リディア、初めて私用の文章を書く
白紙は、時に暴力である。
少なくとも、今朝の私にとってはそうだった。
机の上には、便箋が一枚。
隣には、カイル様の求婚文。
『リディア・ノートンを、生涯、信じる』
短い。
何度見ても短い。
そして、何度見ても強い。
不備がない。
逃げ道がない。
飾りがない。
だからこそ、こちらが何を書けばいいのか、まったくわからない。
私はペンを持ったまま、固まっていた。
民声応答室の朝は忙しい。
今日も机の上には、王都各区からの請願、地方からの返答確認、神殿関連の未処理案件、北方補助金遅延の追跡票、そして「民声応答室という部署名は堅いので親しみやすく変更してほしい」という請願が積まれている。
ちなみに提案名は『お返事ください室』だった。
気持ちはわかる。
わかるが、正式名称にはしない。
王宮の威信が、柔らかく崩れる。
「リディアさん」
先輩がそろりと近づいてきた。
「本日の処理優先順位ですが」
「はい」
「一番上が東区井戸修繕返答、二番目が北方補助金、三番目が神殿施療院の記録照合、四番目がカイル様への返事です」
「四番目に私用案件を入れないでください」
「でも、未返信です」
「民声ではありません」
「でも、声です」
正論が来た。
この職場、改革後に全員の返事意識が上がりすぎて、私の逃げ場まで奪ってくる。
「カイル様の声は、受け取りました」
「第一返信ですね」
「はい」
「最終回答予定日は?」
「未定です」
「未定は苦情になります」
「先輩」
「はい」
「その理論で私を追い詰めると、私が燃えます」
先輩は真顔で胃薬瓶を差し出した。
「予防しますか」
「します」
私は胃薬を受け取った。
完全に敗北である。
白紙はまだ白い。
その白さが、こちらを責めてくる気がした。
いや、紙は責めない。
責めているのは私自身だ。
私は書ける。
謝罪文なら書ける。
声明なら書ける。
訂正依頼なら書ける。
想定問答なら、徹夜で三十項目くらい作れる。
王太子殿下の失言予測表なら、もはや季節の挨拶くらい自然に書ける。
けれど。
自分の気持ちを書く文章となると、ペン先が石になる。
私は前世でも今世でも、他人のための文章ばかり書いてきた。
会社のため。
王宮のため。
傷ついた人のため。
炎上を防ぐため。
火を消すため。
名前を消さないため。
返事を始めるため。
それらは、私の言葉だった。
第93話で、私は確かに言った。
「これは、私の言葉です」
国を燃やす覚悟で、名前を呼んだ。
リナさん。
トマさん。
セラさん。
聞こえていたのに、返事をしませんでした。
今から、返事を始めます。
あの時の言葉は、私のものだった。
でも、あれは公的な言葉だった。
王宮の責任を背負った言葉。
民の声へ返す言葉。
今、目の前にある白紙は違う。
ここに必要なのは、リディア・ノートンが、カイル・ヴァレンシュタインという一人の人に返す言葉だ。
国ではない。
王宮ではない。
民ではない。
私から、あなたへ。
その距離が、怖い。
「……リディアさん、ペンが乾きますよ」
「私も乾きそうです」
「水分ですか。涙ですか」
「両方です」
先輩がそっと水差しを置いてくれた。
やさしい。
そして邪魔をしない。
……いや、さっき四番目に私用案件を入れたので、少し邪魔はした。
私は深呼吸した。
書こう。
まずは宛名。
『カイル様へ』
硬い。
公務連絡感がある。
これでは「添付資料をご確認ください」につながる。
却下。
『カイル・ヴァレンシュタイン様へ』
もっと硬い。
婚約返答どころか、補助金請求の前文みたいだ。
却下。
『辺境伯様へ』
論外。
職務。
完全に職務。
私は便箋を横に置いた。
一枚目、失敗。
二枚目。
『カイル様へ』
やはり硬い。
でも一枚目よりはましだ。
私は続きを書こうとした。
『このたびは、私用文書をいただき、誠にありがとうございます』
違う。
違いすぎる。
これは礼状だ。
カイル様から贈答品をいただいた時の文面だ。
いや、ある意味、人生級の贈答品ではあるけれど。
違う。
私は二枚目を伏せた。
三枚目。
『カイル様へ』
ここまではもう仕方ない。
次。
『あなたの言葉を受け取りました』
これは昨日言った。
第一返信だ。
悪くない。
悪くないが、ここで止まる。
私はペンを握った。
次に書くべき言葉が出ない。
好きです?
無理。
いきなり無理。
信じています?
それは言える。
いや、言えるけれど、求婚への返事としては少し違う。
私も生涯信じます?
同じ構文で返すのは広報官として安易すぎる。
いや、広報官として考えるのが間違いなのでは。
私は頭を抱えた。
そこへ、扉が開いた。
「リディア。進捗はいかが?」
エレオノーラ様である。
今日も美しい。
そして、来るタイミングが完璧に悪い。
「進捗は、白紙三枚分です」
「つまり進んでいませんのね」
「紙は進みました」
「廃棄方向に?」
「はい」
エレオノーラ様は、私の机の上を見た。
便箋。
カイル様の一文。
胃薬。
水差し。
修羅場の構成要素としては少ないが、圧が強い。
「見せて」
「だめです」
「まだ何も書けていないのでしょう」
「だからこそだめです」
「まあ。未完成原稿ほど作家性が出ますのに」
「私は作家ではありません」
「ええ。炎上対応係ですわ」
「元、です」
「では、民声応答室員」
「はい」
「返事を書く人ですわね」
逃げ道を塞がれた。
この人、社交界で鍛えた追い込み力を、私の恋文に使わないでほしい。
「エレオノーラ様」
「何かしら」
「私は、何を書けばいいのでしょう」
聞いてしまった。
言ってしまった。
エレオノーラ様は、少しだけ目を細めた。
茶化さなかった。
扇も開かなかった。
「あなたが書きたいことを」
「それがわからないんです」
「本当に?」
「……わかっている気もします」
「では、それを」
「でも、書いた瞬間に変わってしまう気がして」
私は紙を見た。
「言葉にしたら、責任が生まれます。逃げられなくなります。相手を傷つけるかもしれない。自分も傷つくかもしれない。違う意味で受け取られるかもしれない。見出しにされるかもしれない。王宮内で噂になるかもしれない。北方で歓迎されすぎるかもしれない。貴族から身分差で叩かれるかもしれない。民声応答室の中立性を疑われるかもしれない」
「見事な火種列挙ですわね」
「癖です」
「でも、今の列挙の中に、一つ入っていませんわ」
「何がですか」
エレオノーラ様は微笑んだ。
「あなたが幸せになるかもしれない、という火種」
私は言葉を失った。
幸せになるかもしれない。
それは火種なのか。
いや、私にとっては、たぶん火種だ。
幸せになることに慣れていない。
誰かの隣に立つことに慣れていない。
守られることに怯えていた。
信じると言われることに詰まっていた。
カイル様の一文は、私を守る言葉ではない。
私を選ぶ言葉だ。
そして、選ばれた私が、選び返すかどうかを問う言葉だ。
「……怖いです」
私は小さく言った。
エレオノーラ様は頷いた。
「ええ」
「国を燃やした時より、怖いかもしれません」
「規模としては不思議ですわね」
「本当に」
「けれど、心は規模で測れませんもの」
彼女は机の端に手を置いた。
「リディア。あなたは今まで、たくさんの人の言葉を守ってきました。エレオノーラ・グランフェルトの怒りも、ミリア・セレスの弱さも、カイル様の沈黙も、民の苦情も。けれど、ご自分の気持ちだけは、いつも危機対応の後ろに隠していましたわ」
「はい」
「今回は、隠せません」
「はい」
「では、燃やしなさい」
「また燃やす話ですか」
「恋文くらい、少し燃えてもよろしいでしょう?」
「職業倫理が」
「今日は私用ですわ」
私用。
その言葉が、また白紙の上に落ちる。
私用文書。
人生で、ほとんど書いたことのない種類の文書。
エレオノーラ様は立ち上がった。
「私は席を外します」
「監視しないんですか」
「したいですわ」
「正直」
「でも、あなたが一人で書くべきでしょう」
彼女は扉へ向かい、振り返った。
「ただし、完成後は見せなさい」
「なぜ」
「親友特権です」
「検閲では」
「祝福の準備ですわ」
言い終えると、彼女は出ていった。
部屋に残ったのは、白紙と私とカイル様の一文。
私はペンを持ち直した。
四枚目。
『カイル様へ』
ここはもう固定にする。
続き。
『あなたの言葉を、何度も読みました』
書けた。
これは本当だ。
何度も読んだ。
読みすぎて、紙の繊維まで覚えそうだ。
『短いのに、逃げていない言葉でした』
これも本当。
『私は、その言葉を嬉しいと思いました』
手が止まる。
嬉しい。
書いてしまった。
胸が熱くなる。
私は紙を睨んだ。
燃えていないか。
火種は。
火種感知は沈黙している。
いや、自分向けには鈍いから信用できない。
でも、紙は燃えていない。
私は続けた。
『でも、とても怖くもなりました』
うん。
これも本当。
いい。
嘘がない。
ここまではいい。
次。
『私は、これまで他人のための文章ばかり書いてきました』
書く。
『謝罪文、声明、訂正依頼、想定問答』
列挙が急に業務的だ。
でも私らしい。
消さない。
『自分の気持ちを書くことが、こんなに難しいとは思いませんでした』
書けた。
私は息を吐いた。
ここまでは、説明だ。
まだ核心ではない。
私は核心を避けている。
自分でわかる。
広報官の悪い癖だ。
背景説明を厚くして、本題を先延ばしにしている。
質問に答えず前提整理で時間を稼ぐ記者会見みたいだ。
私は自分に言った。
リディア・ノートン。
逃げるな。
カイル様は逃げなかった。
机を割った過去からも。
父の死からも。
言葉への憎しみからも。
そして、私を信じることからも。
私は、何を書く。
私は、彼の隣にいたいのか。
答えは、もう出ていた。
初めて北方へ行った時。
雪の匂いのする馬車の中で、彼は王都の菓子は甘すぎると言った。
私は、辺境伯様の声明文は苦すぎますと返した。
あの時は、まだわからなかった。
でも、彼の沈黙が、ただの無口ではないと知った。
王都の言葉に父を殺された男が、それでも私の言葉を信じると言ってくれた。
第56話で、彼は壊れかけた。
第66話で、彼は怒りを一文にした。
第89話で、彼は剣を抜かず、言葉で守った。
そして今、彼は生涯信じると書いた。
私はその隣で、生きたいと思っている。
仕事の隣ではない。
会見台の隣だけでもない。
火元へ向かう廊下の隣でも、民声応答室の隣席でもない。
もっと長い時間。
朝の胃薬。
夜の沈黙。
雪の日の返事。
燃えた後の片付け。
何も燃えていない日の、ただの食事。
そういうものの隣に、いたい。
私はペンを置きかけて、もう一度持った。
書く。
『私は、あなたの隣で生きたい』
書いた。
書いてしまった。
ペン先が止まる。
部屋が静まり返る。
水晶の小さな光だけが揺れている。
私は、今書いた一文を見つめた。
『私は、あなたの隣で生きたい』
短い。
でも、私にしては長い。
いや、感情の量に比べれば短い。
ただ、足りない気はしなかった。
生涯信じる、への返事として。
あなたの隣で生きたい。
これは、はい、なのだろうか。
婚約を受ける、という意味なのだろうか。
たぶん、そうだ。
とてもそうだ。
私は顔を覆った。
熱い。
まずい。
これはまずい。
王都大炎上の時でも、ここまで顔は熱くなかった。
「リディアさん」
扉の外から声がした。
先輩だ。
「生きていますか」
「生きています」
「燃えていますか」
「燃えています」
「物理ですか」
「顔です」
「了解しました。消火不要ですね」
「不要です」
沈黙。
そして、遠くで小さく誰かが「書けた……?」と呟いた。
ミリアの声だ。
聞いている。
全員聞いている。
王宮の扉は本当に信用できない。
私は便箋を伏せた。
「皆さん、入ってこないでください」
廊下がざわっとした。
やはりいた。
「まだです。まだ、私が読み返していません」
私は深呼吸する。
読み返す。
『カイル様へ
あなたの言葉を、何度も読みました。
短いのに、逃げていない言葉でした。
私は、その言葉を嬉しいと思いました。
でも、とても怖くもなりました。
私は、これまで他人のための文章ばかり書いてきました。
謝罪文、声明、訂正依頼、想定問答。
自分の気持ちを書くことが、こんなに難しいとは思いませんでした。
それでも、これだけは書けます。
私は、あなたの隣で生きたい。』
長い。
いや、恋文としては短いのかもしれない。
でも、私にとっては長い。
長いのに、逃げていないだろうか。
言い訳が多すぎるだろうか。
もっと削るべきだろうか。
最後の一文だけでいいのではないか。
いや、前半も私の言葉だ。
怖い、と書いた。
嬉しい、と書いた。
自分の気持ちを書くのが難しいと書いた。
それも私だ。
削らない。
削らないと決めたはずだ。
私は何度も、自分以外の人の怒りや弱さを、守りやすい形に整えようとしてしまった。
エレオノーラ様の怒りを柔らかくしようとした。
ミリアの弱さを消そうとした。
カイル様の信頼表明を、私が怖くて削ろうとした。
今度は、自分の怖さも削らない。
私は便箋を折った。
手が震える。
封筒に入れようとして、封筒の向きを間違えた。
戻す。
また入れる。
封をする。
封蝋を押す手が強すぎて、蝋が少し潰れた。
カイル様の封筒の角と同じだ。
私は、ちょっと笑ってしまった。
「入ってもよろしい?」
エレオノーラ様の声。
「はい」
扉が開いた。
エレオノーラ様、ミリア、先輩、広報局員たち数名が、なぜか廊下に整列していた。
何の会見ですか。
「皆さん、仕事は」
「しています」
先輩が真顔で言った。
「心の中で応援業務を」
「職務として認めません」
ミリアが小さく手を挙げた。
「封筒、できましたか」
「はい」
「送達記録は」
「不要です」
「でも、大切な返事です」
「大切だから、記録しません」
ミリアは少し考え、それから頷いた。
「わかりました。では、記録しないことを記憶します」
「それも微妙に怖いです」
エレオノーラ様が、私の封筒を見た。
封蝋の歪みに気づいたのだろう。
でも何も言わない。
ただ微笑む。
「ご自分で渡しなさい」
「今ですか」
「今ですわ」
「業務時間中です」
「民声応答室は、返事をする部署でしょう?」
「またそれですか」
「便利ですもの」
私は封筒を持って立ち上がった。
足元が危ない。
会見台に上がった時より緊張している。
国中の水晶を前に話した時より、指先が冷たい。
私は廊下に出た。
カイル様は、また壁になっていた。
本当に壁である。
ただし、今日は昨日より少し落ち着かない。
壁が落ち着かないとは何だ。
でも、そう見える。
彼は私を見ると、姿勢を正した。
「リディア」
「カイル様」
私は封筒を差し出した。
「返事です」
彼は一瞬、動かなかった。
それから、両手で受け取った。
両手。
あのカイル様が、封筒一枚を両手で。
胸が痛い。
「読んでください」
「今か」
「はい」
「ここでか」
廊下を見た。
角の向こうに、明らかに人影がある。
先輩の靴先が見えている。
エレオノーラ様の扇の先も見えている。
ミリアの白い袖も見えている。
見守りすぎである。
「……場所を変えましょう」
「そうだな」
私たちは、王宮の中庭へ出た。
第1話の朝、胃薬を飲んでいた頃には、まさか王宮の中庭で辺境伯様に私用文書を渡す日が来るとは思わなかった。
人生は炎上より予測不能である。
中庭には、初夏の風が吹いていた。
王都大炎上の夜に焦げた木柵は、まだ一部が新しい木で補修されている。
壊れたものは、すぐには元通りにならない。
けれど、直そうとする手は動いている。
カイル様は封を見た。
少し潰れた蝋。
彼の口元が、ほんの少し動いた。
「似ている」
「何がですか」
「俺の封筒と」
「……力加減を間違えました」
「俺もだ」
それだけで、少し緊張がほどけた。
カイル様は封を開けた。
私は見ないようにした。
でも見たい。
いや、見ない。
いや、気になる。
自分で書いた文章を読まれる時間というのは、なぜこんなに長いのか。
謝罪文の赤入れをされる方の気持ちが、今なら少しわかる。
ごめんなさい、王太子殿下。
いや、あれは燃料だったので仕方ない。
カイル様は、ゆっくり読んだ。
本当にゆっくり。
彼は長い文章が苦手だ。
でも、逃げない。
一行ずつ、目で追っている。
私の言葉を、読んでいる。
やがて、最後の一文で彼の視線が止まった。
長く止まった。
私は耐えきれずに言った。
「長かったですか」
「いや」
「わかりにくかったですか」
「いや」
「火種、ありませんか」
言ってしまった。
職業病。
最悪の確認。
求婚返答を読んだ相手に、火種確認をする女。
私は頭を抱えたくなった。
だが、カイル様は真顔で答えた。
「俺が燃える」
時が止まった。
鳥が鳴いた。
風が吹いた。
私の思考が全部落ちた。
「……はい?」
「俺が燃える」
「二回言わないでください」
「悪いか」
「悪くは、ないですが、非常に、その」
顔が熱い。
昨日も言われた気がする。
でも今日の方が、破壊力が高い。
なぜなら、今の私は返事を書いてしまった後だから。
逃げ場がない。
自分で封をした。
自分で渡した。
自分の言葉で、隣で生きたいと書いた。
だから、彼の言葉がまっすぐ届く。
燃える。
私も燃える。
これは祝火か。
それとも事故か。
分類不能。
中庭の植え込みの向こうから、何かが落ちる音がした。
たぶん先輩がまた何か落とした。
追ってきていたのか。
王宮の壁も扉も植え込みも信用できない。
「リディア」
カイル様が私を呼んだ。
声が低い。
いつもより、少しだけ震えている気がした。
「はい」
「これは、受けたと考えていいか」
私は息を吸った。
逃げない。
もう、逃げない。
「はい」
短い返事。
でも、足りない気がした。
私は続ける。
「私は、あなたの言葉を受け取ります」
カイル様が瞬きをした。
「そして」
私は封筒を握る手を見た。
大きな手。
剣を握ってきた手。
机を割った手。
文書を置いた手。
私の返事を両手で受け取った手。
「あなたの隣で、生きたいです」
声は震えた。
でも、言えた。
カイル様は、しばらく何も言わなかった。
沈黙。
昔なら怖かった沈黙。
今は、彼の中で言葉が形を探している時間だとわかる。
私は待った。
彼が私を待ってくれたように。
やがて、カイル様は言った。
「……助かった」
私は目を瞬いた。
「助かった?」
「返事が」
「はい」
「届いた」
胸が詰まった。
届いた。
たったそれだけの言葉が、こんなに嬉しい。
「遅くなりました」
「遅くない」
「本当ですか」
「待つと言った」
「はい」
「待てた」
それが少し誇らしそうで、私は笑ってしまった。
「えらいです」
言ってから、相手が辺境伯であることを思い出した。
でもカイル様は怒らなかった。
むしろ、ほんの少しだけ満足そうだった。
「リディア」
「はい」
「婚約を、申し込んだ」
「はい」
「受けた」
「はい」
「なら」
カイル様は少し考えた。
言葉を選んでいる。
私は待つ。
「公表が必要か」
私は一気に現実へ戻された。
そうだ。
公表。
婚約発表。
王宮広報。
北方辺境伯。
民声応答室。
身分差。
癒着疑惑。
掲示板。
新聞社。
神殿。
貴族サロン。
火種が、どっと視界の端に現れかける。
【火種:辺境伯と民声応答室職員の婚約】
【火種:職務中立性への疑義】
【火種:北方家影響力疑惑】
【火種:貴族社会の身分秩序反発】
【火種:祝福を装った茶化し記事】
【火種:寿退職期待】
出た。
出たぞ。
仕事の火種は出た。
私は急に背筋を伸ばした。
「必要です」
「そうか」
「ただし、発表文は慎重に作ります。職務継続、民声応答室の中立性、北方家との利害分離、婚約後の職務範囲、王宮内規への対応、新聞社向け想定問答」
「多いな」
「多いです」
「手伝う」
「ありがとうございます。でもまずは――」
私は言いかけて、止まった。
まずは。
何だろう。
発表文?
儀典局への届出?
王宮上層部への報告?
北方家への連絡?
エレオノーラ様への相談?
ミリアへの説明?
先輩への胃薬追加支給?
全部必要だ。
でも、その前に。
私はカイル様を見た。
「まずは、少しだけ、このままでいてもいいですか」
カイル様の目が、わずかに柔らかくなった。
「いい」
私たちは中庭に立っていた。
手はつないでいない。
抱きしめてもいない。
恋愛小説としては地味かもしれない。
でも、今の私には十分だった。
同じ場所に立っている。
逃げずに。
言葉を渡して。
返事を受け取って。
隣にいる。
その事実が、静かに胸へ広がっていく。
しばらくして、植え込みの向こうから、くしゃみが聞こえた。
先輩だ。
間違いない。
「先輩」
私は声を上げた。
「出てきてください」
植え込みが揺れた。
先輩、エレオノーラ様、ミリア、記録局長、灯火新聞の編集長まで出てきた。
多い。
なぜ編集長がいる。
「皆さん」
私は低い声で言った。
「なぜいるんですか」
先輩が目を逸らした。
「安全確認です」
ミリアが真剣に言った。
「記録しないことの見守りです」
記録局長が咳払いした。
「未発生事項が発生した場合の手続き確認です」
編集長が笑った。
「記事にはしません」
「帰ってください」
エレオノーラ様だけは堂々としていた。
「親友の婚約成立を見届けるためですわ」
「まだ成立というか、その」
カイル様が短く言った。
「成立した」
全員が固まった。
私も固まった。
言い切った。
この人、言い切った。
先輩が両手で口を押さえた。
ミリアが目を丸くした。
編集長が心の中で見出しを作っている顔をした。
エレオノーラ様は、扇を開いた。
「おめでとうございます」
その言葉で、ようやく現実味が来た。
おめでとう。
婚約。
私と、カイル様が。
私は顔を覆った。
「待ってください。処理が追いつきません」
「処理するものではありませんわ」
「でも」
「祝福は、受け取りなさい」
祝福。
火種ではなく。
処理案件ではなく。
祝福。
私はゆっくり顔を上げた。
「……ありがとうございます」
ミリアが、小さく拍手した。
先輩も拍手した。
記録局長は拍手していいのか迷ってから、控えめに拍手した。
編集長も拍手した。
怪しい。
拍手しながら記事の構成を考えている顔だ。
「編集長」
「はい」
「記事には」
「しません」
「見出しも」
「心の中だけに」
「没収したいです、その心」
カイル様が編集長を見た。
「書くな」
「はい」
編集長が即答した。
強い。
辺境伯の短文は強い。
ただし、私は慌てて補足した。
「正式発表までは、です。正式発表後は、事実に基づく範囲でお願いします。見出しは事前確認を」
「さすがリディアさん」
「職業病です」
先輩が手を挙げた。
「リディアさん」
「はい」
「発表文、今日中に作りますか」
私は反射で答えそうになった。
はい、と。
今すぐ、と。
想定問答も、と。
でも、止まった。
今日は。
今日だけは。
私はカイル様を見た。
カイル様も私を見ていた。
急かさない目。
待つ目。
私は息を吸った。
「今日は、初稿だけにします」
先輩が目を見開いた。
「初稿だけ」
「はい。完成は明日以降です」
「リディアさんが、即日完成を諦めた……」
「諦めたのではありません。選びました」
私は少し笑った。
「今日は、私用の返事をした日なので」
エレオノーラ様が満足そうに頷く。
ミリアが小さく笑う。
カイル様は、短く言った。
「休め」
私は吹き出した。
この人は、初期から変わったようで、変わっていない。
でも、変わった。
言葉を憎んでいた男が、求婚文を書いた。
怒りで机を割った男が、剣を抜かずに守った。
そして今、私に休めと言う。
命令のようで、優しい言葉。
「はい」
私は答えた。
「今日は、少し休みます」
先輩が本気で泣きそうな顔をした。
「奇跡です」
「そこまでですか」
「そこまでです」
民声応答室へ戻ると、机の上に書き損じの便箋が積まれていた。
失敗した宛名。
硬すぎる前文。
途中で止まった説明。
自分の気持ちに届かなかった紙たち。
私はそれらを捨てようとして、やめた。
全部、私が自分の言葉へ向かう途中で書いたものだ。
完璧ではない。
使えない。
でも、なかったことにはしない。
私はそれをまとめて、引き出しの奥に入れた。
その上に、カイル様の求婚文の写しは置かない。
あれは原本だけでいい。
原本は、今、私の胸元の内ポケットにある。
少しだけ、温かい気がした。
夕方。
私は婚約発表の初稿を書き始めた。
今度は仕事の文章だ。
すらすら書ける。
それが少しおかしくて、少し寂しくて、少し誇らしい。
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン様と、民声応答室リディア・ノートンは、このたび婚約の意思を確認いたしました』
硬い。
硬すぎる。
私は赤字を入れた。
『婚約することになりました』
急に軽い。
却下。
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインと、リディア・ノートンは、互いの意思により婚約します』
うん。
悪くない。
ただし火種は出る。
でも、それは処理できる火だ。
私は続けて書く。
『リディア・ノートンは、婚約後も民声応答室での職務を継続します』
ここは重要。
寿退職しない。
絶対にしない。
私の人生は、誰かの隣に立つことで仕事を終える物語ではない。
隣に立つ人ができても、私は返事を続ける。
火を消すだけではなく、声に返事をする。
それが私の選んだ仕事だ。
そして、私が選んだ人は、その隣で「手伝う」と言う人だ。
私はペンを止めた。
明日の発表で燃えるだろうか。
燃えるかもしれない。
掲示板は茶化すだろう。
新聞社は見出しを作るだろう。
貴族は噂するだろう。
王宮上層部は胃を痛めるだろう。
広報局員は、たぶん先に胃薬を飲むだろう。
でも。
私はもう、燃えないことだけを目的に言葉を書く女ではない。
燃えるなら、火元を見る。
傷つく人がいるなら、名前を消さない。
不安があるなら、返事をする。
そして、自分の言葉からも逃げない。
扉の外で、カイル様の低い声がした。
「終わったか」
私は笑った。
「初稿だけです」
「読む」
「長いですよ」
「読む」
そう言ってくれることが、こんなに嬉しい。
私は扉を開けた。
カイル様が立っている。
手には、私の返事の封筒。
大切そうに持っている。
私は思わず目を逸らした。
「持ち歩かなくても」
「持つ」
「なくしません?」
「なくさない」
「燃えません?」
「俺が燃える」
「だからそれを気軽に言わないでください」
廊下の向こうで、先輩がまた何かを落とした。
もう諦めよう。
これは明日、必ず広まる。
でも、明日は明日の炎上対応である。
私は今日、初めて私用の文章を書いた。
たった一人に向けて。
たった一文を届けるために。
私は、あなたの隣で生きたい。
その言葉は、まだ胸の中で熱かった。
そして翌朝。
私たちの婚約発表は、予想通り王宮広報局を軽く燃やすことになる。
ただし。
今度の火は、少しだけ、祝福の色をしていた。




