神託ログ47『境界線のこちら側』
翌朝。
目が覚めて、最初に思った。
腹が減った。
昨日は世界の仕組みだの、二百年前の約束だの、ブレイカーだの、わけの分からないことばかり考えていた。
それでも朝になれば腹は減る。
人間って、案外しぶとい。
「……パン」
呟いて起き上がる。
北方大神殿から借りている部屋は、必要最低限のものしか置かれていない。
ベッド。
机。
椅子。
水差し。
そして。
壁際に立て掛けた、俺の木剣。
「…………」
少しだけ見つめる。
昨日。
あの黒い境界線を前にして、俺はこれを抜かなかった。
ブレイカーも使わなかった。
壊せるかもしれない。
だから壊す。
それをやめた。
「……成長したな、俺」
自分で言ってみる。
――ピコン。
【知識神ノア】
『自己評価として記録しますか?』
「しなくていい!」
朝から恥ずかしい。
しかも、聞いてたのかよ。
【戦神ガルド】
『俺は記録していいと思うぞ!』
「増えた!」
【商神メルク】
『“俺、成長した”――レン・アルヴェイン』
「名言みたいにするな!」
【魔法神セレナ】
『朝から元気ね』
「誰のせいだよ……」
木剣を腰に差す。
昨日までと変わらない。
職業は、なし。
魔力は、たぶん相変わらず低い。
世界の謎も、ほとんど解けていない。
でも。
少なくとも。
今日、何をするかは決まっていた。
西へ行く。
そのための準備をする。
◇ ◇ ◇
食堂へ行くと、リナがすでに朝食を食べていた。
パンを片手に、スープ。
俺を見る。
「遅い」
「まだ朝じゃん」
「私は二個目」
「何が?」
「パン」
「聞いて損した」
向かいに座る。
籠からパンを取ろうとして――止まった。
残り、一個。
リナの皿。
二個。
「…………」
「何?」
「いや」
「欲しい?」
「俺の分、一個しかない」
「あるじゃん」
「リナ二個食ってる」
「早い者勝ち」
異世界。
神様。
職業制度。
二百年前。
それより先に解決すべき問題があった。
食料配分である。
「商神」
――ピコン。
【商神メルク】
『私を呼ぶ案件ではありません』
「早い」
リナが吹き出した。
◇ ◇ ◇
朝食を終える頃。
アリアがやってきた。
いつもの書類。
今日は五枚。
「増えてない?」
「増えました」
「嬉しそう」
「嬉しいです」
この人。
本当に記録好きだな。
アリアは俺たちの向かいへ座ると、一枚目を机に置いた。
「昨日の境界についてです」
笑っていたリナの顔が少し変わる。
俺も姿勢を正した。
「調べられた?」
「限定的にですが」
紙には簡単な地図が描かれていた。
北方大神殿。
周辺の街道。
森。
そして、西。
一本の線。
「昨日レンたちが確認した場所です」
「これ」
「他にも続いてる?」
「その可能性が高いです」
アリアの指が地図をなぞる。
北。
南。
黒い線は、途中で途切れている。
「記録がない?」
「正確には、調査されていません」
「何で?」
「西側へ向かう街道そのものが、現在ほとんど使われていないからです」
リナが尋ねる。
「いつから?」
「少なくとも五十年以上前には、すでに主要街道から外れています」
「理由は?」
「複数あります」
アリアが二枚目を置く。
「魔物」
普通。
「地形の変化」
まあ、分かる。
「神託不通」
普通じゃない。
俺とリナが同時に顔を上げた。
「今、何て?」
「神託不通です」
アリアは記録を指で叩いた。
「西部の一部地域では、神託が届きにくいという報告が残っています」
「昨日の境界と同じ?」
「分かりません」
即答。
好き。
最近、この言葉が好きになってきた。
分からないことを、分からないと言ってくれる。
それだけで、かなり助かる。
「一番古い記録は?」
「確認できた範囲では、百八十七年前」
俺の手が止まった。
リナも気づく。
「……近いね」
「うん」
二百年前。
職業制度。
性質。
母なる根。
カイル。
先輩。
そして。
百八十七年前。
もちろん。
近いから関係しているとは限らない。
「内容は?」
アリアが紙を読む。
「西部調査隊、神託接続を喪失。三日後に帰還」
「全員?」
「十二名中、十一名」
一人。
戻っていない。
「死んだ?」
「不明です」
「記録は?」
「行方不明」
嫌な感じがする。
「戻ってきた十一人は、何て?」
アリアの指が止まった。
「そこが問題です」
「何?」
「全員、ほぼ同じ証言を残しています」
紙。
俺の前へ向ける。
『境界を越えた』
『神の声が消えた』
『帰るべきだと思った』
そこまでは分かる。
昨日の俺たちと似ている。
でも。
最後。
『十二人で戻った』
「…………」
数える。
調査隊。
十二人。
帰還。
十一人。
なのに。
証言。
十二人で戻った。
「どういうこと?」
リナが聞く。
アリアは首を横に振った。
「分かりません」
「行方不明になった一人を、十一人全員が忘れてた?」
俺が聞く。
「その可能性はあります」
「別の可能性は?」
「最初から十一人だった」
「記録が間違ってる?」
「はい」
「途中で十二人目がいたと思い込んだ?」
「それも」
「十二人で帰ってきたけど、一人だけ記録されなかった?」
アリアが俺を見る。
「それも否定できません」
全部。
嫌。
「西」
リナが呟く。
「思ったより面倒そう」
「行く?」
俺が聞く。
「行くよ」
「即答だね」
「昨日も言った」
そうだった。
◇ ◇ ◇
三枚目。
西部へ向かった別の記録。
今度は九十四年前。
冒険者四名。
全員帰還。
怪我なし。
神託接続は二日間消失。
そのうち一人の日誌にだけ、不思議な記述があった。
『神様がいないのではない』
『ここでは、神様を呼ぶ必要がない』
意味。
分からない。
四枚目。
四十一年前。
神官二名。
騎士六名。
西部調査。
境界到達前に引き返す。
理由。
『同行していない者の足音を聞いた』
「もう行きたくなくなってきた」
俺が言う。
「さっき行くって言ったじゃん」
「怖いものは怖い」
「そこは素直なんだ」
「幽霊系は嫌」
「魔物は?」
「嫌」
「神様は?」
「最近ちょっと嫌」
――ピコン。
【創世神エリオス】
『聞こえている』
「ちょっとだから!」
フォローになっているのか分からない。
アリアが怪訝な顔をする。
「どうしました?」
「神様に失言した」
「いつものことですね」
「アリアまで!」
◇ ◇ ◇
最後。
五枚目。
アリアは、すぐには置かなかった。
「これは」
少し迷う。
「西部の記録ではありません」
「じゃあ?」
「昨日の再点検停止後に、旧観測機構から出力されたものです」
空気が変わる。
紙。
机。
置かれる。
古い文字。
その下。
アリアが書いた転写。
【性質観測個体】
【一〇九】
昨日と同じ。
その下。
【現在応答数】
【一〇八】
「…………」
俺は黙った。
一人。
減ってる。
「昨日は?」
「百九でした」
「死んだ?」
「分かりません」
「観測できなくなった?」
「その可能性もあります」
「俺が接続を切ったから?」
「それも不明です」
胸の奥。
少し。
重くなる。
俺が。
切った。
だから。
誰か。
消えた?
「レン」
リナ。
呼ぶ。
「まだ」
「分かってないよ」
分かってる。
分かってるけど。
俺の悪いところ。
何か起きると。
すぐ。
自分の選択。
原因にしたくなる。
いや。
したくなるわけじゃない。
勝手に。
そう考える。
「……うん」
息を吐く。
「調べられる?」
アリアが頷く。
「方法は探します。ただし」
「勝手に個人を特定しない」
「はい」
昨日。
決めたこと。
守る。
でも。
一〇八。
気になる。
◇ ◇ ◇
昼前。
大神殿の倉庫。
西へ向かうための準備を始めた。
食料。
水。
火起こし。
薬。
ロープ。
毛布。
地図。
「多くない?」
リナが言う。
「準備大事」
「昨日までのレンは?」
「死んだ」
「縁起悪い」
「成長した」
「それ昨日から四回目くらい」
数えてたのか。
木剣。
確認。
傷。
ある。
でも。
使える。
ヴォルグの言葉。
思い出す。
傷は消すものではない。
使える傷なら残せ。
俺。
も。
たぶん。
同じ。
全部。
なかったこと。
には。
できない。
間違えた。
怒った。
疑った。
誰か。
死んだ。
選べなかった。
それでも。
次。
選ぶ。
「レン」
リナ。
荷物。
持ってる。
「これも」
「何?」
渡される。
小さな。
袋。
開ける。
銅貨。
「お金?」
「西の手前に村が一つある」
「店ある?」
「たぶん」
「たぶん?」
「地図には」
「何年前?」
「二十七年前」
「怖い!」
「だから食料持ったんでしょ」
正しい。
◇ ◇ ◇
準備。
終わる。
でも。
今日は出ない。
出発は明朝。
昨日の俺なら。
今から行った。
たぶん。
「暇」
「休めば?」
「まだ昼」
「休むのも準備」
リナ。
正論。
腹立つ。
境内。
歩く。
昨日まで。
騒ぎ。
あった。
場所。
神官たち。
修理。
してる。
壊れた。
フィリアの像。
まだ。
ひび。
入ってる。
足。
止まる。
「フィリア」
『はい』
「像」
『はい』
「痛くない?」
沈黙。
『像ですよ?』
「分かってるけど」
『痛くありません』
「そっか」
少し。
恥ずかしい。
『でも』
「何?」
『心配してくれたのは』
『嬉しいです』
「……そっか」
像。
見る。
二百年前。
同じ。
フィリア。
名前。
あった。
同じ存在。
なのか。
違う。
のか。
まだ。
分からない。
「フィリア」
『はい』
「自分の名前」
「好き?」
長い。
沈黙。
『……考えたことが』
『ありませんでした』
「そっか」
『レンさんは?』
「俺?」
名前。
レン。
アルヴェイン。
いつから。
俺。
この名前。
だった?
異世界。
来て。
当たり前。
みたいに。
呼ばれた。
表示。
された。
でも。
今。
「レンは」
「好き」
『アルヴェインは?』
「まだ」
少し。
考える。
「分かんない」
『はい』
「でも」
「嫌いではない」
『はい』
名前。
職業。
性質。
全部。
俺。
説明。
する。
もの。
でも。
全部。
俺。
そのもの。
じゃない。
たぶん。
◇ ◇ ◇
夕方。
先輩。
訪ねる。
部屋。
入る。
寝てる。
「また?」
起こす。
「先輩」
「…………」
「先輩」
「…………」
「管理者」
目。
開く。
「やめろ!」
「起きた」
「最悪の起こし方するな!」
元気。
「明日」
「西行く」
先輩。
顔。
止まる。
「西?」
「うん」
「境界」
「見つけた」
「黒い線?」
「知ってる?」
「…………」
沈黙。
「見たことある?」
先輩。
額。
押さえる。
思い出そう。
してる。
無理。
させたくない。
「無理なら」
「いいよ」
「待て」
しばらく。
して。
「……線は」
「知らない」
「そっか」
「でも」
顔。
上げる。
「西には」
「行った気がする」
「いつ?」
「分からない」
「誰と?」
また。
沈黙。
そして。
「カイル」
心臓。
少し。
跳ねる。
「何しに?」
「分からない」
「母なる根?」
「違う」
即答。
そこだけ。
強い。
「母なる根より」
「後だ」
「何があった?」
「…………」
先輩。
目。
閉じる。
「神様が」
「いなくなった」
「え?」
目。
開く。
「違う」
「神様が」
「消えたんじゃない」
「じゃあ?」
「俺たちから」
「見えなくなった」
昨日の。
境界。
越えたら。
神との接続。
消える。
「その時」
「何かいた?」
「…………」
先輩。
手。
震える。
「いた」
「何?」
「分からない」
「人?」
「たぶん」
「何て言った?」
先輩。
俺。
見る。
怖い。
顔。
してる。
「名前を」
「聞かれた」
「名前?」
「ああ」
「誰の?」
「俺の」
「答えた?」
「…………」
長い。
沈黙。
「思い出せない」
◇ ◇ ◇
部屋。
出る。
頭。
いっぱい。
西。
神託。
消える。
十二人。
十一人。
足音。
名前。
そして。
昨日。
境界。
向こう。
いた。
影。
『その名を選んだのか』
あいつ。
ブレイカー。
知ってた。
性質。
持ってる。
と言った。
「…………」
名前。
関係。
ある?
まだ。
分からない。
決めつけない。
「よし」
自分。
言う。
「分からない」
――ピコン。
【知識神ノア】
『はい』
「褒めて」
沈黙。
『……何をですか?』
「分からないって」
「ちゃんと言えた」
また。
沈黙。
【商神メルク】
『安い成長ね』
「うるさい!」
◇ ◇ ◇
夜。
明日。
出発。
荷物。
確認。
一回。
二回。
三回。
「レン」
リナ。
部屋。
入口。
「何?」
「確認しすぎ」
「西」
「怖いから」
「うん」
「神様」
「切れるかもしれない」
「うん」
「知らない奴」
「いる」
「うん」
「戻れないかも」
「それは困る」
「だよね」
リナ。
壁。
寄りかかる。
「じゃあ」
「やめる?」
考える。
怖い。
でも。
「行く」
「うん」
「ただ」
「何?」
「約束」
「誰と?」
「リナ」
少し。
驚く。
「危ないと思ったら」
「戻る」
「うん」
「俺が」
「変なこと言い出したら」
「止めて」
「どんな?」
「西最高!」
「住もう!」
「神様なんていらねえ!」
リナ。
真顔。
「殴る」
「もうちょっと」
「優しく止めて?」
「努力する」
怖い。
「あと」
俺。
言う。
「リナも」
「何?」
「変だったら」
「俺が止める」
「分かった」
手。
出す。
リナ。
見る。
「何?」
「約束」
「子ども?」
「いいじゃん」
少し。
笑う。
手。
重ねる。
「約束」
◇ ◇ ◇
その夜。
夢。
見た。
暗い。
場所。
何も。
ない。
神様。
声。
ない。
リナ。
いない。
一人。
前。
誰か。
立ってる。
顔。
見えない。
『名前は?』
聞かれる。
「レン」
答える。
『違う』
「何が?」
『それは』
『今の名前だ』
胸。
ざわつく。
「じゃあ」
「何」
影。
近づく。
『最初の名前を』
『思い出せ』
「最初?」
『お前が』
『神に拾われる前の』
息。
止まる。
「待って」
『名前を』
「俺は」
『思い出せ』
「俺の名前は――」
目。
覚める。
◇ ◇ ◇
暗い。
部屋。
息。
荒い。
心臓。
速い。
夢。
ただの。
夢。
そう。
思う。
でも。
目の前。
淡い。
文字。
浮いてる。
神託。
じゃない。
見たこと。
ない。
表示。
【名称照合】
【レン・アルヴェイン】
その下。
【現名称:一致】
そして。
もう一行。
【初期名称:照合不能】
「…………」
起き上がる。
文字。
消えない。
「ノア」
返事。
ない。
「エリオス」
返事。
ない。
「フィリア」
何も。
来ない。
部屋。
窓。
見る。
遠く。
西。
夜。
暗い。
その方向。
黒い。
細い。
線。
見える。
昨日。
森。
地面。
あった。
はず。
なのに。
今。
空。
縦。
伸びてる。
月。
真っ二つ。
みたいに。
「……嘘だろ」
その瞬間。
知らない声。
耳元。
聞こえる。
『明日』
『境界で待っている』
一拍。
『レン』
違う。
声。
続く。
『――それが』
『本当に、お前の名前なら』




