。
自分が少し信用しかけていた相手から、そんな話を聞いたこと。
「全部かもしれない」
リナが言った。
「……そうかも」
「でも、レン」
「うん」
「怒るのはいいと思う」
「いいの?」
「うん。ただ、怒ったまま何か決めるのは怖いかな」
俺はリナを見た。
「経験者?」
「剣を使う人間だからね」
リナは少しだけ笑った。
「怒って剣を振ったら、止めるの難しいんだよ」
その言葉は、俺が思っていたより重かった。
ブレイカーも同じだ。
一度切ったものが、元に戻るとは限らない。
だから。
怒りだけで使ってはいけない。
「ありがと」
「どういたしまして」
リナが笑う。
その時。
『レン』
エリオスの声が聞こえた。
「何?」
『先ほどの質問について、七柱で話した』
「……シオンの?」
『ああ』
俺は立ち止まった。
「何か分かった?」
『結論から言えば、我々はシオンが語った事件を知らない』
「そっか」
『ただし』
エリオスが続けた。
『神が殺人を褒めたという話について、もう一つ考えるべきことがある』
「何?」
『褒めた存在が、神だったとは限らない』
俺は眉を寄せた。
「どういうこと?」
『彼が神と呼んだ存在が、実際に何者だったのか。それを確認しなければならない』
確かに。
神名のない神託。
神として認識された何か。
俺たちは、今日その話をしたばかりだった。
「じゃあ、シオンは騙された?」
『その可能性もある』
「でも、本人は神だと思ってる?」
『そうかもしれない』
俺は考え込んだ。
シオンは神を信用するなと言った。
育成対象を殺した時、神に褒められたとも。
もし、その神が偽物だったら。
シオンの憎しみは、何に向いているんだろう。
でも。
だからといって。
殺した事実が消えるわけじゃない。
「エリオス」
『何だ』
「俺、シオンのこと調べる」
『そうだろうな』
「でも、殺した相手のことも調べたい」
少しだけ間があった。
『……それは重要だ』
「シオンの話だけじゃ、その人がどういう人だったか分からないから」
『ああ』
「死んだ人のことを、シオンの過去を説明するためだけの材料にしたくない」
言ってから、自分でも少し驚いた。
さっきまでは、シオンが何をしたのかばかり考えていた。
でも。
殺された人がいるなら。
その人にも人生があったはずだ。
名前があって。
誰かに呼ばれて。
何かを選んで。
生きていた。
それを知らないまま、シオンを理解した気になりたくない。
『レン』
今度はフィリアだった。
「何?」
『その考えを、大切にしてください』
「……うん」
『ただし』
「ただし?」
『あなた一人で、すべてを背負おうとしないでください』
胸が少し痛んだ。
図星だったからだ。
「……気をつける」
『約束できますか?』
「努力します」
『レグルさんのようですね』
「そこ似なくていい!」
リナが笑った。
俺も笑う。
でも。
その言葉はちゃんと覚えておこうと思った。
◇ ◇ ◇
大神殿へ戻ると、アリアが入口で待っていた。
いつもより表情が硬い。
「レンさん」
「ただいま。どうしたの?」
「ソラさんのことで、少しお話が」
俺とリナは顔を見合わせた。
「何かあった?」
「体調が悪くなったわけではありません」
それを聞いて少し安心する。
「では?」
「彼女が、神殿へ来たいと」
「ソラが?」
「はい」
アリアは頷いた。
「職業管理院から連絡がありました。休憩室で一人になった時、彼女が神殿について尋ねたそうです」
「何で?」
「神様と話せる場所だと聞いたから、と」
俺は少し考えた。
フィリアとセレナは、まだソラのそばにいる。
なら、神様の声を聞くためだけなら管理院でもできるはずだ。
「他には?」
「……レンさんに会いたいそうです」
「俺?」
「はい」
アリアが少し微笑んだ。
「今日、自分で名前を決めたことを、もう一度お話ししたいと」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
ソラ。
あの子は今日、自分の名前を選んだ。
何も覚えていない中で、初めて自分で決めたこと。
それを誰かに話したいと思ってくれたのなら。
「会いに行こうかな」
俺が言うと、アリアは頷いた。
「明日の朝、管理院の方が同行して来られる予定です」
「明日?」
「はい。レグル主任の許可も出ています」
「意外と話が早い」
「ただし」
アリアが少し困った顔をした。
「神殿側にも、いくつか確認事項があるようで」
「確認事項?」
「ソラさんを、どのような立場で受け入れるかです」
……ああ。
また。
制度。
職業。
登録。
そういう話か。
「普通に泊めたら駄目なの?」
「通常であれば可能です。ただ、彼女には身元を証明する記録がありません」
「名前はある」
「今日決めたものですね」
「うん」
「しかし、正式な住民登録がありません」
「じゃあ登録すれば」
「出生地も不明です」
「……なるほど」
確かに。
簡単じゃない。
名前。
決めた。
でも。
それだけで。
この世界の制度が全部受け入れてくれるわけじゃない。
「どうしたらいい?」
アリアは少し迷った。
「一つ、方法はあります」
「何?」
「神殿の保護下に置くことです」
俺は思わず顔を上げた。
「保護?」
「はい」
その言葉。
今日。
何度も。
聞いた。
職業管理院。
特別査定部。
レグル。
ミア。
トーマ。
そして。
ソラ。
「それって」
俺は慎重に聞いた。
「ソラが嫌だって言ったら、出ていける?」
アリアはすぐには答えなかった。
「……規定を確認する必要があります」
「じゃあ、先に確認しよう」
「はい」
「あと、ソラ本人にも聞こう」
「もちろんです」
アリアは頷いた。
俺は少し安心した。
でも。
そこで終わらなかった。
「実は」
アリアが続ける。
「もう一つ、気になることがありまして」
「何?」
「今日、職業管理院から届いた報告書です」
アリアは一枚の紙を差し出した。
ソラについての簡単な記録。
【名称:ソラ】
【職業:なし】
【性質:未確定】
【育成状態:覚醒】
ここまでは知っている。
でも。
その下。
【育成者:未接続】
そして。
【育成対象番号:未登録】
「……ん?」
俺は紙を見つめた。
「育成対象番号?」
「はい」
「これ、何?」
「私にも分かりません」
俺はノアを呼んだ。
「ノア」
『確認しています』
「俺の第109代と関係ある?」
『不明です』
「同じ番号?」
『番号は表示されていません』
「じゃあ、まだ決めつけない」
『適切です』
俺はもう一度、報告書を見た。
育成対象番号。
未登録。
つまり。
ソラには、まだ番号がない。
それだけ。
なのか。
それとも。
番号をつけようとしている何かがあるのか。
「アリア」
「はい」
「この報告書、誰が作った?」
「職業管理院です」
「レグルさん?」
「いえ」
アリアが首を振る。
「自動記録装置によるものだそうです」
俺は顔を上げた。
「自動?」
「はい」
嫌な予感がした。
誰かが書いたなら、その人に聞けばいい。
でも。
自動で表示されたなら。
誰が決めた?
「その装置」
「昔からある?」
「職業管理院のものですので、詳しくは……」
「そっか」
俺は報告書を返そうとして、手を止めた。
紙の端。
小さな文字。
ある。
最初はただの管理番号だと思った。
でも。
違う。
【照合元:旧育成管理記録】
「……旧?」
心臓が鳴った。
「アリア」
「はい」
「これ、コピー取れる?」
「もちろんです」
「ありがとう」
俺は紙をもう一度見た。
旧育成管理記録。
職業管理院。
旧観測機構。
神殿。
全部。
少しずつ。
繋がっている。
でも。
繋がっていることと。
同じもの。
ということは。
違う。
そこ。
間違えない。
「ノア」
『はい』
「旧育成管理記録って、知ってる?」
少し間があった。
『その名称の記録は、私の保有情報にはありません』
「エリオスは?」
『知らない』
「他の五柱は?」
順番に。
返事。
返る。
全員。
知らない。
また。
知らない。
でも。
今度。
それだけで。
終わらせない。
「じゃあ」
俺は言った。
「明日、調べよう」
アリアが頷く。
「管理院へ?」
「うん」
そして。
「ソラにも聞く」
「何を?」
「自分のこと、どこまで知りたいか」
アリアは少し驚いたようだった。
「全部調べるんじゃないんですか?」
「俺は調べたい」
正直に答える。
「でも、ソラが怖いって思うなら、無理に全部知らせるのも違う気がする」
自分の過去。
名前。
職業。
性質。
育成。
それを知ることが、必ずしも幸せとは限らない。
知らないままでは困ることもある。
でも。
知りたくないことを、勝手に暴くのも違う。
「難しいですね」
アリアが言った。
「うん」
「レンさんは、いつも難しい方を選びますね」
「簡単な方が見つからないだけです」
アリアが笑った。
俺も笑う。
その時。
ふと。
シオンの言葉を思い出した。
『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』
『それどころか、俺は神に褒められた』
もし。
育成管理記録。
というものが。
存在するなら。
シオンの。
記録も。
どこかに。
残っている?
いや。
まだ。
分からない。
でも。
探す。
理由が。
一つ。
増えた。
◇ ◇ ◇
その夜。
職業管理院の地下では、レグルが一人で古い記録を調べていた。
机の上には、三十七年前の少女エナの記録と、今日届いたソラの報告書が並んでいる。
どちらにも、通常の職業記録には存在しない項目が含まれていた。
【育成状態】
レグルはその文字を何度も見比べた。
「……育成」
誰かを育てる。
それ自体は、悪いことではない。
親が子を育てる。
師が弟子を育てる。
神が人を導く。
だが。
記録に残されているものは、どこか違う。
人間が自分で決める前に、誰かが対象を選んでいる。
誰かが番号をつけている。
そして。
誰かが、育成の完了を判断している。
「……誰の権限だ」
レグルは呟いた。
その時、扉が叩かれた。
「主任」
「入れ」
若い査定官ディンが入ってくる。
昨日、ミアへ剣を向けた男だ。
今日はいつもより表情が硬い。
「ご報告があります」
「何だ」
「本部から、追加指示が届きました」
レグルが顔を上げる。
「内容は?」
「未登録性質保有者への対応についてです」
「……読め」
ディンは封筒を開いた。
「対象の保護を最優先とし、必要に応じて強制的な隔離措置を認める」
レグルの眉が動いた。
「続けろ」
「対象が神性存在と接続している場合、接続の遮断を優先する」
「……何?」
「また、育成状態が覚醒と判定された個体については、通常の職業管理手続きから除外する」
ディンが一度言葉を止めた。
「そして」
レグルは黙って続きを待った。
「第109代育成対象、レン・アルヴェインについては――」
そこでディンの声が僅かに震えた。
「特例対象として、速やかに確保すること」
地下の記録室が静まり返る。
レグルは封筒を受け取った。
文書には、本部の正式な印章が押されている。
偽物ではない。
少なくとも、形式上は。
「……理由は?」
「記載されていません」
「発令者は?」
「本部長名義です」
「本部長が、直接?」
「はい」
レグルは文書を見つめた。
その最後に、小さな一文があった。
【本件は神託に基づく特別命令である】
「神託……?」
レグルは顔を上げる。
「どの神からだ」
「それが」
ディンが首を横に振った。
「神名の記載がありません」
レグルの表情が変わった。
神名のない神託。
ここ半年で十一件。
そのうち、意味の分からないものが三件。
そして今。
その神託が、正式な命令として職業管理院を動かそうとしている。
「ディン」
「はい」
「この命令は、まだ現場へ伝えるな」
「しかし、本部の正式命令です」
「分かっている」
「従わないのですか?」
レグルはしばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「確認する」
「何を?」
「誰が命じたのかを」
「本部長では?」
「その本部長に、誰が命じた?」
ディンは答えられなかった。
レグルは文書を机へ置いた。
そして、今日レンに言われた言葉を思い出す。
『誰を守るための規定なんですか?』
『まず本人に聞く』
面倒な男だ。
実に面倒だ。
だが。
あの無職が、たった一日で自分たちに思い出させたことがある。
規則には、理由が必要だ。
そして、保護する相手は人間だ。
「ディン」
「はい」
「レンの身柄を確保する必要があると判断するなら、まず本人に説明する」
「本部の命令では、速やかにと」
「説明できない命令を、保護と呼ぶつもりはない」
レグルは文書を封筒へ戻した。
「明朝、レンを呼べ」
「任意ですか?」
「ああ」
「拒否された場合は?」
レグルは少しだけ笑った。
「……あの男なら、来るだろう」
「なぜです?」
「聞きたいことが山ほどある顔をしていたからな」
ディンは納得できない様子だった。
だが、それ以上は何も言わなかった。
レグルは窓のない地下室で、もう一度封筒を見た。
神名のない神託。
育成対象の確保。
接続の遮断。
そして。
正式な命令。
もし、この命令に従えば。
自分たちは何を守ることになるのか。
職業管理院か。
神託か。
市民か。
それとも。
まだ名前すら分からない、命令の主か。
レグルは小さく息を吐いた。
「……明日は忙しくなりそうだな」
机の上で、封筒の印章が一度だけ鈍く光った。
誰も触れていない。
それなのに。
封筒の裏側に、黒い文字が一行だけ浮かび上がった。
【保護対象の意思確認は不要】
レグルは動かなかった。
文字を見つめる。
やがて。
ゆっくりと封筒を裏返した。
そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……それを決めるのは、お前ではない」
シオンの最後の言葉が、頭から離れなかった。
『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』
『それどころか、俺は神に褒められた』
森を抜けてからも、俺たちはしばらく無言で歩いていた。
西へ向かった時にはまだ高かった太陽が、今は少しずつ傾き始めている。街道沿いの草が風に揺れ、遠くを走る荷馬車の車輪が乾いた音を立てていた。
いつもならガルドが歩く速度に文句をつけたり、メルクが道端の商売について余計な解説を始めたりするところだ。
けれど、今日は誰も口を開かない。
その沈黙が、俺には少しだけ腹立たしかった。
「なあ」
歩きながら呼びかける。
返事はない。
「聞こえてるよな、七柱」
『聞こえている』
エリオスだった。
「じゃあ聞くけど」
俺は立ち止まった。
「シオンが言ったこと、どう思う?」
リナとトーマも足を止める。
俺の視線が何もない空間へ向いているのを見て、二人とも神々と話しているのだと察したらしい。
『現時点では、彼の発言を裏付ける情報が不足しています』
ノアが答えた。
「そうだな。シオンが本当のことを言ってるかどうかも分からない」
『はい』
「でも、嘘だって決める理由もないよな?」
『ありません』
即答だった。
それで少しだけ気持ちが落ち着く。
少なくとも、ノアは神様を守るために都合の悪い可能性を消そうとはしない。
「じゃあ、もう一つ」
俺は息を吸った。
「神様が、人を殺したことを褒める場合ってあるのか?」
風が吹いた。
道の脇に生えた背の高い草が、ざわりと音を立てる。
最初に答えたのはガルドだった。
『ある』
思わず顔を上げた。
「……あるの?」
『戦場ではな』
ガルドの声はいつもより低かった。
『敵を倒し、仲間を守った者が称えられることはある。俺自身、そういう戦士を何人も見てきた』
「それって、殺したことを褒めてるのか?」
『そこが難しい』
ガルドは少し考えてから続けた。
『守り抜いたことを褒めているつもりでも、褒められた側は敵を殺したから認められたと思うかもしれん』
意外だった。
ガルドなら、もっと単純に「戦いだから仕方ない」と言うと思っていた。
『俺も昔は、敵を多く倒した戦士ほど強いと思っていた』
「今は?」
『倒さずに終わらせられるなら、その方が難しいこともあると知った』
ガルドが少し笑った。
『まあ、お前のせいでもあるがな』
「俺?」
『戦う前にいちいち考えるだろ、お前は』
「考えないと怖いし」
『そのせいで動くのが遅い』
「結局怒られるんかい!」
『だが、考えたから助かった奴もいる』
言い返そうとして、やめた。
村で白い根を切らなかった時のことを思い出したからだ。
あの時、見た目だけで敵だと決めていたら、五十一人を守っていたものを俺自身が壊していた。
考えることには意味がある。
でも、考えすぎて動けなくなることもある。
どちらも、俺の中にある。
「フィリアは?」
今度は自分から名前を呼んだ。
『……私は』
返事までに少し時間がかかった。
『人の命を奪うことを、良いことだとは思いません』
「うん」
『けれど、誰かを守るために別の命を奪わなければならなかった人へ、あなたは間違っていると言い切れるかと問われれば……』
そこで声が途切れた。
フィリアらしい。
優しいからこそ、簡単に答えられない。
「シオンは、褒められたって言ってた」
『はい』
「もし本当なら、その神様は何を褒めたんだろうな」
『分かりません』
「……そっか」
『ですが、レン』
「何?」
『褒められたことと、許されたことは同じではありません』
俺は顔を上げた。
『そして、褒めた神がいたとしても、殺された人が戻るわけではありません』
その言葉を聞いて、ユリウスの顔が浮かんだ。
あの時、フィリアは彼を生き返らせられなかった。
神様がいても。
七柱がいても。
できないことはある。
「……そうだな」
俺は再び歩き始めた。
リナが隣へ並ぶ。
「何て言ってた?」
「神様でも、殺すことを褒める場合はあるって」
「……そっか」
「でも、それが正しいかどうかは別だって」
リナはしばらく黙っていた。
彼女は剣を使う。
俺よりずっと上手い。
魔物とも戦ってきた。
だから、俺とは違う感覚があるのかもしれない。
「リナはどう思う?」
「何が?」
「シオンの話」
リナは腰の剣に手を置いた。
「私、シオンのこと好きじゃない」
「うん」
「何考えてるか分からないし、レンのこと知ってるみたいなのも気になる。それに、ユウみたいな子を連れて歩いてる理由だって、まだ全部は聞いてない」
「確かに」
「でも」
リナは前を見たまま続けた。
「トーマに無理やり何かさせなかったのは、本当なんでしょ?」
「うん」
「ユウが嫌だって言ったことも、話させなかった」
「そうだった」
「だったら、そこは本当のこととして覚えておきたい」
俺はリナを見た。
「殺したって話とは別に?」
「うん」
彼女は頷いた。
「一つ悪いことをした人が、それ以外の全部も悪いとは限らない。でも、一つ良いことをしたからって、悪いことが消えるわけでもないでしょ?」
……なるほど。
「リナ、めっちゃいいこと言うじゃん」
「何その言い方」
「今日の七柱より先生っぽい」
『聞こえてるぞ!』
ガルドが怒った。
「ほら、すぐ怒る先生もいるし」
『誰が先生だ!』
「今の完全に先生だったよ」
トーマまで笑い始めた。
重かった空気が、少しだけ軽くなる。
でも、俺の中の疑問は消えていなかった。
シオンは本当に誰かを殺したのか。
殺したのなら、誰を。
そして。
なぜ神は、それを褒めたのか。
今すぐ答えが出ないことだけは、分かっていた。
◇ ◇ ◇
町へ戻る頃には、夕方の鐘が鳴り始めていた。
トーマの工房へ近づくと、店先で木材を運んでいた父親がこちらに気づいた。
その瞬間、肩に担いでいた板を地面へ下ろす。
「トーマ!」
「親父」
「お前……!」
大股で近づいてくる。
トーマが一歩だけ身構えた。
殴られる。
俺もそう思った。
けれど、父親は息子の目の前まで来ると、拳を握ったまま動きを止めた。
「……怪我は」
「ない」
「本当に?」
「ないって」
「飯は?」
「食った」
「どこで?」
「川の近く」
「誰と?」
「知り合い」
「どこの誰だ!」
「親父、質問多い!」
「当たり前だろうが!」
そこで父親の声が震えた。
「いなくなったんだぞ、お前」
トーマが黙る。
父親は拳を下ろした。
「昨日まで、何を考えてるのか分からんと思ってた。今日は、どこにいるのかも分からなくなった」
怒鳴っていた時より、その声の方がずっと重かった。
「……悪かった」
トーマが頭を下げる。
「勝手に出てったのは、俺が悪い」
「分かってるならいい」
「でも」
トーマは顔を上げた。
「俺、聞きたいことがあったんだ」
「誰に?」
「俺と似た力を持つ人たちに」
父親は少し驚いたようだった。
「……いたのか」
「ああ」
「お前だけじゃないのか」
「うん」
トーマは自分の右手を見た。
「まだ怖いし、何ができるかも分からない。でも、俺だけがおかしくなったわけじゃないって分かった」
父親の表情がゆっくり変わっていく。
「だから、調べたい」
「……仕事は?」
「やる」
「工房は?」
「手伝う」
「じゃあ、調べる時間なんか――」
「作る」
トーマが言い切った。
「木工もやりたい。自分の力のことも知りたい。どっちか一つじゃなきゃ駄目なのか?」
父親は答えなかった。
俺も口を挟まなかった。
これは、二人が話すことだ。
しばらくして父親が大きく息を吐いた。
「……明日の朝、椅子を三脚直せ」
「え?」
「それが終わったら好きにしろ」
「親父」
「ただし、出かける時は言え」
「……分かった」
「帰る時間も」
「分かったって」
「行き先も」
「分かった!」
「誰と会うかも――」
「親父!!」
俺とリナは思わず笑った。
父親も、ようやく少しだけ口元を緩める。
それから俺を見た。
「無職」
「名前で呼んでもらえません!?」
「息子を連れて帰ってくれて助かった」
「……どういたしまして」
「礼に飯を食っていけ」
「いいんですか?」
「ああ」
「やった!」
「ただし椅子を一脚直せ」
「職業なしなんですけど!?」
「手伝いくらいできるだろ」
……強い。
この親父、メルクと気が合いそうだ。
『気が合いそうだねえ』
「本人も言ってる!」
『労働の価値が分かる人間は好きだよ』
「俺の無職を毎回攻撃しないで!」
トーマが笑いながら作業台へ向かった。
その背中を見て、俺は少し安心した。
昨日、父親と喧嘩していた時とは違う。
職業に従うためでも、父親を喜ばせるためだけでもない。
自分で選んで木を触ろうとしている。
それが分かったからだ。
◇ ◇ ◇
夕食までの時間、俺たちは工房の隅で簡単な訓練をすることになった。
言い出したのはヴォルグだった。
『トーマの性質を確認する』
「ここで?」
『壊れやすい物は避ける』
「この工房、壊れやすい物だらけじゃない?」
『だから選ぶ』
相変わらず説明が短い。
でも、以前よりは少しだけ言葉が増えた気がする。
ヴォルグが指定したのは、古い木箱と二本の紐、それから金属製の留め具だった。
どれも壊れても困らない廃材らしい。
父親からも許可をもらった。
「まず、何もしない状態で持て」
俺がヴォルグの言葉を伝えると、トーマは木箱を持ち上げた。
何も起きない。
「次は、留め具を見て」
「外すのか?」
「まだ」
「……分かった」
トーマは留め具を見つめる。
数秒。
何も起きない。
さらに数秒。
留め具が小さく震えた。
「おっと」
トーマが目を逸らす。
震えが止まった。
「今、何考えた?」
「外れそうだなって」
「外したいとは?」
「思ってない」
ヴォルグが低く唸った。
『対象の認識だけで反応している可能性がある』
「それって危なくない?」
『危ない』
即答。
トーマが嫌そうな顔をする。
「もうちょっと安心させる言い方ないのか、その神様」
「ない」
『ある』
「あるの!?」
『今から教える』
ヴォルグが少し間を置いた。
『危険だからこそ、扱い方を覚えればいい』
……おお。
普通に先生っぽい。
「ヴォルグ、成長した?」
『お前を殴る方法を考えている』
「戻った!」
トーマが吹き出した。
でも、訓練はここからが本番だった。
ヴォルグは留め具を外す練習ではなく、外れかけた状態を止める練習を提案した。
以前、俺がトーマに言った「使わない練習」を、もっと細かくしたものだ。
完全に発動する前の変化を見つける。
何を考えた時に反応するのか確かめる。
そして、反応が始まっても途中でやめられるか試す。
トーマは最初、何度も失敗した。
留め具が外れ、紐がほどけ、最後には木箱の底板まで抜けた。
「うわっ!」
中に入れていた木片が床へ散らばる。
「……ごめん」
トーマが肩を落とした。
でも、ヴォルグは怒らなかった。
『今のは収穫だ』
「え?」
『留め具を見ていたのに、底板が外れた』
「それのどこが収穫?」
『外れた原因を考えろ』
俺は木箱を持ち上げた。
底板は釘ではなく、溝へはめ込む形で固定されていた。
トーマは留め具を外そうとしていた。
でも、実際に外れたのは底板。
つまり。
「トーマが意識してたものと、実際に外れたものが違う?」
『そうだ』
「じゃあ、狙いがずれた?」
『それだけとは限らん』
ヴォルグは木箱の構造を説明し始めた。
留め具は箱の蓋を固定するためのもの。
一方、底板は箱そのものを成立させるために組み込まれている。
どちらも「外れる」構造だが、役割は違う。
『トーマは留め具を見ていた。しかし、頭の中では箱を開けたいと考えていた』
トーマが目を見開いた。
「……そうだ」
「本当に?」
「ああ。留め具を外すっていうより、中を見たいと思ってた」
なるほど。
だから底板が外れた?
『可能性はある』
ヴォルグは続けた。
『性質が何に反応するのか、まだ分からん。目で見た対象か、意識した対象か、それとも目的か』
俺は自分のブレイカーを思い出した。
切りたいものを認識する。
何を切るのか理解する。
そして、切る意思を持つ。
似ている。
でも、同じじゃない。
「トーマ」
「何?」
「次は箱を開けたいって考えないで、留め具だけを外すことを考えてみよう」
「……できるかな」
「分からん」
「お前、先生向いてねえな」
「先生じゃないから!」
『育成対象が育成を始めているな』
エリオスがぼそっと言った。
「その言い方やめて!」
今、その言葉は妙に引っかかる。
育成。
育成対象。
育成者。
最近、どこへ行っても出てくる。
ただの訓練にまで、変な意味がつきそうになる。
でも。
今やっていることは、そんな大げさなものじゃない。
困っている友達と、一緒に練習している。
それだけだ。
トーマはもう一度留め具を見た。
深呼吸する。
右手を伸ばす。
留め具が小さく震える。
今度は底板が動かない。
蓋も動かない。
そして。
カチン。
小さな音とともに、留め具だけが外れた。
「……できた」
トーマが呟いた。
「できたじゃん!」
「今の、俺が?」
「他に誰がいるんだよ!」
トーマが笑った。
ヴォルグも満足そうだった。
『悪くない』
「褒めた!」
『一度できただけだ。次もできるとは限らん』
「すぐ厳しい!」
『だから次だ』
「休憩させろよ!」
工房に笑い声が広がった。
ただ、俺は一つだけ気づいていた。
今の成功。
トーマは自分で留め具を外した。
でも、何も知らなかった昨日より、少しだけ制御できるようになっている。
もしこれが育成だと言われたら。
確かに、そうなのかもしれない。
でも。
だからといって。
誰かがトーマを所有したわけじゃない。
そこだけは、絶対に忘れたくなかった。
◇ ◇ ◇
工房を出た頃には、すっかり夜になっていた。
夕食をご馳走になった俺たちは、大神殿へ戻る道を歩いていた。
リナは隣で、トーマの父親が作った料理について話している。
「美味しかったね」
「うん。あのスープ、めっちゃ良かった」
「レン、三杯飲んでた」
「二杯半」
「最後におかわりしたでしょ」
「半分だから」
「細かい!」
そんな会話をしながら歩いていると、少しだけ普通の日常へ戻った気がした。
朝からソラのこと、神託のこと、トーマの失踪、シオンの告白。
いろいろありすぎた。
でも、夕飯を食べて、友達と笑って、こうして帰る。
それも俺の生活だ。
「レン」
リナが急に真面目な声を出した。
「何?」
「シオンのこと、まだ考えてる?」
「……うん」
「そっか」
リナはそれ以上聞かなかった。
俺は少し迷ってから口を開いた。
「七柱に聞きたいことがある」
「さっき聞いてたじゃん」
「それとは別」
リナがこちらを見る。
「俺さ」
歩きながら言った。
「シオンが殺したって言った時、めちゃくちゃ腹立ったんだよ」
「うん」
「でも、何に腹立ったのか、ちょっと分からなくなってきた」
人を殺したこと。
それを平然と話したこと。
神様に褒められたと言ったこと。
それとも。
自分が少し信用しかけていた相手から、そんな話を聞いたこと。
「全部かもしれない」
リナが言った。
「……そうかも」
「でも、レン」
「うん」
「怒るのはいいと思う」
「いいの?」
「うん。ただ、怒ったまま何か決めるのは怖いかな」
俺はリナを見た。
「経験者?」
「剣を使う人間だからね」
リナは少しだけ笑った。
「怒って剣を振ったら、止めるの難しいんだよ」
その言葉は、俺が思っていたより重かった。
ブレイカーも同じだ。
一度切ったものが、元に戻るとは限らない。
だから。
怒りだけで使ってはいけない。
「ありがと」
「どういたしまして」
リナが笑う。
その時。
『レン』
エリオスの声が聞こえた。
「何?」
『先ほどの質問について、七柱で話した』
「……シオンの?」
『ああ』
俺は立ち止まった。
「何か分かった?」
『結論から言えば、我々はシオンが語った事件を知らない』
「そっか」
『ただし』
エリオスが続けた。
『神が殺人を褒めたという話について、もう一つ考えるべきことがある』
「何?」
『褒めた存在が、神だったとは限らない』
俺は眉を寄せた。
「どういうこと?」
『彼が神と呼んだ存在が、実際に何者だったのか。それを確認しなければならない』
確かに。
神名のない神託。
神として認識された何か。
俺たちは、今日その話をしたばかりだった。
「じゃあ、シオンは騙された?」
『その可能性もある』
「でも、本人は神だと思ってる?」
『そうかもしれない』
俺は考え込んだ。
シオンは神を信用するなと言った。
育成対象を殺した時、神に褒められたとも。
もし、その神が偽物だったら。
シオンの憎しみは、何に向いているんだろう。
でも。
だからといって。
殺した事実が消えるわけじゃない。
「エリオス」
『何だ』
「俺、シオンのこと調べる」
『そうだろうな』
「でも、殺した相手のことも調べたい」
少しだけ間があった。
『……それは重要だ』
「シオンの話だけじゃ、その人がどういう人だったか分からないから」
『ああ』
「死んだ人のことを、シオンの過去を説明するためだけの材料にしたくない」
言ってから、自分でも少し驚いた。
さっきまでは、シオンが何をしたのかばかり考えていた。
でも。
殺された人がいるなら。
その人にも人生があったはずだ。
名前があって。
誰かに呼ばれて。
何かを選んで。
生きていた。
それを知らないまま、シオンを理解した気になりたくない。
『レン』
今度はフィリアだった。
「何?」
『その考えを、大切にしてください』
「……うん」
『ただし』
「ただし?」
『あなた一人で、すべてを背負おうとしないでください』
胸が少し痛んだ。
図星だったからだ。
「……気をつける」
『約束できますか?』
「努力します」
『レグルさんのようですね』
「そこ似なくていい!」
リナが笑った。
俺も笑う。
でも。
その言葉はちゃんと覚えておこうと思った。
◇ ◇ ◇
大神殿へ戻ると、アリアが入口で待っていた。
いつもより表情が硬い。
「レンさん」
「ただいま。どうしたの?」
「ソラさんのことで、少しお話が」
俺とリナは顔を見合わせた。
「何かあった?」
「体調が悪くなったわけではありません」
それを聞いて少し安心する。
「では?」
「彼女が、神殿へ来たいと」
「ソラが?」
「はい」
アリアは頷いた。
「職業管理院から連絡がありました。休憩室で一人になった時、彼女が神殿について尋ねたそうです」
「何で?」
「神様と話せる場所だと聞いたから、と」
俺は少し考えた。
フィリアとセレナは、まだソラのそばにいる。
なら、神様の声を聞くためだけなら管理院でもできるはずだ。
「他には?」
「……レンさんに会いたいそうです」
「俺?」
「はい」
アリアが少し微笑んだ。
「今日、自分で名前を決めたことを、もう一度お話ししたいと」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
ソラ。
あの子は今日、自分の名前を選んだ。
何も覚えていない中で、初めて自分で決めたこと。
それを誰かに話したいと思ってくれたのなら。
「会いに行こうかな」
俺が言うと、アリアは頷いた。
「明日の朝、管理院の方が同行して来られる予定です」
「明日?」
「はい。レグル主任の許可も出ています」
「意外と話が早い」
「ただし」
アリアが少し困った顔をした。
「神殿側にも、いくつか確認事項があるようで」
「確認事項?」
「ソラさんを、どのような立場で受け入れるかです」
……ああ。
また。
制度。
職業。
登録。
そういう話か。
「普通に泊めたら駄目なの?」
「通常であれば可能です。ただ、彼女には身元を証明する記録がありません」
「名前はある」
「今日決めたものですね」
「うん」
「しかし、正式な住民登録がありません」
「じゃあ登録すれば」
「出生地も不明です」
「……なるほど」
確かに。
簡単じゃない。
名前。
決めた。
でも。
それだけで。
この世界の制度が全部受け入れてくれるわけじゃない。
「どうしたらいい?」
アリアは少し迷った。
「一つ、方法はあります」
「何?」
「神殿の保護下に置くことです」
俺は思わず顔を上げた。
「保護?」
「はい」
その言葉。
今日。
何度も。
聞いた。
職業管理院。
特別査定部。
レグル。
ミア。
トーマ。
そして。
ソラ。
「それって」
俺は慎重に聞いた。
「ソラが嫌だって言ったら、出ていける?」
アリアはすぐには答えなかった。
「……規定を確認する必要があります」
「じゃあ、先に確認しよう」
「はい」
「あと、ソラ本人にも聞こう」
「もちろんです」
アリアは頷いた。
俺は少し安心した。
でも。
そこで終わらなかった。
「実は」
アリアが続ける。
「もう一つ、気になることがありまして」
「何?」
「今日、職業管理院から届いた報告書です」
アリアは一枚の紙を差し出した。
ソラについての簡単な記録。
【名称:ソラ】
【職業:なし】
【性質:未確定】
【育成状態:覚醒】
ここまでは知っている。
でも。
その下。
【育成者:未接続】
そして。
【育成対象番号:未登録】
「……ん?」
俺は紙を見つめた。
「育成対象番号?」
「はい」
「これ、何?」
「私にも分かりません」
俺はノアを呼んだ。
「ノア」
『確認しています』
「俺の第109代と関係ある?」
『不明です』
「同じ番号?」
『番号は表示されていません』
「じゃあ、まだ決めつけない」
『適切です』
俺はもう一度、報告書を見た。
育成対象番号。
未登録。
つまり。
ソラには、まだ番号がない。
それだけ。
なのか。
それとも。
番号をつけようとしている何かがあるのか。
「アリア」
「はい」
「この報告書、誰が作った?」
「職業管理院です」
「レグルさん?」
「いえ」
アリアが首を振る。
「自動記録装置によるものだそうです」
俺は顔を上げた。
「自動?」
「はい」
嫌な予感がした。
誰かが書いたなら、その人に聞けばいい。
でも。
自動で表示されたなら。
誰が決めた?
「その装置」
「昔からある?」
「職業管理院のものですので、詳しくは……」
「そっか」
俺は報告書を返そうとして、手を止めた。
紙の端。
小さな文字。
ある。
最初はただの管理番号だと思った。
でも。
違う。
【照合元:旧育成管理記録】
「……旧?」
心臓が鳴った。
「アリア」
「はい」
「これ、コピー取れる?」
「もちろんです」
「ありがとう」
俺は紙をもう一度見た。
旧育成管理記録。
職業管理院。
旧観測機構。
神殿。
全部。
少しずつ。
繋がっている。
でも。
繋がっていることと。
同じもの。
ということは。
違う。
そこ。
間違えない。
「ノア」
『はい』
「旧育成管理記録って、知ってる?」
少し間があった。
『その名称の記録は、私の保有情報にはありません』
「エリオスは?」
『知らない』
「他の五柱は?」
順番に。
返事。
返る。
全員。
知らない。
また。
知らない。
でも。
今度。
それだけで。
終わらせない。
「じゃあ」
俺は言った。
「明日、調べよう」
アリアが頷く。
「管理院へ?」
「うん」
そして。
「ソラにも聞く」
「何を?」
「自分のこと、どこまで知りたいか」
アリアは少し驚いたようだった。
「全部調べるんじゃないんですか?」
「俺は調べたい」
正直に答える。
「でも、ソラが怖いって思うなら、無理に全部知らせるのも違う気がする」
自分の過去。
名前。
職業。
性質。
育成。
それを知ることが、必ずしも幸せとは限らない。
知らないままでは困ることもある。
でも。
知りたくないことを、勝手に暴くのも違う。
「難しいですね」
アリアが言った。
「うん」
「レンさんは、いつも難しい方を選びますね」
「簡単な方が見つからないだけです」
アリアが笑った。
俺も笑う。
その時。
ふと。
シオンの言葉を思い出した。
『俺が育成対象を殺した時、神は止めなかった』
『それどころか、俺は神に褒められた』
もし。
育成管理記録。
というものが。
存在するなら。
シオンの。
記録も。
どこかに。
残っている?
いや。
まだ。
分からない。
でも。
探す。
理由が。
一つ。
増えた。
◇ ◇ ◇
その夜。
職業管理院の地下では、レグルが一人で古い記録を調べていた。
机の上には、三十七年前の少女エナの記録と、今日届いたソラの報告書が並んでいる。
どちらにも、通常の職業記録には存在しない項目が含まれていた。
【育成状態】
レグルはその文字を何度も見比べた。
「……育成」
誰かを育てる。
それ自体は、悪いことではない。
親が子を育てる。
師が弟子を育てる。
神が人を導く。
だが。
記録に残されているものは、どこか違う。
人間が自分で決める前に、誰かが対象を選んでいる。
誰かが番号をつけている。
そして。
誰かが、育成の完了を判断している。
「……誰の権限だ」
レグルは呟いた。
その時、扉が叩かれた。
「主任」
「入れ」
若い査定官ディンが入ってくる。
昨日、ミアへ剣を向けた男だ。
今日はいつもより表情が硬い。
「ご報告があります」
「何だ」
「本部から、追加指示が届きました」
レグルが顔を上げる。
「内容は?」
「未登録性質保有者への対応についてです」
「……読め」
ディンは封筒を開いた。
「対象の保護を最優先とし、必要に応じて強制的な隔離措置を認める」
レグルの眉が動いた。
「続けろ」
「対象が神性存在と接続している場合、接続の遮断を優先する」
「……何?」
「また、育成状態が覚醒と判定された個体については、通常の職業管理手続きから除外する」
ディンが一度言葉を止めた。
「そして」
レグルは黙って続きを待った。
「第109代育成対象、レン・アルヴェインについては――」
そこでディンの声が僅かに震えた。
「特例対象として、速やかに確保すること」
地下の記録室が静まり返る。
レグルは封筒を受け取った。
文書には、本部の正式な印章が押されている。
偽物ではない。
少なくとも、形式上は。
「……理由は?」
「記載されていません」
「発令者は?」
「本部長名義です」
「本部長が、直接?」
「はい」
レグルは文書を見つめた。
その最後に、小さな一文があった。
【本件は神託に基づく特別命令である】
「神託……?」
レグルは顔を上げる。
「どの神からだ」
「それが」
ディンが首を横に振った。
「神名の記載がありません」
レグルの表情が変わった。
神名のない神託。
ここ半年で十一件。
そのうち、意味の分からないものが三件。
そして今。
その神託が、正式な命令として職業管理院を動かそうとしている。
「ディン」
「はい」
「この命令は、まだ現場へ伝えるな」
「しかし、本部の正式命令です」
「分かっている」
「従わないのですか?」
レグルはしばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「確認する」
「何を?」
「誰が命じたのかを」
「本部長では?」
「その本部長に、誰が命じた?」
ディンは答えられなかった。
レグルは文書を机へ置いた。
そして、今日レンに言われた言葉を思い出す。
『誰を守るための規定なんですか?』
『まず本人に聞く』
面倒な男だ。
実に面倒だ。
だが。
あの無職が、たった一日で自分たちに思い出させたことがある。
規則には、理由が必要だ。
そして、保護する相手は人間だ。
「ディン」
「はい」
「レンの身柄を確保する必要があると判断するなら、まず本人に説明する」
「本部の命令では、速やかにと」
「説明できない命令を、保護と呼ぶつもりはない」
レグルは文書を封筒へ戻した。
「明朝、レンを呼べ」
「任意ですか?」
「ああ」
「拒否された場合は?」
レグルは少しだけ笑った。
「……あの男なら、来るだろう」
「なぜです?」
「聞きたいことが山ほどある顔をしていたからな」
ディンは納得できない様子だった。
だが、それ以上は何も言わなかった。
レグルは窓のない地下室で、もう一度封筒を見た。
神名のない神託。
育成対象の確保。
接続の遮断。
そして。
正式な命令。
もし、この命令に従えば。
自分たちは何を守ることになるのか。
職業管理院か。
神託か。
市民か。
それとも。
まだ名前すら分からない、命令の主か。
レグルは小さく息を吐いた。
「……明日は忙しくなりそうだな」
机の上で、封筒の印章が一度だけ鈍く光った。
誰も触れていない。
それなのに。
封筒の裏側に、黒い文字が一行だけ浮かび上がった。
【保護対象の意思確認は不要】
レグルは動かなかった。
文字を見つめる。
やがて。
ゆっくりと封筒を裏返した。
そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……それを決めるのは、お前ではない」




